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謂われなき反日を語るBlog(仮運用中)

誇りと恥を。
小異に拘わり、大道を外す事なかれ。

雨を見ながら思ふことを

2005年07月04日 01時43分41秒 | 無名人
さてさて、更新の続かないブログですなぁ(苦笑
私も挨拶以来の書き込みですから、やはり少しは状況改善をしないとw
また暫し落ち着かない日々となりそうですから、
その前に少しは、お話しをしておきましょう。


先ほどからの激しい雨を見ながら、西の水不足はこれで少しは解消されただろうか、
逆に地滑り等での被害は出ていないだろうかなどと思いながらふと思ったことをお話しましょう。

昨今、リアルの仕事上でも、とみに感じることが多くなりましたが、
以前から多方面でよく言われております、日本の社会構造自体の歪といって良いやうなものが、
教育欠如世代がトップに座り、空白世代が中堅層に座り始めた今、
いよいよ表面化する時期に出てきている感があります。

手前どもの話で申し訳ないのですが、我々の業界では昔から「協力会社」という云い方があります。
これは、自社より下位に着く会社も同位に着く会社も一派一絡げに指す言葉であります。
たしかに、上位は珍しいですが、下位同位が入れ替わった状態の仕事も多くありますので、便利な言葉ではあるのですが、私自身は、大変日本人らしい謙虚な言葉であると感じ多用して参りました。

しかし、昨今、この言葉を使う方がめっきり減りました。
今までも言葉だけの心不在を嘆くことは良く在りましたが、
このごろは、その言葉すら使われない。
実に空虚な世界が広がりつつあります。

利益至上主義の結果、「下は叩けるだけ叩く」「無理難題があれば全て下に回す」的な
極めて「仕事人(仕事をして利益を得る人を指す言葉として使いますが)」としては
情けない仕事振りを恥じもせず、その都合の悪さから夜中にメールでそっと通達してみたり
忙しい振りをして無感情に伝達してみたりと、妙な苦心振りは良くわかるのですが、
何の解決にもなっていない事の如何に多いことか。
全ては、自らの保身や面倒さを避けるための極めて利己的な他を鑑みない心から生まれていることがあからさまで、そのいい年の方々を見て、なんとも見ているこちらが恥ずかしくなるやうな事が多見されるやうになってまいりました。

そのやうな方々に、仕事に対する情熱や誠意を求めても無駄なのでしょうが、
そのうちに当初の企画参入時の説明であったことも「そんな事はいった覚えがない」といった按配が始まります。
結局のところ、「心」>「相手を思んばかる気持ち」「生かされているといった感謝の念」
の欠如なのでしょうね。
教育>教え育てるといった国家=社会の成立に不可欠な事を蔑ろにしてきた結果の皺寄せが、いよいよ本格的に鎌首を持ち上げてきた気がしてなりません。

実際問題、上記のやうな取引先に如何に交流を図り便宜を図っても、表面的にはともかく、人間的な相互理解に至ることはまれですし、結果としてどうしても事務的に為らざるを得なくなる状況が生まれていくのでしょう。
実に悲しいことです。
このままでは、まさに米国のやうな訴訟社会となってゆくでしょうし、
実際、今まで殆どが信用商売で契約書なぞ取り交わさなかった私の業界でも
契約書の束が船室に浸水するがごとく増えていっている事が、何よりも嘆かわしい事です。

さらに悲しいのは、酒の席等で気持ち悪くなるやうなお追従を云い、その場にいない者を貶めたり
出来もしないことをや心にもないことを口にするなどして、取り入ろうとする者が付随するやうに増えていることでしょう。
彼らの考えることは、強者に寄り添いあわよくばそのおこぼれに預かろうとする思いでしょうが、
その見苦しい行為自体の恥はさておいても、その結果として自分以外の多くのものが泣く事すら彼らの頭の中にはないなど、度し難い馬鹿者達であります。
そのやうな取り入り方をした場合、成功するからこそやることなのでしょうが、
その行為をする者に対し、信を置かない者が出たときの彼らの驚愕振りは、実に情けないものであります。その後は、判で押したやうに讒言となるか俗に言う逆切れになることから見ても、如何に人間的な部分や金銭に対し矜持を持たぬ低レベルな者が上にも下にも増えた事か、本当に歯軋りをする思いでもあります。

かつての社会にも確かに小狡人間はおりました。
しかし、被害にあう者がいても、それを助ける周囲があり、
またその小狡者を許さない社会がありました。
しかし今の世の中に如何にその気風が薄くなったことか、
民はその日の生活に汲々とし、そのしがらみにて、といふ人も多いでしょうが、
私には、実際にそういう方々の多さよりも、それを言い訳にし無関心を装い自己の利益に汲々とする人間の方が目に付きます。
おそらく、先にも上げたやうな人達や、極めて矮小な自己保身のみに汲々とする方々には
「自らの子供にその背中を見せられるのか?」と問うたところで、
何の引っかかりもないのでしょう。
そのやうなもう型が出来上がってしまい、修正のきかなくなってしまっている無知蒙昧なる人々をどうするのかという事も、大きな問題なのかもしれませんが、私自身としては、有為の士を一人でも多くせねばならない時だと思い続けたいと、言い聞かせながら日々をすごしております。



日本は豊かな国です。
本来であれば、これほどの失業者が世にあふれ、非生産的な者が増え、若人が目的を失い、老人などが寂しい生活をしている訳がないほどの富んだ国のはずなのです。
この世の現状を恨む声は多く聞きますが、
私としては、一人でも多くの方がそういった何の為にもならぬ後ろ向きな醜い感情より、
その原因を訴求し、少しでも解決に向かって頂けるやうな前向きな明るい未来を目指して頂きたいと
強く思う今日この頃で御座います。


では挨拶をw

2005年04月07日 00時04分11秒 | 無名人
 自分は、不肖ながら無名之会 代表を務めさせていただいております無名人(むみょうじん)と申します。
私は、自らの立場を行動の先頭に立つ「旗振り」と認識し、そのように呼んでおります。 


自分は現状において、ごく当たり前のようになっている声の大きなものだけが論ずること、
その論のみが、主体となってまかり通ることを認めるつもりもありませんし、
その声の大きさゆえに引き起こされる、各種事柄についてもこのまま放置するつもりもありません。
同レベルに堕ちることを忌み嫌う方は多いですが、
スポーツの試合一つとっても、相手がよほど弱くない限り反則OKのチームには勝てません。
まして今直面している相手方は決して弱くは無いわけですからなおさらです。

方法論の違いがあれこそ、国・文化や郷土を憂える気持ちを持つ方は歓迎いたします。
それがたとえ他国の人であったとしても、お互いの国や文化を尊重し認め合う関係は、
ぜひ目指すべきものです。

しかし相手が我々の文化・文明や芸術等はおろか、民族の出自までを片端から自国発祥と言い募ったり、
すべて自分の文化圏の中で起こっている一地方の事の様に言われてまで、その方たちと解り合う努力は難しいでしょう。
日本人の美徳でもありますが、和を尊び、いつまでも様子見をすることが即ち反国益となる以上、
その主権者である国民、つまり自分達に帰ってくることですから。

もちろん「大言壮語」する事の問題性も大いに考えるべきことですが、
そのこと自体、現状の全体的に声の小さきこと(相手に対するプレッシャーの欠如)が引き出してしまった結果であると考えています。

その結果としての集まりが『無名之会』です。
まず小さき事からでも、見逃さず、たとえ微力ながらも抗議を続けていく。
この姿勢を崩さずにこれからも皆さんの協力を仰いで生きたいと考えております。



自分の行動を「笛を吹く」と表現された方もいらっしゃいましたが、
結果から言うと、その危険性は重々認識しています。
だからこそ、自分は、今このタイミングで旗を振リ始めたのです。

自分が恐れるのは、よく「日本人は極端である」と評されるような日本人の特質そのものです。
今、旗を振ることは、少し早いとの意見もあります。
いわゆる、もう少し追い詰められれば、日本人は底力を発揮する。と云う考え方です。
しかし余裕のないその状況、それこそが、
指摘されるような極端な方向性に一気に舵を切る危険性を孕むのではないでしょうか。

自分は、政治は常に民意の裏付けの元にその方向性を決めるものと考えています。
現在の、 『誇りと恥』も忘却された危機的情勢は悲しいかな、その民意の背景を受けた結果だと思っています。

同時に現在に至り、
「このままではいけない」「何かが違う」と云った現状に懐疑的な目を向ける
今までとは異質な民意が醸成されつつあることも事実です。

しかし本質的な民意の醸成は数年で出来ることとは考えていません。

自分はそうは思っていませんが、
大多数の人々が感じているであろう、まだ余裕のあるうちに動き始めねば、
切羽詰った状態で選択を迫られた人々が、それこそ急激に極端な方向へ表層的な冷静ならざる民意を切り替える可能性があります。

それこそ、最も忌むべき存在であり、危険視すべきことではないでしょうか?


自分が誰よりも、勉学に励み、知識を持ち、
誰よりも立派な見識とモラルを持つなどとは考えても居りません。

自分より多くのことを学び、
より専門的な知識を持ち、
より聡明なる頭脳を持ち
よりモラルを心得
より真摯な態度で向き合っている方なぞ、山ほどいることでしょう。

その方が、立っていただけるのなら、自分はいつでもその方の為に殉じます。
本来、自分はそういう方を捜し求めその方を補佐することこそが、我が天命と考え行動してきたのですから。

しかしこのタイミングにおいても未だ、自分はそのような方にめぐり合えてはいません。
めぐり合うにはあったのですが、皆様、未来を託すには御年を召しすぎているのです。

しかし、時間はもうなくなりつつあります。

世の企業はもとより政治家、一般の人々に至るまで、誇りも恥じも忘れ、その乱れる事、既に人外のものの感があります。
獣と人を分ける一大要素である「誇り・尊厳・恥」をかなぐり捨てたこの状況をこれ以上続ければ、
いずれ、限界点に達した存在は自らの重みで自壊するしかない所まで来てしまっていると感じています。


旗を振るものは全ての責任を負わねばなりません。
旗を振るものは全ての攻撃の矢面に立たざるをえないでしょう。

そのような動きと利害が一致せず、快く思わぬ輩は、その動きが始まったばかりのうちに、
旗を振りし者を撃てば、ほぼ確実に動きを減殺出来ることを知っているでしょう。

自らが選びし道を自分は信じています。
しかし自分が正しいかどうかなぞ自分で判断することではありません。
人の存在は、他者がその存在を認めて始めてその存在意義が発生すると考えますし、
自らの行動を自らが評価するなぞ、単なる自己満足に過ぎません。

しかし誰も旗を振らぬ今、誰かが覚悟を決めて旗を振らねばならぬのです。
その者は、実質的な意味では人身御供になるやもしれません。
その危険性を感じているからこそ、
いまそこに厳然としてある危機に対し、
誰もが真っ向から旗振りをすることに躊躇しているのではありませんか?

自分はその御方の出現を待ち望んできました。

しかし、事ここに至り、もう間に合わないと感じているのです。

無名之会は、気楽に現状を語り合い話し合うことにより混濁した問題点を明確にし、
認識を深め、偽りなき見識を醸成し、「誇りと恥」を取り戻して頂く事を目的として常設するものです。
その緩やかな集まりは、諸般問題が発生した際、即時に抗議等を行えることを目的とすると同時に
良き道義的指導者が現れた際、即時に応援体制が取れることを願って、
その基本ベースとなる「誇りと恥」について事前に認識しておく事を目的としています。
自分の考え主張点の重さは、その中の一参加者となんら変わるところではありません。
私一人の知識・見識なぞたかが知れていますし、
自分ひとりの考えで打開できるほど、この危機は軽いものではなく根源的なものなのですから。

しかしその結果導き出される結論により発生する責務に対しては、
発起人である自分ひとりが被る事を当然と考えています。
そうすることのみにより、皆様に勇気を持って参加していただけると信じています。

私、無名人は自らの行動を信じて旗を振ります。
小さな笛の音ですから、なかなか聞こえ難いかも知れません。
ですからこそ、その笛の音が典雅に響き渡るよう、
皆様のお力添えを頂けることを心から願って居ります。




最後に、駄文・拙論を最後まで御目通し頂いた皆様に重ねて御礼申し上げます。