自分は、不肖ながら無名之会 代表を務めさせていただいております無名人(むみょうじん)と申します。
私は、自らの立場を行動の先頭に立つ「旗振り」と認識し、そのように呼んでおります。
自分は現状において、ごく当たり前のようになっている声の大きなものだけが論ずること、
その論のみが、主体となってまかり通ることを認めるつもりもありませんし、
その声の大きさゆえに引き起こされる、各種事柄についてもこのまま放置するつもりもありません。
同レベルに堕ちることを忌み嫌う方は多いですが、
スポーツの試合一つとっても、相手がよほど弱くない限り反則OKのチームには勝てません。
まして今直面している相手方は決して弱くは無いわけですからなおさらです。
方法論の違いがあれこそ、国・文化や郷土を憂える気持ちを持つ方は歓迎いたします。
それがたとえ他国の人であったとしても、お互いの国や文化を尊重し認め合う関係は、
ぜひ目指すべきものです。
しかし相手が我々の文化・文明や芸術等はおろか、民族の出自までを片端から自国発祥と言い募ったり、
すべて自分の文化圏の中で起こっている一地方の事の様に言われてまで、その方たちと解り合う努力は難しいでしょう。
日本人の美徳でもありますが、和を尊び、いつまでも様子見をすることが即ち反国益となる以上、
その主権者である国民、つまり自分達に帰ってくることですから。
もちろん「大言壮語」する事の問題性も大いに考えるべきことですが、
そのこと自体、現状の全体的に声の小さきこと(相手に対するプレッシャーの欠如)が引き出してしまった結果であると考えています。
その結果としての集まりが『無名之会』です。
まず小さき事からでも、見逃さず、たとえ微力ながらも抗議を続けていく。
この姿勢を崩さずにこれからも皆さんの協力を仰いで生きたいと考えております。
自分の行動を「笛を吹く」と表現された方もいらっしゃいましたが、
結果から言うと、その危険性は重々認識しています。
だからこそ、自分は、今このタイミングで旗を振リ始めたのです。
自分が恐れるのは、よく「日本人は極端である」と評されるような日本人の特質そのものです。
今、旗を振ることは、少し早いとの意見もあります。
いわゆる、もう少し追い詰められれば、日本人は底力を発揮する。と云う考え方です。
しかし余裕のないその状況、それこそが、
指摘されるような極端な方向性に一気に舵を切る危険性を孕むのではないでしょうか。
自分は、政治は常に民意の裏付けの元にその方向性を決めるものと考えています。
現在の、 『誇りと恥』も忘却された危機的情勢は悲しいかな、その民意の背景を受けた結果だと思っています。
同時に現在に至り、
「このままではいけない」「何かが違う」と云った現状に懐疑的な目を向ける
今までとは異質な民意が醸成されつつあることも事実です。
しかし本質的な民意の醸成は数年で出来ることとは考えていません。
自分はそうは思っていませんが、
大多数の人々が感じているであろう、まだ余裕のあるうちに動き始めねば、
切羽詰った状態で選択を迫られた人々が、それこそ急激に極端な方向へ表層的な冷静ならざる民意を切り替える可能性があります。
それこそ、最も忌むべき存在であり、危険視すべきことではないでしょうか?
自分が誰よりも、勉学に励み、知識を持ち、
誰よりも立派な見識とモラルを持つなどとは考えても居りません。
自分より多くのことを学び、
より専門的な知識を持ち、
より聡明なる頭脳を持ち
よりモラルを心得
より真摯な態度で向き合っている方なぞ、山ほどいることでしょう。
その方が、立っていただけるのなら、自分はいつでもその方の為に殉じます。
本来、自分はそういう方を捜し求めその方を補佐することこそが、我が天命と考え行動してきたのですから。
しかしこのタイミングにおいても未だ、自分はそのような方にめぐり合えてはいません。
めぐり合うにはあったのですが、皆様、未来を託すには御年を召しすぎているのです。
しかし、時間はもうなくなりつつあります。
世の企業はもとより政治家、一般の人々に至るまで、誇りも恥じも忘れ、その乱れる事、既に人外のものの感があります。
獣と人を分ける一大要素である「誇り・尊厳・恥」をかなぐり捨てたこの状況をこれ以上続ければ、
いずれ、限界点に達した存在は自らの重みで自壊するしかない所まで来てしまっていると感じています。
旗を振るものは全ての責任を負わねばなりません。
旗を振るものは全ての攻撃の矢面に立たざるをえないでしょう。
そのような動きと利害が一致せず、快く思わぬ輩は、その動きが始まったばかりのうちに、
旗を振りし者を撃てば、ほぼ確実に動きを減殺出来ることを知っているでしょう。
自らが選びし道を自分は信じています。
しかし自分が正しいかどうかなぞ自分で判断することではありません。
人の存在は、他者がその存在を認めて始めてその存在意義が発生すると考えますし、
自らの行動を自らが評価するなぞ、単なる自己満足に過ぎません。
しかし誰も旗を振らぬ今、誰かが覚悟を決めて旗を振らねばならぬのです。
その者は、実質的な意味では人身御供になるやもしれません。
その危険性を感じているからこそ、
いまそこに厳然としてある危機に対し、
誰もが真っ向から旗振りをすることに躊躇しているのではありませんか?
自分はその御方の出現を待ち望んできました。
しかし、事ここに至り、もう間に合わないと感じているのです。
無名之会は、気楽に現状を語り合い話し合うことにより混濁した問題点を明確にし、
認識を深め、偽りなき見識を醸成し、「誇りと恥」を取り戻して頂く事を目的として常設するものです。
その緩やかな集まりは、諸般問題が発生した際、即時に抗議等を行えることを目的とすると同時に
良き道義的指導者が現れた際、即時に応援体制が取れることを願って、
その基本ベースとなる「誇りと恥」について事前に認識しておく事を目的としています。
自分の考え主張点の重さは、その中の一参加者となんら変わるところではありません。
私一人の知識・見識なぞたかが知れていますし、
自分ひとりの考えで打開できるほど、この危機は軽いものではなく根源的なものなのですから。
しかしその結果導き出される結論により発生する責務に対しては、
発起人である自分ひとりが被る事を当然と考えています。
そうすることのみにより、皆様に勇気を持って参加していただけると信じています。
私、無名人は自らの行動を信じて旗を振ります。
小さな笛の音ですから、なかなか聞こえ難いかも知れません。
ですからこそ、その笛の音が典雅に響き渡るよう、
皆様のお力添えを頂けることを心から願って居ります。
最後に、駄文・拙論を最後まで御目通し頂いた皆様に重ねて御礼申し上げます。
私は、自らの立場を行動の先頭に立つ「旗振り」と認識し、そのように呼んでおります。
自分は現状において、ごく当たり前のようになっている声の大きなものだけが論ずること、
その論のみが、主体となってまかり通ることを認めるつもりもありませんし、
その声の大きさゆえに引き起こされる、各種事柄についてもこのまま放置するつもりもありません。
同レベルに堕ちることを忌み嫌う方は多いですが、
スポーツの試合一つとっても、相手がよほど弱くない限り反則OKのチームには勝てません。
まして今直面している相手方は決して弱くは無いわけですからなおさらです。
方法論の違いがあれこそ、国・文化や郷土を憂える気持ちを持つ方は歓迎いたします。
それがたとえ他国の人であったとしても、お互いの国や文化を尊重し認め合う関係は、
ぜひ目指すべきものです。
しかし相手が我々の文化・文明や芸術等はおろか、民族の出自までを片端から自国発祥と言い募ったり、
すべて自分の文化圏の中で起こっている一地方の事の様に言われてまで、その方たちと解り合う努力は難しいでしょう。
日本人の美徳でもありますが、和を尊び、いつまでも様子見をすることが即ち反国益となる以上、
その主権者である国民、つまり自分達に帰ってくることですから。
もちろん「大言壮語」する事の問題性も大いに考えるべきことですが、
そのこと自体、現状の全体的に声の小さきこと(相手に対するプレッシャーの欠如)が引き出してしまった結果であると考えています。
その結果としての集まりが『無名之会』です。
まず小さき事からでも、見逃さず、たとえ微力ながらも抗議を続けていく。
この姿勢を崩さずにこれからも皆さんの協力を仰いで生きたいと考えております。
自分の行動を「笛を吹く」と表現された方もいらっしゃいましたが、
結果から言うと、その危険性は重々認識しています。
だからこそ、自分は、今このタイミングで旗を振リ始めたのです。
自分が恐れるのは、よく「日本人は極端である」と評されるような日本人の特質そのものです。
今、旗を振ることは、少し早いとの意見もあります。
いわゆる、もう少し追い詰められれば、日本人は底力を発揮する。と云う考え方です。
しかし余裕のないその状況、それこそが、
指摘されるような極端な方向性に一気に舵を切る危険性を孕むのではないでしょうか。
自分は、政治は常に民意の裏付けの元にその方向性を決めるものと考えています。
現在の、 『誇りと恥』も忘却された危機的情勢は悲しいかな、その民意の背景を受けた結果だと思っています。
同時に現在に至り、
「このままではいけない」「何かが違う」と云った現状に懐疑的な目を向ける
今までとは異質な民意が醸成されつつあることも事実です。
しかし本質的な民意の醸成は数年で出来ることとは考えていません。
自分はそうは思っていませんが、
大多数の人々が感じているであろう、まだ余裕のあるうちに動き始めねば、
切羽詰った状態で選択を迫られた人々が、それこそ急激に極端な方向へ表層的な冷静ならざる民意を切り替える可能性があります。
それこそ、最も忌むべき存在であり、危険視すべきことではないでしょうか?
自分が誰よりも、勉学に励み、知識を持ち、
誰よりも立派な見識とモラルを持つなどとは考えても居りません。
自分より多くのことを学び、
より専門的な知識を持ち、
より聡明なる頭脳を持ち
よりモラルを心得
より真摯な態度で向き合っている方なぞ、山ほどいることでしょう。
その方が、立っていただけるのなら、自分はいつでもその方の為に殉じます。
本来、自分はそういう方を捜し求めその方を補佐することこそが、我が天命と考え行動してきたのですから。
しかしこのタイミングにおいても未だ、自分はそのような方にめぐり合えてはいません。
めぐり合うにはあったのですが、皆様、未来を託すには御年を召しすぎているのです。
しかし、時間はもうなくなりつつあります。
世の企業はもとより政治家、一般の人々に至るまで、誇りも恥じも忘れ、その乱れる事、既に人外のものの感があります。
獣と人を分ける一大要素である「誇り・尊厳・恥」をかなぐり捨てたこの状況をこれ以上続ければ、
いずれ、限界点に達した存在は自らの重みで自壊するしかない所まで来てしまっていると感じています。
旗を振るものは全ての責任を負わねばなりません。
旗を振るものは全ての攻撃の矢面に立たざるをえないでしょう。
そのような動きと利害が一致せず、快く思わぬ輩は、その動きが始まったばかりのうちに、
旗を振りし者を撃てば、ほぼ確実に動きを減殺出来ることを知っているでしょう。
自らが選びし道を自分は信じています。
しかし自分が正しいかどうかなぞ自分で判断することではありません。
人の存在は、他者がその存在を認めて始めてその存在意義が発生すると考えますし、
自らの行動を自らが評価するなぞ、単なる自己満足に過ぎません。
しかし誰も旗を振らぬ今、誰かが覚悟を決めて旗を振らねばならぬのです。
その者は、実質的な意味では人身御供になるやもしれません。
その危険性を感じているからこそ、
いまそこに厳然としてある危機に対し、
誰もが真っ向から旗振りをすることに躊躇しているのではありませんか?
自分はその御方の出現を待ち望んできました。
しかし、事ここに至り、もう間に合わないと感じているのです。
無名之会は、気楽に現状を語り合い話し合うことにより混濁した問題点を明確にし、
認識を深め、偽りなき見識を醸成し、「誇りと恥」を取り戻して頂く事を目的として常設するものです。
その緩やかな集まりは、諸般問題が発生した際、即時に抗議等を行えることを目的とすると同時に
良き道義的指導者が現れた際、即時に応援体制が取れることを願って、
その基本ベースとなる「誇りと恥」について事前に認識しておく事を目的としています。
自分の考え主張点の重さは、その中の一参加者となんら変わるところではありません。
私一人の知識・見識なぞたかが知れていますし、
自分ひとりの考えで打開できるほど、この危機は軽いものではなく根源的なものなのですから。
しかしその結果導き出される結論により発生する責務に対しては、
発起人である自分ひとりが被る事を当然と考えています。
そうすることのみにより、皆様に勇気を持って参加していただけると信じています。
私、無名人は自らの行動を信じて旗を振ります。
小さな笛の音ですから、なかなか聞こえ難いかも知れません。
ですからこそ、その笛の音が典雅に響き渡るよう、
皆様のお力添えを頂けることを心から願って居ります。
最後に、駄文・拙論を最後まで御目通し頂いた皆様に重ねて御礼申し上げます。
思わず色々書きたくなりましたが、
コメント欄にケータイから書き散らすのもどうかと思いますので、
帰宅後に改めて投稿させていただきたいと思います。