「私のキリストの平和-私の歩みから-」
西澤 正文
プロフィール
大学4年の秋、医師誤診により入院。その間実施された教員採用最終面接受けられず、教員を断念し清水市役所就職。挫折感を満たすため職場で朝日ジャーナル定期購読。同紙上で矢内原忠雄、無教会、キリスト教、浜松市在住溝口正氏に出会い、1975年浜松聖書集会参加。1976年溝口氏から清水聖書集会を紹介され集会参加。2000年頃より同集会代表。1998年発足以来現在まで、十字架の福音を伝道し、また伝道者を派遣するキリスト教独立伝道会会員。
大学時代の様子を少し話させていただきます。
1970年(昭和45年)経済学部に入学した私は、家が貧しかったこともあり、貧困家庭が生まれる資本主義経済構造について知りたい、それならマルクス経済を専攻しよう、と決めました。ゼミナールの指導教授と初めてお会いした時「就職の時、不利になるが、そのことを覚悟して決めなさい」と、念を押されました。そこまで気を使われる教授の心遣いが心に残り、迷いなく決めることが出来ました。 その年の11月に入ると、両方の肺が同時に自然気胸を起こし入院しました。丁度クリスマスの日、見舞いに来た父が、その3日後に亡くなりました。長男の宿命か、父の死亡後、親戚の人たちの話合いにより、留年せず4年間で卒業すること、卒業後は郷里・清水で就職すること、この2つの条件を付けられ復学を許されました。
年が明けるとゼミの教授が見舞いに来られました。その時、心配のあまり「留年しないで卒業しなければならず、受講している教科の単位が取れるか心配です」と伝えました。その後、教授は私が受講している教科の先生方一人一人を訪ね、前期テストだけで評価してほしいとお願いに回られていたのです。教授のお陰で全ての単位を取ることが出来たのです。
卒業後、清水市役所に就職し、職場で朝日ジャーナルを定期購読しました。当時、「父・矢内原忠雄伝」が、長男・伊作氏の執筆により連載中でした。読むうちに矢内原忠雄に惹かれました。その週刊誌に浜松市に住む溝口正さんの記事が目に留まり、即連絡を取り、浜松聖書集会に出席を許されました。半年後、溝口さんは、清水聖書集会を紹介され、集会代表の石原正一さんを訪ねなさいと言ってくださいました。
就職したら、静かに仕事に打ち込もう…そんな思いがもろくも壊れました。当時、日本はまだ高度経済成長の熱気が少し残り、組合活動が活発でした。組合役員は共産党支持者一色。これでいいのかと思い、就職2年目に組合執行委員となりました。若造の私は、始めから相手にされず、委員長をはじめ組合専従職員からも嫌がらせを受け、2年間で辞めてしまいました。
私の係長も共産党系一色の執行部に不満を持ち、堂々と批判しました。係長は人の話をよく聞く人で、人望が厚く、組合に不満を持つ多くの職員が、係長を訪ねて来ました。集まる人皆が穏やかで、主体性があり個性的な人たちばかり。その大らかな雰囲気に惹かれ、私も仲間に加わり、夜の公害反対の勉強会に参加しました。その内、成田空港建設に反対する農民の応援に行こうと話がまとまり、反対闘争を続ける三里塚農民の援農作業の支援に出掛けました。夜遅く清水駅から東京行きの東海道線乗れば、駅に停車する度に我々と同じような人たちが乗車。警察官の姿もチラホラ目に留まり、尾行されていることは明白でした。
その後間もなく、清水駅近くの東亞燃料清水工場の「石油タンク増設計画」を知り、東海沖地震の危険から、また大気汚染反対の立場から公害勉強会をする仲間と共に日曜午後の増設反対のデモ行進に参加しました。
日曜は、午前、清水聖書集会の礼拝に出席、一度家に戻り、午後、勤務先の清水市庁舎玄関前に集合し、商店街を通り清水駅までデモ行進しながらビラ配り。夜、デモ仲間の空家に集まり、次回配布のビラ作り、プラカード作りに励みました。仕事のある平日よりも忙しい日曜日を過ごしていました。
清水駅に近い清水聖書集会代表の石原さんの家にも何度かビラを届けました。ある日曜日、礼拝会場が石原新聞店2階のため、階段を登り切った正面事務所の机の上の「紙ひこうき」が目に留まりました。事務所入口に近寄ると、その紙ひこうきは、何と私が届けたビラでした。正直、大変ショックでした。
就職したら静かにしていよう…この考えが、市民運動、組合活動、有志との勉強会に明け暮れる毎日。人事当局にチェックされている職員である事は百も承知。ここらで頭を冷やしリセットしなければ、この先どうなるのか…と思い、人事異動の自己申告書には、「静かで小さな職場へ異動したい」と希望を出しました。その結果、市立図書館へ異動となりました。紙ひこうきが、「暫く頭を冷やせ」と命じたのです。
第3日曜日を除き、月曜日が休日となり、礼拝は月1度の出席となりました。しかし月に1度の月曜日、八王子から岩島公先生を迎える三島集会から、誘いの声が掛かり、出席する様になりました。ある日、集会代表の久留島茂さんから「『みつばさのかげに』という本、若い西澤さんにぜひ読んでほしい」と手渡されました。矢内原忠雄氏にかわいがられ、21歳の若さでこの世を去った川西瑞夫さんの信仰の証しでした。本の中に、矢内原先生の集会から生まれた主婦グループの読書会に参加する「風岡とき」という名前が数回登場。ひょっとして…と思い、勇気を奮い風岡さん宅に電話をしたところ、何とゼミの教授のお母さんでした。この時、既に教授は召されていました。
東京で開かれた図書館職員研修会の帰り、「自由が丘駅前で『みつばさのかげに』の本を掲げる和服姿の老婆、これを目印に探してください」と言われ、お会いできました。その日は、1979年11月30日、私は28歳でした。翌年、風岡ときさんのご自宅で川西瑞夫さんの母・田鶴子さんにもお会いできました。
さて清水聖書集代表の石原さんは、戦争体験され、命を落とすことなく無事、日本に帰還できました。35年間集会を共にしましたが、「わたしは罪人の頭です」が石原さんの口癖でした。心の底からそのことを告白されました。しばしばキリスト教講演会講師に招かれ、戦争体験者であり罪人であることを話されました。講演をお聞きした人から「素晴らしい話しでした」と称賛されたり、英雄視されたりするのを大変嫌っていました。その姿に接し、真のキリスト者の姿を拝見させていただきました。
1994年3月30日から8日間、私は、南京大虐殺被害者追悼献植第9次訪中団「緑の贖罪」の旅に、多摩市の丸山政十さんと共に参加しました。中国滞在中、同じ部屋で過ごしました。部屋に戻り自由時間になると丸山さんは机に向かってペンを走らせていました。「何を書いているんですか」と尋ねますと、「中国を訪ねると戦争中のことが蘇り、孫たちに私の体験した戦争を伝えたくなって、記録しているんだよ」と、言われました。苗木を公園の周りに植える丸山さんの姿は、さながら植木屋職人でした。周辺の伸びた枝も手を伸ばし剪定していました。何かに駆られているようで、声をかけることも憚(はばか)られました。
石原さん、丸山さんと年齢が近い埼玉県蕨市に住む野崎忠雄さんがおらました。今から25年前、今井館で「キリスト教独立伝道会」を立ち上げる時の姿が、印象に残っています。会の方針、目的について色々な意見が出され、中々まとまらない時、野崎さんが立ちあがり、発言しました。全身が小刻みに震えていました。
「信仰を与えられた我々にとって何が最も大切か、それはイエスが十字架につかれ死なれた事、そのことで私たちの罪が赦された事、この罪の赦しの福音を人々に語る事ではないですか。」 心の底から絞り出すように一言、一言話された。その熱いメッセージが会場にいた人たちの心に伝わりました。戦争体験者ならではの重い言葉が、完全にその場を支配したのです。
私の手元に南京大虐殺被害者追悼献植第15次訪中団「緑の贖罪」の本があります。その本の中に、石原さんは5回、野崎さんは6回、丸山さんは11回、中国を訪れた事が記されています。戦争体験者の贖罪の証しの一端が示されています。
現在のロシアのウクライナ侵攻による戦争は、過去の戦争とは異なり、リアルタイムで茶の間に戦場の様子が飛び込んできます。生々しい戦場の様子、深い悲しみを訴える市民の姿が映し出されます。ウクライナの人々の苦悩に満ちた姿を拝見して、私は、3つの御言葉を示されました。
第1は、殺してはならない。 何故なら、地上のすべての人は神により創造された者。創造された者同士がどうして命を奪うことが出来ようか。神は決して人が人を殺すことなど、赦すはずがありません。
第2は、剣を取る者は皆、剣で滅ぶ。 殺すために剣を取れば、回り回って、剣を取った者に剣は降ろされる。剣を取る者全てが敗者となり、勝者は一人もいないと教えています。
第3は、隣人を自分のように愛しなさい。 平和の実現は、憎しみ、殺し合う事でなく愛し合う事。どうしようもない程自分に甘い自分が、自分の如く隣人を愛すること。これこそが平和を実現する唯一の道です。
これら3つの言葉を、神から示されました
・まとめ 今、振り返れば、あの45年前の紙ひこうきは、私に「しっかり神に繋がっていなさい」のメッセージを送っていたのでした。神に繋がっていなければ、自分の貧しい理論で行動しても、結局は自己満足の世界に留まります。この世のことに不義を感じ、あれこれ行動する前に、十字架に帰り、単独者となり神の御前で首を垂れて黙想し、私に進むべき道が示されたその時は、イエスと共に歩め、紙ひこうきから教えられたのです。
キリストの平和は、論ずるのではなく己に示された道をイエスと共に歩むこと、私はそう信じています。