自由な発言・話し合い(発言順)
①小山宥一
長野県小諸市の小山宥一です。
私たちは、憲法改悪の動きが強まった2004年末、市民が立ち上がって「憲法を守るこもろの会」を結成し、これ以来、18年間にわたり活動を続けています。
私たちは、より多くの方に訴えていこうと、小諸市内の全戸を訪問し、長い年月がかかりましたが、小諸市民の過半数の9条署名を達成することができました。訪問した家では「よく分からない」「北朝鮮や中国の脅威から守るためには自衛隊の強化が必要だ」など、様々な意見があって大変でしたが、対話することがいかに大切であるかを痛感しました。また、2015年に安保法制が強行採決されてからは、毎週金曜日に街頭に立って平和を訴える活動も続けています。
今日の主題に関して、ロシアのウクライナ侵攻について三つのことを話します。ロシアのウクライナ侵略は全く弁解の余地はありませんが、非難するだけでは解決できません。
第1点は、この戦争の原因は何であったのかということです。 プーチンが無謀な軍事行動に踏み切った主たる理由は、米国のキッシンジャーが、「NATOの急速な東方拡大がロシアの危機感を高め、プーチンを戦争に追い込んだ。ウクライナを緩衝地帯とし、NATO非同盟を担保できなかった米外交の失敗だ」と指摘したように、陸続きのウクライナが、軍事同盟のNATOに加入することを恐れたからという見方です。
また、東西冷戦の終了後、ゴルバチョフの『欧州共通の家』構想で、全欧州を包摂する安全保障機構を提案したのに対し、NATO側がそれを拒否してきたのも事実で、冷戦後の欧米側の対応の不味さがロシアの侵攻を起こしたという現実も否定できません。勿論これを正当化することは許されませんが。
そうした中で、中米の小国コスタリカに改めて注目したいと思います。政情が不安定な国がひしめく中米で、軍隊を廃止して永久非武装・積極的中立を宣言しました。軍事費をやめて、特に教育に力を注ぐとともに、隣国への援助や紛争の仲裁に取り組むなど、「平和の輸出」に力を入れて、他国からの侵略、戦争となる要因をなくすことに努めています。これは憲法9条を掲げる日本の取るべき道でもあります。
第2点は、米国やNATO諸国は、ウクライナに武器を援助するだけで、和平の取り組みをしていません。日本もそれに便乗しています。
憲法9条は、あくまで平和的手段による紛争解決をめざします。元外交官の孫崎享氏は、「平和的手段による解決は、自己の主張を100%通すのではなく、相手が望む最低要求が何であり、それを受け入れられるかを考慮しなければならない」と言っています。これも重要な指摘です。
第3点は、主題講演で水戸潔さんが言われた、宮田光雄氏が強調する「市民的抵抗」の大切さで、全く同感です。しかし宮田氏は、「日頃の平和時から、非暴力抵抗のための国民的エネルギーを強化していかねばならず、軍隊に勝る高度の集団的規律と不屈の精神を必要とし、広範な民衆的支持と、社会的な連帯と帰属を保障しうる体制づくりが不可欠である」と書いています。現在の日本では極めて困難な課題ですが、目指していかねばならないと思います。
②萩野谷 興
私の現時点での問題意識とも一致していたので、水戸潔様の主題講演に関して、一言感想を申し述べます。たくさんの資料を読み込み、思索を重ねられてのお話を感銘深くお聴きしました。結論として言われたこと、すなわち、ゼレンスキー大統領は、「(中略)具体的には『非戦・降伏』という選択をすべきであったと思う。」ということには、真理のごとく思いつつも、ただちに肯定することには抵抗を覚えました。
ゼレンスキー大統領も国民の生命、財産などを守ることを十分に熟慮したうえ、苦渋の選択をした結果が現在の政策だと思われる。国民の誇りを奪われまいとの決意もあったであろう。こうした事情を遠く離れた日本にいて、しかも安全な環境下にいる者が論評できるのか―その論評が、客観的には的を得ていても。これが私の抵抗感の理由です。もっとも水戸様も、講演後の質疑の中で、自分の考えを戦争の渦中にあるウクライナに適用するのは無理であると認め、むしろ今後、日本がウクライナのような状況に置かれた場合にこそ、適用されるべきである旨を発言されました。
私は、平和憲法を守り生かそうと考える以上、水戸様のご主張には受け入れるに足る正しいものと考えます。
③山口和彦
水戸さんのご講演に関して、3つの点でコメントさせていただきたいと思います。まず多くの例を教えていただき、わかりやすい講演でありがとうございました。
第1点:ただ、ちょっと別の例もあるのでは、とも思いました。 講演資料の「抗戦・非戦の現実対比」の表4に”戦争時・非戦降伏の長所”を挙げられていましたが、「犠牲が最小限」とのことですが、ロシア占領地域、これは降伏地域と考えられますが、では後ろ手に縛られ頭を撃ち抜かれた虐殺死体が見つかっています。「無辜のいのちが守られる」ということですが、占領地区では、自転車で通りかかった方が、ゲームのように撃ち殺され、商店主が射殺され商品が奪われ、最近ではロシアの行事への参加に協力しなかったオーケストラの指揮者が射殺されています。これは非暴力による抵抗で殺された例です。「徴兵、徴用」も占領地域で行われています。アメリカのブリンケン国務長官は7月の声明で占領地域からロシアに「強制連行されたウクライナ人が90~160万人で、内約26万人は子供である」と指摘しています。多くはシベリア、樺太といった僻地に送られ、また子供たちには洗脳教育が行われていると言います。子供の強制連行はジェノサイド条約(ソ連として締結)で禁止されています。原子力発電所の占拠、ダムへの爆薬の設置など「環境」を守る意思がロシアにあると思えません。「ジュネーブ条約追加議定書」を見ましたがロシアは多くの項目を全く無視しています。水戸さんは「ウクライナが開戦前に無防備地区宣言(ジュネーブ条約追加議定書第59条)をすれば戦闘は避けられたはずだ」とおっしゃいますが、これは主権を放棄することであり、また「紛争当事者が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する」という条文をロシアが遵守するはずがないことは、上記のロシアによる虐殺、強制連行、ジェノサイド条約違反を見れば、火を見るより明らかです。水戸さんのウクライナ降伏論はウクライナの国家主権を認めないプーチンの論理そのものです。
もちろん私も戦闘状態がないことを望み、戦争を肯定する訳ではありませんが、真の平和、神の平和は、正義の支配のもと、柔和であわれみ深く清い人々の関係性の中にこそ、築かれるのではないでしょうか?降伏によって得られる表面上、戦いのない状態は、力で抑えつけた欺瞞の“平和”であり、正義とはかけはなれた“プーチンの平和”でしかありません。
第2点:神の裁きの問題です。
私の聖書の先生であった西村秀夫先生は終戦を中国東北部で迎え、ソ連の侵攻により地平線が真っ赤に燃えているのを見て、日本に神の裁きが下った、と感じたそうです。
後に第一次世界大戦中の1917年、内村は“聖書之研究”で述べています。(1917.7.10 聖書之研究(全集23巻:283-290))
「非戦はすべての場合において唱うべきである。しかれども戦争は非戦によりやまない。我らが非戦を唱うるは之によって戦争が止まると信じるからではない。聖書の明白に教えるところにしたがえば、戦争は人の力によっては止まるべきものではない、……戦争は神の大能の実現によって止むのである。戦争廃止は神がご自身の御手に保留し給う事業である。是は神の定めし世の審判者なるキリストの再臨を以て実現さるべきことである。」
戦闘行為は私もあるべきでないと思いますが、戦争の要因は複雑で、人の想いだけで止められないこともあると内村も実感したわけです。人間の歴史を導く神のみ手により、場合によっては神様による裁き、イクサによる裁きが下るということも、長い人間の歴史の中で、あったのではないでしょうか?降伏で得られる平和は、一方的に侵略された側に犠牲をしいる、愛も平安もない、見た目の戦のない、“強者の平和”でしかありません。
一般論として、自分自身が無抵抗、良心的兵役拒否(今の日本では兵役はないのですが)を主張、実行すること、また参政権を有する自国の非武装、降伏を主張するのは、思想信条の自由、言論の自由という権利の中で認められることと思いますが、表面上の争い避けるため、弱い側は甘んじて降伏すべきだ、と他国の人々に勧告するのは、傲慢に聞こえます。
神さまの経綸の進行、非戦主義の進行は、この100年の間、確実に進みつつあり、大多数の国がロシアの武力侵攻を非難する国連決議に賛成しました。非戦という神さまの経綸の進行は、ゆっくりしすぎていると感じる方も多いと思います。私はそれでも信じて従います。
第3点:私は現在、ウクライナから避難してきた方々(全国で約2000名、東京都だけで約500名)、殆どが女性ですが、の生活支援のため支援物資を分配する作業に末端のボランティアとしてかかわっています。現在、冬物の衣類などを倉庫に探しに来る方は、1日で、数十人いらっしゃいます。日本語はもちろん英語の出来る人もほとんどいません。私はウクライナ語がわからないので直接、避難されてきた方とコミュニケーションを取ることはできないのですが、コミュニケーションを取れたとしても、「国に残してきたあなたの夫、恋人、父親、息子さんに、戦いをやめて降伏すれば平和になる、と伝えて下さい」とは、とても言えません。逆に「勇ましく戦ってロシアをはやく追い出すように頑張ってください、とお伝えください」とも言わないでしょう。ロシアの兵士として徴用された人々の命も大切です。しかし、帰る家もなく、夫、恋人、父、息子の安否も不安であり、何より慣れない日本での生活、しばらくは援助があるけれど、先々の生活の保証はありません。一部の自治体では6カ月を過ぎたことを理由に、生活援助を打ち切り始めています。私たちにできることは黙って支援物資の仕分けをし、少しでも必要なものを手に入れていただけるように準備することだけです。本当は職のあっせんが必要です。そして、彼女たちの負っている心のキズを少しでも癒してください、ご家族が無事でありますように、一日も早く本当の平和が回復し、国へ帰ることができますように、と神様に祈るほかありません。
内村の日露戦争開戦直後(1904.2.18聖書之研究(全集12:89))の言葉、”国難に際して読者諸君に告ぐ”という題の文章の中にこんな言葉があります。
”戦争の悪事なると否とは今や論争すべき時に非ず、今は祈祷の時なり、同情、推察、援助、慰籍の時なり、今の時にあたりて、我等の非戦主義を主張して、あわれみの手を、苦しめる同胞にかさざるが如きは、我等の断じて為すべからざることなり。我等は各自、手に手にギレアデの乳香を取り、我が民のむすめの痛める傷をいやさばや(エレミヤ書8.22)”
ゼレンスキーは降伏すべきだった、と今、主張されるよりも、この国に逃れて来ている小さき者、隣人に、愛の手をのべること、そして神の手により、真の平和が実現することを祈り続けることが、今、ウクライナの方々の平和、平安の為に、この国のキリスト者が為すべきことではないでしょうか?
ウクライナ避難者の方々の支援に関する情報は、日本YMCA同盟のホームページにあります。 寄付金はウクライナ避難者の方々への物質的支援以外に、精神的支援(カウンセラー、通訳の費用等)にも使用されます。
④那須佳子
「無教会 全国集会 2022 ―キリストの平和—」感想
「わたしは 平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
このみ言葉をテーマに今年の全国集会がZoomを用いてオンラインで開催されました。
今、まさに想像もしなかった戦争状態が続き、世界中が悲しみ傷みの中にあります。そのような中で私たちキリストを信じる者にとって真の平和とは何かを改めて考えさせられる機会となりました。多くの方が貴重な講話、講演、発題をされ、そのお一人お一人のメッセージから多くの示唆が与えられました。すべての方の感想を述べることは紙面の都合上語れませんので特に心に残ったことを書かせていただきます。
○矢田部千佳子さん 「主の平和—無教会キリスト教のSDGsをめぐって」
冒頭、「主の平和」は人間同士の和合、神との和解、神の意志に呼応した健康で正常な状態、私たちが希求する救いがすでに私たちのもとに来ている。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1:31)で神様がすでに宣言されている、と話されたことがまず印象的でした。
今年は政治家が暗殺されたニュースでも騒がれました。その中で明らかになったこと、狙撃犯の彼はたった一人で20年間苦しんできた、彼らの苦しみの声に応える者が一人もいなかった。「助けを必要な人々を探し出し、彼らを包み込む社会を造るため地の塩となって働かなくてはなりません。弱者の犠牲によって社会が維持されてよいわけがありません。…悪い方向へ導こうとする邪悪の力に小さいながらも抗わなくてはなりません。イザヤが叫ぶ神の言葉『恐れるな、私はあなたと共にいる』はすでに私たちのものだからです。」のメッセージは強く心に残りました。
学校現場もだんだんと世の中の功利的な動きに合わせて自分をアピールでき良くできる子が求められているような気がします。支援の子どもたちと接する中で取り残されていきかねない生き辛さを抱えた子どもたちがより大切にされなければいけないとこのお話を通して改めて思いました。
○水戸 潔さん「非戦・降伏という選択—ウクライナ戦争から考える」 ロシアの武力侵攻に対し「抗戦」という選択をとったゼレンスキー大統領の判断は正しかったのか。そして根源的にキリスト・イエスはこのような事態にどのような判断を下すであろうか、という大きな命題からのお話でした。非戦、非暴力の戦いについて様々な歴史上に起こった事実を資料を提示しながら紹介されました。そして結論として「非戦・降伏」という選択をすべきだったとされました。今年二月以降予想もしなかったウクライナ侵攻、兵士、市民たくさんの命が奪われ、都市も破壊され避難生活が始まりました。このような戦争が今の世の中で起こることは想像もしていなかったことで世界中の人々が心を傷め一日も早く終息することを願い祈っています。報道によって目の前で起きている惨劇を目の当たりにし、戦後生まれのわたしにとって今年ほど「平和」について考えた年はなかったように思います。今、同じ時間帯に戦火に怯え、住む家も破壊され、家族も離散を余儀なくされ命の危機にさらされる日々を過ごしている方々がいる。一方で衣食住の心配をすることなく暮らしている私たちがいる、毎日胸が張り裂けそうな傷み悲しみが襲います。メデイアは当然の如く武力で反撃することを当り前のように報じている、そういう折りでのお話でした。
水戸さんは「パリ非武装都市宣言に伴うナチドイツ軍の無血占領」「沖縄の前島(非武装の島)」の例を詳しく語られ、この戦争に決着をつけたのは、結局武力であったという事実は認めなければならないが、これで良いのか、という問いを投げかけられました。非戦・降伏は敗北を受け入れることであり、自国の主権と民族の尊厳が否定されることでそれに対し私たちは非暴力で人の命を守り、民族の尊厳と国の主権を回復していく確かなシナリオを持っていなければならない、とされました。これについて後の質疑応答で多数の方の論議がありました。一つの大きな問いかけだったと思います。ロシアの侵略後 世界中から連帯の声が上がり伴って武器や戦費の支援が続いています。最近では日本も驚くべきことに来年度の防衛費が大幅に増額されることが充分な討議もされず国民の声を聞くこともなく決まりました。世界中が防衛、抑止力の名の下に武力を増大する方向に進んでいます。日本が憲法9条のもとに非核三原則を謳い他国に示していたメッセージを今後大きく転換することになります。
最後に水戸さんはこのような事態が生じた時、主イエスはどう言われるのだろうかと次のみ言葉を引用されました。
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらー読者は悟れーそのときユダヤにいる人々は山に逃げなさい。…」(マルコ13:14)
と主イエスは謎のような言葉を語られた。それは少なくとも「戦えというメッセージではない」ことは確かだとされました。後でこの箇所の前後を読んでみると、
(マルコ13:5~10)「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。…まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。…しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」終末のことが語られています。神の御心に反することを行うならば、人の手によって国は滅んでいく。この世の現実に惑わされては神御自身の支配されていることから離れてしまう。山上の垂訓の中でも「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言われました。キリストは武力に対しても武力を持てとは言われなかった。「目には目を、歯には歯を」では際限がありません。それは悪や不正、理不尽なことを容認することではなく、どんなにこれが厳しく非現実的のことであってもそれが神の意志だということであり、今回のテーマ「わたしは平和を世が与えるように与えるのではない。」なのです。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4~5)
如何なる事態になっても心に刻んでおかなければならないみ言葉です。もし自分の真上にミサイルが落ちたら、銃を持った兵士が襲ってきたらそれができるだろうか!と迫られます。でも、多くの命を犠牲にする武力では真の平和はないという確信をもつ、そこに立っていくこと、私たちはキリストの十字架の救いと復活による永遠の命を心から信じて歩んでいくこと、神様は一度約束されたことは絶対に守ってくださる方と信じていきたいと思わされています。
沖縄の石原艶子さんも長きにわたり「月桃通信」を通じて沖縄での闘いを伝えてくださっています。集会でも通信を印刷し共有し祈りに覚えています。お話の中で「平和はイエス・キリストであって、自分の内にキリストが住んで下さらなくては平和は作れないのです。」とありました。他の方々のメッセージからどの方も「平和」は聖書から、キリストの言葉から語られていたことが印象的でした。共にキリストにあって平和を祈る主に在る友がいることを思い大いに励まされ力をいただきました。ともあれ今回の全国集会は今私たちキリストを信じる者に現実問題のただ中で課題を提示されました。
後の分かち合いでも多くの意見が出されましたが、葛藤しながらも共に主の平和を真剣に祈り自分が何を為すべきかを問い続けていきたいと深く思いました。
全国集会を主が祝福してくださったことを思い感謝です。準備のご愛労も主が労ってくださいますように。本当にありがとうございました。
⑤多田義国
「キリストの平和」
今回の無教会全国集会のテーマは「キリストの平和」でした。キリストの平和とは神の国の平和です。神の国、天国は武器や軍隊で守られたところではなく、皆が仲良く愛し合い、愛と義と平和の神を崇めて生き生きと暮らしている世界だと私は信じます。飽食享楽怠惰の楽園ではありません。皆が清く正しく人を思いやり、喜んで労働し、生き生きと自分の仕事に励んでいるような、楽しく飽きない永遠の楽園です。キリストの願いはそんな天国にある神の国がこの地上にも成るようにしたいということでしょう。地上にいる民が皆神を愛し、罪ある人間が互いの罪を赦し合い、敵愾心を持つことなく仲良く平和に生きなさい、ということだと思います。この意味からすると、水戸潔氏が「非戦・降伏という選択―ウクライナ戦争から考える」という題でお話しされた主題講演は、絶対非戦のキリストの御意志に適ったお話で、一つの良き方法として考えられる提言として私は拝聴しました。勿論この提言が無教会人の総意ということではありませんから、この提言には批判が挙がりました。その批判は、プーチンのような一方的な侵略者にも非戦降伏するというと、いつも武力の強い国が勝ち得となり、弱い国は占領され、抵抗する者は殺され、被征服民は抑圧される。そんな不平等で差別され、人権が侵害されている状態は、戦争がなくても平和とは言えず、どんな場合も非戦降伏というのは大いに問題である、というもっともな意見です。内村鑑三先生の感化を受けている無教会の方々はおそらく誰も非戦論者で戦争などしたくはないと思われているに違いありませんが、しかしプーチンのような非道な侵略者に侵略されて、降伏したとしても殺されるならば、戦争も致し仕方ないという考え方の人も居られるでしょう。私も正直言ってウクライナに同情し、世界各国がウクライナに武器供与も含めて支援している現状に賛同する気持ちが湧いてくるのを抑え切れませんし、もし私が当事者で、降伏した後にも家族が殺され、自分がひどい人権侵害に遭って耐えきれなくなったら、血の気の多い私は、罪と分かっていても武器を持って戦うかもしれません。ただしかし、聖書、キリストの教え、天の理が絶対的非戦平和であることは厳然としています。だから如何なる状況下でも最後まで平和交渉を続け、それでも解決しない場合は、戦争するのではなく、理不尽でも相手の要求を一旦飲み、世論の正しい裁定、神の裁きを待つのがキリストの教えに従順に従うことでしょう。そしてその後にも平和を実現させるために行動し、その行動によって受ける迫害は、義のため、キリストのために迫害されることであり、その迫害によってたとえ死ぬことがあっても、天には大きな報いがある、とキリストは山上の説教で約束されています。神の前にやって良い戦争、聖戦はありません。戦争は人殺しであり、神の造られた自然を害し、地球を破壊する大罪悪ですから、厳然たる天の理に逆らって戦争し、その戦争に賛同、加担する人は、神様の前には大罪を犯すことになります。ですから私たちは苦しく忍耐を必要とするにしても、キリストの御旨に沿い、父なる神の治められている神の国、その国にある真の平和を目指 して行動することが最善です。どんな理由があったとしても戦争するという結論になるのは神の前に正しくありません。私たち信仰者はどんな理由があろうとも、人に従うのでなく神に従うべきです。そして私たちは常に神の国の平和を望み見て、それに向かって進むことがキリストの御心、戒めに沿う最善のことですから、私たちは神の前に正しい歩みをしていることの確信を持って、平和への道を雄々しく前進して行きたいものだと思います。
⑥森山浩二
「無教会全国集会2022」を、オンラインでも開催してくださりありがとうございました。小舘美彦議長代行をはじめ委員の方々のご愛労感謝いたします。「キリストの平和」の主題の下、矢田部さんの聖書講話、水戸さんの主題講演、そして、7人の方々のメッセージなど良く準備して報告して下さり、いろいろ考えさせられ、学ばねばならないと思わされました。また、今井館のスタッフの方々の準備やご協力にも感謝するとともに、関係者の皆様の上に主のねぎらいが豊かに在りますように。オンラインでの全国集会(韓国からの参加も画期的でした)、これからの新たな地平を切り開くのではないかと思います。
それから、水戸さんの主題講演で主張されたことは重要な提言で、私の信仰からは頷けますが、ウクライナの人々はどう受け取るかは別ですね。
⑦飯田順朗
私は長年にわたって、良心的軍事費拒否の会の活動に参加してきました。この会の活動はもうなくなってしまい残念ですが、ウクライナ情勢を理由に軍事費が一層増大されようとしています。このことに私たちは懸念を表明していく必要があると思います。もう一つ指摘したいのは教育問題です。高校の歴史教科書では、第二次世界大戦の歴史や日本国憲法のことにどんどん触れられなくなっている。このことについても私たちは、懸念の声を上げ続けていかなければならないと思います。
⑧水戸 潔(主題講演に関する意見への応答として)
「2022.11.3 無教会全国集会 主題講演に関わるディスカッションに対する応答」
・先ず、私の拙論に対する真摯かつ率直なご意見に心から感謝します。その中から私の気づいていない点に関して多くのことを教えられました。
・ディスカッションの中で、「今、ウクライナの人々に『降伏しなさい』とは言えない」というご意見がありました。このご指摘に私も同感です。
これについて、一つ補足があります。注意深く聞いて頂ければお解りいただけたと思いますが、「降伏を選択すべき」と言ったのは、侵略がまだ始まっていない時点(始まろうとしている時点)での態度決定を言っております。例にあげた「前島の非軍備」「パリ非武装都市宣言」の例も、事前の態度決定です。
講演要旨にも書きましたが「ウクライナの中立を表明し、NATO加盟を放棄し、地域の非武装宣言を実行」(これが、プーチン大統領の侵攻口実をゼロに還元するということ)したうえで、非戦降伏を選択すべきであったと言いました。
しかし、この度のロシアは、そのような議論をする時間的余裕を与えずに突然侵攻を開始し、「今」の事態に至っているので、この「今」の事態の中で「降伏しなさい」とは、私も言えません。その意味で、誤解を招かないよう「事態が起こる前に」と明確に表現すべきであったと思います。・もう一つ、補足すると、この度の戦争で、ウクライナ側に過去も現在も全く落ち度がなかったのかというとそうではない事実が多々あるというご指摘もその通りであると思います。例えばウクライナ東部(ロシアとの国境近く)での、ウクライナによるロシア人に対する抑圧迫害の事実をプーチン大統領が侵攻の理由にしておりますが、これはウクライナも認め、「今後、ロシア人に対する抑圧迫害はしません」と表明、約束すべきであると思います。
・さらにもう一つ補足すると、私の今回の話の出発点は「戦争における最も悲惨な出来事は、何の落ち度もない幼子や自分を守る術を持たない母親、病人、老人、障がい者などの弱者が真っ先に犠牲となってゆく。そして戦争と関係のない社会インフラが破壊されてゆくという不条理」です。この犠牲と不条理をミニマイズするにはどうすべきかという基本的視点から出発しています。
そのためには、国家として公式に相手の侵攻口実をゼロに還元したうえ、降伏を選択することが、犠牲と不条理のミニマイズにつながると考えました(要旨にも書きました)。
しかし、そのような選択をしても、全く無抵抗な人々が殺されるという事実 があるという指摘は、残念ながらあると思われます。ならば抗戦を選択するか、そうすれば犠牲は非戦・降伏の選択した場合よりはるかに多くなると思われます。
・最後に、「非戦でも解決しない事態がある。最終的に、神の介入を信じ御手に委ねるべき」というご指摘は、その通りであると私も思います。しかし、神の介入を信じるということと、御手に委ねるという信仰的敬虔の中に留まり人間に課せられた責任を回避する(何もしない)という事はイコールではないと思います。その一例として、ドイツ、ライプツィヒのニコライ教会の祈りの集会から、ベルリン壁崩壊までの例をあげました。これもまた、神の御手の働きであり、人間に与えられた責任の実行の結果と見ることも可能ではないでしょうか。
この度のウクライナ戦争の出来事からこの事を考えたとき、私に与えれた一つの解が「相手の侵攻口実をゼロに還元したうえ、非戦降伏を選択する」ということでありました。
以上