ヤマモトさんの「誇りとは何ぞや」に反応して、
以前に無名之会の定例の宿題で提出したものを発掘して再掲してみる。
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平成17年1月9日
文責:Nohe
●概要
誇りとは、自らに誠実であるように自らを規定することである。
恥とは、個人の中に存在する、社会的評価の元となるものである。
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●誇りとは
人間は社会的動物です。一人では生きていけず、他の人間との社会的関係を以って、生存することが可能になります。よって、社会的評価というものが、存在の根幹に関わっており、そのあり方が個人を強く規定すると考えています。
私はこの個人を対象とした社会的評価を主体と受け手によって大きく四つに分類しています。
1.他者→他者
2.他者→自己
3.自己→他者
4.自己→自己
他者から他の他者へ自己の評価が行われる場合、これを私は「評判」と呼んでいます。自分の見えないところで自己への評価が行われているため、日本人は特にこれを恐れてきました。大抵の名誉と呼ばれるものも、結局は評判を守るための物であることが多いでしょう。
他者から自己へ伝えられる評価、これを私は「面子」と呼んでいます。面と向かって自己に対する評価が行われるわけですから、悪い評価であった場合は直接的な侮辱となります。また、得られるはずの良い評価がないことも、相対的にマイナスであり、これを「面子が立たない」として非常に重視する場合があります。
自己から他者への評価、これを私は「自負」と呼んでいます。「自分は自分をこれだけ評価している」と他者に対して表明することですが、欧米社会では、積極的にこれを行って社会的評価を形成する傾向があります。一方、日本ではこうした意思表示はあまりされていません。
最後のパターンが、自己に対する評価を自分自身で行って自分のうちに留めるものになります。自己の中で完結するため、社会的評価としてはかなり特殊な部類に入りますが、私はこれこそが「誇り」であると考えています。自己内部で純度を高めることが可能であるため、他者との関係において発生するものに対して質的に異なったものとなりえます。
日本においては、「恥」によって自らの行動を戒めることが求められていましたが、他者からの評価のための行動と自らに誠実であるための行動は、本質的には大きく異なります。特に、観測者がいない場合においては、全く逆の行動をとることもありえます。自らに誠実であるように自らを規定し、初めて自らを誇れるようになる。他者と比べて、ではなく自らが許せるかどうか。これが「誇り」の本質であると私は考えています。
また特殊な例として、神による評価というものがあります。欧米では、絶対的存在によって評価されると考えることにより、道徳が成立しています。
●恥とは
恥とは、個人の中に存在し、自己への社会的評価を認識する枠組みであると私は考えています。社会的評価は目に見えないものであるため、認識の方法は社会によって大きく異なります。日本の社会においては、「恥」となる行動が観測されることによって、その人間の社会的評価の低下が認識されていました。
この意味における「恥」は、個々の人間で異なっていては「社会的」な評価として成立しないので、社会集団において共有されます。その集団内部で、恥につながる行動が観測された場合、その行為者の社会的評価が低下することになります。
また、「恥」は個人の中に存在するため、観測者と被観測者の双方にそれぞれ存在するため、一致しないことがありえます。特に異なった社会集団の間では共有されないことが多く、異文化交流を難しくする大きな要因になっていると言えるでしょう。
●なぜ誇りと恥が失われたか
まず、誇りと恥の関連性ですが、ここでいう「誇り」は、社会的評価の特殊なものです。また、個人内部で完結するため、個人の社会的評価を決定する枠組みである「恥」に大きな影響を受けます。
まず最初に失われたものは「恥」でしょう。その主な原因は二つあると考えています。
第一に、社会集団の崩壊です。現代社会では、社会集団に「帰属する」という意識が非常に希薄になっています。たとえその社会集団から大きな利益を受けているとしても、自分がその一員であるとは考えないのです。その結果、その社会集団からの評価を無視するようになります。社会集団による評価の低下が自分の社会生活に影響を与えることを認識できないのです。これは、社会生活に対する想像力の低下ということもできます。自分を中心としてしか世界を認識できず、社会全体としての相互に発生する利益の循環を意識できないのです。
第二に、異文化の流入があります。開国以来、異なった文化における社会的評価の枠組みが日本社会に流入し続けていたのですが、敗戦以後はそれが破壊的な方法で行われるようになりました。以前は日本的な枠組みと融合するように行われていたのに対し、敗戦後はそれを破壊して入ってくるようになりました。
「誇り」が失われたことは、その前提となる「恥」が失われたことにもよります。しかし、それ以上に、自己を自ら評価し続けるという覚悟を日本人が失ってしまったことが大きいと私は考えています。自らを厳しく評価しても、直接社会的な利益が得られることはありまえせん。自らを律し続けるというのは、精神的に非常に辛いことです。水が低きに流れるように、自然の状態では続けることはできません。常に自らの内部に静かな炎を燃やし続ける覚悟が、何より必要だと思います。
●失われたものを取り戻すには
「誇り」も「恥」も、個人の中に存在するものです。一度失われてしまえば、取り戻すのは容易ではありません。また、特に「誇り」は、他人に言われたからといって持てる持てるものではないと思います。まず、自分自身がそれを持ち続ける意思こそが重要なのだと、私は考えています。
以前に無名之会の定例の宿題で提出したものを発掘して再掲してみる。
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平成17年1月9日
文責:Nohe
●概要
誇りとは、自らに誠実であるように自らを規定することである。
恥とは、個人の中に存在する、社会的評価の元となるものである。
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●誇りとは
人間は社会的動物です。一人では生きていけず、他の人間との社会的関係を以って、生存することが可能になります。よって、社会的評価というものが、存在の根幹に関わっており、そのあり方が個人を強く規定すると考えています。
私はこの個人を対象とした社会的評価を主体と受け手によって大きく四つに分類しています。
1.他者→他者
2.他者→自己
3.自己→他者
4.自己→自己
他者から他の他者へ自己の評価が行われる場合、これを私は「評判」と呼んでいます。自分の見えないところで自己への評価が行われているため、日本人は特にこれを恐れてきました。大抵の名誉と呼ばれるものも、結局は評判を守るための物であることが多いでしょう。
他者から自己へ伝えられる評価、これを私は「面子」と呼んでいます。面と向かって自己に対する評価が行われるわけですから、悪い評価であった場合は直接的な侮辱となります。また、得られるはずの良い評価がないことも、相対的にマイナスであり、これを「面子が立たない」として非常に重視する場合があります。
自己から他者への評価、これを私は「自負」と呼んでいます。「自分は自分をこれだけ評価している」と他者に対して表明することですが、欧米社会では、積極的にこれを行って社会的評価を形成する傾向があります。一方、日本ではこうした意思表示はあまりされていません。
最後のパターンが、自己に対する評価を自分自身で行って自分のうちに留めるものになります。自己の中で完結するため、社会的評価としてはかなり特殊な部類に入りますが、私はこれこそが「誇り」であると考えています。自己内部で純度を高めることが可能であるため、他者との関係において発生するものに対して質的に異なったものとなりえます。
日本においては、「恥」によって自らの行動を戒めることが求められていましたが、他者からの評価のための行動と自らに誠実であるための行動は、本質的には大きく異なります。特に、観測者がいない場合においては、全く逆の行動をとることもありえます。自らに誠実であるように自らを規定し、初めて自らを誇れるようになる。他者と比べて、ではなく自らが許せるかどうか。これが「誇り」の本質であると私は考えています。
また特殊な例として、神による評価というものがあります。欧米では、絶対的存在によって評価されると考えることにより、道徳が成立しています。
●恥とは
恥とは、個人の中に存在し、自己への社会的評価を認識する枠組みであると私は考えています。社会的評価は目に見えないものであるため、認識の方法は社会によって大きく異なります。日本の社会においては、「恥」となる行動が観測されることによって、その人間の社会的評価の低下が認識されていました。
この意味における「恥」は、個々の人間で異なっていては「社会的」な評価として成立しないので、社会集団において共有されます。その集団内部で、恥につながる行動が観測された場合、その行為者の社会的評価が低下することになります。
また、「恥」は個人の中に存在するため、観測者と被観測者の双方にそれぞれ存在するため、一致しないことがありえます。特に異なった社会集団の間では共有されないことが多く、異文化交流を難しくする大きな要因になっていると言えるでしょう。
●なぜ誇りと恥が失われたか
まず、誇りと恥の関連性ですが、ここでいう「誇り」は、社会的評価の特殊なものです。また、個人内部で完結するため、個人の社会的評価を決定する枠組みである「恥」に大きな影響を受けます。
まず最初に失われたものは「恥」でしょう。その主な原因は二つあると考えています。
第一に、社会集団の崩壊です。現代社会では、社会集団に「帰属する」という意識が非常に希薄になっています。たとえその社会集団から大きな利益を受けているとしても、自分がその一員であるとは考えないのです。その結果、その社会集団からの評価を無視するようになります。社会集団による評価の低下が自分の社会生活に影響を与えることを認識できないのです。これは、社会生活に対する想像力の低下ということもできます。自分を中心としてしか世界を認識できず、社会全体としての相互に発生する利益の循環を意識できないのです。
第二に、異文化の流入があります。開国以来、異なった文化における社会的評価の枠組みが日本社会に流入し続けていたのですが、敗戦以後はそれが破壊的な方法で行われるようになりました。以前は日本的な枠組みと融合するように行われていたのに対し、敗戦後はそれを破壊して入ってくるようになりました。
「誇り」が失われたことは、その前提となる「恥」が失われたことにもよります。しかし、それ以上に、自己を自ら評価し続けるという覚悟を日本人が失ってしまったことが大きいと私は考えています。自らを厳しく評価しても、直接社会的な利益が得られることはありまえせん。自らを律し続けるというのは、精神的に非常に辛いことです。水が低きに流れるように、自然の状態では続けることはできません。常に自らの内部に静かな炎を燃やし続ける覚悟が、何より必要だと思います。
●失われたものを取り戻すには
「誇り」も「恥」も、個人の中に存在するものです。一度失われてしまえば、取り戻すのは容易ではありません。また、特に「誇り」は、他人に言われたからといって持てる持てるものではないと思います。まず、自分自身がそれを持ち続ける意思こそが重要なのだと、私は考えています。