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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




いつの時代でも、若い人が志半ばに亡くなるということは辛いことである。
もちろん誰にでも等しく可能性あるが、特に既に名を馳せていたような若者が夭逝した場合は、生きていればどれだけの功績を遺せていたかということをどうしても考えてしまう。
例えば日本の代表的な作曲家の一人である瀧廉太郎 (1879 - 1903) は、1900年に「花」「箱根八里」「荒城の月」などを発表したが、ヨーロッパ留学中の1901年に肺結核を患い、1903年6月29日に僅か23歳で亡くなった。
文学界では、樋口一葉 (1872 - 1896) は、1894年12月の「大つごもり」の発表から、その後立て続けに「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などを発表したが、肺結核が進行し1986年11月23日に24歳の若さで亡くなった。
また石川啄木 (1886 - 1912) は、代表作の「一握の砂」の発表は1910年12月で、その後1911年末から腹膜炎と肺結核を患い、1912年4月13日に26歳の若さで亡くなった。
いずれも当時治療法のなかった結核によるもので、偉大な才能を失ったことは社会・文化にとって大きな損失である。

18世紀にイギリス西部のブリストルで生まれたトーマス・チャタートンも、天才詩人であったが僅か17歳で自ら命を絶った。

トーマス・チャタートン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3

トーマス・チャタートン(Thomas Chatterton, 1752年11月20日 - 1770年8月24日)は中世詩を贋作した事で知られるイギリスの詩人。生活に窮し、17歳で砒素自殺した事と相まって、ロマン主義における認められなかった才能の象徴と広く見なされている。

父親はチャタートン誕生の3ヶ月前に没しており、母親は裁縫および装飾の内職によってチャタートンと姉を育てた。
チャタートンは父の遺品の中にあった音楽について書かれた二折判の本に魅せられるようになり、それがきっかけで読書に熱中、黒体文字で印刷されたバイブルの読解もできるようになった。その後、彼は教会本堂の北側玄関最上部にある書類保管庫に置かれていた奇妙なオークの箱への関心を抱く。箱を開けてみると、そこには羊皮紙に書かれた薔薇戦争期の古文書の束が忘れられて横たわっていた。これは後に彼の詩作に大きな影響を与える。やがて堅信を受けたチャタートンは宗教詩や風刺詩の創作に乗り出す。
チャタートンは、トーマス・ローリーという偽名での作品を既に構想していた。チャタートンの空想によれば、ローリーはエドワード4世治世期のブリストル市長ウィリアム・ケアニングの庇護のもと活動する詩人である。チャタートンはローリーの偽名で中世英語の詩を自作し、エドワード4世時代のブリストルに思いを馳せ、理想化した数々の作品を生み出す。彼はこれらの作品を中世の古文書から発見したものだと触れ込んだ。

チャタートンはコールストン校卒業後、見習いとして法律事務所に勤務していた。しかし詩作や投稿に心を奪われていた彼仕事に身が入らず、その結果主人との折り合いも悪くなり、やがては事務所を辞めてロンドンに上京する事を考え始める。
チャタートンは、ロンドンに上京する前からミドルセックス・ジャーナルなどの中央紙への有力投稿者としてある程度名が売れていた。さらに、彼は別の政治的な雑誌にも投稿をはじめた。彼の投稿は雑誌に掲載されはしたが、チャタートンに支払れた報酬はごく僅少なものか、あるいはまったく支払れない事も珍しくなかった。しかし彼は、母と姉に自分の将来が有望である旨の手紙を書き、さらには母姉へのプレゼントまで贈る事で、わずかな所得を費やした。彼の誇りと野心は、雑誌編集者および政治運動家から向けられるお世辞に満足した。この時期チャタートンはロンドン市長ウィリアム・ベックフォードとも会見し、チャタートンの政治的な助言を聞いたという。

彼は政治風刺詩や散文、牧歌、歌詞、オペラ台本を書き続けたが生活的困窮は相変わらずで、ブルック通りにある屋根裏部屋に転居した。同じ時期にチャタートンの後ろ盾となっていたロンドン市長ベックフォードが没し、当局の言論統制とも相まって、ただでさえ窮乏していたチャタートンにもしわ寄せが押し寄せることになる。
行き詰ったチャタートンは、船医としての働き口を見つけ、ブリストル時代に親交のあった医師に見習証明を書いてくれるよう頼んだが、これを拒絶される。 1770年8月24日に、チャタートンはブルック通りの屋根裏部屋で砒素を仰いで自殺した。わずか17歳9か月の生涯だった。



トーマス・チャタートンの生涯については、宇佐美道雄氏の「早すぎた天才 贋作詩人トマス・チャタトン伝」(新潮選書、2001年)がたいへん詳しい。大英図書館に通い詰めて10年を歳月をかけたという大作だ。
特に、自作した中世英語の詩を古い羊皮紙に記した贋作を、資料収集家の外科医に見破られた際のやり取りなどは印象的だ。



贋作の是非はともかくとして、少年がロンドン市長に政治的な助言をするほどの立場となり、その一方で異才を擁しながら生活に困窮しなけらばならなかったのか、現代から見ると当時の社会には不可思議な点が多い。しかし無気力だった私の高校生時代を振り返ると、トーマス・チャタートン少年の人間としての成熟ぶりには尊敬の念に堪えない。

尚、チャタートンがトーマス・ローリーとして記したPoems supposed to have been written at Bristol by Thomas Rowley and others, in the Fifteenth Century は死後の1777年に刊行された。
その中の “Bristowe Tragedie: or the Dethe of Syr Charles Bawdin” は完璧なバラッド・スタンザと古風なつづりにより、中世の歴史を効果的に表現していると評価される。原詩と訳詩は以下のようなものだ。

http://literaryballadarchive.com/PDF/Chatterton_1_Bristowe_Tragedy.pdf
http://literaryballadarchive.com/PDF/Chatterton_1_Bristowe_Tragedy_ja.pdf

チャタートンや瀧廉太郎・樋口一葉・石川啄木のような悲劇は、社会制度の発展や医療の進化によって減っているとは思うが、それでも完全とはならないだろう。
全ての人が存分に能力を発揮できる機会が得られる社会を期待したい。


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