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囲碁と日本の秘密兵器装甲列車最初で最後の実戦出動と父

2020年12月15日 22時48分04秒 | おもうこと
日本の秘密兵器装甲列車が唯一回のみ出動し それに私の父が重要な役割を持った記述です。

県立図書館で時間待ちをしていて読んでいた
アルヴィン・D・クック著 『もうひとつのノモンハン 張鼓峰事件』の中に
私の父が大きくかかわる 次の文章を発見しました。

            
            ↑ 当時の私の父です。


「8月6日 東京から 第二装甲列車隊 隊長森田捨三中佐に
哈爾浜(ハルピン)出発命令が出た。
8月11日 関東軍から派遣された第二装甲列車隊も
張鼓峰付近にて田中大佐の指揮下に入った。
短い経験でしかなかったが10センチ列車砲が
日本陸軍戦史上初めて戦闘に参加した。→ 注 父が日本の軍隊の秘密兵器装甲列車を運転して
                           戦闘に向かったという話は
                           事実であることが解りました。
装甲列車は8月11日朝 2時間にわたって
13500メートルの射程で51発を発射した。
ソ連軍は発射点を探し出せなかった。
ソ連軍の砲弾は1000メートル手前に落下して
地上部隊にはあたったが列車には命中しなかった。→ 注 それで 私の父(当時22歳)が
                                  死なずにすんだのです。
任務の達成に満足した森田中佐は 引き揚げる途中で
ソ連機を発見するやトンネルに列車を引き込んで隠れたりしながら
無事に新阿山に帰投した。」

            ここで父の話を挿入します。
            私の父22歳 工兵 張鼓峰事件に援軍として参加
            以下は父の話      
            関東軍より朝鮮軍装甲列車隊に編入され唯一の機関士となる。
            装甲列車は15両で編成され 指令車は7両目 機関車は8両目
            すべての車両は鉄板で覆われ 高くて大きい。当然窓は無い。
            運転は先頭車両からの通信だけで 頭で計算しながら行っていた。 
            全部で 8門~10門の榴弾砲(父の話では射程距離4㎞)がついている。
            本当の射程距離も秘密兵器のためか 工兵の父には教えられなかったのか。
            工兵隊180人 歩兵2個分隊30人 砲兵16人 通信隊20人。総勢246人
            不拡大政策を採っていたため、最初で最後の秘密兵器援軍であった。
            決死隊であったため、停戦 生還のあと数ヶ月内に実質的に2階級特進している。

              
               
張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)とは
1938年(昭和13年)の7月29日から8月11日にかけて、
満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。
実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であった。
張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある
標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。
当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、
日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。
いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は
国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。

おりからリュシコフ Genrikh Samoilovich Lyushkov,
ソ連秘密警察の幹部で、最高位(三等国家保安委員、中将相当)の亡命が起こった。
1938年6月13日、日本が考えていたより強力な管区の軍事力を示す
重要な機密書類を携えて日本が占領する満州張鼓峰付近に逃走し、日本軍に投降。
「三等国家保安委員」として粛清に関して最も良く知る最重要亡命者であった。

このことを大きな要因として
1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。
朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、
8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。
その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。
ソ連軍がこの時期に大攻勢に出た背景は色々と取り沙汰されてはいるが、
はっきりした結論は得られていない。以下に戦闘の経緯を詳述する。

7月12日、ソ連軍は張鼓峰に侵入、占領し、峰一帯に陣地を構築し、
13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。
日本政府は15日、西代理大使を通してソ連政府に至急撤兵を要求し、
満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、
現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。
現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。
ソ連軍は29日、峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。
30日夜半から31日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきたが、
これに対して日本側守備隊は反撃を加え被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。
しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。
さらに8月1日からは航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、
さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。
これに対して、日本側はソ連軍の猛攻に損害を受けつつも奮戦し、なんとか国境線を確保した。
結果的にはソ連軍も大きな損害を被ることとなった。
日本軍 戦死 525人 戦傷  913人
ソ連軍 戦死 717人 戦傷 2752人

重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によって8月11日正午の停戦がモスクワで合意された。
その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まった。 20120130

2016-12-16 07:01:04に再掲示しました。
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