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無教会全国集会2022

2022年度 無教会全国集会ブログ

福岡から

2023-04-06 11:28:14 |  福岡から

「平安は聖書を読むことによって」

鎌田 厚志

プロフィール
大学・短大・専門学校で非常勤講師をしています。無教会主義キリスト教の信仰は、8~9年です。それ以前は長く仏教に興味を持っていました。最近の関心事は、旧約聖書の雅歌です。趣味は読書です。遠回りしてたどり着きましたが、無教会主義キリスト教が自分にしっくりときています。信仰も人生経験も浅い者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

私は信仰も人生経験も浅く、「キリストの平和」について完全に理解した上で人に話すことなど到底できない身である。しかし、私が今現在なんとか無事に生きており、心に平安を感じることができているのは、キリストの福音と、その学びの場である福岡聖書研究会および無教会のおかげと感謝している。ゆえに、自分が感じている「キリストの平和・平安」について、あくまで自分にとっては、ということで述べさせていただきたい。
 まず、聖書における「平和」という言葉は、ギリシャ語の「エイレーネー」(εἰρήνη)とヘブライ語の「シャーローム」(שָׁלוֹם)の翻訳である。各種の聖書の日本語訳の中で、協会共同訳などではそれらの語が「平和」と訳されている。一方、新改訳2017などでは「平安」と訳されている。
 さまざまな国語辞書を引くと、おおむね「平和」と「平安」は同じ意味のことが記されているが、日本語の場合、平和は戦争がないという外的秩序に関わる意味合いが強く、平安は内面の安らぎと関わる意味合いが強いと思われる。
 聖書においては旧約と新約を貫いて「平和」(平安)が大きなテーマの一つであるが(民数記6章24~26節、ヨハネによる福音書14章27節a)、それでは、内面における平安と外的な平和の関係はどう考えるべきなのだろうか?この問題について考える時に、私に大きな手がかりとなってきたのは、塚本虎二の「平安から平和が生まれる。その反対ではない」という言葉である(「平和と平安」『塚本虎二著作集続 第五巻』28-29頁)。
 私は塚本の意見に同感である。そして、個々人の心の中に安らぎや平安がないのに、本当の平和をつくることはできないと思われる。歴史上、革命やテロなど、本来は平和や正義を目指したはずの社会運動が、かえって粛清や大量死をもたらした事例は多い。
 宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ったが、その一方で「個人の幸福や平安がなければ、世界ぜんたいの幸福もありえない」ということも真実と思われる。「平和を造る人々は、幸いである」(マタイ5章9節)とは、自分自身が平安の人であるから周囲に平和をつくることができる人のことだと思われる。

 しかし、それでは、自分自身に平安はあるか?と問うと、到底自分の中に完全な平安などないとしか言えない。私は今までの人生を振り返ると、多くの場合、さまざまな不安や焦りや苦しみや悲しみなどが次々にあり、平安とは到底言えないことが多かった。
 ただし、自分の心に全く平安がないとも言えない。聖書の言葉を読む時に、平安を得るからである。毎週日曜日の集会の時に、讃美歌を歌い聖書を学ぶ時に、たしかに心に平安と喜びを感じているからである。
 だが、私も含めて現代日本人には多くの不安がある。戦争や飢餓がない現代日本も、だからといって不安や悩みがないわけではない。過去の時代とは異なる現代日本特有の生きづらさがある。これはしばしば言語化しにくいが、普通に生きることの難しさ、ということが大きく存在していると言えると思われる。現代日本では、普通に就職し、結婚して、子どもを持つという、かつての人生ではわりと一般的だったことが、かなりハードルが高くなっている。非正規の仕事の割合が高まり(現在約四割が非正規)、未婚・晩婚化が進み、無縁死や孤独死が増加している。
 今の日本では、いったん転落したり、普通のルートから外れると、挽回が難しい。比較的安泰な人も、いつ転落するかもしれない不安がつきまとう。非正規雇用等々のためかつての時代では考えられないほど不安や焦りや絶望を感じている人々は多い。また、いま順調な人も、誰であれ老いや病や死の苦しみや不安を完全に免れている人はいない。

 そのうえ、現代では「自己責任」論が蔓延している。世間一般が「普通」とみなすルートに乗れるかどうか、健康や経済的な安定や結婚などの達成は、かなりの程度運や環境にも左右される。積極的な挑戦や努力には、背景としての経済的基盤の有無も大きい。しかし、自己責任論の蔓延により、本人の努力や能力の不足に還元されがちである。そのため、本人も周囲に助けを求めることをやめてしまい、周囲も冷淡な対応に終始する場合が多くなってしまっている。助けを求めにくい社会、と言える。

 こうした状況の中で、これらをよく知ったうえで、なおかつ私が絶望に完全に呑まれない大きな理由は、聖書の信仰があるからである。聖書を読むことで平安を得ているからである。
以下、私を勇気づけてくれる信仰と聖句を列挙したい。

 「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。/あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」イザヤ46章3、4節

 この言葉を読むたびに、主が担ってくださること、自己責任ではないこと、私を背負って救い出してくださる、主の存在に勇気を与えられる。


「心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。/どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3章5、6節
「人の道は主の目の正面にある。/主はその道のりのすべてに気を配っておられる。」箴言5章21節
「人の歩みを確かなものとするのは主である。/人間は自らの道について一体何を見極められるのか。」箴言20章24節

 これらの言葉を読むと、自分の人生は主の配慮のもとにあること、自分にはよくわからず、意味がないように見える道のりも、主のはからいの中にある、ということを思い起される。このような、この世界や人生が主のはからいの中にあるということを、トマス・アクィナスは「統宰」(gubernare)と呼んだ。この言葉は船の舵取りのことであり、神がこの全宇宙の舵取りをし、大きなはからいをしているということである。この「統宰」ということを思う時、私は小さな自分から解放されて、大きな安らぎを得る気がする。統宰と同じ意味のことは、無教会では「経綸」と呼ばれてきた。福岡聖書研究会の大先輩の的野友規さんも『わたしの回心の記』という回想録の中で、戦時中に太平洋南部の孤島から奇跡的に生きて帰れたことをはじめとした波乱万丈の人生を振り返り、すべてが「神の御経綸の中」にあったと記している。「人を裁くな」(ルカ6章37節)、「明日のことを思い煩ってはならない」(マタイ6章34節)ということも、神の統宰を前提にした時に、はじめて私には腑に落ちる。

 それでは、万物を統宰する神の御心を詳しく知るには、どうすればいいのだろうか?キリスト教においては、神の御心はイエスにおいて現れたと受けとめる。イエスを見れば、神とはどのような方かがわかる。
 イエスとはどのような人だったか?あらゆる人に対し、へだてなくあたたかく優しい人だった。らい病患者等にも隔てなく優しかったが、政治的主義主張にも全くこだわらなかった。ローマ軍の百人隊長の子を癒した(マタイ8章)。ヘロデ王家に仕える人も弟子にいた(ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、ルカ8章3節)。熱心党という反政府勢力の弟子もいた(マタイ10章4節)。ファリサイ派の人の食事の招きにも応じている(ルカ7章34節)。サマリア人や異邦人にも救いの手を差し伸べた。
 このような、あらゆる枠組みから自由なあり方は、私たちには極めて難しい。現代社会においては分断が進み、特定の主義主張による敵対や排除はよく見られる。しかし、イエスはあらゆる人を包容する人だった。十字架の贖いはその極みであり、すべての人を包容する神の愛を示している。
 神の「バシレイア」という言葉は、通常「神の国」と訳すが、井上洋治は「神の包容」と解釈し、ふりがなを打っている。(『井上洋治著作選集別巻 井上洋治全詩集 イエスの見た青空が見たい』日本キリスト教団出版局、2019年、155頁)。
 私たちはすでに神の包容の中にいるのであり、十字架の贖いの信仰とは、神の包容の中にいることに気づくことで、この神の愛の包容を知った時、心に平安・平和が生まれるのだと思う。キリストの十字架の贖いを信じると、罪(ハマルティア、的外れ)から解放され、神の統宰と包容の中にいることに少しずつ目覚め、実感し生きていくことができる。
 たとえば詩編の121編を読むと、主がいつも必ず見守り、守ってくださっていることを思い出す。ゆえに、安心して、自由に生きることができる。そして、主に守られた人は、今度は自分が誰かを見守ったり、できる範囲で足がよろめく人を助けたり、お互いに支えあうことができるようになる。まず神の包容があり、それに気づくと、そうであればこそ、相互の愛が始まる。十字架の贖いの信仰とエクレシアとは、そのような関係だと思う。
 人類の歴史においては、宗教がかえって神の統宰を忘れた自力の修行や規則の体系と化したり、特定の思考の枠組みや価値意識をつくって差別や敵対を増幅させてきたこともある。しかし、無教会はそうした枠組みから自由になることを目指すものではないかと思われる。ただ信仰のみで、神の包容に気づき、人は誰に対してもイエスのような共感や愛をめざして歩み始めることができる。そこに平安と平和がある。
 人生においては、小さなことに大きな愛をこめて行えば良いのだと思う。幸せは、小さなことの積み重ねの中にある。小さな愛の積み重ねこそが本当の意味で世を変え、平和にすることができる。神がそのすべてをいつかきちんと生かしてくださる。私は無教会のおかげで、こうした道を指し示してくれる聖書に出会えたことに感謝している。