「私の考えるキリストの平和」
貝出 久美子
プロフィール
徳島で生まれてずっと徳島で暮らしています。罪の重荷に苦しんでいた28歳のとき、神様が来て下さり、赦しと信仰を与えられました。再び道に迷い、生きているのに死んでいるようだと感じていた38歳頃。徳島聖書キリスト集会に導かれて、主イエスに再び救われました。それから今まで、主イエスはわたしと共にいてくださり、新しい扉を開いてくださり導いてくださっています。きょうもその途上です。
「わたしの考えるキリストの平和」とは何だろうと考えました。それはまず、わたしとキリストとの平和、ということだと思いました。
イエス様に祈り、話しかけ、そしてイエス様からの語りかけを聴くとき、そこに不思議な「人知を超えた神の平和」が与えられます。それは、状況が変わらないのに与えられる安心感で、イエス様によって心の深いところが静かに満たされていきます。
生ける神、イエス様に祈り、聖書を神の言葉と信じて聴き、そこから赦しや力が与えられる。なぜ、このような世界に招き入れられたのか。一方的な神の憐れみと赦しに感謝します。
イエス様との平和が与えられた。その根本はイエス様と出会えたこと、イエス様を信じることができ、救われたこと、そこが、わたしの新しいいのちの源流になります。
28歳までは、神様がいるのかどうかもわからず、まして、わたしの中でイエス・キリストは、昔の偉人でしかありませんでした。
わたしはキリスト教とは全く関係のない家で育ちましたが、あるときから何か抗い難い罪の力、また孤独を感じていました。それなりの夢を持ち看護師になりました。しかし、闇と孤独はわたしを飲み込み、元気そうにしていてもわたしの魂は死んだものとなりました。 28歳のある日、不思議な導きによって、はじめてわたしは、ある教会に行きました。そして、牧師の語る放蕩息子のメッセージを聞いているときに、座っているわたしの椅子の少し後ろに、神様が立たれるという不思議な経験をしました。わたしの後ろに荘厳な光の気配を感じ、こわくてふり向くことができませんでした。神様がおられ、そしてわたしを赦してくださったと示されました。
中学生の時ギデオン協会から配られて、意味も分からず読む気にもならなかった新約聖書を出してきて、読んでみました。まったくわからないと感じていた、聖書の言葉が、神様からの語りかけとして心に入ってくる、そのことに驚かされました。聖書のことばに引き付けられ、夢中になって読み、励まされました。
そのような体験を与えられたのに、忙しい生活の中で祈りも忘れ、わたしはまた、神様を見失いイエス様がわからなくなり闇の中に沈んでいきました。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」ヨハネ福音書 15:6
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」ロマ書11:22
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」ルカ 11:24~26
神様は憐みであり、愛です。しかし、厳しさもあり、わたしは火に投げ入れられて焼かれるものでした。神様を信じながら神様を見失った日々。そのときは、キリストとの平和、ということは全く感じることはできず、祈っても神様は遠く、自分の心は再び死んだと感じていました。
でも、わたしは、切り取られなかったのです。
手話を通して徳島聖書キリスト集会に導かれ、そこで再び、夕拝のときに心を神様の光で照らし出される経験をしました。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」一コリント3章16節このみことばが、心の中を貫きました。
イエス様は、わたしが神様を離れ、信仰を見失い、罪を犯し、嘆き苦しんでいるその日々をすべて知っていてくださいました。そしてそうせざるを得なかった私の辛さもわかって下さり、すべて赦すと示してくださいました。神の神殿を汚したわたしを赦してくださったのです。
神様を信じたのに、再び見失ったわたしにはキリストの平和はありませんでした。でもイエス様は、そのときもこのキリストの平和を与えようとじっと待っていてくださったのです。
イエス様が殺された時、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて鍵をかけていました。そこにイエス様が来てくださいました。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ヨハネ20:19
わたしも戸を閉めて鍵をかけていました。神様にもイエス様にも自分にも鍵をかけてうずくまっていました。そこにイエス様が「平和があるように」と来てくださったのです。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ヨハネ14:27
状況に関わらず与えられる主の平和。わたしのように神様を見失ってもがいている者にも与えられました。それは世が与えるようにではありません。楽しい気分転換、親しい人間関係、仕事のやりがい。一時的な充実感や満足を得られても、やはり心は闇に帰っていき、わたしは、世からはどんなにしても平和を与えられることはありませんでした。でも、そのとき、イエス様は、この世が与えるのではない、キリストとの平和をわたしに与えてくださったのです。
そのときからも、さまざまな出来事があり、心に平安がなくなることは度々ありました。今もあります。罪に苦しむとき、疲れた時、人間関係から、また病気になるとき、愛する者の闇、罪、病。また愛する者の苦しみ。わたしは落ち込み悩みます。
でも、心から主に叫び、求めるとき、イエス様に無視されることはありませんでした。
わたしとイエス様との交わりを妨げている自分ではどうにもできない妨げの罪があります。わたしの中に根強く働く罪の力によって、ほんの小さな出来事や言葉で簡単に自分の平和も他者との平和も壊れます。キリストの平和はサタンとの戦いとも思えます。そのとき、早く気が付いて、主のもとに走り、静まって祈り、正直に素直に、わたしが悪かった、間違っていた、憐れんでください、助けてください、と十字架の前に砕かれるとき、十字架の上からイエス様が、この平和を注いで下さると感じます。そのとき、魂は生き返り、問題がある中で、光がさして大丈夫だと思えてきます。
そして、はじめてそこから他者との平和が与えられると思うのです。
イエス様が十字架で苦しんで血を流して、身代わりに罰を受けて下さり、そして与えられた、このキリストとの平和です。キリストとの平和は、キリストによって赦された、罪の赦しから与えられるものです。
これからも、平安をなくし道に迷うことがあったとしても、この世の誘惑に心が揺らいだとしても、どうか、主の十字架に立ち返り、わたしが、このキリストの平和から離れることがありませんように。そしてすべての人に、とくに闇の中で、苦しむ人に、このキリストの平和が与えられますように。
「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように」(ローマ15:33)とあります。キリストが平和の源です。その源である泉を少しでも、内に頂いて、小さな平和の灯とされたいと願います