メキシコ製メーカー不明 第14代王者ドスカラス・ジュニアが所有していた本物。
全長約1,170mm。
重量約3.6kg。
ストラップ本革。
収納袋無。
刻印無。
CMLL
CMLL(Consejo Mundial de Lucha Libre)は、メキシコのプロレス団体。
概要
CMLLの活動中心はメキシコシティでアレナ・メヒコでの定期興行が有名である。かつてはEMLL(Empresa Mexicana de la Lucha Libre)と呼ばれていた。今日現存するプロレス団体において世界最古の歴史を持つことが特徴である。
1933年、EMLLとして設立。9月21日、アレナ・メヒコにて興行が開催されたのが団体の興りである。旗揚げ戦にはヤキ・ジョージ、ボビー・サンプソン、シクロン・マケイ、レオン・チン・アチウが参加。しばらくはアメリカから選手を呼び寄せて興行を行っていたが地元選手の育成が急務と判断したサルバドールは柔術の心得のある友人のゴンザレス・アベンダーニョ・アギーラルを呼び寄せてアレナ・メヒコでルチャリブレ教室を開校して、これが後のルチャリブレの基盤となっているという。
1931年、サルバトール・ルタ・ゴンザレスがアメリカとメキシコの国境にあるエルパソでプロレス興行を見たことからメキシコでのプロレス興行を企画してメキシコシティの廃墟同然のボクシング会場「アレナ・モデロ」と賃貸契約を結び会場を修復して会場名を「アレナ・メヒコ」に変更。
1934年、アベンターニョの教え子たちがデビューして純国産のルチャドールが誕生。ほどなく観衆は増えて500人ほどのキャパシティしかない初代アレナ・メヒコは手狭でボクシング会場「アレナ・ナショナル」や闘牛会場「レオ・デ・コンデザ」にも進出している。
1940年、後にWWWA世界女子王座の創設者であるミル・レッドバーグも来墨している。
1938年、サルバドールが個人的に買った宝くじに当選して、その当選金を自社所有会場の建設に着手。
1943年、自社所有会場「アレナ・コリセオ」が完成。
1954年10月、アレナ・メヒコの改築工事にも着手(1956年に完成)。この時期にタルサン・ロペスが台頭すると1942年にデビューしたエル・サントを始め、カベルナリオ・ガリント、ゴリー・ゲレロ、ブルー・デモン、ブラック・シャドーなども台頭して1940年代から1950年代にかけて最初の黄金期を迎えることとなる[1]。この頃はメキシコにはEMLL(CMLL)しか団体が存在しなかったため、ルチャリブレといえばEMLL、EMLLといえばアレナ・メヒコであったため、大衆からはルチャリブレやEMLLではなく「アレナ・メヒコ」と呼ばれることが普通だった。また、同時期にはNWAにも属してNWA加盟時に管理、運営を任されていたNWA王座のライトヘビー級王座、ミドル級王座、ウエルター級王座を一任された。
1975年、UWAが旗揚げされてEMLLの独裁状態に嫌気が差した選手達が大量離脱したため、大打撃を受けた。1980年代はUWAの影に隠れるような停滞期に突入していた。
1990年、メキシコでは禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁となり、地元テレビ局テレビサによるEMLLの中継番組の放送が開始された[1]。テレビ放送開始にあわせて企画部長のアントニオ・ペーニャによってマスカラ・サクラダ、ミステリオッソ、ボラドールなどの新キャラクターが誕生して入場演出を豪華にするなど改革を行い、ルチャリブレはテレビを通して爆発的なブームとなった。同年、CMLL女子部を立ち上げた。
1992年、アントニオ・ペーニャが独立してAAAを設立して業界のトップに躍進。しばらくはアレナ・メヒコの集客が閑古鳥が鳴くほど悲惨な状態となるがテレビ中継による放映権料と自前の会場による最低限の経費でこの危機を乗り切り、1995年、AAAを離脱したルードにターンしたエル・イホ・デル・サントを獲得してネグロ・カサスの抗争で人気を博した。
2005年、ミスティコ(初代)がデビューし大人気となり、ドクトル・ワグナー・ジュニアらを加えたメンバーにより団体は人気を取り戻してアレナ・メヒコに大観衆が詰めかけるようになった[1]。そして、この頃に団体名をCMLLに統一。
現在の社長はゴンザレスの孫であるパコ・アロンソで1980年に就任。
CMLL世界ヘビー級王座
CMLL世界ヘビー級王座は、メキシコのプロレス団体であるCMLLが管理する王座である。
Wikipediaより
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