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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




オリンピックやワールドカップで、自国の代表選手・チームを応援することは自然ではあるが、相手国・他国を批判するとこは論外である。また応援のひとつの表れではあるが、代表選手・チームに対するネットを通じてのひとつひとつのプレーへの批判、さらに誹謗・中傷、また結果に対してそれまでとは掌を反したような賞賛・批判が目立つ。
メディアが「絶対に負けられない戦い」と銘打って煽ることもあり、代表選手へのプレッシャーがとてつもなく大きくなっている。銀メダルを獲得した選手が国民に謝罪することには違和感を覚える。これでは代表選手が気の毒だ。スポーツなのだから、リラックスした最高の状態で最大限のパフォーマンスを発揮して、その結果をありのままに受け入れればいい。 

一方で歴史的には、スポーツが一因となって戦争が勃発したケースや、戦時下の国家代理戦争としての試合が行われたことがある。
前者は有名な「サッカー戦争」で、1969年7月にエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。

サッカー戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89

サッカー戦争は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。

1970 FIFAワールドカップ・北中米・カリブ予選は、メキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが、1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていたため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった。
エルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった。
第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。
第2戦は6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた。試合は3-0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった。
6月27日にメキシコの首都メキシコシティで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した。

6月15日に行われたワールドカップ予選後にホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶんだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった。エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まると、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集。3日後の6月26日夜に同政府は「ホンジュラスは同国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した。ホンジュラス政府もこれを受けて6月27日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した。




プレーオフの試合の動画もあるので見てみよう。観客数は制限されているものの異様な雰囲気が漂っている。(尚、その後エルサルバドルはハイチを下し、ワールドカップ本大会に初出場した。)



もちろん戦争の原因は国境線問題、移民問題、貿易摩擦などであるが、戦争への引き金を引いたのがサッカーの試合であったことは否定できない。現在はスタジアム内外で警備が厳しくなっているとはいえ、このような事態は絶対に避けなければならない。

後者は1938年6月22日に行われたボクシングのジョー・ルイス(アメリカ) 対 マックス・シュメリング(ドイツ)で、アメリカとナチスドイツによる国家公認の戦争前哨戦だった。
ジョー・ルイスは1914年5月13日生まれで、1934年にプロデビューした。キャリアの中では11年間にわたって王座に君臨し、また全階級を通じて世界王座25連続防衛の記録保持者であり、現在もこの記録は破られていない。
マックス・シュメリングは1905年9月28日生まれで、1924年にプロデビューした。わずか2年後にドイツライトヘビー級王座を獲得すると、1927年にヨーロッパライトヘビー級王座、1928年にはドイツヘビー級王座を獲得し、着々とキャリアを積んだ。その後アメリカに渡り、1930年に世界ヘビー級王者となった。
1932年に王座を明け渡したが、1936年6月19日にジョー・ルイスと対戦し、12RKO勝ちし一躍ヒーローとなった。この試合のニュース映像はドイツ中の映画館で繰り返し放映された。

そして、ナチスドイツのプロデュースによるジョー・ルイス対マックス・シュメリングの第2戦が行われた。

ジョー・ルイス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9

第二次世界大戦間近の1938年、ドイツのアドルフ・ヒトラーから「アメリカのボクサーを叩きのめせ」という命令を受けたボクサーがアメリカに送り込まれてきた。その男の名はマックス・シュメリング(ただし、皮肉なことに、シュメリングは明快な反ナチス主義者だった)。元世界ヘビー級王者で、かつてジョー・ルイスと対戦し12回KO勝ちしたことのある男である。「第二次世界大戦前哨戦」と銘打たれた決戦の前に、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはホワイトハウスにジョー・ルイスを招待し激励している。
「敵国ドイツを打ち負かすためには、君のような筋肉が必要なのだ」
いつの間にか、それはボクシングではなくアメリカ代表のルイスとドイツの刺客シュメリングの国家間の戦いへと摩り替わっていた。国家の威信同士をかけた戦いだけに、ルイスのプレッシャーは想像だにできないものだったであろう。しかし、敵国に乗り込んできたシュメリングには更に大きなプレッシャーがかかっていた。
2年前には熱狂的に歓迎してくれたニューヨークの同じ街なのに、今度は反ナチスのデモ隊が彼目掛けて押し寄せてくるのだ。シュメリングがホテルに泊まっている間にもデモ隊はホテル前に詰めかけ脅迫とも言える暴言を投げかけていた。試合当日の控え室、シュメリングは孤独だった。一緒にアメリカに来た仲間たちは、アメリカ人からの数え切れない脅迫状に怯えてしまい会場に姿を現さなかった。




試合は第1ラウンドにルイスのパンチがシュメリングを捕らえると、立て続けに3度のダウンを奪った。終始防戦一方となったシュメリングは4度目のダウンで力尽き、ルイスが圧倒的な強さで4度目の防衛に成功した。2年前にルイスをKOしているシュメリングだが、さすがにこのような過程では全く力を発揮できなかったのは仕方のないところだ。そしてこの勝利によってルイスは人種の壁を越えて米国の国民的英雄となった。
気になるのはシュメリングのその後だが、当然ナチスから敬遠されたものの、その後もボクシングを続けて勝利している。戦争中はナチス入党の誘いを断り、アメリカでマネージャーを勤めていたジョー・ジェイコブスがユダヤ人であることを理由にマネージャーを代えるようナチスから勧告されても応じなかった。パラシュート兵となったが負傷したために、空軍を除隊となり捕虜収容所の看守として働いたそうだ。また暗殺が噂されるなど、いろいろ大変だったようだ。

Max Schmeling
https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Schmeling

When he returned to Germany after his defeat by Joe Louis, Schmeling was now shunned by the Nazis. He won both the German and European heavyweight championships on the same night, with a first-round knockout of Adolf Heuser.
During the Nazi purge of Jews from Berlin, he personally saved the lives of two Jewish children by hiding them in his apartment. It was not the first time that Schmeling defied the Nazi regime's hatred for Jews. As the story goes, Hitler let it be known through the Reich Ministry of Sports that he was very displeased at Schmeling's relationship with Joe Jacobs, his Jewish fight promoter, and wanted it terminated, but Schmeling refused to bow even to Hitler. During the war, Schmeling was forcibly drafted, where he served with the Luftwaffe and was trained as an elite paratrooper. He participated in the Battle of Crete in May 1941, where he was wounded in his right knee by mortar fire shrapnel during the first day of the battle. After recovering, he was dismissed from active service after being deemed medically unfit for duty because of his injury.
Nevertheless, in July 1944 a rumor that he had been killed in action made world news. He later visited American P.O.W. camps in Germany and occasionally tried to help conditions for the prisoners.


しかし、終戦・引退の後に2人の運命は変わる。
シュメリングは清涼飲料水の事業で成功し、基金を設立し障害者や恵まれない人々の為に目立たない形で尽力した。
ルイスは現役時代に稼いだ賞金がほとんどが搾取された。それにもかかわらず、ルイスは寄付行為などで浪費し、さらにレストラン、保険業など様々な事業に手を出すが全て失敗し、無一文になってしまった。経済的に困窮したルイスはプロレスラーに転向し、数試合で続けられなくなると今度はプロレスのレフェリーとして活動した。晩年はラスベガスのホテルでカジノ客相手の接客を続けたそうだ。
晩年2人は友好関係を深め、シュメリングが経済的に困窮していたルイスに、匿名で経済的援助を行っていたという話もある。



代理戦争となったルイス戦の敗戦について、シュメリングは約40年後の1975年に、"Looking back, I'm almost happy I lost that fight. Just imagine if I would have come back to Germany with a victory. I had nothing to do with the Nazis, but they would have given me a medal. After the war I might have been considered a war criminal."と述べたそうだ。 なるほど、歴史の評価というのはその時点ではわからないものだ。

いずれにしても、選手に必要以上の重圧をかけるような過度の盛り上がりや政治的利用は繰り返してはいけない。真の応援とは心の中で祈るものである。


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