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無教会全国集会2022

2022年度 無教会全国集会ブログ

東京から

2023-04-06 11:20:44 |  東京から

『キリストの平和』をめざして

(前編)89歳がなぜ政治活動とコンサルティング活動をするのか?
(後編)非暴力不服従思想のボンヘッファーがなぜヒトラー暗殺計画に加わったのか?
    ~それは罪でなかったのか?

大西 宏

プロフィール
〇企業で研修部門、ガンバ大阪創設、大学で「経営学」担当後 執筆・講演・コンサルティング
〇日永聖書集会ののち聖書と内村鑑三に学ぶ会(大山綱夫代表)
〇国会議員後援会幹事長、町田市民連合選対副本部長、99%経済政策フォーラム副代表、企業コンサルタント

(前編)89歳がなぜ政治活動とコンサルティング活動をするのか?

(はじめに)
 まず、私の今の、老人としての人生観について述べます。 
 青春の条件として、自由、情熱、夢、チャレンジ、反抗という要素が挙げられますが、今は政治に対する怒りが加わって、大学受験や就職試験で自由がなかった10代の青春よりも、それらの要素が際立って、今のほうがもっと青春という気がします。もちろん、体力や記憶力は老残そのものですが。
 しかし、無教会信仰がなければ、神様以外の何者からも自由というわけにはいかず、政治に対する怒りもそれほどでなく夢も情熱もチャレンジもなく、サッカーのことばかりで盛り上がっていたかもしれません。

1.なぜ政治活動とコンサルティング活動をするのか?

 無教会信徒として義に背き、愛をおろそかにして到来した国家的危機を傍観できないからです。詳細は差し控えますが、その国家的危機とは次のようなことがらです。
 まず政治面では、「経済沈没」「産業衰退」「格差拡大」「国債危機」「年金危機」「少子化」「環境危機」「平和危機」「立法府のまひ」「行政・司法の機能不全」「議員の堕落退廃」「多くのメディアと国民の体制同調傾向」「男女不平等」…いずれも先進国中際立っています。
 ビジネス面についても、「タテ支配とムラ社会」による人々の精神の抑圧による技術・商品開発の低迷、したがって企業競争力の衰退が目を覆うほどです。
 このような日本の国家的危機を見て矢内原ならはどういうでしょうか。「日本滅びよ」とは言わなくても「覚醒せよ、立ち上がれ」というと思います。
 私は、戦前戦後を知る老人として、「戦前とそっくり」と心配し、「戦後の経済発展を担い、平和を守ってきたことの崩壊」を無念と思うほかありません。
 そのような状況ですが私は決して絶望してはいません。それは無教会信徒であるからです。

2.無教会信徒として感じる力とは?

 次に述べることは、いくぶんそうありたい、そうあることができるという当為を含んでいますが、
1)出欠について聖書の声を聴き祈りながら言動するとき、神以外何者からも自由という気分が与えられます。
2)聖書(真理)の教えとつながっていると思えば、やがて周りが動く、動かせるという気持ちになります。
3)イエスが大祭司団と戦われ十字架で殺害されたと思うと、自分も戦いたいと思うことができます。イエスが十字架によって、敗北も絶望も苦痛もすべて体験され、私たちの体験をそのまま、いやそれ以上に受け容れて復活され、命を与えてくださったと思うと苦戦してもいても限りない力が湧いてきます。
4)演説やデモで、自分にも考えられない力が湧き出てくるときがありました。

3.創造主から与えられた戦う武器

 神が歴史を支配されているか介入されているかどうかは別にして、私は創造主が私たちが戦うための武器となる法則を備えてくださっていることを確認できます。これは内村の「正義は破れて興り、不義は勝ちて滅ぶ」(内村鑑三 1898年11月「東京独立雑誌」)、ボンヘッファーが「歴史に内在する正義」という言葉と通じるものです。
1)歴史の世界ですが、自分を神格化して独裁した指導者で滅んでいない指導者はありません。
2)平和に関して言えば、アジアの国々に対して正しい歴史観によって侵略を詫び、義と愛による外交や経済・文化交流を行えば必ず緊張は緩みます。
3)経済の世界でも、非正規雇用など虐げられている人々を不条理から解放し愛によって支えれば、
4)一部の人々の不利益が生じても、賃金レベルが上がり消費や設備投資が増えて、その結果全体がよくなります。
5)経営の世界でも、タテ支配やムラ社会によって抑圧されている人々を愛によって自由にすれば、上層部の我慢は必要だけれど、ヒット商品の連発や生産性の向上で経営が必ず立ち直ります。
 以上のような「義と愛を行えばこの世がよくなる」という法則があるのに、実現しないのはなぜでしょうか。それは、権力者が自分の権益を守ろうと必死になっていること、彼らの欲や偽善に被害者の大多数の庶民が、無知や隷従によって騙されたり、彼らのプロパガンダによって個人の責任として抱え込んでいるからです。ここのところを改める「戦い」が必要です。

4.戦う

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネによる福音書3-16)
 そして、イエスは地の国を支配する大祭司や律法主義者と戦い十字架に架けられて殺害されました。イエスは戦って私たちと同じいやそれ以上の苦悩を体験されそして復活され、私たちにも生命を与えられました。その命をムダにせず、イエスに倣って私たちも戦わねばなりません。
 今の状況に私は時に絶望的になりますが、神様は歴史を支配し介入しておられるかどうかは別にして、前述のような法則は現に存在し、弱いもの、貧しいものとともにおられることに変わりはありません。
 結果は餅のようにタナからおちてくるのでなく、イエスのように戦わねばなりません。必ずしもハッピーエンドでないかもしれません。しかし、私たちが神様に受け入れられた事実、与えられた命が失われることはありません。

5.どのように戦うか?

1)ヘビのように賢く、ハトのように素直に

 私は次の聖句を想起します。
 「私があなたがたをつかわすのは、それは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、ヘビのように賢く、ハトのように素直であれ」(マタイ10・16)
 まず、私たちは、「清き手段」による成功の可能性をぎりぎりまで追求することができます。つまり、商売なら経営努力によって他より廉価にできる。価格が少し高くても価値をうんと高くすることができる。結果として会社として他以上の利益がでる。労働分配率を高め、経営力がますます向上する方途へ投資する。役員報酬もよくばらない。子孫に対しては「美田」を遺さず。高尚な生き方を遺す。

2)科学を軽んじない信仰

 矢内原は「本当の信仰は科学を軽んじない。反って科学研究の興味を呼び起こし、真理を探求するものとしての科学的精神を鼓舞しかつ困難に屈しないで研究を続ける気力を供給する。次元の違うものとして科学はあくまで科学的方法によって、追求すべきである。」と述べた。この矢内原の「科学」を「商売や経営のありかた」と置き換えることができます。
 これが、いったんは、「ヘビのように賢く、ハトのように素直な」生き方と思います。
 しかし、良心的な企業家であってもリストラをせざるを得ない時があります。まったく自然破壊に加担していないと言い切ることはできなないはずです。また私が接する政治家はほとんど全員がキツネかタヌキのところがあります。かれらと付き合うのは、こちらもどうしても、ヘビのように狡く(こすく)ならねばならない。潰されたり逃げたりしていては、この国に踏みとどまって戦えないからです。これはジレンマです。
 ここに内村の言葉があります。

3)失敗するものならば立派に失敗を

 「成功を度外視して商売に従事することであります。成功するものであれば真正に成功します。失敗するものならば立派に失敗します。清き手段をもってした失敗は名誉であります」(内村鑑三 明治42年1月「櫟林集」)
 ところが、現実の世界では失敗を許されない。倒産すれば、世間に迷惑という罪責がある。したがってそうならないように努力しなければならない。
 生き残ろうとすればどうしても、程度の差はあっても、聖書の教えに背かざるを得ません。それでも、内村の言葉は「無理難題」であっても決して間違っていないと思います。
 とはいっても、私たちが強欲や自然破壊の同じ穴の狢(むじな)やミイラとりがミイラになってはいけません。そこでまだ諦めてはいけない。どうするか。

4)おおかみがいなくて、狡いヘビにならなくて済む社会を目指す

 内村は言う。「社会主義奨励すべし。然れども之を基督教的に奨励すべし」(明治34年5月20日「聖書之研究」9号)
 キリスト教的社会主義とはなにか、ここで詳しく述べることはできません。
しかし、明白なことは、格差拡大、自然破壊…大きな矛盾をはらむ今の社会システムは変革されねばなりません。資本主義が社会主義的要素を取り入れつつあるのは周知の事実です。しかし資本主義はどこまで行っても金銭欲を求めます。これを修正するだけですむでしょうか。私は、社会主義に関心を持たざるを得ません。
 ただし、それは、「中国共産党のような独裁的国家資本主義」とは真逆の、そして、本質的に宿命的に、あるいは自転車操業のように「利益最優先」で「どうしても格差を広げ」「どうしても環境を破壊して」やまない強欲資本主義でなく、市民が市民のために市民の手によって政治しビジネスする社会です。
 この社会をドライブするのは、金銭欲一辺倒でなくて、愛他心・連帯性(ボランティアマインドのその萌芽があります)、自己実現欲や創造性(タテ支配やムラ社会の抑圧から解放された自由な心)です。
 貧しい人(といっても大多数を占める大衆です)を解放し主体とする社会を構想したのはマルクスでした。そこには正義と愛情、それに科学がありました。あきらかに戦争を遠ざけ自然破壊をやめさせる願いがこもっています。
 イエスも弱いもの、無力なもの、身分の低いもの、無きに等しいものを選ばれました。そこには剣を捨てさせ、大自然の前に人間のおごりを打つ神の義と愛それに知恵(第1コリント・27―31にそのような記述があります)。
「切り捨てご免」や「封建的な鎖や呪術」の封建社会をそれよりはよほどましだった資本主義社会を誕生させたのは、「天国に財を積むために勤勉に働いたプロテスタントたち」でした(「プロテスタンティズムと資本主義の精神」マックス・ウェーバー)。その後強欲資本主義者たちに取って代わられたけれど。
 キリスト教的社会主義とは、聖書の精神とマルクスの科学をつなげたものと言ってよいと思います。
私たち無教会信徒は、日常「どのように生きるのか」だけでなく、「どのような社会をつくるのか」を考えねばならなりません。

5)夢物語にはしない

 それを夢物語ではありません。そのためのヒントとして私がおすすめするのは、「日本共産党の綱領」ではなくて斎藤幸平氏の「ゼロからの資本論」(NHK出版)です。柔軟に具体的に述べています。穴は多いが若い学者が希望をもたらせてくれます。
 内村が示した方向と矢内原の忠告に励まされ、私は浅くても与えられた信仰と長い実践体験、それに少しはかじった科学を動員してわたしなりにその穴を埋めたいと思っています。

6)人間の転換

 そして「どのような社会をつくるのか」の科学を考える時、今一度「どのような信仰を持つべきか」を考えなければならない自分がいます。私も含めて人間の精神そのものが転換しなければ、そのような社会は実現しません。実現しても問題が残るでしょう。そのことに関して後編でボンヘッファーに学びたい。(前編終わり)

(1)無教会信徒として国家的危機を傍観できない
 「義に背き、愛をおろそか」にして到来した国家的危機の内容とは?どう対処すべきか?

(2)無教会信徒の力を感じる点
  ①自由であること
  ②周りが動く、動かせる
  ③実感する神の見えざる御手

(3)無教会信徒として私の行動基準

(4)無教会信徒の悩み
  ①この世に生き残るために「罪」は許されるのか?
  ②「罪」を犯さざるえないことを少なくする社会をめざす(「キリスト教的社会主義」とは?)

(後編)非暴力不服従思想のボンヘッファーがなぜヒトラー暗殺計画に加わったのか
   ~それは罪でなかったか?

1.ボンヘッファーの信仰の中心点は?
 信仰のキーワード 神への服従
 (引用するボンへッファーの言葉は、「ボンヘッファー…村上伸」「同タイトル…宮田光雄」から得ていますが、私が要約した部分があります)
 ボンヘッファーは、牧師・神学者としてナチスに抵抗し、反ヒトラーグループのいた軍隊(情報部門)に入り、ヒトラー暗殺計画に加わったが果たせず処刑されました。聖書と社会への向き合い方で圧倒されるほどの説得力があります。それに神の実在感が凄いです。無教会の「神との直結」に対応する彼の信仰のキーワードは「神への服従」です。

 ボンヘッファーの信仰の中心点は「神の義と神の国」にあります。ご利益を求めることに甘んじる救済宗教とは対極的です。彼の言葉を聞きましょう。

1)聖書に向かう姿勢
 「聖書をただ読み意味を考えるのでなく、聖書の方から語りかけてくる真意を聞かなければならない」

2)聖書と社会に向かう姿勢 戦わねばならない
 「山上の説教は、あのころ、そこだけのキリスト教道徳の範例ではなく、復活して今も生き続けるキリストの言葉である。今この状況においてキリストは我々にどのような決断を求めているのだろうか」

「教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。精神の救いや社会奉仕することだけでなく、『十字架を抜きにした安易な恵み』と戦い、『この世の悪』と戦わねばならない」
「神は、弱さにおいてだけでなく力において、罪や死の問題にとどまらず、生の真っただ中において、知恵と力を与えてくださる。聖書の信仰は「救済宗教」にとどまらない。神は、世界の歴史に介入し、歴史を動かし、神の支配を打ち立てる。地上における「神の義と神の国」こそが信仰の中心点である。

・神の助けは彼の弱さと苦難による
 無教会の先輩たちは、まさに個人の悩みに対処するだけでなく、生の真っただ中で「神の義と神の国」のために戦いました。私たちもそうでなければなりません。
 しかし、もともと弱くて困難な道を歩み挫折する私たちに対して、ボンヘッファーは証言します。
「神の助けは彼の全能によってでなく、彼の弱さと苦難による。そしてその弱さゆえに勝利者となった。この世の生活の中で神の苦しみにあずかることがキリスト者をつくる」

・理想の社会であっても個人的悩みは存在する
 私には、個人的な悩みが、社会全体のことについて憂慮する以上に自分を苦しめることがあります。
 また、いくら義と愛のある社会が実現したところで、いくら科学・医学が進歩を遂げたところで、病苦・死別・挫折…などの個人的な悩みは存在します。上記のボンヘッファーのラストの言葉は、そのことに対する答えでもあると思います。

2.信徒でない人で、人間的良心が信徒である私を超えると思える人たちがいる
・信仰がなくてもかくもよく生きている人々
 ボンヘッファーは、ヒトラー政権打倒のため、ドイツ軍諜報部に潜り込んだのですが、その時につきあったキリスト信徒でない将校たちの人格や倫理に驚きながら強い敬意を持ちました。
「彼らはヒトラーと妥協した教会の多くの人々よりもこの世のことを真剣に考えていた。彼らは信仰がなくてもかくもよく生きている」
 私は、地域の立憲民主党と日本共産党の連帯のパイプとなっていますが、共産党員の中で私がボンへッファーと全く同じ感情を持つ相手が多くいます。キリスト教的良心と人間的良心は違うものではありますが、信徒の良心は人間的良心を超えるものでなくてはなりません。

・彼らはイデオロギーを信じ、私たちは神を信ず
 彼らはイデオロギーを信じ私たちは神を信じます。しかしイデオロギーとはいっても、その中身は「貧富をなくし貧者を救う」という正義と愛を含みます。彼らの行動を伴う強い「願い」は、私たちの「祈り」に通じるように思います。彼らの願いと私たちの祈りがどう違うのでしょうか。
 彼らは信念が強く自己肯定が強くある、私たちは神の前に自己否定が強くある。しかし私たちも信念が弱ければ神の国を戦えない。しっかり、聖書の声を聞き、真剣に科学(社会科学を含む)を追究し、現実を理解し、しかも神の前に自己否定を重ねるが故に、信徒の信念がだれよりも強くなくてどうしよう。ボンヘッファーが暗殺計画に加わったドイツ軍の将校たちのよりどころであったように。

・非信徒も奥底で神を信じている
 さらに、ボンヘッファーは「非信徒も心の奥底で神を信じている」と重大と思われる発言をしています。「私たちがそうであるように、本当に行き詰ったときは、彼らも「イデオロギー」でなく「神様」に祈るのでないか」

・無教会信徒に求められる「義と愛を求める人をつなげる」役割
 非信徒であっても、このように神様とつながっています。神様は非信徒だからと言って、彼に寄り添わないことはありえない。私たちは、もっと世界を広げ信徒でなくても義と愛と平和を求める人々と連帯しなければなりません。幸い外形的な宗教色の少ない無教会の信徒はそのことがやりやすい条件にあり、その使命を担うべきです。歴史的にも現在でも、無教会には伝統的にそのような人が多い事実があります。それは、神に直結する無教会信仰から言って当然でしょう。
 信徒を増やすことと共に、ボンヘッファーや内村や矢内原がそうであったように、正義と愛、平和を目指す人たちの心の中軸でなければならないと思います。

3.ボンヘッファーは自身のヒトラー暗殺計画を聖書に照らしてどう考えていたのか?
・「神に服従する者の罪責」はイエス・キリストも担ってくださる
 彼は、非信徒の将校から「相手がヒトラーといえども殺したら神から罰せられないのか?」と問われて答えました。
 「『汝殺すなかれ』『剣を取るものは剣によって滅ぶ』…いう聖書の言葉は、ヒトラーにこそ向けられるべき言葉だが我々にも当てはまる」と彼は決してヒトラーを殺すことを肯定していません。「我々は、ヒトラーの暴政を言論で、反対運動で、選挙で、クーデターで止めることができなかった罪責を負う。またもこの罪責を犯すことは許されない。」
「ここでまたヒトラーをそのままにして何百万人たちが殺されるままにするのも罪責だ」
「しかし、両方とも罪責だが、『神に服従するものの罪責』はイエス・キリストも担ってくださる罪責である」と答えました。

・死に属しているものの、今日この日が奇跡の中で
 ボンヘッファーにとってのそのころの現実は兄二人が戦死し、ユダヤ人600万人の虐殺も進んでいました。彼自身もいつ逮捕され処刑されるかわからず「自分も死に所属している。今日この日が奇跡だ」と記しているような状況でした。彼は今、この時、ギリギリのところで、神の声にしたがって罪責をあがなうために罪責を犯したということとなります。
「汝殺すなかれ」も「悪人に手向かうな」も、彼にとっては、依然として聖書の本質であり続けました。この間の消息を、宮田光雄さんは次のように表現しています。
「原則主義的な平和主義者でなく特定の歴史的状況における信仰的服従によって平和を実現しようとした」「責任を伴う自由な信仰の冒険」
 以下は、暗殺計画の文脈のなかでボンヘッファーが語ったことではありませんが、先に述べたことをウラヅケしていると思います。

・同じ道行き
 「キリストは彼と出会う一人ひとりの人間を愛した。安息日に治療を行ってはならないという掟があるのを知りながらそれを破った。彼は愛のために「手を汚すこと」ができた。罪なき者として、イエスは兄弟たちの罪を引き受け、この罪の重荷の下で彼は自ら罪なき者であることを証しする」(この辺りの消息を今回の全国集会の感想文の中で「イエスとボンヘッファーの道行きは同じ」と述べた参加者の方がいますが、この表現は私の心に突きささりました)。

それでも自己肯定化を恐れたボンヘッファー 人は神による許しと慰めの約束なしに生きられぬ
 しかし、それでもなお彼は、自己正当化を恐れていました。「自由な信仰の行動も罪ある内容かもしれない。したがって、人は神による許しと慰めの約束なしに生きることはできない」

最後に…、

・生命の始まり 勝利は確実
 彼が処刑されるときに、囚人仲間に語った言葉をその仲間が伝えています。
「これが最後です。しかし、私にとっては生命の始まりです。そして私たちの勝利は確実です」
仲間が述懐しています、
「彼は、牢獄で常に快活で、自分が今生きている事実だけでも感謝している風でした。私が出会った人の中で、最も神が目の前に実在することを感じさせる人物でした」

以上