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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




2月にトヨタ・プリウスのリコールが世界的な問題となった。
リコールの件数を調べてみると、平成20年の届出は295件で、対象台数は535万台だったそうだ。

国土交通省 各年度のリコール届出件数及び対象台数
http://www.mlit.go.jp/jidosha/carinf/rcl/data_sub/data004.html

つまりリコールそのものは日常的なものと言えるだろう。それがここまで社会的な問題に発展したということに、トヨタ、そして日本車の影響力を再認識した。

そんな日本車の歴史を簡単に辿ると、日本車の第一号は1904年に電気技師・山羽(やまば)虎夫によって製作された「山羽式蒸気自動車」と言われている。



また1907年に日本車初のガソリン自動車「タクリー号」が吉田真太郎と内山駒之助の2人によって製作された。この年にアメリカではフォード・T型が発売され、この大量生産方式により価格は低下し、自動車の大衆化とともに自動車産業は巨大なものとなっていった。この時点では欧米との間に大きな隔たりがあった。
その後1936年 にトヨタがAA型乗用車を生産するなど自動車メーカーが台頭し、技術が高められ、様々な自動車が世に送り出されるようになった。
日本の戦後の経済成長は自動車とともにあったと言っても過言ではないだろう。

愛知県長久手町にあるトヨタ博物館には、海外・国内の黎明期からの自動車が展示されており、日本車の歴史を知ることができる。その中で、ひときわ異彩を放っている個性的な自動車がある。1956年に発売された富士自動車のフジキャビン 5A型 だ。

富士自動車・フジキャビン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%93%E3%83%B3

フジキャビン(FujiCabin)は、日本の自動車関連企業・富士自動車(現在のコマツユーティリティ株式会社)が1955年に発表し、1956年から1957年にかけて少数生産した前2輪・後1輪の超小型車(一般にキャビンスクーターあるいはバブルカーと呼ばれる)である。日本における軽自動車開発模索期の代表的な作例であり、当時最新の素材であった繊維強化プラスチック(FRP)を車体材料に用いたことでも画期的であった。

フジキャビンの設計者はダットサンの車体デザインや、先行して住江製作所で開発された軽自動車・フライングフェザー(1955年)の設計を手がけた自動車デザイナー・エンジニアの富谷龍一であった。商業的に成功しなかったフライングフェザーの開発後に富士自動車に移籍した富谷は、彼の長年の小型車開発テーマであった「最大の仕事を最小の消費で」に再挑戦した。

フジキャビンは1956年8月から生産開始された。価格は23万5000円で、2人乗りの自動車としては廉価ではあったが、操縦性や乗り心地が悪いうえ、ベンチレーションが悪く夏はひどく暑くなり、冬になってもヒーターがないという実態は、まったくの「屋根付きスクーター」に過ぎなかった。新素材であったFRPでのボディ生産技術が未熟で、乾燥工程を要するため量産性も悪いという根本的課題を抱えており、悪路の多かった当時はショックを自ら受け止めるモノコックのFRP車体にクラックも多発した。生産性や商品性に問題が多かったことは否めず、結局フジキャビンは、十分な量産体制を確立できないまま、翌1957年12月までに85台を生産して製造中止された。


富谷龍一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E8%B0%B7%E9%BE%8D%E4%B8%80

富谷 龍一(とみや りゅういち、1908年4月15日 - 1997年10月12日)は日本の自動車技術者、工業デザイナー、画家 。東京藝術大学、東京工業大学講師。
東京高等工芸学校工芸図案科を1929年に卒業後、1934年に自動車製造株式会社(後の日産自動車)に入社、ダットサン乗用車の車体デザインを手がける。1948年頃から超軽量車フライングフェザーの設計を開始。同車は48台が生産された。続いて1956年にはフジキャビンを開発したが、こちらも85台が生産されたに過ぎなかった。富谷の設計した2台の超軽量車は独創的ではあったが、あまりに設計が簡素化されすぎていたり、生産技術が追いつかなかったりで、商業的成功を収めることが出来なかった。
自動車以外の分野でも才能を発揮しデザイナーや画家としても活躍、新宿NSビルの巨大振り子時計のデザインや、学研のメカモシリーズの原型となったロボットメカニマルの研究を行った。


後1輪で、フロントライト1つというインパクトがある外観は一つ目小僧を連想させ、何ともキモカワイイ。そしてドア、ハンドル、シート、そして走る姿も極めて個性的だ。



日本車が現在のような世界的な地位を築くまでには、フジキャビンをはじめとした様々な試行錯誤があったことを忘れてはならない。そしてすっかりデザインが画一的になってきた感のある昨今の自動車界で、フジキャビンのような個性的な外観の車の発表を期待したい。



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コカ・コーラは1886年に、アメリカ・ジョージア州アトランタで、薬剤師のジョン・S・ペンバートン博士が発明し、友人のフランク・M・ロビンソンが「コカ・コーラ」と名づけたものである。当時の新聞広告には「Coca-Cola, Delicious, Refreshing, Exhilarating, Invigorating」(おいしく、さわやか、軽やかに、元気ハツラツ) というコピーで説明がされたそうだ。



日本コカ・コーラ History
http://www.cocacola.co.jp/study/museum/history.html

日本コカ・コーラ About John Pemberton
http://cocacola.jp/happy/pemberton/about.html

コカ・コーラの日本上陸は1920年(大正9年)9月1日のことで、明治屋と満平薬局で発売された。「衛生的にも嗜好的にももっとも進歩せし世界的清涼飲料水」というコピーだったそうだが、薬臭さが災いしあまり売れなかったそうだ。

日刊☆こよみのページ コカ・コーラの日本上陸は9/1
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200709020.htm

その後戦後になって、アメリカ軍の進駐と共に米軍公認の嗜好品としてコカ・コーラは再上陸し、1961年のに貿易自由化によって一般の日本国民の間にも広まるようになって現在に至っている。

この経過からは、大正時代の日本人は炭酸飲料になじみがなかったのでコカ・コーラが受け入れられなかったのだろうと考えがちだが、それは必ずしも正しくなく、その頃既に日本では「三ツ矢サイダー」が流通していた。

三ツ矢の歴史 1881年~
http://www.asahiinryo.co.jp/historybooks/mitsuya/history01.html

1881年(明治14年) イギリス人化学者ウィリアム・ガウランドによる天然鉱泉水の発見が「三ツ矢サイダー」の淵源に。
1884年(明治17年) 兵庫県多田村(タダムラ)平野から湧き出た炭酸水をびんに詰め「平野水(ヒラノスイ)」として製造。
1897年(明治30年) 「三ツ矢印平野水」が東宮殿下(大正天皇)の御料品として採用される。
1899年(明治32年) 「三ツ矢」印を商標として登録。
1907年(明治40年) 「三ツ矢」印の「平野シャンペンサイダー」発売(写真)。(価格:10銭)そば3銭




1909年(明治42年) 「三ツ矢シャンペンサイダー」発売。(価格:10銭)この時から「三ツ矢サイダー」という通称で広告などを展開。
1916年(大正5年) 「三ツ矢サイダー」を商標として登録。(価格:12銭)


このように三ツ矢サイダーの歴史はコカ・コーラよりも長い。更にこの歴史を辿っていくと平安時代にまで遡ることができるようだ。

ニッポン・ロングセラー考 三ツ矢サイダー
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no027/long_seller/index.html

時は平安時代の中期。清和源氏の祖である源満仲が城を築くため、現在の大阪にある住吉大社に祈念したところ、「矢の落ちたところを居城にせよ」とのお告げがあった。満仲が矢を天に向けて放つと、矢は火を吹いて飛び、見えなくなった。探してみると、矢は多田沼に棲みついて住民を苦しめていた「九頭の竜」に命中していた。そこで満仲は多田沼に城を建て、矢を見つけた孫八郎という男に領地と三ツ矢の姓、そして三本の矢羽根の紋を与えた(これが後に三ツ矢マークとなる)。
ある日満仲が鷹狩りに出掛けたところ、居城に近い塩川の谷間の湧き水で、一羽の鷹が足の傷を治して飛び立つのを見つけた。湧き水は霊泉だったのだ。その場所が、多田村平野(現在の兵庫県川西市)。ここに湧き出る天然鉱泉(炭酸ガス入りの温泉)を利用した平野温泉郷は、明治初年頃まで長く繁栄を続けたという。
明治時代になると、当時多数来日していた外国の要人向けに良質な水を提供する必要が生じた。政府は各地で積極的な水質調査を実施。その結果、1881(明治14)年、イギリス人理学者ウィリアム・ガランが平野温泉の水を分析して、「理想的な鉱泉なり」とのお墨付きを与えた。
その3年後の84(明治17)年、民間の工場が伝説由来の名称を取り入れた「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」を発売。平野温泉の水は「平野水」として広く世間に認知されるようになり、同時に三ツ矢の商標も確立した。


源満仲のエピソードは直接サイダーにかかわるものではないが、いずれにしても三ツ矢サイダーの歴史を充分に理解することができる。

また、三ツ矢サイダーは発売元の会社にも変遷がある。
1907年の「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」は帝国鉱泉株式会社が発売したものだが、その後帝国鉱泉株式会社は1921年日本麦酒鉱泉株式会社(ユニオンビール。根津嘉一郎経営)に合併された後、さらに1933年大日本麦酒株式会社(アサヒビール・サッポロビール・ヱビスビールを製造販売。三井系)に合併された。
そして1949年、大日本麦酒株式会社は朝日麦酒株式会社(現在のアサヒビール株式会社)と日本麦酒株式会社(現在のサッポロビール株式会社)に分割。三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に朝日麦酒が継承した。
即ち三ツ矢サイダーは発売元のアサヒビールよりも長い歴史を持っている。

このように歴史的な飲料でありながら、今でもなお斬新さをアピールしてマーケティングを展開しているところが興味深い。
世界展開の点ではコカ・コーラにはかなわないが、日本にはもっと歴史のある炭酸飲料が店頭で売られていることを周りにいるアメリカ人に紹介してみようと思う。



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株式会社関西スーパーマーケット(兵庫県伊丹市)は、「関西スーパー」を兵庫県・大阪府に54店展開している、大証2部、東証2部上場企業だ。
1959年創業なので、今年で50周年になる。
私は残念ながら実際の店舗に足を運んだことはないのだが、阪神地区の住民にとっては関西スーパーを日常的に利用している方も多いだろう。

関西スーパー
http://www.kansaisuper.co.jp/

これだけでは、何の変哲もない地域スーパーのように思われるかもしれないが、関西スーパーはその営業手法において同業他社から注目される事が多く、業界誌などでしばしば取り上げられている。
私が目にしたのは「組織科学」2004年Vol.38に掲載された水野 学氏と小川 進氏による「同業他社へのノウハウ公開の効果」という論文だ。

booknest
http://www.booknest.jp/detail/00002594

簡単にこの論文をサマリーしてみよう。(あくまでも個人的な解釈であることを了解願いたい)

本論文のリサーチクエスチョンは、企業が持つ競走優位に貢献するノウハウを、あえて同業他社に公開することによって得られる効果を明らかにすることである。

これまでの先行研究では、その効果として① リスク低減効果 (高い不確実性や必要投資の大きい産業においてノウハウを公開することによりリスクを低減させる)、② 見返り効果 (ノウハウを公開することで、相手方から自分たちが必要とするノウハウ公開を引き出すことを期待する) が挙げられていた。

関西スーパーは特に1970~85年頃に競争優位に貢献するようなノウハウを多く持っていた。代表的なものは「鮮度管理ノウハウ」と「省力化ノウハウ」である。「鮮度管理ノウハウ」は食品スーパーの売上の60%以上を占める生鮮食品の鮮度を植物生理学の知識に基づき管理する手法である。「省力化ノウハウ」とは作業標準化やカートコンベアシステムによってバックヤードの生産性を高めて必要人員を減少させ作業精度も高めるものである。

このようなノウハウを蓄積していった関西スーパーは、情報公開や直接指導を通じて同業者に対し積極的に公開していった。このような情報公開の効果として、① 価格競争力の獲得 (関西スーパーで採用された商品は同業他社でも採用される可能性が高いため、仕入業者との価格交渉を有利に進められるようになった)、② 川上業者の資源吸収効果 (関西スーパーの品揃えは同業他社へ影響を有するため、売れ筋商品などの優良資源を優先的に受けられるようになった)、③ 専用機器開発 (関西スーパーが要求する専用機器開発はメーカーにとって新たな投資を要するものだったが、同業他社による追随が見込めたためにメーカーの協力を得ることができた) が確認できた。

このように、先行研究で挙げられていたようなリスク低減と見返りだけなく、ノウハウ公開によって水平的関係にある企業への影響だけでなく、垂直的関係にある企業、特に川上業者に対して与えるインパクトは大きい、としている。またこのような効果は食品メーカーに限定されらものではないはずと示唆している。


この論文は割といろいろなところで参照されているようだ。
論文の評価について触れるつもりはないが、関西スーパーという地域のスーパーが、小売の業界誌だけでなく経営戦略論文の事例研究として扱われていることは特筆に値する。もっとも水野 学氏と小川 進氏はともに神戸大学の方なので、もともと関西スーパーになじみがあったことは間違いなさそうだ。

兵庫・大阪在住の方は関西スーパーで買い物をする際には、是非この論文の内容を思い出して、関西スーパーの「強み」を体感してほしい。



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日本で最初の超高層ビル(ここでは100m以上のものとする)は1968年にオープンした霞が関ビルで、その後建築技術の進化に伴い多くの超高層ビルが建設されてきた。
近年での超高層ビルの増加は極めて著しく、以下のデータベースによると東京23区内では1988年時点で累積46棟だったのが1998年で144棟、2008年で359棟となっている。2003年以降東京23区内だけで毎月2~3棟新設されており、今後も増え続けそうだ。

超高層ビルとパソコンの歴史 竣工年代順・東京都(23区)・超高層ビルデータベース
http://www.eonet.ne.jp/~building-pc/tokyo/to-1968-2010.htm

一方で高層ビルは永久にそのまま残っているわけではなく、ビルの法定耐用年数が40~50年であることを考えると、2030年ぐらいから現在立てられている超高層ビルが解体される例が増えてくるだろう。従って我々は次世代に対して、100m超のビルをいかに解体するかという課題を与えていることになる。

上記のデータベースによるとこれまでに行われた東京23区内での超高層ビルの解体例は1件しかない。その1件とは台東区にあったソフィテル東京(110m)だ。



このビルは1994年に開業したホテルだが、さすがにこの奇抜な外観には賛否両論あったようで、ホテルは2006年12月に営業を終了し、その後2007年に建物が解体された。このビルの解体の様子をリアルタイムで見逃してしまったのは痛いが、写真を見つけることができた。



そして2例目として、1992年に立てられた大手町フィナンシャルセンター ビル(105m)も「東京プライムステージ」として生まれ変わるために現在解体工事が行われている。まだ20年以下であり何とももったいない話だが、せっかくなので是非現地に見に行こうと思う。



ニュースリリース~東京建物
http://www.tatemono.com/news/2007/ttknews070524.html

一般的にビルの解体方法は破砕解体工法かブロック解体工法だ。破砕解体工法は重機を使って建材を崩すもの、ブロック解体工法は建材を所定の大きさに切り離し吊り出して解体するものだ、高層ブルではブロック解体工法が適しているといわれている。海外の映像で見かけるダイナマイトを使って爆破する発破工法は飛散物が多く日本では困難だし、環境面から好ましいとはいえない。

そんな中で、2006年に鹿島建設が発表して施工した「鹿島カットアンドダウン工法」がとても話題になっている。

鹿島 プレスリリース 人と環境に優しい解体工法を実用化
http://www.kajima.co.jp/news/press/200804/22a1-j.htm

本工法は、いわゆる「だるま落とし」のように、ビルの下階から各階を順次解体するもので、地上レベル付近だけで解体作業を行います。本工法を採用することにより、従来の上階から解体する方法に比べて、騒音や粉塵の飛散の抑制、資源の分別・リサイクル作業の効率性向上、高所作業削減による安全性の向上につなげることが出来ます。
高層建物を下階から解体する工法では、建物を支える基礎部分と上部構造が施工時に地上付近の解体作業階で切断された状態となります。本工法では、解体中の建物が地震時に転倒することを防止するために建物内部に「コアウォール」構造体を新たに構築し、建物基礎部分と解体する地上階とを建物内部で連結させ、解体作業中においても既存建物と同等の安全性を確保します。さらに地上階の荷重を支えるジャッキ等には十分な支持力を持たせると共に、早期地震警報を活用した各種制御システムを組み込むことにより、解体工事の安全性を確保しています。つまり本工法は、当社がこれまで蓄積してきた耐震技術を適用すると共に、新たな技術開発を行うことで実現に至ったものです。

リンク先の動画はYou Tubeでも参照できるので埋め込んでおこう。



この工法の主なメリットとして、
1. 解体作業フロアが下層部に限定するため、騒音や粉じんなどの措置が固定化できるため、環境への影響を軽減できる(粉じんは3割減)
2. 特に市街地での解体工事では近隣への不安感を抑制できる
3. 解体で生じる廃材のリサイクル化もしやすい(リサイクル率が50%から90%前後に向上の見込み)
4. 作業の地上付近での集中化で、高所での危険性が減るため安全性が高まる
が挙げられている。
http://www.gamenews.ne.jp/archives/m/e/post_3404.html

この工法は2008年日経ものづくり大賞、2009年「日経BP技術賞」などに輝いている。
NIKKEI EVENT GUIDE 表彰事業
http://www.nikkei-events.jp/honor/mono.html
日経BP社 ニュースリリース
http://corporate.nikkeibp.co.jp/information/newsrelease/newsrelease20090323.html

これは下からビルを支えて行うものなので、200m級の超高層ビルに対して適用できるかどうかはわからない(解体したビルは75m)が、今後技術をより磨いて汎用性を高め、またうまくコストを押さえていくことができれば、来るべきビル解体時代には確立した手法として浸透しているかもしれない。

ビルではなくタンクの解体だが、2004年にベステラ社(東京・墨田区)が特許を取得した「リンゴ皮むき解体工法」は極めて画期的であり、その後順調に実績を積んでいる。



ともに既存の概念にとらわれない発想が画期的な方法を見出したようだ。高層ビル解体は将来必ず大きなニーズがあるので、更に新しいアイディアが出てきてほしい。
人が造り上げる建築物は芸術作品であり、その解体も「鹿島カットアンドダウン工法」や「リンゴ皮むき解体工法」のように芸術的なものであってほしいものだ。


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2010年に成田新高速鉄道の開通が予定されている。もうそれほど先に話ではない。この鉄道が開通すると成田空港から都心(日暮里)のアクセスが現在の最短51分から36分に短縮されるという。

成田高速鉄道アクセス株式会社
http://www.nra36.co.jp/



ルートとしては、京成高砂から既設の北総鉄道で印旛日本医大まで行き、そこから成田ニュータウン北(仮称)までが新設され、そこから再び既設の京成本線に接続される。従って新設区間は10.7km程度だ。
この区間は印旛沼を橋梁で横断する計画だが、野鳥の宝庫のため自然保護団体を中心に一部計画変更の要望が出ていたそうで、上記のHPでは環境影響評価書も公開されている。
また平成16年からの整備・工事の進捗状況も報告されてるのでなかなか興味深い。

さて、成田新高速鉄道について会話をしたところ、「それって新幹線?」とか「成田新幹線って作る計画あったよね?」とかいう反応があった。
実際に成田新幹線は、全国新幹線鉄道整備法に基づく「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」として東北新幹線、上越新幹線とともに昭和46年に公示された初めての新幹線だ。1976年度の開業を予定していたが、沿線自治体の建設反対運動が激しく、用地買収が進まなかったため工事が中止された未成線である。

未来鉄道データベース 成田新幹線
http://www.mifuru.to/frdb/maboroshi/cjr101t.htm

東京発展裏話 #4 大空を目指した細長い空き地 ~成田新幹線の夢の跡~
http://www.miwachiri.com/tokyo/0304_nrtsin.html

この成田新幹線は東京-成田空港を約30分で結ぶ計画だったようだが、東京駅のホームは極めて離れたところにある京葉線のホームなので、東京駅での乗り換えには更に約10分かかってしまう。そもそも新幹線としては区間が短いために、大きな時間短縮には繋がらなかったと思われる。料金がいくらに設定されたかはわからないが、利用者にとってメリットがあったか、事業者にとって採算が取れたかは謎だ。

成田新高速鉄道も、既存のJR(東京-成田空港 成田エクスプレス 2940円)や京成(京成上野-成田空港 スカイライナー 1920円、特急1000円)に対して競争力のある価格設定がされないと、時間短縮が功を奏さない。(そもそも最短36分は日暮里までの所要時間なので、目的地によっては時間短縮にならない)
現在の北総鉄道は初乗りが高いところで300円であり、京成上野から印旛日本医大まで1070円かかる。果たして新しい特急はいくらに設定されるか興味深いところだ。

さて、現在その成田新高速鉄道の愛称を募集している。

成田新高速鉄道のアクセスルート愛称名募集!
https://contents.narita-airport.jp/naa/newline/index.html

今のところ首都圏でも成田新高速鉄道はあまり認知されていないようなので、かっこいい愛称を決めてうまくプロモーションをしよう。



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普通名詞になった商標は数多い。我が家の中だけでも、アロンアルファ、ウォシュレット、サランラップ、シーチキン、セロテープ...といくらでも出てくる。

これらはWikipediaの分類によると、「普通名称と誤認されやすい登録商標」であって普通名詞ではない。
一方で「普通名称化した登録商標」のひとつの形式として、「裁判所により普通名称化したとの判断が示されているもの」が挙げられている。

普通名称化した商標一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E5%90%8D%E7%A7%B0%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%9F%E5%95%86%E6%A8%99%E4%B8%80%E8%A6%A7

司法の判断が適切かどうか、また司法による判断によって普通名詞化が成立するかは議論がありそうだが、ひとまず事実はそのまま受け止めよう。

さて、「裁判所により普通名称化したとの判断が示されているもの」には「うどんすき」(美々卯)と「正露丸」(大幸薬品)がある。
正露丸については、先日も大幸薬品が和泉薬品工業に製造販売差し止めと損害賠償を求めた訴訟で、大幸薬品の上告を退ける決定がされたというニュースがあった。
「正露丸」は医薬品の一般名称として1950年代には定着していたとして、「大幸薬品の製品を識別する商品表示ではない」と指摘していた。と記されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080704-00000159-mai-soci

もうひとつのうどんすきは、あまりよく知らなかった。
美々卯は、大阪・堺で200年続いた老舗料亭「耳卯楼」を大正13年に薩摩平太郎が麺類専門店として「美々卯」と改めた店で、その薩摩平八郎が考案したのが「うどんすき」だ。

美々卯
http://www.mimiu.co.jp/mimiu/top.html

1997年に美々卯が、グルメ杵屋による「杵屋うどんすき」という商標に対して、訴訟を起こした事件があって、東京高裁が美々卯の請求を棄却したそうだ。

日本ユニ著作権センター 判例全文1997/11/27b
http://www.translan.com/jucc/precedent-1997-11-27b.html

判例文は難解だが、キーとなるのは『うどんすき』の文字は、『うどんを魚介類、鶏肉、野菜、その他の具と合わせて食べる鍋料理の一種』として一般に認識され、普通に使用されているという点だ。

これは裁判としては敗訴ではあるが、店の看板メニューが普通名詞として認定されたと言う点で、美々卯にとって極めて重大な意味を持つ判決だったのではないだろうか。
今後も「普通名称と誤認されやすい登録商標」が絡んだ司法の判断には注目してみよう。

で、肝心の美々卯のうどんすきは、全国の20店舗で食べることができる。今度食べに行ってみよう。いろいろ難しいことを調べたが、あまり考えずにおいしく食べよう。



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先月プロ野球交流戦の横浜対福岡ソフトバンクが新大分球場で行われた。新大分球場でのプロ野球公式戦は19年ぶりだそうだ。
その新大分球場は1980年開場だが、球場がある大洲総合運動公園はもともと「大分空港」だった。

大洲総合運動公園
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E7%B7%8F%E5%90%88%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%85%AC%E5%9C%92

現在の大分空港は1971年開港で、当時は「新大分空港」という名称だったが、1973年から「大分空港」となった。

さて、旧大分空港が大分市内に位置するのに対し、(現在の)大分空港は国東半島に位置するので、大分市をはじめとした大分県内陸部からのアクセスは良いとは言えない。私も別府から車で大分空港に行ったことがあるが、けっこう時間を要した。
その大分空港と大分市内を結ぶアクセスとして、日本で唯一のホバークラフトがある。



大分ホーバーフェリー株式会社
http://www.oitahover.co.jp/

ホバークラフト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88

ホバークラフト(Hovercraft)は平坦な面であれば地上・水上・雪上を区別無く進むことの出来る乗り物である。正式にはAir-Cushion Vehicle(ACV=エアクッション艇)と呼ばれ、工学上は航空機に分類されるが、日本の法律では主に水上走行することから船舶に分類されている。

ホバークラフトは上から吸い込んだ大量の空気を艇体の下に吹き込み続けることで浮力を得ている。艇体下部はスカートと呼ばれる合成ゴム製のエアクッション用側壁が四方に垂れ下げられており、吹き込まれた空気を十分な高さで保持している。この側壁下部と水面または地面との隙間から常に空気が漏れる出ることで完全に艇体の全てが空中に浮かぶため、平坦な面上では接触抵抗が全く発生しない。

短所
- 波浪や強風など悪天候に弱く英仏海峡では大きな事故を経験している。
- 浮上と推進に大量の空気を圧縮・加速し続けるために、多くのエネルギーを消費して燃費が悪く騒音と振動も大きい。
- エアクッションによって船体を支えるため、2乗3乗の法則による制約を受けて大型化が難しい。
- スカートの破損によってエアクッションが失われると、浮揚に障害を生じる。半消耗品であるスカートの維持交換コストも運用費を押し上げる。
- 操縦に特殊な技能が要求される。
- 陸上ではわずかな斜面でも直進性が失われる。

日本では、宇高連絡船を始めいくつか採用例があったが、短所が目立つがゆえに高速船への置き換えが進み、現在では大分ホーバーフェリーが唯一の存在となっている。これは空港アクセスの一つとして大分空港から別府湾をはさんだ大分市内までを結ぶものだが、同社がホーバークラフトを使用し続ける大きな理由は、上陸させることで陸路より移動時間を大幅に短縮させる狙いによる。

一方長所としては以下の3点が挙げられるようだ。
- 水の抵抗をほとんど受けないため高速航行が可能
- (よほど切り立った断崖でもない限り)水上・氷上・地上を問わず浮航できる
- 波や水上浮遊物等の障害物の影響を受けにくい。
http://www.warbirds.jp/ansq/21/B2001632.html


せっかくなので他にもホバークラフト関係の記事をいくつか探してみた。

Go Oita! 「大分ホーバーフェリー」
http://www13.ocn.ne.jp/~go-oita/hover.html

日本ホバークラフト協会
http://www2.jan.ne.jp/~jha/

らばQ 「戦車まで搭載する「世界最大のホバークラフト」はまるで戦艦のよう」
http://labaq.com/archives/51010692.html


実際の運航を見たわけではないが、You Tubeで動画を見てみると騒音や水飛沫がものすごい。運用コスト面の問題はわからないが、多くの路線が休止されたのは自然の流れのように思える。
しかし、(環境面での評価は不明だが) だからこそ大分ホーバーフェリーが永続的に営業運転を行うことには価値があると言えるだろう。
ここまで調べると、もう乗らないわけにはいかない。久々に湯布院の湯めぐりを企画して、大分空港からは遠回りになってしまうが、是非大分ホーバークラフトに乗船してみようと思う。



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約半世紀に渡って親しまれてきたJALの鶴丸がこの5月末で消える。既にJASとの経営統合時にマークを変更しているので、消えること自体は時間の問題だった。
鶴丸だったからこそJALをナショナルフラッグキャリアと呼べたが、JALは自らその地位を放棄してしまったように思う。



http://www.jal.co.jp/tsurumaru/


さて、JALの鶴丸のニュースを見て、ANAの垂直尾翼が以前はヘリコプターマークだったというかすかな記憶が蘇った。



これはANAの前身が日本ヘリコプター輸送株式会社だったことによるものだが、現在でも同社の正式な社章であるらしい。

このヘリコプターはレオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターを元にしたデザインだ。ダ・ヴィンチは万能の人だが、ヘリコプターの発案者とも言われており、ダ・ヴィンチの誕生日(4月15日)はヘリコプターの日となっているという。

ヘリコプター初物語
http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/first1.html

空を飛ぶ機械
http://www.ops.dti.ne.jp/~manva/da_vinci/as_scientist/for_flight.htm

このダ・ヴィンチのヘリコプターを付録にした「大人の科学」が発行されている。


http://otonanokagaku.net/magazine/vol12/index.html

これによると、 「イタリア・ルネサンス期の巨人レオナルド・ダ・ヴィンチ。 「モナリザ」や「最後の晩餐」など、画家として知られる一方で、 科学者と呼んでもいい一面を持っている。 それは彼が書き残した“手稿”と呼ばれる膨大なメモから明らかになるが、そこには、ヘリコプターの元祖といわれる有名な飛行機械のスケッチが存在する。 実際には、飛ぶことのできないそのヘリコプターを編集部で飛ぶ形に改造し、両方の飛行実験ができるセットを開発した。レオナルドの夢の続きをぜひ体験してほしい。」だそうだ。

「ダ・ヴィンチのヘリコプターは飛ばない」というのは工学博士の間では通説らしいが、それだと垂直尾翼のデザインとして極めて相応しくなかったことになる。味のあるデザインだったな、と思いにふけっていたが、やはり変更にはそれなりの理由があったようだ。



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今日はソニーの前身である東京通信工業の設立された日(1946年)だそうだ。東京通信工業からソニーへ社名変更がされたのは1958年(商標としては1955年に登場)で、「SONY」のブランドは恐らく世界でも有数の無形財産であろう。

ここでふと、「ソニーは「SONY」のブランドロゴを変更をしようとしたが、結局しませんでした」という新聞広告を見た記憶が蘇った。子供の頃だったがその広告そのものの記憶は確かで、いくつかの変更候補のブランドロゴが載っていたことを覚えている。確かに元々のブランドロゴ(現行のもの)の方がいいな、と子供心にも感じた記憶がある。あの変更候補のロゴが気になる、気になる、気になる。

ということで、そのあたりをWikipediaで調べてみると以下のような記事があった。

かつて一度だけロゴマークの変更を検討し、一般公募したことがあった。その選考結果は新聞紙面に発表され、「ブランドは変えないことに決定した」という内容であった。ブランドの普遍性、永続性を再確認したのである。

やはりその記憶は正しかったようだ。しかしこれだけではいつのことで、どのようなロゴが変更候補だったのかがわからない。
そこで、更に調べていくと、ついにその広告を発見!



http://www-dg.setc.wani.osaka-u.ac.jp/scshp/rogo1.htm

まさにこれだ。「ロゴタイプデザインを変更しないことに決定しました」という広告。1981年の創立35周年時のことらしい。

それにしても、(おそらく)相当な宣伝のもとで募集しておいて変更しないというのはどうかと思うが、確かに候補に挙がっている3デザインを見るだけでも、変更しないのは納得である。結果としてこの経緯がソニーブランドをより強めたようだ。

最近ブランドロゴ変更を発表したNTTドコモ。新しいロゴがなじむかどうかはこれからの業績次第だ。



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