「どうしたら平和になれるのか」
安川 文朗
プロフィール
1957年生まれ。大学時代に友人を介して聖書に接し、その後関藤仁志氏の主宰する神戸聖書集会でキリスト教を知る。同信の妻を与えられ、何度もこの世の誘惑に躓きながら、憐れみにより何とか細々とした信仰を守ってきた。
現在、横浜市立大学教員として横浜に居住。キリスト教横浜聖書集会に所属し、「ローマの信徒への手紙」の学びを通じてもう一度キリストの愛と真理を知りたいと願っている。
はじめに
本日は全国集会でお話をさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。私は、直接平和につながる活動に参加しているわけでも、平和についての執筆を行っているわけでもない、ひとりの平信徒でありますが、平和を創るための活動に日々に取り組んでおられる方の、またご自身の信仰の歩みを通した神様の大きな導きと恵みを力強く証してくださった方のお話を伺いながら、この場に引き出されたことの意味を噛みしめつつ、私が日々の祈りのなかで、また大学教員という仕事を通じて「こうあったらよいなあ」「このように生きたいなあ」と感じていることを率直にお話しいたしたく思います。
いまウクライナで起こっていることだけでなく、ミャンマーやアフガン、その他世界の各地で生じている紛争や圧政の現状をみるにつけ、私は日々息が詰まるような悲しみを覚えています。それぞれの紛争の背景にはそれぞれの歴史的政治的経緯が存在するわけで、単純に紛争当事者のどちらかに責任を帰することも、争いをやめて平和的な話し合いを勧めることも容易ではないとは頭では理解できますが、しかし日々安全な住処が奪われ命が失われていくことを傍観するしかない自分の無力さを感じざるを得ません。
何も海外に限ったことではなく、日本においても、本来一番大切な家族のきずながDVや児童虐待、いじめなどによって壊れていく様を日々目撃していますし、コロナ禍にあって生活が立ち行かなくなった人々が自ら命を絶つということも日常となってしまいました。こうした苦しみにある人々がいるいっぽうで、コロナ景気に笑いが止まらない人々もいるわけで、こうした分断も深刻になっています。日本は戦争こそしていませんが、平和な国と言えるのかと問われれば、容易に首肯できないのです。
平和の反対とは
さて、「平和」の反対は何でしょうか。「戦争」や「紛争」でしょうか。「平和ではないこと」などと言葉遊びに過ぎません。いろいろな事実を見聞きし、また自身の体験から推測すると、私は「平和」の反対概念は「不安」ではないかと思うのです。「安」という字は古来、「安寧」「安定」「安心」など、やすらかで落ち着いた状況を指す言葉です。それが“ない”状態が「不安」です。紛争の中で暮らす人々にとって、夜は決して一日の疲れを取りその日の出来事を振り返る豊かな「安らぎの時」ではなく、恐怖におびえる苦痛の時間です。朝も、新しい喜びの光ではなく、ミサイル砲撃の音と閃光によって始まります。そこには限りない不安と恐怖があります。落ち着いて仕事をし、子育てをし、友人と会話し、老死を看取るといった、だれもが普通に送るはずの安定した時間はそこには流れていませんし、その希望も希薄です。ですから「平和」とは、何か特別な状態というよりも、私たち人間が「不安なく」当たり前のことを当たり前に行える状態そのものだといえるのではないでしょうか。そんな平和が脅かされるとき、私たちに何ができるのでしょう。またその状態をどう回復できるのでしょう。
私たちは平和を創りだせるのか
イエス様は「平和を創りだす人(実現する人)は幸いである」とおっしゃいました。それは言い換えると、何気ない安定した日常を実現することは、実はそれほど容易ではない、簡単ではない、ということなのだと思います。では、安定した当たりまえの日常は、自然に与えられているのでしょうか。そうではありません。そこには名前を挙げることのできない大勢の人々が関わっています。それは良い意味でも悪い意味でも、です。戦争を始めるのは、もちろん市井の人ではなく為政者の意思です。しかしその為政者が「戦争をしても大丈夫だ」と思うのは、日々の安寧や安定を「当たり前」として、何事にも無感覚になっている国民の多さに比例しています。戦争を始め、平和を壊すのは一部の為政者や国際政治の問題であって、自分とは関係ないと思っている人が多ければ多いほど、平和はいとも簡単に損なわれ、不安な世界が出現します。その意味では、私たちは平和を創り出すことにもっと意識的になり、その場でできることに最大限の努力をすべきだ、ということになりますし、本日石原さんがご紹介くださった沖縄での実践はまさにそうした活動なのだと改めて感じます。「平和を創りだすことに意識的になる」とは、言い換えれば「平和を脅かす兆候に敏感になる」ことだと思います。そのとき、平和の反対概念である「不安」が役に立つのです。
不安はなぜ起こるか
私たちが不安になるのはどういうときでしょうか。それは、自分の考えと他人の考えが大きく異なっていたり、自分の予想と目の前の事実とが著しく違っていたりするときです。他者との関係性がうまく折り合わず、また社会の不確実性が高まる場合に、私たちは大きな「不安」を感じます。また対外的な関係だけでなく、自分自身の内面においても、自分の言っていることとやっていることとの間に大きな隔たりがあれば、私の心は大きな不安で押し潰されそうになります。それら内外の不安が、争いや諍(いさか)いの種となり、ついには「平和」を損なう始まりとなってしまいます。家族の中でも、親子の意見の食い違いや断絶は、家族という絆を危うくし、お互いに諍いを起こす原因になります。同じことが社会レベルで生じれば、平和は崩れ、不安で危険な状況があちらこちらで生み出されるでしょう。
ですから、こうした不安が生じている、あるいは不安を強く感じているとき、それは「平和」が侵されるサインなのです。だとすれば、この不安を取り除く努力が「平和」を創り支える大切な営みとなるのではないでしょうか。
どうしたら「不安」を克服できるか
では、どうしたら「不安」を取り除き、平和を創り出せるのか、それが私たちに突き付けられた課題です。しかし言うまでもなく、私たちには人々や社会の不安を簡単に克服できる特別な知識や技術はありません。少なくとも私がどんなに走り回ろうとも、どんなに声を大にして叫ぼうとも、人の心や社会に生じてしまった「不安」というエネルギーに抗い、それを打破することはそう簡単ではないと認めざるを得ないのです。
しかし、私たちはキリスト者として生かされています。そして私たちキリスト者として唯一できること、それはやはり聖書に示されたことしかないのだと思います。すなわち、怒ること遅く、自分を責める者に愛を注ぎ、なにより、他者のことをよく理解しようと努めること、これが要求されるだけなのです。
そんなことで不安が克服できるのか、そんな夢のようなことを言っていても戦争は終わらない・・・確かにこの世的な見方ではそうです。でも私たちはこう反論するしかありません。「その通り、だからそうできるように日々弱い私を強めてください、と祈るだけなのだ」と。そしてもし、「そんな祈りなど意味がない」と私が感じるとすれば、私はキリスト者として生きる資格がありません。ただの人としてこの時代に流され、社会の空気に迎合し、結果として人々の心に不安の種をまき散らして平和を脅かすことに与する他はありません。
平和を創り出す条件は、特別なことではないのだと思います。しかし、現代に生きる私たちには自分と意見が違う人を認め愛すること、相手をとことん理解することは、決して容易ではありません。それゆえに、私たちは(私は)、ひとりのキリスト者として「そうなれるように強めてください」と日々祈り続けたいと思います。
最後までお聞きくださりありがとうございました。