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Dits et Ecrits 1954-1967

2019-09-15 01:51:32 | Nietzsche


■目次

謝辞
編者緒言
年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
1957
2 心理学の歴史 1850?1950 石田英敬訳
3 科学研究と心理学 石田英敬訳
1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
6 アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
10 ルーセルにおける言うことと見ること
11 かくも残酷な知 横張誠訳
1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
13 侵犯への序言 西谷修訳
14 言語の無限反復 野崎歓訳
15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
16 水と狂気 野崎歓訳
17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
日本語版編者解説(石田英敬)

■内容

編者緒言
「『ミシェル・フーコー思考集成』全十巻に収録されたのは、生前に単行本として刊行されていた著作をのぞき、フランスおよび諸外国で刊行された、序文、序論、紹介文、対談、論文および記事、講演記録などからなる、ミシェル・フーコーの全テクストである」とまず初めにあり、そのあと「一 コーパスの定義」「二 テクストの配列」「三 テクストの提示の仕方」「四 テクスト校訂の規則」「五 年譜、索引、および書誌」と説明が続く。

年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
「思考集成」を刊行する際に、「読解の道具」として作られたもの。それぞれのテクストには説明がほとんどないので、そのテクストの背景などを知るのにとても役に立つ。またフーコーがいつどういう仕事をしていたかというだけでなく、何の本を読んでいたか、誰の影響を受けていたか、などが分かるのでおもしろい。あと説明が簡潔なのもいい。

1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
 L.ビンスワンガー『夢と実存』(J.ヴェルドー仏語訳)への序論、パリ、デスレ・ド・ブルウェール社、1954年刊、9-128頁

「現存在分析」の創始者であるL.ビンスワンガーの論文「夢と実存」のフランス語訳の単行本につけられた「序論」。
『夢と実存』は、みすず書房から荻野恒一ほか訳で1992年に単行本として出版されている(フーコーの「序論」付き)。ちなみにフーコーの「序論」の訳が「思考集成」の石田訳と結構違うが、私にはどちらが正しいか判断できない。
また中山元訳『精神疾患とパーソナリティ』(ちくま学芸文庫、1997年)に付された訳者による解説「フーコーの初期」に、この「序論」についても詳しい説明がされているので参考になる。

1957
2 心理学の歴史 1850-1950 石田英敬訳
 D.ユイスマンとA.ウェベール共編、『ヨーロッパ哲学史』、第二巻「現代哲学の諸相」、パリ、フィシュバヒェル書店、1957年、591-606頁

「序」「自然の先入見」「意味の発見」「客観的意味作用の研究」「客観的意味作用の根拠」という章立てでフーコーが心理学の一世紀を振り返る論文。
「二十世紀半ばまでの心理学の全歴史は。自らの科学としての企てとそれらの公準とのあいだの様々な矛盾の逆説的な歴史である」(本文より)とのことで、フーコーの心理学に対する立ち位置が分かる。

3 科学研究と心理学 石田英敬訳
 E.モレール編『フランスの研究者は問う、…フランスにおける科学研究の方向と組織』、トゥールーズ、プリヴァ書店、「新研究」叢書、第十三編、1957年刊行、173頁-201頁

心理学を始めようとするフーコーに対しある教師が「メルロー=ポンティ氏のように「心理学」をやりたいのか、それともビネたちのように「科学的な心理学」をやりたいのか」と尋ねるエピソードから始まり、途中に「研究の合理性、科学性、そして客観性が、研究の選択それ自体にしか根拠のないものである以上、研究の有効性の実際の保証は非心理学的な方法と概念とに求められる以外ない」とあり、「心理学は冥界への回帰によってしか救われないのである」という言葉で終わる論文。

1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
 ミシェル・フーコー『狂気と非理性-古典主義時代における狂気の歴史』(パリ、プロン書店刊、1961年)p.Ⅰ-ⅩⅠ。この序文は初版にのみ全文掲載。1972年のガリマール社版以後の3つの再版には未収録。

 田村俶訳『狂気の歴史』(新潮社、1975年)には、初版の序文を廃止した理由の書いてあるガリマール版の序文とともに全文掲載されている。
「編者解説」で石田英敬が「61年の序には文化の「構造」の概念が際立たされているのに対して72年頃にはそれが消される傾向にある(『臨床医学の誕生』の手直しに関する『年譜』の1972年の記述参照、本巻41-42頁)」と指摘している。

5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
 (J=P・ウェベールとの対話)、「ル・モンド紙」、5135号、1961年7月21日、9頁

短いインタビューで、『狂気の歴史』への当時の知識人の反応とフーコーのそれに対する応答が読みとれる。
「博士論文の審査委員会の反対質問のひとつはまさに私が『愚神〔狂気〕礼賛』を行おうとしているのではないか、というものでした。しかし、そうではないのです。私が言いたかったことは、狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそなのだということなのです…。」(本文より)

6アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
 「新フランス評論」、九年次、一〇八号、一九六一年一二月一日号、1123-24頁(cf. A.コイレ『天文学革命』、パリ、ヘルマン社、「思想史叢書」、1961年)

科学史家アレクサンドル・コイレの著作への書評。フーコーの科学史や認識論への関心のあり方を読みとれる。
「一七世紀初頭において、真理が生まれる場所は移動したのだ。それはもはや世界の姿の側にあるのではなく、言語の内的で交差した形態の中にある」(本文より)

1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
 J=J.ルソー『ルソー、ジャン=ジャックを裁く-対話』序文(A.コラン、1962年刊)「クリュニー叢書」、7-24頁

「ルソーの晩年の作品である『対話』は、『告白』と『孤独な散歩者の夢想』の中間に位置し、この二作品とともに「自伝三部作」を構成するが、その特異な形態からルソーの狂気の資料として扱われることが多かった。フーコーは、対話の言語活動の立体的構成を分析し、作品の側からテクストを読み解くことによって、心理学や精神医学が前提とするような狂気の実定性をつき崩し、「作品の不在」としての狂気の問題系を浮き彫りにしている」(「編者解説」より)

8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
 「父の〈ノン否〉」、「クリティック」誌、一七八号、一九六二年三月、195-209頁(J.ラプランシュ『ヘルダーリンと父の問題』パリ、PUF社、1961年刊について)

「ヘルダーリンを論じた「父の〈否〉」も、詩と狂気との問題を、心理学的な事実としての狂気から説明するのではなく、作品が、「作品の不在」としての狂気の経験へと開かれていく〈境界=極限〉の言語の在り方として読み解こうとする戦略に貫かれている。しかも、芸術と狂気の問題の系譜を芸術家の成立に遡ってとらえかえし、「作品」と「作品とは別のもの」(=狂気)との一体性との問いが回帰してくる契機を、西欧文化の歴史のパースペクティヴのなかにとらえている。そして、ヘルダーリンのしの言語と神の死の問題を、『狂気の歴史』において示された「狂気の分割」の構図のなかに収めてみせている。」(「編者解説」より)

9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
 「カエルたちの叙事詩」、「新フランス評論」一一四号、一九六二年六月、1159-1160頁。ジャン=ピエール・ブリッセの『神の学、あるいは創造』(Paris,Charmuel,1900)について。

レーモン・ルーセルの同時代人ブリッセの言語論への評。
「忘却、死、悪魔との闘い、人間の零落といったすべては語のための闘いの一つのエピソードにすぎない。それは神々とカエルたちが、立ち騒ぐ朝の葦の葉むらでかつて繰り広げていた闘いである」(本文より)

10 ルーセルにおける言うことと見ること
 「レットル・ウーヴェルト」第四号、一九六二年夏、38-51ページ。『レーモン・ルーセル』(Paris, Gallimard, coll. 《Le Chemin》,1963)第一章の異文。

1963年出版『レーモン・ルーセル』の第1章の異文で、「単行本所収に際して削除された段落を含み、より詳細な読解を提示している(「編者解説」より)」。日本語訳は、豊崎光一訳で法政大学出版局から出ている。

11 かくも残酷な知 横張誠訳
 「クリティック」誌、一八二号、一九六二年七月、597-611ページ。(C.クレビヨン『心の迷い、気の迷い』〔エティアンブル校訂、解説、パリ、A.コラン社、1961年〕と、J=A・ド〔?〕・レヴェロニ・サン=シール『ボーリスカ、あるいは現代の倒錯』〔パリ、1798年〕について)。

「サドの言説と同時代に出現する一八世紀末の恐怖小説の言説空間についてクレビオンやレヴェロニの作品を論じた」論文。「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に対する関心」が現れている。

1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
 H=L・スツェッグ編『ロルフ・イタリアーンデルとの旅』所収(J.シャヴィ訳)、ハンブルク、芸術自由アカデミー刊、一九六三年、46-49頁

「一九六〇年のクリスマスに書かれた私信。一九六三年にロルフ・イタリアーンデルの五十歳の誕生日を祝う記念文集の中で公表。フリード(P.G)『ロルフ・イタリアーンデルの世界』(クリスチャン書房、一九七三年)に再録。」

「それなればこそ、昨日の夜パリで貴方がセネガル人たちに話しかけるのを見たとき、おそらく間違っているでしょうが、こういう印象を抱いたのです。貴方は自分を孤立させるものによって人間と結びついていると。結局のところ、孤独な人間のみがいつの日か互いに出会うことができるのです。」(本文より)

13 侵犯への序言 西谷修訳
 「クリティック」誌一九五-一九六号、ジョルジュ・バタイユ特集、一九六三年八-九月、751-765ページ。

「一九六三年のバタイユの追悼号に「クリティック」誌に発表された論文「侵犯への序言」(No.13)は、六〇年代のフーコーにおける〈限界=境界〉および〈侵犯〉の概念を示した中心的な論考である。私たちはそこに、サドやバタイユをとおしてフーコーが、神の死んだ現代世界における〈限界〉および〈侵犯〉の言語の経験として〈性(セクシュアリテ)〉を問題化していく姿をみてとることができる。」(「編者解説」より)

14 言語の無限反復 野崎歓訳
 「テル・ケル」誌第一五号、一九六三年秋、44-53ページ

「サド、恐怖小説、ボルヘスを論じながら、古典的「修辞学」に対置される「バベルの図書館」によって定義される断片化し無限に連なる言語空間の布置に、一八世紀末に出現した厳密な意味での「文学」の言語の場所を見いだしている」(「編者解説」より)

15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
 「新フランス評論」誌、第一三〇号、一九六三年十月、709-716ページ(ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』、パリ、ガリマール、「ル・シュマン」叢書、一九六三年刊について)。

「ロジェ・ラポルトの作品のエクリチュールの時を、夜と昼との分割の手前に維持された中間状態にもとめ、非限定の三人称代名詞による発話により宙づりにされた言説空間を論じた「夜明けの光を見張って」(一九六三、No.15)にも、境界=極限の言語空間において成立する文学経験という構図はつらぬかれている」(「編者解説」より)

16 水と狂気 野崎歓訳
 「医学と衛生」誌、第二十一巻六一三号、一九六三年十月二十三日、901-906ページ。

水と狂気の結びつきを軸に、西洋世界における狂気の位置の変化を論じている。
古来、理性は大地、非理性は水と結びつけられて考えられてきた。そのため水は狂気と闘う手段としても用いられてきたのである。狂気の水治療法は17世紀に体系的に確立され、19世紀になっても精神病院で定期的に行われていたが、その間にそれまで心を鎮めるような役割を持ってきた水が、恐慌をきたすための手段へと変化したのだ。フーコーはその新しい役割を、「水は辛いものである」「水は懲らしめる」「水は自白の道具である」「水は狂気に告白を強いる」の4つにまとめた。19世紀半ばまでの狂気に起きた変化をフーコーは「狂気は水に属するものであることをやめて、煙の親類になった」と言い、これを「狂気に関する想像的空間におけるきわめて重要な変化」と述べている。そして「今日、狂気はもはや水に属するものではない。水はしばしば、また別の種類の告白を強いているのである」という文章でこのテクストを終えている。

17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
 「クリティック」誌、第一九八号、一九六三年十一月号、931-945ページに初出〔後に『テル・ケル理論総括』(スイユ社、一九六八年)に所収〕。
 (J=L・ボードリ、『イマージュ』、スイユ社、一九六三年;M・プレネ、『二分された風景:散文の行線』、スイユ社、一九六三年;Ph・ソレルス、『中間層』、スイユ社、一九六三年;「テル・ケル」誌一-一四号、一九六〇-一九六三年、について論じたもの)

「シミュラークルの言語・記号空間における言語作用の、同形性(イゾモルフィスム)から、ロブ=グリエと「テル=ケル」派の作家たちの作品を論じた「距たり・アスペクト・起源」は、同時代の文学との関係をあかす、代表的な論文である」(「編者解説」より)

18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
 「フランス=オプセルヴァトゥール」誌、第十四号、七一〇号、一九六三年十二月十二日、14ページ(J=E・アリエ著『若い娘の冒険』、パリ、スイユ社、一九六三年について)。

「この当時まだ「テル=ケル」派の一角を占めていたアリエの前衛的小説を評する」文章。この文章の背景には、「かくも残酷な知」と同じように、フーコーの「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に関する関心」があった。

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:橋口 昌治 
UP:20031114 REV:
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『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』

Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p.

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■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p. ISBN-10:4480790225 ISBN-13:978-4480790224 \5800 [amazon]/[kinokuniya] ※

■目次

1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
20 幻想の図書館 工藤庸子訳
21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
24 空間の言語 清水徹訳
25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
27 血を流す言葉 兼子正勝訳
28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
29 書くことの義務 兼子正勝訳
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
31 哲学と真理 慎改康之訳
32 侍女たち 松浦寿輝訳
33 世界の散文 宮下志朗訳
34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
38 外の思考 豊崎光一訳
39 人間は死んだのか 根本美作子訳
40 無言の歴史 増田真訳
41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
42 哲学者とは何か 金森修訳
43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
48 歴史の書き方について 石田英敬訳
49 ポール・ロワイヤルの文法 
50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
日本語版編者解説(小林康夫)

■内容
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
 E.カント『人間学』(M.フーコー仏語訳)所収、パリ、ジャン・ヴラン書店、一九六四年刊、7-10ページ。
 一九六一年、ミシェル・フーコーは、文学博士号取得のための副論文として、イマヌエル・カントの『実用的見地における人間学』の注解つきの翻訳三四七ページを、一二八ページに及ぶ序文とともに提出する。この翻訳および序文は、ソルボンヌ大学図書館にタイプ原稿のかたちで保管されている。フーコーは、ここにある「書誌略述」の添えられた翻訳のみを公刊した。

 内容はカントの『人間学』が完成に至る過程とその時期についての分析である。

「『人間学』のなかのひとつの註は、この著作が、それが執筆される以前「およそ三十年間」にわたって行われた講義の内容であるということを示している。その三十年の間、冬学期の授業が人間学に、夏学期の授業が自然地理学にあてられていたということだが、しかし実際は、上の数字は正確なものではない。」(本文より)

20 幻想の図書館 工藤庸子訳
 G.フローベール『聖アントワーヌの誘惑』ドイツ語版のために書き下ろした「あとがき」(フランクフルト、インゼル書店刊、一九六四年。217-251ページ)。同じテクストの仏訳は、本書所収の図版とともに「図書館の《幻想》」(Un "fantastique" de bibkiotheque)というタイトルで、Cahiers de la compagnie Madeleine Renaud-Jean-Louis Barrault,No 59,一九六七年三月刊、7-30ページに掲載された。M.フーコーはこの評論の新しいヴァージョンを、「幻想の図書館」(La Bibliotheque fantastique)というタイトルで、一九七〇年に発表した。本稿では〔 〕内に入れた文章は、一九七〇年版にはにないものである。両テクストの異同は、註によって示した。

「『誘惑』とは、フローベールにとって、おのがエクリチュールの夢なのだという感じがする。つまり、エクリチュールがそうあってほしいと思われる何か〔-柔らかで、艶(つや)があって、自然な感じで、しっくりと文章の陶酔のなかに解けこんで、美しい-〕しかもついに白日の形式(フォルム)にめざめるためには、エクリチュールがそれであることをやめなければならぬ何か。」(本文より)

21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
 「新フランス評論」誌、一三五号、一九六四年三月号、444-459ページ。

「クロソフスキーの言語、それはアクタイオーンの散文-侵犯の言葉なのである。あらゆる言語は、それが沈黙を相手どるとき、そのようなものではないだろうか?」(本文より)

22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
 (司会ミシェル・フーコー、参加者、G.アミィ、J=L・ボードリ、M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・ド・ガンディヤック、C・オリエ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・チボードー、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年春号、12-54ページ(於スリジー・ラ・サール、一九六三年九月。《新しい文学?》のテーマのもとに、テル・ケル派のグループによって企画された討論会である)。

「バタイユが「テル・ケル」一派にとってこれほど重要な人物でありえたのは、シュールレアリスムの心理的次元から、彼が《限界》、《侵犯》、《笑い》、《狂気》と呼んだ何かを浮上させ、それを思考の経験に仕立てあげたからではないでしょうか?そこで、以下のような問題が提起されると思います。すなわち、思考するとはどういうことなのか、思考するというこの驚くべき体験は、いったいどういうことなのか?そして文学は、現在のところ、この問題を再発見しつつある。」(本文より)

23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
 (参加者:M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年九月、69-82ページ(スリジー・ラ・サール、一九六三年九月)
「No.22、No.23の拙訳にあたっては、岩崎力氏による優れた訳業(『新しい小説・新しい詩』、竹内書店、一九六九年)を参照させていただいた。竹内書店版には、「テル・ケル」誌第十七号掲載のふたつの討論に加えて、ジャン=ピエール・ファイユ「新しいアナロジー」、およびマルスラン・プレネ「逆の思考」も併せて紹介されている。」

「ところで、文化によっては、もっと厳しい限界があり、より明瞭な稜線辺がある。したがってそれらに背く人、他の人よりも限度を超えやすい人々がいて、限界の、異議申し立ての、違反のゲームが、とりわけ激しく、明白な分野ないし領域があるものなのです。古典時代における理性-狂気の問題とは、そういうことだと私は考えています。」(本文より)

24 空間の言語 清水徹訳
 「クリティック」誌、二〇三号、一九六四年四月、378-382ページ。

ロジェ・ラポルトやクロード・オリエの作品について論じた文章。

「ロジェ・ラポルトの『夜を徹して』は、この薄明のしかも恐るべき「領域」のもっとも近くに位置する。」
「クロード・オリエの作品は、その全体が言語と事物とに共通する空間の模索である。」(本文より)

25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
 「ターブル・ロンド」誌、一九六号、一九六四年五月「精神医学の状況」、11-21ページ

「第Ⅰ巻に収められた諸論文は、この幻の一冊、つまり〈狂気・文学・言語〉の問題圏の前半の第一部を形作っていた。この第Ⅱ巻、とりわけ六四年と六六年のいくつかの論文はその後半の第二部と考えることができよう。とするなら、この〈第二部〉全体のマニュフェストの位置を占めるのが、「狂気、作品の不在」(No.25)ということになろうか。そこでは、狂気と文学とがともにある本質的な「空虚」あるいは「不在」の経験であること、そしてその「謎」においてこそ、「言語活動」が「死」と本質的な結びつきを持つことが断言されている」(「編者解説」より)

26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
 「なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 我らが現代文学の先駆者」、「ル・モンド」紙、一九六四年八月二十二日、9ページ。

「レーモン・ルーセルの作品は、随分と以前から私たちの言語の底流となって作動していたのだが、私たちはほとんどそれに気づくことはなかった。」(本文より)

27 血を流す言葉 兼子正勝訳
 「エクスプレス」誌、六八八号、一九六四年八月二十九日、21-22ページ(ウェルギリウス著『アエネーイス』のクロソフスキーによる翻訳-パリ、ガリマール社、一九六四年刊-について)。

「クロソフスキーは危険をおかして逆をおこなう。というよりも、彼はかつて誰もおこなわなかったことをおこなおうとする。つまり場所の詩的な配置を目に見えるように維持すること。統辞法の必要な網目組織を、わすかに後退させつつ、ただしけっして破壊せずに保ちながら、そうすること。」(本文より)

28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
 「アナール-経済、社会、文明」誌、五号、一九六四年九-十号、996-1004ページ(J=P・リシャール著『マラルメの創造的宇宙』-パリ、スイユ社一九六二年刊-について)。

「わたしは、リシャールを批判した者たちを批判するつもりはない。わたしは単に、彼のテクストの周囲に描きだされた隔たりに注意を向けたいと思う。つまり、一見したところ論争の記号の数々に覆われているように見えながら、じつは沈黙のうちにテクストが占める場所の空白の輪郭を定めているようなあの余白、それに注意を向けたいのである。」(本文より)

29 書くことの義務 兼子正勝訳
 「ネルヴァルは一九世紀で最も偉大な詩人か?」の一部、「アール」誌、九八〇号、一九六四年十一-十七日、7ページ(ネルヴァル諸作品の再版に際して、何人かの著作家に対しておこなわれたアンケートの断片)。

「ネルヴァルのテクストは、われわれに作品の断片を残したのではない。そうではなくて、書かなければならないということの、人は書くことによってのみ生きそして死ぬということの、繰り返される確認を残したのだ。」(本文より)

1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
 (アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもとに教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテクストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。

31 哲学と真理 慎改康之訳
 (アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールとの対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。

「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。

「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただなかにいるのです。」(本文より)

32 侍女たち 松浦寿輝訳
 「メルキュール・ド・フランス」誌、一二二一-一二二二号、一九六五年七-八月、368-384ページ。
ベラスケスの絵は「ラス・メニーナス」という題で世界中に知られている。これは「お付の女官たち」の意味である。このタイトルがプラド美術館のカタログに現れるのはようやく一八四三年になってからのことで、マドリッドの宮廷の財産目録にはずっと「家族の情景(エル・クワドロ・デ・ラ・ファミーリア)」ないし「国王の家族」の題で記載されていた。ミシェル・フーコーはこのエッセーを『言葉と物』(ガリマール社刊、一九六六年)に収めることを躊躇していたようだ。最初のうち彼は同書第九章でこれを簡潔に要約していた。次いで、この論考からいくつかの段落を削除し、表現を手直ししたうえで、そのまま『言葉と物』の第一章としたが、校正刷の段階でさらに刈り込んでいる。

33 世界の散文 宮下志朗訳
 「ディオゲネス」誌、五十三号、一九六六年一-三月号、20-41ページ。ロジェ・カイヨワの依頼により、『言葉と物』の第二章となるべき部分を、事前に発表したものであるが、テクストには若干の差異が見られる。本集成第Ⅷ巻所収、No.292を参照のこと。

「四種の相似」「署名=外徴」「世界の境界」という構成になっている。

「われわれの文化において、類似(ルサンブランス)なるものが、充分かつ安定した、自律的な表徴(フィギュール)を知の内部で形成することをやめてから、二世紀以上がたっている。」(本文より)

34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
 (R.ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」誌、一一二五号、一九六六年三月三十一日-四月六日号、3-4ページ。

「大雑把に言えば、『狂気の歴史』は分割の歴史であり、とくに、すべての社会がどうしても打ち立てざるをえない、ある種の切断の歴史でした。それに対して今度の本では、秩序の歴史を書こうと思ったのです。」(本文より)

35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
 「エクスプレス」誌、七七五号、一九六六年四月二十五日-五月一日、114-115ページ(ジャン・チボードー『序曲』-パリ、スイユ社、一九六六年刊-について)

「チボードーは『序曲』を、『王室儀式』の六年あとに書いた。この二つの日付のあいだでは、文学体験のある種の部分が変化してしまっている。」(本文より)

36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
 「アルク」誌、二十九号、「ジュール・ヴェルヌ特集」、一九六六年五月、5-12ページ。

「ジュール・ヴェルヌの物語作品は、驚くばかりに、今述べたようなフィクシオンの非連続性に満ちている。」(本文より)

37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
 「カンゼーヌ・リテレール」誌、五号、一九六六年五月十六日、14-15ページ。

「-いつ「意味」を信じなくなったのですか。
-社会に関してはレヴィ=ストロースが、そして無意識に関してはラカンが、意味というものがおそらく、ある種の表層的な作用、きらめきか泡沫のようなものにすぎないこと、そして、われわれを深層において横断し、われわれ以前にあって、時と空間のなかでわれわれを支えているのがシステムであるのを明かしてくれたとき、決定的な断絶の契機が訪れたのです」(本文より)

38 外の思考 豊崎光一訳
 「クリティック」誌、二二九号、一九六六年六月、523-546ページ(モーリス・ブランショ特集)。

「ギリシア的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。「私は話す」という明言は、現代のあらゆる虚構作品(フィクシオン)に試練を課す。」(本文より)

39 人間は死んだのか 根本美作子訳
 (C・ボヌフォワとの対談)、「芸術と余暇」誌、第三十八号、一九六六年六月十五-二十一日、8-9ページ。

「十八世紀の終わりと十九世紀のはじまりにおいて、どのような要素を使って人間が組み立てられたかを、『言葉と物』のなかでわたしは語ろうとしました。」(本文より)

40 無言の歴史 増田真訳
  -カッシーラー『啓蒙主義の哲学』の仏訳に寄せて-
 「カンゼーヌ・リテレール」誌、八号、一九六六年七月一-十五日、3-4ページ(E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』-P・キエ仏語訳、パリ、ファイヤール社、「国境のない歴史」双書、一九六六年刊-について)。

「カッシーラーは「新カント派」である。この用語によって指し示されるものは、ある「運動」や哲学上の「流派」である以上に、カントによって打ち立てられた断絶を、西洋思想が乗り越えることができなかったということである。新カント派は、その断絶を復活させるという絶えず繰り返される命令であり、それはその断絶の必然性を再確認するとともにその規模を測り尽くすためである。(その意味ではわれわれはみな新カント派である。)」(本文より)

41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
 C・ジャヌーとの対話、「フィガロ・リテレール」誌、一〇六五号、一九六六年九月十五日、7ページ。

ドゥルーズとともに、フーコーは『ニーチェ全集』のフランス語版の編集責任者となる。そのことについてのインタビュー。

「ところがニーチェの代わりに〈私〉ということはできません。その意味で彼は現代のすべての西洋思想の上に突出しているのです。」(本文より)

42 哲学者とは何か 金森修訳
 (M.G・フォワとの対話)、「人間の認識」誌、二十二号、一九九六年秋、9ページ。(説明の日本語訳では「一九九六年秋」とあるが、フランス語ではautomne 1996 とあるので「一九六六年秋」の間違いだと思われる)

「哲学者は社会のなかに役割などもっていません。」(本文より)

43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
 (C・ボヌフォワとの対話)、「芸術と余暇」誌、五十四号、一九六六年十月五-十一日号、8-9ページ。

「シュルレアリスムのリーダーだったアンドレ・ブルトンは一九六六年九月二十八日に逝去した。この対話はその直後に行われている。」(文末の註〔1〕より)

44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
 「医学共進会」第88年次、一九六六年十月二十二日号、6285-6286ページ(医学的思考の性質に関する研究会より)。

「私たちはこう自問することができる、医学的実践の理論はもはや実証主義の用語ではない用語によって、それも、言語分析や情報処理の実践のなかで現在錬磨されている用語によって考え直されうるのではないかと。/言語の理論家、そしてその領域に関係するすべての科学の理論家たちと、医者たちとが一堂に会する「セミナー」が開かれるのは、一体いつのことなのだろうか。」(本文より)

1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
 F・ニーチェ『哲学全集』第五巻、『華やぐ智慧、遺された断想(一八八一-一八八二)』への「概括的序論」(G・ドゥルーズとの共同執筆になる)、一九六七年、パリ、ガリマール社、端書き、Ⅰ-Ⅳページ。

「我々は、新たな観点が未刊文書によってもたらされ、それがニーチェへの回帰という観点であることを願っている。我々が希望するのは、彼が遺すことのできたメモ、およびそれらの多様な構想が、諸君の目に対して、組合せと置き換えのすべての可能性を解き放つことである。これらの可能性は、ニーチェに関して「来たるべき書物」という未完の状態をいまや永久に含み持っているのである。」(本文より)

46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
 「カイエ・ドゥ・ロワイヨーモン」第六巻『ニーチェ』、ミニュイ社、パリ、一九六七年、183-200ページ(ロワイヨーモンの討論会、一九六四年七月)。

「マルクス、ニーチェ、フロイトにおける解釈の技術」に関するフーコーの文章のあとに、フーコー、ベーム、トーブ、ヴァッティモ、ヴァール、バロニ、ラムヌー嬢、ドゥモンビーヌ、ケルケルによる討論が続く。

「解釈の複数性、解釈間の戦争の問題は、思うに、解釈の定義そのものによって構造上可能になっているのです。というのも、解釈は無限になされ、解釈自身が自らを判断し決定する際に基点となる絶対的な地点は存在しないのです。その結果、このこと、つまりわれわれは解釈するまさにその瞬間に解釈されるべく委ねられているという事実を、あらゆる解釈者は知っておかねばなりません。この解釈の過剰性は、現在西洋文化を奥深いところで性格づけているひとつの特徴に相違ないのです。」(本文より)

47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
 (G・フェルーとの対談)、「ラ・プレス・ド・チュニジー」紙、一九六七年四月十二日付、3ページ。

インタヴューに「ミシェル・フーコー、自身を語る」「ミシェル・フーコー、チュニジアの感想」という囲み記事がついたもの。

「私が、構造主義に対して距離を取りながらも同時に構造主義をなぞって二重化するような関係をもっているのは、このためなのです。距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語っているからですし、なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからです。」(本文より)

48 歴史の書き方について 石田英敬訳
 (R・ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」紙、一一八七号、一九六七年六月十五-二十一日号、6-9ページ。

「書く者にとって重要なのは、かつては、万人の匿名性から身を引き離すことだったのですが、私たちの時代にあっては、固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせる、ということなのです。」(本文より)

49 ポール・ロワイヤルの文法 
 「ランガージュ」誌、七号「フランス言語学、文法理論」特集、一九六七年九月、7-15ページ。
 このテクストをさらに発展させたものが、一九六九年に『ポール・ロワイヤルの文法』の再版に序文として収録された(本集成第Ⅲ巻所収、No.60)。

50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
 (P・カルーゾとの対話。仏訳、C・ラッツェリ)、「ラ・フィエラ・リッテラリア」誌、第四十二年度、三十九号、一九六七年九月二十八日、11-15ページ。
 [ ]のなかのテクストは一九六七年に出版された対談には見られず、P・カルーゾ『クロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカンとの対話』-ミラノ、ムルシア社、一九六九年刊-91-131ページにこの対談が再掲載された際付け加えられたものである。

「我々は一見ヒューマニズムの問題について議論しているようですが、実はもっと単純な問題、すなわち幸福という問題にかかわっているのではないだろうかと思われます。私は、少なくとも政治的な面において、ヒューマニズムを、幸福を作り出すことを政治の目的とみなす態度そのものとして定義することができるのではないかと考えます。ところで、私には、幸福という観念が本当に思考可能であるものだとは思えないのです。幸福などというものは存在しません。人間の幸福についてはなおさらのことです。」
「「現在何が起こっているのか」を言うことが哲学者の役割であるとすれば、今日の哲学者にとってはおそらく、人間は自らが神話なしに機能し得るということを発見し始めているということを明らかに示すことが、その役割であると言えるでしょう。諸々の哲学や諸々の宗教の消滅は、おそらく何かそうした種類の事態に呼応しているのかもしれません。」(本文より)

51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
 「ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌、第一五四号、一九六七年十月二十五日、49-50ページ(エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』ガリマール社、一九六七年〔邦訳:浅野徹他訳、美術出版社、一九八七年〕、および『ゴシック建築とスコラ学』ミニュイ社、一九六七年〔邦訳:前川道郎訳、平凡社、一九八七年〕について)。

「これらの翻訳は、われわれから遠く隔たった見慣れないものであったイコノロジーをハビトゥスに変える、という作用をわれわれに及ぼすだろう。つまり新たに歴史を学ぼうとする者たちにとっては、これらの概念や方法はもはや学ぶべきものたることを止め、むしろ人がそこから出発して見、読み、解読し、知るべきものとなるだろう。」(本文より)

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:橋口 昌治 

Louis Althusser

2019-09-15 01:12:58 | Nietzsche
『思想』909(2000-03):094-098 ※
◇伊吹浩一「アルチュセール・イデオロギー論、そのマトリックスと帰結するもの――精神分析とイデオロギー装置」
 『情況 第二期』情況出版 11(2) 2000.3 p84~113
◇Yann Moulier Boutang、市田良彦訳「インタヴュー ヤン・ムーリエ・ブータンに聞く 『Multitudes』/移民運動/アルチュセール」
 『批評空間 2期』太田出版 25 2000.4 p132~146
◇宇波彰「アルチュセールと現代思想」
 『アソシエ』御茶の水書房 3 2000.7 p159~164
◇箱田徹「アルチュセールと後期フーコーの主体化論における理論と実践」
 『国際文化学』神戸大学国際文化学会 3 2000.9 p91~104
◇福井和美「「新しい」アルチュセール―「理論」と「自伝」のあいだ」
 『環』藤原書店 3 2000.10 p250~263
◇Louis Althusser、福井和美訳「マキャヴェリの孤独」
 『環』藤原書店 3 2000.10 p232~249
◇Judith Butler、井川ちとせ(訳)、竹村和子「テクスト 良心がわたしたち皆を主体にする――アルチュセールの主体化/隷属化(サブジェクション)〔含 解題〕」
 『現代思想』青土社 28(14) 2000.12 p84~103

◆2001
◇浜田正「初期アルチュセールのマキャヴェッリ論、そして偶然的唯物論(〔社会思想史学会〕第二五回大会記録――自由論題)」
 『社会思想史研究』北樹出版 25 2001 p79~83
◇千脇修「ル・ゴフとアルチュセール ジャック・ル・ゴフ著(立川孝一訳)『歴史と記憶』(法政大学出版局、1999年)への書評に代えて」
 『西洋史論叢』早稲田大学史学会西洋史部会 第22号 2001.1 p9~20
◇高橋順一「『フォイエルバッハ・テーゼ』の言語=理論――革命的位置について アルチュセールからの視角」
 『情況 第三期』情況出版 2(6) 2001.7 p184~189
◇今野晃「アルチュセール アルチュセール・イデオロギー再考―理論と実践」
 (情況出版編集部編『社会学理論の(可能性)を読む』情況出版 2001.7 p129~)
◇石井潔「レヴュー・エッセイ 残されたテキスト――アルチュセール『哲学・政治著作集1・2』を読む」
 『唯物論研究年誌』唯物論研究協会 6 2001.10 p313~320
◇伊吹浩一「主体も目的もない過程としての歴史――アルチュセ-ルのマルクス学位論文の言及をめぐって」
 『情況 第三期』情況出版 2(8) 2001.10 p212~226

◆2002
◇岩本一「アルチュセ-ルのディスク-ルの理論について」
 『言語と文化』東洋大学言語文化研究所設置準備委員会 2 2002 p35~44
◇山本雄二「教育知と主体の問題」
 『関西大学社会学部紀要』関西大学 34(1) 2002.12 p185~206

◆2003
◇山家歩「アルチュセール国家イデオロギー論の再検討――最終審級をめぐる問題を中心として」
 『現代社会理論研究』「現代社会理論研究」編集委員会事務局 13 2003 p342~353
◇大中一弥「ポスト・アルチュセールの政治思想――エティエンヌ・バリバール著『我らヨ-ロッパ市民?』からの一考察」
 『情況 第三期』情況出版 4(1) 2003.1 p203~220
◇伊吹浩一「アルチュセールの唯物論」
 『情況 第三期』情況出版 4(1) 2003.1 p221~243
◇的場昭弘・仲正昌樹「今、アルチュセ-ルを開く」
 『情況 第三期』情況出版 4(1) 2003.1 p167~188
◇柳内隆「スピノザというレンズ――アルチュセールのなかのスピノザ」
 『情況 第三期』情況出版 4(1) 2003.1 p189~202
◇佐藤嘉幸「精神分析理論から構造変動の理論へ――アルチュセールにおける構造変動と偶然性」
 『思想』岩波書店 950 2003.6 p130~148
◇佐藤紀子「サルトルとアルチュセールの階級に関する認識論的立場」
 『聖心女子大学大学院論集』聖心女子大学 25 2003.7 p94~77

◆2004
◇桑野弘隆「国家とイデオロギーについて――アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」をめぐる思想史的一考察」
 『社会思想史研究』藤原書店 28 2004 p99~115
◇大中一彌「政治に出会う理論は可能か――晩期アルチュセールという対象」
 『理想』理想社 673 2004 p59~68
◇立木康介「質料と偶然――アルチュセールの「出会いの唯物論」について、そしてアリストテレスの自然学について」
 『人間存在論』京都大学大学院人間・環境学研究科総合人間学部「人間存在論」刊行会 10 2004 p117~131
◇佐治孝夫「アルチュセールとポスト近代的マルクス主義――L.アルチュセールの政治思想(1)」
 『社会とマネジメント』椙山女学園大学現代マネジメント学部 1(2) 2004.3 p37~56
◇宇城輝人「『マルクスのために』Pour Marx(1965) ルイ・アルチュセール(1918-1990)(ブックガイド60)」
 『現代思想』青土社 32(11臨増) 2004.9 p198~201
◇植村邦彦「重層的決定と偶然性――あるいはアルチュセールの孤独」
 『関西大学経済論集』関西大学経済学会 54(3・4) 2004.11 p337~354

◆2005
◇松浦寿輝「文化季評(6)アルチュセール、アーレント、パース」
 『UP』東京大学出版会 34(4) 2005.4 p43~47



●アルチュセールとフーコーの関係についてのメモ●

□アルチュセール研究
■今村仁司19930810『アルチュセールの思想』講談社

「ヘーゲルは常識の線で言えば、西欧形而上学の、とくに近代哲学の総合的完成者であるということになっているが、アルチュセールの観点で言えば、ヘーゲルはむしろ現代の思想、とりわけマルクスとハイデガーから開始する「主体なき過程」の哲学の真実の開拓者であると見なすことすらできるのである。フーコーもドゥルーズもデリダもヘーゲルをこのようには規定しないだろう。かれらはむしろヘーゲルを伝統的見解にしたがって「西欧形而上学の最後の哲学者」とみなしている。だからこそ、とくにフーコーとドゥルーズはヘーゲルを批判するために、そしてついでにマルクスから身を引き離すために、ニーチェに頼らざるをえない。しかしそうなると、ヘーゲルはいずれにせよ「過去の思想家」として博物館入りさせるほかはなくなるのだ。そんなことでいいのだろうか。事態はそれほど簡単ではない。けれどもアルチュセールは、すでに見たように、ヘーゲルとマルクスとの種差を明示することで、かえって新しい仕方でヘーゲルのアクチュアリティーを取り出すことができたと言えよう。」(p.28)

「(…)フーコーやブルデューは決してそんな部類に入らないが、それでも彼らはアルチュセールの影響ないしインパクトを最小限に限定しようとする「フランス知識人的傾向」から免れていない。フーコーは『知の考古学』以来、「ディスクルシーヴ」(言説的)な形成体」という用語を使っている。この「言説形成体」を通して権力的な支配の効果が社会のすみずみまで浸透していく事態を彼は説明している。彼の言う「言説形成体」の具体化は、『監視と処罰 監獄の誕生』のなかでは、学校、監獄、工場、病院、軍隊という装置である。そこでは言説形成体によって、「自発的に服従する主体」が形成される。これなどは議論の核心のみを取り出せば、まさにアルチュセールの理論そのものであろう。勿論、フーコーならではの記述と絢爛たる描写をこそ賞賛すべきではあろうが、しかし理論的な方向はアルチュセール的であることは否定しようもない。ところが誰もフーコーとアルチュセールとの継承関係を語ろうとせず、アルチュセールを忘れたがっているみたいだ。(フーコーを巧みに利用して「オリエンタリズム」を論じたサイードですら、アルチュセールの理論には全く無関心なのだ。他は推して知るべし。)フーコー自身は決して理論の人ではないから、ときに概念規定が曖昧であり、理論的に語るべきところを歴史的記述か社会学的説明で満足するところがある。だからこそ、フーコーの優れた仕事を理論的に更に深めたり、彼がわずかにしか触れていないが大切な事柄を蘇生させていくためにも、アルチュセールのイデオロギー論は不可欠なのである。
 (…)アルチュセールが「イデオロギー的主体の形成」を「国家装置」論でやったことを、フーコーは「訓練装置」の具体的な歴史記述によって、ブルデューは身体的なハビトゥスの場面への「信念」の刷り込み(これがブルデュー的な「主体の形成」論である)を微細に記述することによって、それぞれに固有の仕方で豊かに展開していった。(…)」(p.45-46)

「例えばミシェル・フーコーの一種独特の認識論的見解も、一見バシュラール的立場から遠くへだたるごとくであっても、彼もまたバシュラールの哲学的地平においては自己の出発点を確立することができなかったと思われる。かえってフーコーの科学史・思想史に関する歴史観(アルケオロジー論)とバシュラールの正統的担い手たち(カンギレーム=アルチュセールの弟子たち)との論争自体が、実はバシュラール的問題設定の上でこそ可能であったのであり、またこの論争自体がバシュラールの拓いた道を豊かに発展させていくものと期待されるのである(…)。」(p.106-107)

「したがって、われわれは一巡して、再び理論的実践=科学的認識そのものの研究に直面せざるをえない。なぜなら、理論的実践=科学的認識を、他の諸々の実践(イデオロギー的、政治的、その他)との関係において研究することなしには、理論的階級闘争の働きの場所さえ見出すことができないであろうからである。そして、この研究領域は、マルクス主義のなかでも最も遅れている場面であり、また「マルクス主義はこの領域で一度も見るべき仕事をしたことがない」とフーコーが批判する場所であるだけに、アルチュセールの開拓的な認識論的研究は、高く評価されねばならない(フーコーの批判は少し大げさだが、アルチュセールよりも具体的にこの領域で仕事をしたひともすでにある。例えば、ルフェーブルとJ.T.デザンティ)。」(p.121-122)

□今村仁司19970210『アルチュセール――認識論的切断』講談社

「(…)カントなら拒否するようなアプリオリ=アポステリオリという逆説的事実こそ、歴史的現実である。それをアルチュセールは「経験的な超越論的なもの」(le transcendental empirique)とよぶ。(フーコーは『言葉と物』のなかで、近代的主体における経験的なものと超越的なものとの二重態をさすために、アルチュセールのこの用語そっくり同じ言葉を使うが、ひょっとすると、アルチュセールからの口頭による示唆があったかもしれない。)(…)」(p.106)

「ここで構造と主体に関するある種の誤解を指摘しておきたい。例えば、六〇年代から現在まで、構造と主体は正反対であり、構造は主体を放棄したり、主体を消滅あるいは死滅させると言われてきた。例えば、フーコーは「主体ないし人間の死」を語った。彼がかたっている「主体」とは、近代哲学が作ってきた「人間的主体」のことである。それは特定の時代の産物であり、それは遠からず消滅するだろうとフーコーは言う。近代哲学の「主体」が世界構成の原理であることの不可能性を語る限りでは、フーコー的表現も正しいが、それを一般化して、構造は主体を死滅させるとか、構造と主体は相いれないと語るのは錯覚である。
 構造は主体を排除するどころか、主体を要求し、かりに主体が存在しなければ無理にも出作りだす。アルチュセールはまさにこの事実を洞察したが、これは彼の傑出した理論的貢献である。彼が言うように、構造(社会的)は必ずそれ固有の主体/主観性の形式を算出し、この主体/主観性に構造の担い手の機能を担当させる。」(p.272-273)

□フーコー研究
■中山元19960620『フーコー入門』筑摩書房

「マルクス主義のアルチュセールのイデオロギーの理論は、イデオロギーを信じる主体がいかにして形成されるかという視点をそなえていた点で、マルクス主義の権力論としては例外的なものであった。しかしこのアルチュセールのイデオロギー論も、社会の主体は外部からイデオロギー(虚偽意識)によって統制されると考えるものであった。
 これに対してフーコーの権力論は、権力を虚偽意識の観点からではなく、主体の内部から機能する力として分析するものである。フーコーはそれまでの権力論を批判する――これまで権力は「排除する」「抑圧する」「隠蔽する」「取り締まる」などの否定的な用語で考えられてきたが、権力は主体の内部から、現実的なものを生み出している力として理解する必要があるのではないか。
 フーコーが権力を、このような外部からの強制や抑圧としてではなく、主体の内部から働く力として、複数の人間の間に成立する力の場として考えたことによって、権力の理論に新たな可能性が生まれた。
 まず、権力の理論をマルクス主義的な階級の抑圧理論として捉えるのではなく、社会の内部で普遍的に働くものであると考えることによって、権力の行使に関する微細な分析が可能となった。階級対立論では、アルチュセールのようにブルジョワ階級あるいは国家による権力の行使は分析できても、学校や会社やさまざまな制度と組織の内部での権力の装置の微細な分析は、そもそも必要と考えられなかっただろう。
 権力が、これまでのように抑圧的なブルジョワ権力や、革命的なプロレタリア権力のようなイメージではなく、真理を語ると自称する者とその真理を信じる者、教師と生徒、上司と部下、男性と女性、父親や母親と子供といった日常生活のすみずみに張りめぐらされた人間の間の力関係の網の目として理解されるようになることによって、現実の生活の場での社会批判の視点が確保されるのである。」(p.136-137)

■関良徳20010405『フーコーの権力論と自由論』勁草書房

「法や政治に関する理論の領域では、これまで概説してきた法的権力モデルという視座から権力の問題を理解することが自明の真理として通用してきた。これに対し、フーコーは、そうした定式の裏面に捉えられた現実の権力現象を捉えようとしている点でL.アルチュセールら同時代のマルクス主義者から影響を受けていたことは間違いないだろう(14)。しかし、マルクス主義者が権力の問題を階級構造や社会的矛盾として再発見しながら、それを再度これまでの法的権力モデルの中で解決・解放しようとしたのに対し、フーコーは従来の権力概念そのものを問題化しようと試みる。その意味で、両者の間には大きな隔絶があるといえよう。ここでは近代以降の権力の在り方に焦点を合わせ、法的権力モデルの有する諸特徴が現実の権力との間にいかなる関係性を有するのか、そのモデルが近代以降の権力現象を十分に映し出しているのか否かといった問題を検討する。」(pp.10-11)

(14)桜井哲夫[1996]二一二-二一六頁(=桜井哲夫『フーコー――知と権力』講談社)

「このようなフーコーの記述から、多くの論者は支配階級のイデオロギーを下部構造との関連において発見し、その虚偽性を批判しようとするマルクス主義的なイデオロギー論を想起した。フーコーが近代立憲主義を支配階級のイデオロギーとして捉えていることを指摘した人々は、法的思考枠組みが現実の身体的権力を覆い隠す役割を果たしてきたとする彼の歴史認識を批判の中心に据えた(25)。法の排除論を提起した人々は、この「法=イデオロギー」論を取り込むことで、フーコーと法との間に乗り越え難い「断絶」をつくりあげようとしたのである。しかしながら、このような批判は簡単な誤解と根深い偏見のうちに生み出されたものである。フーコーとアルチュセールのようなマルクス主義者との関係を指摘する研究も存在しているが(26)、フーコー自身は基本的に「イデオロギー」や「抑圧」といったマルクス主義の概念に対して批判的であり、そうした概念を基礎に思索を構成したとは考えられない(27)。そして、前述した通り、彼は「法」を単なる規律権力への「覆い」として理解する立場を離れ、近代社会の権力を構成するもう一方の還元不可能な要素として認識している(28)。法的権力として表象された「法」は、それ自体として私たちの現実的行為と結び付いた思考枠組みを産出しているのである(29)。このような議論の帰結として、フーコーを規律権力中心主義に位置付けるのは不可能であろう。」(pp.144-145)

「(27) Foucault [1977a] pp.146-149(八三-八六頁)。「イデオロギー」という概念を用いようとしない理由として、フーコーは次の三つを挙げている。①イデオロギーは常に「真理」と潜在的に対置されている。②イデオロギーの観念は、必ず「主体」に準拠している。③イデオロギーは、その下部構造に対して一歩退いた位置にある。」

■桜井哲夫20010510『知の教科書 フーコー』講談社

「ところで、周囲の人間たちは、フーコーが資格試験に失敗したのはその直前のフランス共産党入党のせいだと語っていたと言います。口述試験の試験管たちの政治的な偏見ゆえではなかったのか、というのです。むろん真偽は定かではありません。アルチュセールも恋人のエレーヌの影響で入党していましたので、アルチュセールに影響されたのかもしれません。(…)」(p.24)

「『狂気の歴史』は、アルチュセールやカンギレム、フェルナン・ブローデルらの絶賛を浴びますが、フーコーが期待したように、論壇で賞賛されるという事態にはなりませんでした。」(p.33)

「1980年初めにイタリアの雑誌に掲載されたフーコーへのインタビュー記事のなかで、トロンバドリは、六八年の学生反乱の際にフランクフルト学派のテーマが、いわば学生たちの合い言葉のようになっていたことを指摘しています。そしてその事実とフーコーとの関係について質問します。これに対して、フーコーは、次のように答えています(以下は、翻訳ではなく要約です)。
(…)
これに対して、トロンバドリは、しかし、フランクフルト学派は、たとえばアルフレート・シュミットなどのように、レヴィ=ストロースやアルチュセールの仕事を論評しながらフランス構造主義そのものを批判しているではありませんか、と問いかけています。
 フーコーは、次のように答えます。
 彼らは、フロイト的概念やらマルクス主義ヒューマニズム(疎外論)に染まっているところがあるので、我々が、失われたアイデンティティの回復だの、囚われた本質の解放だのをめざしていないということを理解できないことはわかっています。たとえば、マルクスに戻れば、彼の言う「人間が人間を生産する」という言葉をどのように理解すべきなのでしょうか。価値の生産や富の生産と同じように人間による人間の生産が行われると考えているフランクフルト学派の人々に私は同意できません。彼らの、この人間による人間の生産についての考え方こそが、合理性に結びつけられる抑圧的システムないし階級社会に結びつけられる搾取システムにおいて、人間をその本質から疎外するものすべてから解放する必然性がある、という議論を形づくっているわけなのです。
 フーコーは、彼らの、完全な人間の回復(疎外からの解放)という、ありもしないファンタジーにとらわれていると批判するわけです。続けてフーコーは、フランクフルト学派の人々の歴史に対する考え方は、自分が彼らに失望した部分だったと述べています。」(p.130-132)


●アルチュセールとブルデューとの関係についてのメモ●

□ブルデューによるコメント
■ピエール・ブルデュー(著),加藤晴久(編)19901100『ピエール・ブルデュー―超領域の人間学』藤原書店

「(…)アルチュセールの功績は、マルクスをデカルトやカントのように普通の哲学者として扱ったこと、マルクスの非物神化を行ったこと、スターリン主義、思想的テロリズムのもとになった神秘主義的なマルクス観を打破したことにあります。
 一緒にやった共同ゼミナールは、彼が『資本論を読む』のグループをつくる一つのヒントになったのではないかと思います。アルチュセールの世代にとっては、いや私の世代にとっても、共同研究なるものは存在しなかったのです。(…)私は社会学で、トゥレーヌ式の、霊感に導かれたかのような社会学、あれも変る、これも変る、大いにけっこう式の社会学に対立していましたし、アルチュセールは歴史的必然性とか構造とかのセンスを持ち合わせていましたから。
 ただ、その後、構造主義的マルクス主義なるものがもてはやされるようになると、彼自身は決して人を攻撃したりすることはなく、彼の弟子たちが……いや、彼も一度、ある序文のなかで「いわゆる〈社会〉科学なるもの」という言い方をしたのですね。これはちょっと許せないと思いましたね。そうしたことで何度か議論したことを覚えています。結局、アルチュセールには親しみを持っているけれども、アルチュセール主義には批判的といってよいでしょうね。」(p.35)

□アルチュセール研究
■今村仁司19930810『アルチュセールの思想』講談社

「他方、ブルデューはどうかといえば、彼には『再生産』や『ディスタンクシオン』という書物がある。ブルデューは決して誰かの「影響」を受けて追随するひとではないが、彼の理論的関心はおどろくほどアルチュセールと重なる。彼がある時期からバシュラールの「認識論的切断」を問題にし始めたり、象徴的暴力論による再生産論を議論したり、象徴資本論による階級分析をおこなうなどといったことは、アルチュセールの理論的刺激なしには考えられない。人類学的フィールドで社会の再生産を研究してきたブルデューは、独自の構想をもっていて、例えばウエーバーのエートス論をハイビトゥス論に改造して独創的な理論構成と社会学的記述をおこなう。この方面では、アルチュセールにはない豊かな内容がブルデューにはあるのだから、われわれにとってはむしろ、アルチュセールとブルデューとの結合こそが生産的になるだろう。アルチュセールが「イデオロギー的主体の形成」を「国家装置」論でやったことを、フーコーは「訓練装置」の具体的な歴史記述によって、ブルデューは身体的なハビトゥスの場面への「信念」の刷り込み(これがブルデュー的な「主体の形成」論である)を微細に記述することによって、それぞれに固有の仕方で豊かに展開していった。(…)」(p.46)


●アルチュセールとグラムシの関係についてのメモ●

□アルチュセール研究
■今村仁司19930810『アルチュセールの思想』講談社

「(…)社会構成の再生産過程は、無数の「イデオロギー装置」によって支えられる。こうした問題意識は、よく知られているように、グラムシの「市民社会」論と「ヘゲモニー」論から強い影響を受けている。グラムシの言いたかったことも、「市民社会」の再生産は、特定の支配階級のイデオロギー的ヘゲモニーが市民社会のすみずみまで浸透することなしにはありえないというものであった。しかしアルチュセールの関心は、このグラムシ的ヘゲモニーが社会のなかでどのように効果を発揮するのかであり、この効果のメカニズムを概念にまで仕上げることにあった。ここでアルチュセールはグラムシから離れる。アルチュセールは問題の所在をグラムシから学んだが、その問題への接近はむしろ独自の構想による。」(p.42)

「なぜマルクスに対して批判的読み方をおこなわねばならないのか。その理由として若干の例を挙げておこう。マルクスは古典派を批判する場合に、古典派の経済学的諸カテゴリーが、「非歴史的」、「永遠的」、「固定的」、「抽象的」であるという批判を加えている。そうなると、マルクスの理論的立場は、「歴史的」、「非永遠的」、「具体的」等々の用語をもって特色づけられよう。こうした判断――歴史的か非歴史的か、固定的か運動家か――は、マルクスと古典派との差異、マルクスの理論的革新性をくもらせてしまう。この種の考え方は、マルクス自身においても『哲学の貧困』以来一貫して存在しているが、その後の解釈者たちにおいては更に拡大されてマルクス経済学と哲学の中で支配的な力をふるっている。このような考え方は、同時に、マルクスとヘーゲルとの関係、とりわけ弁証法の特質の問題と深くかかわっているけれども、それらの問題の適切な理解を不可能とする傾きがある。マルクス主義への敵対者についてはさておくとしても、マルクス主義の立場に立つ多くの論者、とくに「急進的(根源的)歴史主義」の特徴づけによってまとめられる思想家たち(例えば、ルカーチ、コルシュ、グラムシなど)は、この種の見解を徹底的におしすすめ、ひとつの重要な理論領野を切り拓いた。しかし、彼らの理論的研究とその成果は、その最深部においては重大なマルクスへの誤解をひそめている。アルチュセールは、この点で彼らと決定的に対立し、「急進的歴史主義」の根源を理論的にあばこうとする。」(p.74)

「マルクス=『資本論』において、《理論》と《歴史》とが問題となるとき、その理論とは経済の抽象的一般的理論であり、その歴史とは人間が生きる実在的・具体的歴史である、というのが一般的了解事項であろう。そして、マルクスにおける資本主義経済の抽象理論と実在的な資本主義経済の歴史との関係は、ヘーゲルにおける哲学と哲学史との関係に比定される、というのがシュミットの見解である。ところが、アルチュセールは、このような形式での《理論》と《歴史》との関係づけを否定した。アルチュセールによれば、この種の理論-歴史関係の問題は、第二インターの主要な思想家たちの経済主義的問題設定(抽象理論の歴史への適用という形での両者の関係づけ)に基づくか、あるいはグラムシ、ルカーチ、コルシュ等の歴史主義的問題設定(歴史と論理〈理論〉との歴史哲学的=実践哲学的統一)に基づいている。経済主義と歴史主義に共通の考え方は、理論という思考過程と歴史という人間によって生きられた―生きられる実在的過程とを同一平面で結合できるとすることである。一方の項に《理論》があり、他方の項に《生きられる歴史》がある、この両項をうまくつなぐ解釈方式を見つけ出すことがそれぞれの理論の課題となる。一方の理論は、経済学とその外捜法、他方の理論は形而上学的歴史哲学。
 アルチュセールが主張したことは、科学的認識過程(思考過程=理論)と実在的社会史的過程とを直接的に連関させることは、認識論的には不可能である、というのであった。(…)」(p.286-287)

■ジャック・ビデ1995→20050520「序文にかえて」(アルチュセール『再生産について』平凡社)

「アルチュセールがここでグラムシから自分の着想の一部を得ていることは知られている。グラムシは、「市民社会」――「政治的社会」すなわち、狭義の国家の行政諸機構と対置される――の名のもとで、私的であれ、公的であれ、それらを通じて、指導的な階級のヘゲモニー、彼らのイデオロギーの優位が実現される諸制度の総体を指し示す。しかし、グラムシは、世界観、知、文化、倫理といった広い意味を、このイデオロギーの概念に与え、市民社会という場では上昇階級、すなわちプロレタリアートによる漸進的闘争が行われ、ヘゲモニーの獲得と同一視された革命的プロセス自体が進行する、と考える。それゆえ、アルチュセールは、ブルジョアジーが自らの支配を保証するための手段である国家機構の諸要素として、諸制度の総体を示すことによって、この考えを転倒させる。」(p.14)


●アルチュセールとフーコーとの関連についてのメモ●

□アルチュセールのフーコーへの言及

■1967-1968「哲学についてのノート」(19990720『哲学・政治著作集Ⅱ』藤原書店)

「理論的生産関係(定義が必要である。しかし、以下の結合関係を含んでいなければならない。マルクスの「モデル」におけるのと同様、理論的生産諸力のなかに現れる諸要素が、交差したかたちで現れること。ただし、異なる構造的関係を結んで現れること。本質的な要素としては、科学的であり理論的であるもの/イデオロギー的であり理論的であるもの、という対である。つまり哲学-効果である。)
 注意。理論的生産関係は、フーコーがエピステーメーという逸脱した用語で行っている空しい探求ともかかわる。しかし我々は原理上、彼よりはるかに進んでいる。」(p.914)

■1995→2005『再生産について』

「(…)封建制、およびその教会を筆頭とする国家の諸装置により行われた、こうした「イデオロギー的」階級闘争の信じがたい暴力のことを考えていただきたい。こうした階級闘争は、禁止や異端放棄の誓いだけでなく、拷問や火刑に満ち満ちている。ガリレイとジョルダノ・ブルーノ、この二人の名前しか挙げないが、それ以外にも宗教戦争(国家の宗教的イデオロギー装置の内部で、異端と正統のあいだで争われた激しい階級闘争)で虐殺された無数の人びと、また刑罰や〈大監禁〉に見舞われるよう運命づけられた多くの「悪魔憑き」、「魔女」、そして「狂人」たちがおり、これについてミシェル・フーコーは、フランスにおいて初めてひとつの考えを公にする勇気をもった(97)。(…)」(p.227)

「(97)Histoire de la Folie, Plon [『狂気の歴史』、田村俶訳、新潮社、一九七五年]。われわれの資本主義的な社会構成体において、国家の「医療的」イデオロギー装置と呼ぶ権利があると考えられるものについて、われわれはこれまで沈黙してきた。この装置は、それだけで一個の研究全体に値するものであろうが、われらが〈医学界の権威〉たちによって無視されたフーコーのこの注目すべき著作(残念ながら、われらが〈権威〉たちは、もはやこうした著作を燃やしてしまうことができないのだ)は、この装置にかんする重要な諸要素の系譜学を、われわれに与えてくれる。じっさい、ピネルの〈ヒューマニズム〉やドレーの薬理学によって緩和されたとはいえ、依然として一個の抑圧の歴史である〈狂気〉の歴史は続いている。そしてこの歴史は、多くの医師たちが自分たちの便宜のために「狂気」と呼ぶものを、きわめて大幅にはみ出している。」(p.420)

□フーコーのアルチュセールへの言及
(とりあえずミシェル・フーコー『思考集成』からアルチュセールについて直接的に言及している部分を抜書き)

■37「マドレーヌ・シャンプサルとの対談」

「――これらの饒舌にして、理論的且つ実践的な試みは、人間を救うこと、人間のうちに人間を再発見することなどなどを目的とし、たとえばマルクスとテイヤール・ド・シャルダンを折り合わせようとする(こうしたヒューマニズムに充ち溢れた試みが知的作業の総体をもう何年も麻痺させているのです)。私達の課題はヒューマニズムから完全に自由になることで、その意味で私達の仕事は政治的なのです。なにしろ、東西の諸々も政治体制が、その出来の悪い商品を、ヒューマニズムのパヴィリオンに持ち込んで通過させようとするのですから……こうした迷妄の数々を告発しなくてはなりません、たとえば現在、共産党内部でアルチュセールとその勇敢な仲間が「シャルダン-マルクス主義」と戦っているように……」(Ⅱ,p.332-333)

■48「歴史の書き方について」

「――あなたがおっしゃる歴史研究の新しさは正確にはどこにあるのでしょうか。

――これらの研究の特徴をいささか図式的にですが、次のように整理することができるでしょう。
(1)こうした歴史家たちは時代区分という非常にむずかしい問題に取り組んでいます。(…)
(2)それぞれの時代区分は、歴史におけるある一定の水準の出来事を切り取っているわけですが、逆に、出来事をなす層のそれぞれが固有の時代区分を必要としてもいる。(…)
(3)人間諸科学と歴史学の昔ながらの伝統的な対立(前者は共時的なものと非-進化的なものを研究し、後者は絶えざる大変動の次元を分析する)がなくなりました。(…)
(4)歴史学的方法や定義するものと考えられていた普遍的な因果関係よりも、ずっと多数の関係のタイプや結びつきの様態が、歴史分析に導入されています。
 こうして、たぶんはじめて、記号、痕跡、制度、実践、作品といったかたちで時間の流れのなかに堆積されてきた素材の総体が対象として分析されうることになったわけです。これらの変化には、二つのはっきりとした重要な動きが見て取れます――
・歴史家たちの側では、ブローデル、ケンブリッジ学派、ロシア学派等々の仕事、
・他方では、『「資本論」を読む』の冒頭でアルチュセールが展開した歴史という概念の実に見事な批判と分析、です。

――あなたはご自分の仕事とアルチュセールの仕事との間には直接的な親近性があるとお考えなのですね?

――かつてかれの生徒であり、かれに多くを負っているので、たぶんわたしはかれが非難するであろうような試みまでもかれの影響だと言いがちです。だからかれの側でどう考えているかについてはお答えできません。いずれにしても言えるのは、アルチュセールの著作をひもといて下さい、ということですね。
 とはいえ、アルチュセールとわたしのあいだには、はっきりとしたちがいが一つあります。かれはマルクスについて認識論的切断という言葉を用いるのですが、わたしの方は逆にマルクスは認識論的切断を代表してはいないとはっきりと言っています。」(Ⅱ,p.432-433)

■54「ミシェル・フーコーとのインタヴュー」

「――まずはじめに、レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、バルト、そしてあなた自身といった研究者の間には、なにが共通しているのでしょうか?

――構造主義を攻撃している人々に尋ねると、彼らはわれわれ全てのうちに或る共通の特徴を見ており、それが彼らの不信と怒りを招いているような印象を受けます。それに対して、レヴィ=ストロースやラカン、アルチュセール、或いは私自身に聞いてご覧になれば、われわれはそれぞれ、自分と他の三人の間には共通なものはなにもない、またこれら三人の間にも何も共通なものはない、と明言するでしょう。(…)この人間主体、意識、実存の排除が、現代の研究を、おおまかに、否定的な仕方で特徴づけているように思われます。肯定的には、構造主義はなによりも無意識を探求する、といっておきましょう。現在ひとが解明しようとしているのは、言語や文学作品、認識の無意識的構造なのです。第二に、本質的に研究の対象となっているのは、形式や体系であり、つまり言語やイデオロギー(アルチュセールの分析のように)、社会(レヴィ=ストロースにおけるように)、或いは異なった認識の領野――これが私自身取り組んだことでした―― に属する数多くの要素の間に存在する、論理的な相関関係を浮き出させるべく努力がなされているといってよかろうと思います。おおまかに言えば、構造主義とは、それが生じえたとこではどこでもなされうる論理的構造の研究である、と記述できるでしょう。」(Ⅲ,p.41-42)

「(…)サルトルやガロディといった人が、さまざまな知的潮流間の、こうした平和共存のために働いているのは明らかですし、彼らはまさしく、ヒューマニズムを放棄するべきではないし、テイヤール・ド・シャルダンも放棄すべきではない、また実存主義もいくらかは正しいし、教条主義的ではなく、具体的で世界に開かれてさえいれば構造主義もそうだ、というふうに言っているのです。共存を前面に押し出したこうした流れの対極に、「右寄りの人々」が教条主義的、新スターリン主義的で中国的と呼ぶ流れがあります。フランス共産党内部でのこうした傾向は、一貫した、イデオロギー的に受け入れうる、マルクスの教義と合致した政治、科学、哲学のマルクス主義的理論を再び確立しようとする試みです。現在、共産党内の左翼に属する共産主義的知識人らによって行われているのはこの試みであり、彼らは多かれ少なかれアルチュセールのまわりに集結しています。この構造主義的なグループは、左寄りなのです。(…)」(Ⅲ,p.47- 48)

■55「フーコー、サルトルに答える」

「――構造主義は、今日どのように定義なさいますか?

――「構造主義者」という項目の下に分類される人たち、レヴィ=ストロースでもラカンでもアルチュセールでも、また言語学者など、誰でもいいのですが、この人たちに尋ねてごらんになれば、彼らは、自分たちには互いに共通なものなど全くない、或いはほんのわずかしかない、と答えるでしょう。構造主義というのは、他の人のために、そうでない人のために存在するカテゴリーなのです。この人とこの人、そしてこの人は構造主義者だ、などと言えるのは、外部からに限ります。構造主義者の何たるかは、サルトルに聞くべきです、というのも彼は、構造主義者(レヴィ=ストロース、アルチュセール、デュメジル、ラカンそして私)が一貫したグループ、一種の統一性を構成するグループをなすと考えているからですが、この統一性というのが、いいですか、われわれには、見えてこないのです。」(Ⅲ,p.57-58)

■85「ミシェル・フーコーとの対談」

「S.P.ルアネ――やはりマルクス主義に関して、もう一つ別の質問をさせていただきたいと思います。『言葉と物』のなかで「経験的=超越論的二重体」について語りつつ、あなたは、現象学とマルクス主義とが、ポジティヴィスムあるいは終末論のいずれかへと必然的に導く振り子運動の単なる異本に過ぎない、とおっしゃいました。一方、アルチュセールの思考は、一般的に言って諸々の構造主義の側に、そしてしばしばあなたご自身の仕事と同じ側に分類されます。あなたは、アルチュセール的マルクス主義について、それがポジティヴィスムと終末論によって限界づけられた知の布置を乗り越えているとお考えになりますか。あるいはそれとも、アルチュセールの思考もやはり、そうした布置の内部に位置づけられると考えていらっしゃるのでしょうか。

M.フーコー――第一の答えを選びたいと思います。この問題に関して、私は自己批判を行わなければなりません。『言葉と物』のなかでマルクス主義について語った際、私は、自分が何を言おうとしているのかということを十分に明確にしませんでした。この本のなかで私は、自分の歴史的分析が、ある特定の期間、すなわち、おおまかに言って一六五〇年から一八五〇年まで、もしくはせいぜい十九世紀末に至るまでの期間についてのものであり、また、言語、生命、労働に関する諸科学によって構成される特定の領域についてのものであるということを、はっきりと示したつもりでした。この本のなかでマルクス主義について語ったとき、私は、このテーマに過大な重要性が付与されていることは知っていたわけですから、そこで問題にしているのがせいぜいヨーロッパにおいて十九世紀の初めまで機能したものとしてのマルクス主義である、ということを、断っておくべきでした。また、この点が私の失敗であったのですが、問題になっているのが、例えばエンゲルスのような、マルクスを注釈している幾人かの人々のうちに見いだされるものとしての特定のマルクス主義である、ということも、明確に示しませんでした。そして、そのようなものとしてのマルクス主義はまた、マルクス自身のうちにも見いだすことができます。私は一種のマルクス主義的哲学のことを考えているのですが、私の考えではこれは、マルクスの歴史的社会的分析とその革命的実践とから派生したイデオロギー的付随物であり、マルクス主義の中心的思想ではありません。マルクス主義の核心を、資本主義社会の分析とそうした社会における革命的行動の図式として考えるならば、私はマルクス主義について語ったのではなく、一種のマルクス主義的ヒューマニズムについて語ったということになります。イデオロギー的付随物、哲学的バックグラウンド・ミュージックとしての。
J.G.メルキオール――「マルクス主義的ヒューマニズム」という表現をお使いになることで、あなたの批判は自動的にひとつの理論的領域へと向けられることになり、それによってアルチュセールは、あなたの批判を免れることになります。
M.フーコー――はい。私の批判は、例えばガロディのような著作家に対しては依然として有効であると思われますが、アルチュセールのような知識人に対しては適用されません。」(Ⅳ,p.55-57)

■103「歴史への回帰」

「現象学者や実存主義者によってとなえられた異議は、一般に、ある種のマルクス主義者たちがそのまま彼らに向けたものにほかなりません。もっともここでいうマルクス主義者は、いわば大ざっぱで短絡的なマルクス主義者、いいかえれば自分たちの準拠する理論としてマルクス主義そのものをとりあげるのではなく、まさに現代のブルジョワ・イデオロギーによりかかっている連中というくらいの意味なのですが。逆に、より真剣なマルクス主義、いいかえれば真に革命的なマルクス主義の側からも異議がとなえられています。彼らが申し立てる異議は、次のような事実にもとづいています。すなわち、学生や知識人のなかで起こった、あるいは今なお起こりつつある革命運動は、構造主義運動にほとんどなにも負っていないということ。この原則に関して例外というべきケースは、おそらくひとつしかありません。アルチュセールの場合です。マルクスのテキストを読み、これを分析するにあたって、アルチュセールは構造主義的方法とみなしうるものをいくつか適用したマルクス主義者であり、彼の分析はヨーロッパにおけるマルクス主義の最近の歴史のなかで、きわめて大きな重要性をもっていたといわなければなりません。その重要性は次にような事実と結びついています。つまりアルチュセールは伝統的なマルクス解釈を、あらゆるヒューマニズム、あらゆるヘーゲル主義、さらには重くのしかかっていたあらゆる現象学から解放し、そのかぎりにおいて彼は、大学人のそれではないマルクスの読み方、純粋に政治的な読み方をふたたび可能にしたのです。しかしながら、最初はどんなに重要だったにせよ、アルチュセールの分析は革命運動自体によってたちまち乗り超えられてしまいました。その革命運動は、周知のように学生層・知識人層のなかで起こった運動でありながら、本質的に反理論的な運動でした。そのうえ、最近世界中で起こった革命運動の多くは、レーニンよりローザ・ルクセンブルクに近いものでした。いいかえれば、これらの運動は理論的分析より大衆の自発性により多くの信をおくものだったのです。」(Ⅳ,p.205-206)

■119「アルケオロジーからディナスティックへ」

「――わたしは、ヨーロッパのある種のマルクス主義者たちが歴史分析を実践する場合、その彼らのやり方というものにおそろしく腹をたてています。また、彼らがマルクスを参照する場合のやり方にも、ひどく腹をたてているのです。
 何が癇にさわるかといえば、その第一のものは、彼らがマルクスを参照する場合のやり方ということになりましょう。わたしは最近、「パンセ」誌に掲載されたある論文を読みました。決して駄目な論文ではない。むしろ大そう美しい一篇の論文なのです。それは、実はわたし自身とも面識のある青年によって書かれたもので、アルチュセールの協力者としてよく知られているバリバールの手になるもので、マルクス的概念による国家とその変換をめぐる目ざましい研究になっています。」(Ⅳ,p.400-401)

■139「真理と裁判形態」

「(…)誰かが、人間の具体的本質は労働だ、と言いました。実を言えば、このテーゼは何人もの人が口にしました。それはヘーゲルにも、ポスト・ヘーゲル派にも、またマルクスにも見られます。アルチュセールなら、ある時期のマルクスと言うでしょうが。私は誰が言ったかということに関心があるのではなく、言表の機能に関心をもっていますから、誰がいつ言ったかといったことには重きを置きません。(…)」(Ⅴ,p.187)

■160「精神病院、性、監獄」

「(…)私がサン・パウロ大学の講座で説明しようとしたのは、ナチズムとスターリニズムの終焉以来、資本主義および社会主義社会の内部での権力機能が問題になってきたということです。ただし私が権力の機能と言うときには、単に国家機構、支配階級、覇権的な特権階級といった問題だけを指すんではなく、むしろ末端付近の微細なところで働いている一連のミクロ権力、つまり個人個人の日常行為はおろか身体そのものにまで及んでいく権力を指しているんです。我々は権力の策略の網にからめ捕られて生活している。私が言うのはそういう意味での権力です。ナチズムとスターリニズムの終焉以降、誰にとってもそれが問題になっている。今日きっての大問題です。
 付言しておけば、この問題に関しては従来二つの考え方、解き方があって、それはそれなりに面白いんですが、そのいずれも私の見解とは全くことなっています。一つは正統的とも伝統的ともいえるマルクス主義的見解で、これらの問題はすべて昔ながらの国家機構の問題に含めて考察するといったやり方。「国家のイデオロギー装置」という概念を打ち出したアルチュセールの試みがこれに当たります。二つ目のものは構造主義、言語学、記号学といった流派で、この問題を全て「意味するもの(シニフィアン)」の次元で公式化して片付けるやり方です。第二次大戦以後に生じた具体的な問題全体をあっさり単純化してしまうやり方として、このように片やマルクス主義的な、片やアカデミックな二つの方法があるわけです。」(Ⅴ,p.399)

■219「フーコーによる序文」

「その結果ひとつの逆説が生まれる。カンギレムの作品は飾り気がなく、科学史のある特定の領域にあえて注意を集中させている。いずれにせよ科学史などはおもしろおかしい学問としては通用しないのだが、そのカンギレム自身がおよそ参加しようなどとは思っていなかった議論に顔を出す破目になったのである。だがカンギレムを消し去ったら、アルチュセールもアルチュセール主義もよく理解できないし、フランスのマルクス主義における一連の議論もすべて理解できなくなってしまうだろう。またブルデュー、カステル、パスロンといった社会学者たちの特殊性も、社会学の分野で彼らの影響を際だたせているのがなんなのかもわからなくなるだろう。精神分析家とりわけラカン主義者たちの理論的研究の一側面もまったく見逃してしまうことになる。そればかりではない。一九六八年の運動の前後の思想的論争において、多かれ少なかれカンギレムの教育を受けた者を位置づけることは簡単なことなのだ。」(Ⅶ,p.4)

■234「哲学の舞台」

「このような〈主体〉の非根底的・非根源的性格こそ、構造主義者と呼ばれた人々に共通のものだった。それが先行世代にとって、極めて不愉快なことだったわけですが、ラカンの精神分析にせよ、レヴィ=ストロースの構造主義にせよ、バルトの分析、アルチュセールの仕事、あるいは私の仕事にせよ、私達はすべてこの一点については意見が一致していた。すなわち、デカルト的な意味での〈主体〉、そこからすべてが生まれてくるような根源的な点としての〈主体〉から出発してはならない、ということでした。そして第三には、〈主体の解体〉を通じて、ニーチェへと導かれたことです。」(Ⅶ,p.178-179)

■281「ミシェル・フーコーとの対話」

「――共産党におけるこの短い経験が終了した後は、けっして政治活動には参加されなかったのですか。

――参加しませんでした。私は学生時代を終えました。この時期わたしは、フランス共産党で活動していたルイ・アルチュセールと頻繁につきあっていました。そもそも、入党したのは、少しは彼の影響からでした。そして、離党したとき、彼からはなんら破門制裁(アナテマ)はありませんでした。離党したからといって、彼は私との関係を絶とうとはしなかったのです。

――アルチュセールとあなたとの絆、あるいは少なくともお二人の一定の知的類縁関係は、一般に知られているよりも遠い起源をもっていますね。私が言いたいのは、とりわけ、一九六〇年代フランスで理論的議論の舞台を支配した構造主義をめぐる論争において、あなたの名が何度もアルチュセールの名に結びつけられていたという事実ですが。アルチュセールはマルクス主義者で、あなたは違います。レヴィ=ストロースその他もそうではありません。批評は、あなたがた全員を多かれ少なかれ「構造主義者」というタームのもとにまとめました。それをどうやって説明されますか。そしてあなたがたの探求に共通な下地、そういったものがあるのならばですが、それは何だったのでしょうか。

――ここ十五年間、「構造主義者」と呼ばれてきたけれども、もちろんレヴィ=ストロースを除いて、構造主義者ではなかった人びと、すなわちアルチュセール、ラカン、私、これらの人びとのあいだに一つの共通点があります。実際のところ、この収斂点は何だったのか。それは、主体の問いを別の仕方で問いなおすこと、フランス哲学がデカルト以来けっして放棄することがなく、現象学によって強化されたあの基本的公準から自由になることです。精神分析から出発して、ラカンは、無意識の理論は(デカルト的意味ばかりではなく主体という語の現象学的意味においても)主体の理論とは両立不可能であることを明らかにしました。
(…)アルチュセールは、主体の哲学を問いなおしましたが、それはフランスのマルクス主義が現象学と人間主義によっていささか浸透されていたからであって、さらに疎外の理論が人間的主体をして、マルクスの政治的-経済的諸分析を哲学的な語彙に翻訳することを可能にする基盤となしていたからなのです。アルチュセールの作業は、マルクスの諸分析をやりなおし、それら分析のなかに、たとえばロジェ・ガロディのような一部マルクス主義者の理論的立場が依拠する、あの人間的本性、主体、疎外された人間といった考えが現れているかどうかを問うことに存していました。アルチュセールの答えが完全にネガティヴであったことはよく知られたことです。」(Ⅷ,p.208-209)

「――けれども、奇妙なことに、ルイ・アルチュセールもそうした破門譴責の対象となりましたね。彼の探求は十全にマルクス主義と自己同一化し、マルクス主義のもっとも忠実な解釈たろうとしていたというのに。というわけで、アルチュセールもまた、構造主義者のうちに位置づけられました。では、『資本論を読む』のようなマルクス主義の作品と、あなたの『言葉と物』といった書物、これらは六〇年代中頃に刊行され、とても異なった方向をもっていたわけですが、これらが反構造主義の同じ論争の標的になったということを、どうやって説明されるのでしょうか。

――アルチュセールについては、正確に申し上げることはできません。(…)」(Ⅷ,p.226-227)

■336「スティーヴン・リンギスによるミシェル・フーコーへのインタヴュー」

「――パリでのあなたの学業について少しお話し頂けますか。今日あなたがなさっているような仕事について、誰かが特定の影響を及ぼしているのでしょうか。あるいは、個人的な理由から、あなたが感謝の念を抱かれている教授はおられますか。

――いいえ。私はアルチュセールの生徒でした。そして、当時、フランスにおける主要な哲学的趨勢はマルクス主義、ヘーゲル主義と現象学だったのです。むろん、私はそれらを学びましたが、初めて個人的な仕事をやり遂げようという欲望を抱いたのはニーチェの読解を通じてでした。」(Ⅸ,p.430)


●ドゥルーズのアルチュセールへの言及●

■ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ1972→19860510『アンチ・オイディプス』河出書房新社

「コード化と公理系との相異
何故、資本主義は、たんにひとつのコードをいまひとつの別のコードに代えているだけなのだといってはいけないのか。あるいは、資本主義は、たんに新しい型のコード化を実現しているだけなのだといってはいけないのか。それは、そういい切ることができない二つの理由があるからである。そのひとつは、いわば道徳的にいって、いまひとつは、むしろ論理的にいって不可能であるという理由からである。(…)間接的、質的、限定的といった、コードの関係にかかわる諸性格はすべて、コードが決して経済的なものではなく、また経済的なものではありえないということを余すところなく示している。むしろ、コードは、次のような外見上の客観的運動を表現しているのである。つまり、あたかも、登記の土台や動因をなす超経済的な決定機関〔審級〕から流出してくるものででもあるかのように、種々の経済力と生産的接続とがこの超経済的な決定機関に帰属しているようにみえる客観的運動を表現しているのである。このことは、アルチュセールとバリバールとが極めて明確に指摘していることである。かれらは、例えば封建制の場合において、いかにして法律的政治的諸関係が支配的であると規定されるのかということを指摘している。何故なら、ここでは剰余価値の形態としての剰余労働は、労働の流れとは質的にも時間的にも区別される流れを構成するものであり、したがって、非経済的な諸因子を含む質的な複合物そのものの中に入るべきものであるからである(98)。あるいはまた、かれらは、いわゆる原始社会においては、いかにして、縁組と出自との土着的諸関係が支配的であると規定されるのかということを指摘している。この社会においては、種々の経済力と種々の経済的な流れとが、大地の充実身体の上に登記され、この身体に帰属しているからである。アルチュセールとバリバールが指摘していることは、こうした点である。要するに、反生産の決定機関〔審級〕としての充実身体が経済の上に折り重なり、経済を自分のものにしてしまうところにしか、コードは存在しないのだ。(…)したがって、コードの関係は、当該社会が存在し存続する条件として、ひとつの共同の評定評価の体系といったものを前提としている。つまり、ひとまとまりをなしている知覚器官を((あるいは、もっと正確にいえば信仰器官を、といってもいい))前提としている。」(p.296-297)

「(98) Cf. Marx, Le Capital, Ⅲ, 6, ch. 24, Pleiade Ⅱ, p.1400.
「このような条件のもとにおいて、名目上の土地所有者のための労働をかれらに無理やりに実行させるためには、いかなる性質のものであれ、経済外的な理由がなければならない。」大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』廿五巻b、一〇一四頁。」(p.503)

「では、何故に劇場であるのか。なんと奇妙であることか、この劇場の無意識は。この紙粘土の無意識は。劇場が生産のモデルとして理解されることになるとは。アルチュセールにおいてさえ、ひとは次のような操作に立ちあうことになる。すなわち、まず、「機械」あるいは「機械機構」としての社会的生産が発見される。この社会的生産は、客観的表象(〔前に立てるという意味での〕Vorstellung〔表象〕)の世界には還元されないものである。ところが、すぐさま、機械が構造に還元される。生産が構造論的劇場的表象(〔そこに置くという意味での〕Darstellung〔上演〕)に一体化される(26)、というわけである。」(p.363)

「(26) Louis Althusser, Lire le Capital, Ⅱ,pp.170-177.(〈不在-現在〉としての構造について)。」(p.508)

■ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ1980→19940930『アンチ・オイディプス』河出書房新社

🇫🇷Arthur Rimbaud

2019-09-14 01:19:57 | Nietzsche
ADIEU


L’automne déjà ! — Mais pourquoi regretter un éternel soleil, si nous sommes engagés à la découverte de la clarté divine, — loin des gens qui meurent sur les saisons.

L’automne. Notre barque élevée dans les brumes immobiles tourne vers le port de la misère, la cité énorme au ciel taché de feu et de boue. Ah ! les haillons pourris, le pain trempé de pluie, l’ivresse, les mille amours qui m’ont crucifié ! Elle ne finira donc point cette goule reine de millions d’âmes et de corps morts et qui seront jugés ! Je me revois la peau rongée par la boue et la peste, des vers plein les cheveux et les aisselles et encore de plus gros vers dans le cœur, étendu parmi les inconnus sans âge, sans sentiment… J’aurais pu y mourir… L’affreuse évocation ! J’exècre la misère.

Et je redoute l’hiver parce que c’est la saison du comfort !

— Quelquefois je vois au ciel des plages sans fin couvertes de blanches nations en joie. Un grand vaisseau d’or, au-dessus de moi, agite ses pavillons multicolores sous les brises du matin. J’ai créé toutes les fêtes, tous les triomphes, tous les drames. J’ai essayé d’inventer de nouvelles fleurs, de nouveaux astres, de nouvelles chairs, de nouvelles langues. J’ai cru acquérir des pouvoirs surnaturels. Eh bien ! je dois enterrer mon imagination et mes souvenirs ! Une belle gloire d’artiste et de conteur emportée !

Moi ! moi qui me suis dit mage ou ange, dispensé de toute morale, je suis rendu au sol, avec un devoir à chercher, et la réalité rugueuse à étreindre ! Paysan !

Suis-je trompé ? la charité serait-elle sœur de la mort, pour moi ?

Enfin, je demanderai pardon pour m’être nourri de mensonge. Et allons.

Mais pas une main amie ! et où puisser le secours ?

Oui l’heure nouvelle est au moins très-sévère.

Car je puis dire que la victoire m’est acquise : les grincements de dents, les sifflements de feu, les soupirs empestés se modèrent. Tous les souvenirs immondes s’effacent. Mes derniers regrets détalent, — des jalousies pour les mendiants, les brigands, les amis de la mort, les arriérés de toutes sortes. — Damnés, si je me vengeais !

Il faut être absolument moderne.

Point de cantiques : tenir le pas gagné. Dure nuit ! le sang séché fume sur ma face, et je n’ai rien derrière moi, que cet horrible arbrisseau !… Le combat spirituel est aussi brutal que la bataille d’hommes ; mais la vision de la justice est le plaisir de Dieu seul.

Cependant c’est la veille. Recevons tous les influx de vigueur et de tendresse réelle. Et à l’aurore, armés d’une ardente patience, nous entrerons aux splendides villes.

Que parlais-je de main amie ! Un bel avantage, c’est que je puis rire des vieilles amours mensongères, et frapper de honte ces couples menteurs, — j’ai vu l’enfer des femmes là-bas ; — et il me sera loisible de posséder la vérité dans une âme et un corps.


It would be difficult to overestimate the influence of Arthur Rimbaud’s poetry on subsequent practitioners of the genre. His impact on the Surrealist movement has been widely acknowledged, and a host of poets, from André Breton to André Freynaud, have recognized their indebtedness to Rimbaud’s vision and technique. He was the enfant terrible of French poetry in the second half of the nineteenth century and a major figure in symbolism.

Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud was born in Charleville in northeastern France on 20 October 1854, the second son of an army captain, Frédéric Rimbaud, and Marie-Cathérine-Vitalie Rimbaud, née Cuif. He had an older brother, Frédéric, born in 1853, and two younger sisters: Vitalie, born in 1858, and Isabelle, born in 1860. The father was absent during most of Rimbaud’s childhood. Rimbaud’s difficult relationship with his authoritarian mother is reflected in many of his early poems, such as “Les Poètes de sept ans” (The Seven-Year-Old Poets, 1871). Rimbaud’s mother was a devout Christian, and Rimbaud associated her with many of the values that he rejected: conventional religious belief and practice, the principles of hard work and scholarly endeavor, patriotism, and social snobbery.

In 1870-1871 Rimbaud ran away from home three times. The outbreak of the Franco-Prussian War in July 1870 led to the closing of his school, the Collège de Charleville, ending Rimbaud’s formal education. In August he went to Paris but was arrested at the train station for traveling without a ticket and was briefly imprisoned. He spent several months wandering in France and Belgium before his mother had him brought home by the police. In February 1871 he ran away again to join the insurgents in the Paris Commune; he returned home three weeks later, just before the Commune was brutally suppressed by the army. During this time he was developing his own poetic style and elaborating his theory of voyance, a visionary program in which the poetic process becomes the vehicle for exploration of other realities. This theory is expressed in his much-quoted letters of 13 May 1871 to his friend and tutor, Georges Izambard, and of 15 May 1871 to Paul Demeny. Rimbaud still felt drawn to Paris, where he might encounter the leading poets of the day—Théodore de Banville, Charles Cros, and Paul Verlaine. His letter to Verlaine in September 1871, which included samples of his poetry, elicited the reply, “Venez, chère grande âme, on vous appelle, on vous attend” (Come, great and dear soul, we are calling out to you, we are awaiting you). Rimbaud arrived in Paris in September and moved in with Verlaine and Verlaine’s wife, Mathilde Mauté. A homosexual relationship developed between Rimbaud and Verlaine, causing Verlaine’s marriage to become increasingly unstable.


Les premiers romantiques ont été voyants sans trop bien s’en rendre compte : la culture de leurs âmes s’est commencée aux accidents : locomotives abandonnées, mais brûlantes, que prennent quelque temps les rails. — Lamartine est quelquefois voyant, mais étranglé par la forme vieille. — Hugo, trop cabochard, a bien du vu dans les derniers volumes : Les Misérables sont un vrai poème. J’ai Les Châtiments sous la main ; Stella donne à peu près la mesure de la vue de Hugo. Trop de Belmontet et de Lamennais, de Jéhovahs et de colonnes, vieilles énormités crevées.


La première étude de l’homme qui veut être poète est sa propre connaissance, entière ; il cherche son âme, il l’inspecte, il la tente, l’apprend. Dès qu’il la sait, il doit la cultiver ; cela semble simple : en tout cerveau s’accomplit un développement naturel ; tant d’égoïstes se proclament auteurs ; il en est bien d’autres qui s’attribuent leur progrès intellectuel ! — Mais il s’agit de faire l’âme monstrueuse : à l’instar des comprachicos, quoi ! Imaginez un homme s’implantant et se cultivant des verrues sur le visage.

Je dis qu’il faut être voyant, se faire voyant.

Le Poète se fait voyant par un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens. Toutes les formes d’amour, de souffrance, de folie ; il cherche lui-même, il épuise en lui tous les poisons, pour n’en garder que les quintessences. Ineffable torture où il a besoin de toute la foi, de toute la force surhumaine, où il devient entre tous le grand malade, le grand criminel, le grand maudit, — et le suprême Savant — Car il arrive à l’inconnu ! Puisqu’il a cultivé son âme, déjà riche, plus qu’aucun ! Il arrive à l’inconnu, et quand, affolé, il finirait par perdre l’intelligence de ses visions, il les a vues ! Qu’il crève dans son bondissement par les choses inouïes et innombrables : viendront d’autres horribles travailleurs ; ils commenceront par les horizons où l’autre s’est affaissé !



MAUVAIS SANG


J’ai de mes ancêtres gaulois l’œil bleu blanc, la cervelle étroite, et la maladresse dans la lutte. Je trouve mon habillement aussi barbare que le leur. Mais je ne beurre pas ma chevelure.

Les Gaulois étaient les écorcheurs de bêtes, les brûleurs d’herbes les plus ineptes de leur temps.

D’eux, j’ai : l’idolâtrie et l’amour du sacrilège ; — oh ! tous les vices, colère, luxure, — magnifique, la luxure ; — surtout mensonge et paresse.

J’ai horreur de tous les métiers. Maîtres et ouvriers, tous paysans, ignobles. La main à plume vaut la main à charrue. — Quel siècle à mains ! — Je n’aurai jamais ma main. Après, la domesticité même trop loin. L’honnêteté de la mendicité me navre. Les criminels dégoûtent comme des châtrés : moi, je suis intact, et ça m’est égal.

Mais ! qui a fait ma langue perfide tellement, qu’elle ait guidé et sauvegardé jusqu’ici ma paresse ? Sans me servir pour vivre même de mon corps, et plus oisif que le crapaud, j’ai vécu partout. Pas une famille d’Europe que je ne connaisse. — J’entends des familles comme la mienne, qui tiennent tout de la déclaration des Droits de l’Homme. — J’ai connu chaque fils de famille !

Si j’avais des antécédents à un point quelconque de l’histoire de France !

Mais non, rien.

Il m’est bien évident que j’ai toujours été race inférieure. Je ne puis comprendre la révolte. Ma race ne se souleva jamais que pour piller : tels les loups à la bête qu’ils n’ont pas tuée.

Je me rappelle l’histoire de la France fille aînée de l’Église. J’aurais fait, manant, le voyage de terre sainte ; j’ai dans la tête des routes dans les plaines souabes, des vues de Byzance, des remparts de Solyme ; le culte de Marie, l’attendrissement sur le crucifié s’éveillent en moi parmi mille féeries profanes. — Je suis assis, lépreux, sur les pots cassés et les orties, au pied d’un mur rongé par le soleil. — Plus tard, reître, j’aurais bivaqué sous les nuits d’Allemagne.

Ah ! encore : je danse le sabbat dans une rouge clairière, avec des vieilles et des enfants.

Je ne me souviens pas plus loin que cette terre-ci et le christianisme. Je n’en finirais pas de me revoir dans ce passé. Mais toujours seul ; sans famille ; même, quelle langue parlais-je ? Je ne me vois jamais dans les conseils du Christ ; ni dans les conseils des Seigneurs, — représentants du Christ.

Qu’étais-je au siècle dernier : je ne me retrouve qu’aujourd’hui. Plus de vagabonds, plus de guerres vagues. La race inférieure a tout couvert — le peuple, comme on dit, la raison ; la nation et la science.

Oh ! la science ! On a tout repris. Pour le corps et pour l’âme, — le viatique, — on a la médecine et la philosophie, — les remèdes de bonnes femmes et les chansons populaires arrangés. Et les divertissements des princes et les jeux qu’ils interdisaient ! Géographie, cosmographie, mécanique, chimie !…

La science, la nouvelle noblesse ! Le progrès. Le monde marche ! Pourquoi ne tournerait-il pas ?

C’est la vision des nombres. Nous allons à l’Esprit. C’est très-certain, c’est oracle, ce que je dis. Je comprends, et ne sachant m’expliquer sans paroles païennes, je voudrais me taire.

Le sang païen revient ! L’Esprit est proche, pourquoi Christ ne m’aide-t-il pas, en donnant à mon âme noblesse et liberté. Hélas ! l’Évangile a passé ! l’Évangile ! l’Évangile.

J’attends Dieu avec gourmandise. Je suis de race inférieure de toute éternité.

Me voici sur la plage armoricaine. Que les villes s’allument dans le soir. Ma journée est faite ; je quitte l’Europe. L’air marin brûlera mes poumons ; les climats perdus me tanneront. Nager, broyer l’herbe, chasser, fumer surtout ; boire des liqueurs fortes comme du métal bouillant, — comme faisaient ces chers ancêtres autour des feux.

Je reviendrai, avec des membres de fer, la peau sombre, l’œil furieux : sur mon masque, on me jugera d’une race forte. J’aurai de l’or : je serai oisif et brutal. Les femmes soignent ces féroces infirmes retour des pays chauds. Je serai mêlé aux affaires politiques. Sauvé.

Maintenant je suis maudit, j’ai horreur de la patrie. Le meilleur, c’est un sommeil bien ivre, sur la grève.

On ne part pas. — Reprenons les chemins d’ici, chargé de mon vice, le vice qui a poussé ses racines de souffrance à mon côté, dès l’âge de raison — qui monte au ciel, me bat, me renverse, me traîne.

La dernière innocence et la dernière timidité. C’est dit. Ne pas porter au monde mes dégoûts et mes trahisons.

Allons ! La marche, le fardeau, le désert, l’ennui et la colère.

À qui me louer ? Quelle bête faut-il adorer ? Quelle sainte image attaque-t-on ? Quels cœurs briserai-je ? Quel mensonge dois-je tenir ? — Dans quel sang marcher ?

Plutôt, se garder de la justice. — La vie dure, l’abrutissement simple, — soulever, le poing desséché, le couvercle du cercueil, s’asseoir, s’étouffer. Ainsi point de vieillesse, ni de dangers : la terreur n’est pas française.

— Ah ! je suis tellement délaissé que j’offre à n’importe quelle divine image des élans vers la perfection.

Ô mon abnégation, ô ma charité merveilleuse ! ici-bas, pourtant !

De profundis Domine, suis-je bête !


Encore tout enfant, j’admirais le forçat intraitable sur qui se referme toujours le bagne ; je visitais les auberges et les garnis qu’il aurait sacrés par son séjour ; je voyais avec son idée le ciel bleu et le travail fleuri de la campagne ; je flairais sa fatalité dans les villes. Il avait plus de force qu’un saint, plus de bon sens qu’un voyageur — et lui, lui seul ! pour témoin de sa gloire et de sa raison.

Sur les routes, par des nuits d’hiver, sans gîte, sans habits, sans pain, une voix étreignait mon cœur gelé : « Faiblesse ou force : te voilà, c’est la force. Tu ne sais ni où tu vas ni pourquoi tu vas, entre partout, réponds à tout. On ne te tuera pas plus que si tu étais cadavre. » Au matin j’avais le regard si perdu et la contenance si morte, que ceux que j’ai rencontrés ne m’ont peut-être pas vu.

Dans les villes la boue m’apparaissait soudainement rouge et noire, comme une glace quand la lampe circule dans la chambre voisine, comme un trésor dans la forêt ! Bonne chance, criais-je, et je voyais une mer de flammes et de fumée au ciel ; et, à gauche, à droite, toutes les richesses flambant comme un milliard de tonnerres.

Mais l’orgie et la camaraderie des femmes m’étaient interdites. Pas même un compagnon. Je me voyais devant une foule exaspérée, en face du peloton d’exécution, pleurant du malheur qu’ils n’aient pu comprendre, et pardonnant ! — Comme Jeanne d’Arc ! — « Prêtres, professeurs, maîtres, vous vous trompez en me livrant à la justice. Je n’ai jamais été de ce peuple-ci ; je n’ai jamais été chrétien ; je suis de la race qui chantait dans le supplice ; je ne comprends pas les lois ; je n’ai pas le sens moral, je suis une brute : vous vous trompez… »

Oui, j’ai les yeux fermés à votre lumière. Je suis une bête, un nègre. Mais je puis être sauvé. Vous êtes de faux nègres, vous maniaques, féroces, avares. Marchand, tu es nègre ; magistrat, tu es nègre ; général, tu es nègre ; empereur, vieille démangeaison, tu es nègre : tu as bu d’une liqueur non taxée, de la fabrique de Satan. — Ce peuple est inspiré par la fièvre et le cancer. Infirmes et vieillards sont tellement respectables qu’ils demandent à être bouillis. — Le plus malin est de quitter ce continent, où la folie rôde pour pourvoir d’otages ces misérables. J’entre au vrai royaume des enfants de Cham.

Connais-je encore la nature ? me connais-je ? — Plus de mots. J’ensevelis les morts dans mon ventre. Cris, tambour, danse, danse, danse, danse ! Je ne vois même pas l’heure où, les blancs débarquant, je tomberai au néant.

Faim, soif, cris, danse, danse, danse, danse !

Les blancs débarquent. Le canon ! Il faut se soumettre au baptême, s’habiller, travailler.

J’ai reçu au cœur le coup de la grâce. Ah ! je ne l’avais pas prévu !

Je n’ai point fait le mal. Les jours vont m’être légers, le repentir me sera épargné. Je n’aurai pas eu les tourments de l’âme presque morte au bien, où remonte la lumière sévère comme les cierges funéraires. Le sort du fils de famille, cercueil prématuré couvert de limpides larmes. Sans doute la débauche est bête, le vice est bête ; il faut jeter la pourriture à l’écart. Mais l’horloge ne sera pas arrivée à ne plus sonner que l’heure de la pure douleur ! Vais-je être enlevé comme un enfant, pour jouer au paradis dans l’oubli de tout le malheur !

Vite ! est-il d’autres vies ? — Le sommeil dans la richesse est impossible. La richesse a toujours été bien public. L’amour divin seul octroie les clefs de la science. Je vois que la nature n’est qu’un spectacle de bonté. Adieu chimères, idéals, erreurs.

Le chant raisonnable des anges s’élève du navire sauveur : c’est l’amour divin. — Deux amours ! je puis mourir de l’amour terrestre, mourir de dévouement. J’ai laissé des âmes dont la peine s’accroîtra de mon départ ! Vous me choisissez parmi les naufragés ; ceux qui restent sont-ils pas mes amis ?

Sauvez-les !

La raison m’est née. Le monde est bon. Je bénirai la vie. J’aimerai mes frères. Ce ne sont plus des promesses d’enfance. Ni l’espoir d’échapper à la vieillesse et à la mort. Dieu fait ma force, et je loue Dieu.

L’ennui n’est plus mon amour. Les rages, les débauches, la folie, dont je sais tous les élans et les désastres, — tout mon fardeau est déposé. Apprécions sans vertige l’étendue de mon innocence.

Je ne serais plus capable de demander le réconfort d’une bastonnade. Je ne me crois pas embarqué pour une noce avec Jésus-Christ pour beau-père.

Je ne suis pas prisonnier de ma raison. J’ai dit : Dieu. Je veux la liberté dans le salut : comment la poursuivre ? Les goûts frivoles m’ont quitté. Plus besoin de dévouement ni d’amour divin. Je ne regrette pas le siècle des cœurs sensibles. Chacun a sa raison, mépris et charité : je retiens ma place au sommet de cette angélique échelle de bon sens.

Quant au bonheur établi, domestique ou non… non, je ne peux pas. Je suis trop dissipé, trop faible. La vie fleurit par le travail, vieille vérité : moi, ma vie n’est pas assez pesante, elle s’envole et flotte loin au-dessus de l’action, ce cher point du monde.

Comme je deviens vieille fille, à manquer du courage d’aimer la mort !

Si Dieu m’accordait le calme céleste, aérien, la prière, — comme les anciens saints. — Les saints ! des forts ! les anachorètes, des artistes comme il n’en faut plus !

Farce continuelle ! Mon innocence me ferait pleurer. La vie est la farce à mener par tous.

Assez ! voici la punition. — En marche !

Ah ! les poumons brûlent, les tempes grondent ! la nuit roule dans mes yeux, par ce soleil ! le cœur… les membres…

Où va-t-on ? au combat ? Je suis faible ! les autres avancent. Les outils, les armes… le temps !…

Feu ! feu sur moi ! Là ! ou je me rends. — Lâches ! — Je me tue ! Je me jette aux pieds des chevaux !

Ah !…

— Je m’y habituerai.

Ce serait la vie française, le sentier de l’honneur !


MATIN


N’eus-je pas une fois une jeunesse aimable, héroïque, fabuleuse, à écrire sur des feuilles d’or, — trop de chance ! Par quel crime, par quelle erreur, ai-je mérité ma faiblesse actuelle ? Vous qui prétendez que des bêtes poussent des sanglots de chagrin, que des malades désespèrent, que des morts rêvent mal, tâchez de raconter ma chute et mon sommeil. Moi, je ne puis pas plus m’expliquer que le mendiant avec ses continuels Pater et Ave Maria. Je ne sais plus parler !

Pourtant, aujourd’hui, je crois avoir fini la relation de mon enfer. C’était bien l’enfer ; l’ancien, celui dont le fils de l’homme ouvrit les portes.

Du même désert, à la même nuit, toujours mes yeux las se réveillent à l’étoile d’argent, toujours, sans que s’émeuvent les Rois de la vie, les trois mages, le cœur, l’âme, l’esprit. Quand irons-nous, par delà les grèves et les monts, saluer la naissance du travail nouveau, la sagesse nouvelle, la fuite des tyrans et des démons, la fin de la superstition, adorer — les premiers ! — Noël sur la terre !

Le chant des cieux, la marche des peuples ! Esclaves, ne maudissons pas la vie.


L’ÉCLAIR


Le travail humain ! c’est l’explosion qui éclaire mon abîme de temps en temps.

« Rien n’est vanité ; à la science, et en avant ! » crie l’Ecclésiaste moderne, c’est-à-dire Tout le monde. Et pourtant les cadavres des méchants et des fainéants tombent sur le cœur des autres… Ah ! vite, vite un peu ; là-bas, par delà la nuit, ces récompenses futures, éternelles… les échappons-nous ?…

— Qu’y puis-je ? Je connais le travail ; et la science est trop lente. Que la prière galope et que la lumière gronde je le vois bien. C’est trop simple, et il fait trop chaud ; on se passera de moi. J’ai mon devoir, j’en serai fier à la façon de plusieurs, en le mettant de côté.

Ma vie est usée. Allons ! feignons, fainéantons, ô pitié ! Et nous existerons en nous amusant, en rêvant amours monstres et univers fantastiques, en nous plaignant et en querellant les apparences du monde, saltimbanque, mendiant, artiste, bandit, — prêtre ! Sur mon lit d’hôpital, l’odeur de l’encens m’est revenue si puissante ; gardien des aromates sacrés, confesseur, martyr…

Je reconnais là ma sale éducation d’enfance. Puis quoi !… Aller mes vingt ans, si les autres vont vingt ans…

Non ! non ! à présent je me révolte contre la mort ! Le travail paraît trop léger à mon orgueil : ma trahison au monde serait un supplice trop court. Au dernier moment, j’attaquerais à droite, à gauche…

Alors, — oh ! — chère pauvre âme, l’éternité serait-elle pas perdue pour nous !

🇺🇸Franz Kafka

2019-09-11 06:34:41 | Nietzsche
All Family die after Kafka.
Kafka's father was a businessman who established himself as an independent retailer of men's and women's fancy goods and accessories, employing up to 15 people.

Charles Ferdinand University, where at first he decided to study chemistry, but switched after two weeks to law. In the end of his first year, he met another student a year younger than he was, Max Brod

July 15, 1908, he resigned, and few weeks later found more suitable employment with the Worker's Accident Insurance Institute for the Kingdom of Bohemia. He worked there until July 1922

1912, at the home of his lifelong friend Max Brod, Kafka met Felice Bauer, who lived in Berlin. Their relationship finally ended in 1917

In the early 1920s he developed an intense relationship with Czech journalist and writer Milena Jesenská.

1923, he briefly moved to Berlin in the hope of distancing himself from his family's influence to concentrate on his writing. In Berlin, he lived with Dora Diamant, a 25-year-old kindergarten teacher from an orthodox Jewish family, who was independent enough to have escaped her past in the ghetto. Dora became his lover, and influenced Kafka's interest in the Talmud - a book of Jewish law.

suffered from migraines, insomnia, constipation, boils, and other ailments, all usually brought on by excessive stresses and strains. He attempted to counteract all of this by a regimen of naturopathic treatments, such as a vegetarian diet and the consumption of large quantities of unpasteurized milk.

But the crowd is so huge. its dwelling places are infinite. If there were an open field, how he would fly along, and soon you would hear the marvellous pounding of his fist on your door. But instead of that, how futile are all his efforts. He is still forcing his way through the private rooms of the innermost palace. Never will he win his way through. And if he did manage that, nothing would have been achieved.
No one pushes his way through here, certainly not someone with a message from a dead man. But you sit at your window and dream of that message when evening comes.

by Franz Kafka
Your friend is deteriorating in his Russia—three years ago he was already yellow enough to be thrown away, and, as for me, well, you see how things are with me. You’ve got eyes for that!”

“So you’ve been lying in wait for me,” cried George.

In a pitying tone, his father said as an afterthought, “Presumably you wanted to say that earlier. But now it’s totally irrelevant.”

And in a louder voice : « So now you know what there was in the world outside of yourself. Up to this point you’ve known only about yourself! Essentially you’ve been an innocent child, but even more essentially you’ve been a devilish human being! And therefore understand this: I sentence you now to death by drowning! ”

George felt himself hounded from the room. The crash with which his father fell onto the bed behind him he still carried in his ears as he left. On the staircase, where he raced down the steps as if it were an inclined plane, he surprised his cleaning woman, who was intending to tidy the apartment after the night before.

“Jesus!” she cried and hid her face in her apron. But he was already past her. He leapt out the front door, driven across the roadway to the water. He was already clutching the railings the way a starving man grasps his food. He swung himself over, like the outstanding gymnast he had been in his youth, to his parents’ pride. He was still holding on, his grip weakening, when between the railings he caught sight of a motor coach which would easily drown out the noise of his fall. He called out quietly, “Dear parents, I have always loved you nonetheless” and let himself drop.

At that moment an almost unending stream of traffic was going over the bridge.


Before the Law
by Franz Kafka
Translation by Ian Johnston


Before the law sits a gatekeeper. To this gatekeeper comes a man from the country who asks to gain entry into the law. But the gatekeeper says that he cannot grant him entry at the moment. The man thinks about it and then asks if he will be allowed to come in later on. “It is possible,” says the gatekeeper, “but not now.” At the moment the gate to the law stands open, as always, and the gatekeeper walks to the side, so the man bends over in order to see through the gate into the inside. When the gatekeeper notices that, he laughs and says: “If it tempts you so much, try it in spite of my prohibition. But take note: I am powerful. And I am only the most lowly gatekeeper. But from room to room stand gatekeepers, each more powerful than the other. I can’t endure even one glimpse of the third.” The man from the country has not expected such difficulties: the law should always be accessible for everyone, he thinks, but as he now looks more closely at the gatekeeper in his fur coat, at his large pointed nose and his long, thin, black Tartar’s beard, he decides that it would be better to wait until he gets permission to go inside. The gatekeeper gives him a stool and allows him to sit down at the side in front of the gate. There he sits for days and years. He makes many attempts to be let in, and he wears the gatekeeper out with his requests. The gatekeeper often interrogates him briefly, questioning him about his homeland and many other things, but they are indifferent questions, the kind great men put, and at the end he always tells him once more that he cannot let him inside yet. The man, who has equipped himself with many things for his journey, spends everything, no matter how valuable, to win over the gatekeeper. The latter takes it all but, as he does so, says, “I am taking this only so that you do not think you have failed to do anything.” During the many years the man observes the gatekeeper almost continuously. He forgets the other gatekeepers, and this one seems to him the only obstacle for entry into the law. He curses the unlucky circumstance, in the first years thoughtlessly and out loud, later, as he grows old, he still mumbles to himself. He becomes childish and, since in the long years studying the gatekeeper he has come to know the fleas in his fur collar, he even asks the fleas to help him persuade the gatekeeper. Finally his eyesight grows weak, and he does not know whether things are really darker around him or whether his eyes are merely deceiving him. But he recognizes now in the darkness an illumination which breaks inextinguishably out of the gateway to the law. Now he no longer has much time to live. Before his death he gathers in his head all his experiences of the entire time up into one question which he has not yet put to the gatekeeper. He waves to him, since he can no longer lift up his stiffening body.
The gatekeeper has to bend way down to him, for the great difference has changed things to the disadvantage of the man. “What do you still want to know, then?” asks the gatekeeper. “You are insatiable.” “Everyone strives after the law,” says the man, “so how is that in these many years no one except me has requested entry?” The gatekeeper sees that the man is already dying and, in order to reach his diminishing sense of hearing, he shouts at him, “Here no one else can gain entry, since this entrance was assigned only to you. I’m going now to close it.


It was a hot summer’s day. I was coming along the homeward road with my sister and passed the gate of a manor. I do not know if she knocked at it out of sheer mischief or merely threatened to do so with her fist and did not. A hundred yards farther up where the road turns left began a village. We were not acquainted with this village, but just after the first house people came out and waved at us. Whether out of friendliness or warning, they were apparently frightened and stooping in dismay. They pointed in the direction of the manor we had passed and reminded us of the knock at the gate. The landlord had brought an action against us and an investigation was to begin at once. I was very calm and calmed my sister also. She probably hadn’t even made any knock—and even had she done so, nowhere in the world was there proof of it. I tried to make the people around us understand. They listened, but withheld judgment. Later they said, not only my sister, but I too was to be charged. I nodded, smiling. We looked back at the manor, as when one observes a distant plume of smoke and waits for the flame. Dust rose, covering everyone. Only the points of the tall lances were visible. And scarcely had the troop vanished into the manor grounds when presently their horses appeared to have turned round, and were headed towards us. I pushed my sister aside—I would sort things out on my own. She refused to let me go by myself. I said she should at least change her clothes, so that she might come better-dressed before the gentlemen. In the end she followed and took the long way to the house. Soon the riders were upon us, nor had they alighted from their horses before they had asked for my sister. “She’s not here at the moment,” I answered anxiously, “but she'll come later.” The answer was received quite indifferently; it seemed significant above all that they had found me. There were two main gentlemen: the judge, a young, lively man; and his quiet assistant who was named Assmann. I was asked to enter a peasants’ cottage. Slowly, shaking my head and adjusting my braces, I sat down under the sharp gaze of the gentlemen at work. I still believed the word of honour, given by any of these peasants, would be enough for the townsfolk to set me free. But when I had crossed the threshold of the cottage, the judge, who sprang forward already expecting me, said: “I feel sorry for this man.” However, it was beyond all doubt that by this he did not mean my present state of affairs, but rather what would happen to me. The room looked more like a prison-cell than a cottage: large flagstones, utterly bare walls, immured by an iron ring; something was in the middle--half platform, half operating table.
Could I still taste other air than the prison’s? That is the great question; or on the contrary—it would be, if I still had some prospect of release.


"Alas", said the mouse, "the whole world is growing smaller every day. At the beginning it was so big that I was afraid, I kept running and running, and I was glad when I saw walls far away to the right and left, but these long walls have narrowed so quickly that I am in the last chamber already, and there in the corner stands the trap that I am running into."

"You only need to change your direction," said the cat, and ate it up.

Nietzsche English

2019-09-10 08:14:13 | Nietzsche
Nietzsdhe's most general project is the introduction of the concepts of sense and value into philosophy. It is clear that modern philosophy has largely lived off Nietzsche. But not perhaps in the way in which he would have wished. Nietzsche made no secret of the fact that the philosophy of sense and values had to be a critique. One of the principal motifs of Nietzsche's work is that Kant had not carried out a true critique because he was not able to pose the problem of critique in terms of values. And what has happened in modern philosophy is that the theory of values has given rise to a new conformism and new forms of submission. Even the phenomenological apparatus has contributed to placing the Nietzschean inspiration, which is often present in phenomenology, at the service of modern conformism. But, with Nietzsche, we must begin from the fact that the philosophy of values as envisaged and established by him is the true realisation of critique and the only way in which a total critique may be realised, the only way to "philosophise with a hammer". In fact, the notion of value implies acritkal reversal. On the one hand, values appear or are given as principles: and evaluation presupposes values on the basis of which phenomena are appraised. But, on the other hand and more pro- foundly, it is values which presuppose evaluations, "perspectives of appraisal", from which their own value is derived. The problem of critique is that of the value of values, of the evaluation from which their value arises, thus the problem of their creation. Evaluation is defined as the differential element of corresponding values, an ele-
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ment which is both critical and creative. * Evaluations, in essence, are
not values but ways of being, modes


Baumgarten, Frau Marie. Wife of a well-known manufacturer in Lorrach in Baden. She translated "Thoughts Out of Season" parts 3 and 4, into French, but only "Richard Wagner á Bayreuth" actually appeared. She died in 1897.