カネック(Canek、本名:Felipe Estrada、1952年6月19日 - )は、メキシコ 出身の覆面レスラー。タバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。主にマヤ・アステカ等メキシコ古代文明の文様をモチーフとしたマスクが特徴。
リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである。日本では「エル・カネック(El Canek)」と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏であるメキシコのリングネーム表記は定冠詞の "El" が付かない。
1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期で、当時メキシコマット界の第一人者として活躍、ミル・マスカラス最大のライバルとも謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア。
来歴
ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスール(Príncipe Azul)の名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックのリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。
1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、レイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。
1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。以降、テムヒン・エル・モンゴル、ストロング小林、ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)、ビル・ロビンソン、タイガー・ジェット・シン、パット・パターソン、藤波辰巳、長州力、スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。
デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、ミル・マスカラス、ドス・カラス、エンリケ・ベラ、ティニエブラスなどのテクニコと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本などから参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。
1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)。
1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代はグレート・コキーナ、ブルー・ブレイザー、バンピーロ・カサノバ、ヤマト、ブラック・マジック、ミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。
日本での活躍
1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズの第2回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明に2勝して決勝リーグに進出した。1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。年末に開催されていたタッグリーグ戦には、1981年にスペル・マキナ、1982年にペロ・アグアヨ、1985年にドス・カラスと組んで出場した。
1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。
2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。
Wikipediaより
サンチェス製、本人使用。
メキシコでの試合(詳細不明)や2011年11月20日、帝王降臨 府中プロレスルチャ新木場1stRING大会大会前日のイベント等で本人使用。
着用写真2枚、直筆サイン入、大会ポスター付。
カネック
カネック(Canek、本名:Felipe Estrada、1952年6月19日 - )は、メキシコ 出身の覆面レスラー。タバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。マスクのデザインは、マヤ、アステカなどメキシコ古代文明の文様をモチーフとしている。
リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである。エル・カネック(El Canek)と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏であるメキシコのリングネーム表記は定冠詞の "El" が付かない。
1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期で、当時メキシコマット界の第一人者として活躍、ミル・マスカラス最大のライバルとも謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア。
来歴
ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスール(Príncipe Azul)の名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックのリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。
1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ウォー・クラウドと組み、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、レイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。
1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。以降、テムヒン・エル・モンゴル、ストロング小林、ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)、ビル・ロビンソン、タイガー・ジェット・シン、パット・パターソン、藤波辰巳、長州力、スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。
デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、マスカラス、ドス・カラス、エンリケ・ベラ、ティニエブラスなどのリンピオと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本から参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った[10]。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場、8月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。
1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)。
1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代はグレート・コキーナ、ブルー・ブレイザー、バンピーロ・カサノバ、ヤマト、ブラック・マジック、ミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。
日本での活躍
1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズの第2回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明に2勝して決勝リーグに進出した。1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。年末に開催されていたタッグリーグ戦には、1981年にスペル・マキナ、1982年にペロ・アグアヨ、1985年にドス・カラスと組んで出場した。
1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。
2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦して、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。
2018年10月、ドラディションの "Dradition The Revenge Tour 2018" に参戦。同月19日の後楽園ホール大会と21日のATCホール大会での6人タッグマッチにおいて、藤波との約30年ぶりの対戦が実現した。
敵前逃亡事件
カネックは1978年3月の初来日時、いわゆる「敵前逃亡事件」を起こしている。これは、3月30日に予定されていた蔵前国技館での藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級王座戦への出場を当日になって急遽キャンセル、そのまま独断で帰国してしまったものである。やむなくタイトルマッチは中止となり、当日、藤波はイワン・コロフとのシングルマッチを行った(コロフは当日、2試合に出場した)。
前代未聞の敵前逃亡として話題になったが、カネックは来日中、3月18日の藤原喜明戦および翌19日の木戸修戦で勝利したものの膝を負傷し、その後の6大会を欠場するほどの怪我を負っていた。また、この事件の背景には、新日本サイドがカネックの覆面と藤波のWWFジュニア王座を賭けて戦うコントラ・マッチを直前になって一方的に通告してきたこと、さらに、同じシリーズに参戦していた一部のアメリカ人レスラーが、メキシコ人に対する差別意識から、タイトルマッチ直前の28日深夜に宿泊先のホテルでカネックに暴行を加えていたことなどが発覚している(首謀者はロン・スターとされる)。
これらの諸事情が判明したことから、翌1979年4月にカネックは再来日を果たし、藤波のWWFジュニア王座に2回挑戦。以降も常連外国人選手として活躍するなど、敵前逃亡の汚名を返上した。
Wikipediaより
ザ・デストロイヤー 本人使用済みです。
デサント製、現役時代、本人が試合で使用したマスクです。
明確な使用日時場所等は不明です。
証明書、直筆サイン入り。
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 -)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ベイヤー(Richard Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。
アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。
日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と戦った他、テレビタレントとしても活躍した。
息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
来歴
デビュー
シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める。
北米での活躍
当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。
NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年にレイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。
1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX(Dr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はクラッシャー・リソワスキー、マイティ・イゴール・ボディック、ビル・ワットらの挑戦を退けている。
NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。
以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、バロン・フォン・ラシク、イワン・コロフ、ダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。
その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ビル・ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。
日本での活躍
1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。
覆面世界一決定十番勝負
「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、ザ・バラクーダ、カリプス・ハリケーン、ブルー・シャーク、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
Wikipediaより
ドクターX 本人使用済みです。
メーカー不明。
現存する5枚のうちの1枚。
平成17年(2005年)1月、水道橋のプロレスショップバトルロイヤルサイン会にて使用されバトルロイヤルオークションに出品されたドクターXの試合用マスクです。
証明書付き。
ザ・デストロイヤー
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 - 2019年3月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ジョン・ベイヤー(Richard John Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。
アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と戦ったほか、テレビタレントとしても活躍した。息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
来歴
デビュー
シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める。
北米での活躍
デビュー後から1960年代初頭にかけては素顔の「ディック・ベイヤー(Dick Beyer)」として、地元のバッファローやクリーブランドなど、後にNWFの拠点となる五大湖エリアを主戦場にベビーフェイスのポジションで活動。ダン・ミラー、フレッド・アトキンス、ジョン・トロス、アンジェロ・ポッフォ、ワルドー・フォン・エリックらと対戦し、ボボ・ブラジルのパートナーにも起用された。
1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。
NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年にレイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った[8]。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。
1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX(Dr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はザ・クラッシャー、マイティ・イゴール・ボディック、ビル・ワットらの挑戦を退けている。
NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。
以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ボックウィンクル、スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、バロン・フォン・ラシク、イワン・コロフ、ダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー、ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。
その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。
日本での活躍
1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした」(このような公式記録はない)と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動。PWF認定USヘビー級王者として、アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスらと王座を賭けた名勝負を残した。1975年3月12日には富士宮において、ジャック・ブリスコが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田をはじめ大仁田厚や渕正信などが教えを受けた。
覆面世界一決定十番勝負
「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、ザ・バラクーダ、カリプス・ハリケーン、ブルー・シャーク、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
Wikipediaより
CACAO製 ドスカラス 本人使用済みです。
平成12年(2000年)発売 カカオプランニングの「SKY HIGH 2000 ドスミル PART2・PART3」VHS表紙の撮影で本人使用。
平成12年(2000年)5月4日 東京・後楽園ホール SKY HIGH 2000 ミル・マスカラス、ドスカラス組vsグラン・マルクスjr、ピラタ・モルガン組戦で本人使用したマスクと同一仕様。
タグ付き、着用写真、「SKY HIGH 2000 ドスミル PART3」VHS、パンフレット付き。
ドス・カラス(Dos Caras、1951年2月20日 - )は、メキシコの覆面レスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。本名はホセ・ルイス・ロドリゲス・アレジャーノ(José Luis Rodríguez Arellano)、愛称はペペ(Pepe)。
同じく覆面レスラーとして活躍したミル・マスカラス、エル・シコデリコの実弟。息子のアルベルト・ロドリゲスとギジェルモ・ロドリゲスもプロレスラーである。
来歴
少年時代よりボディビルに打ち込み、16歳でミスター・オリンピアの新人賞を獲得。兄のアロン(ミル・マスカラス)やパブロ(エル・シコデリコ)に続いてミスター・サン・ルイス・ポトシにも戴冠した。その後、ボディビルのインストラクターを務めながら1968年よりゴリー・メディナのもとでルチャのトレーニングを積み、1970年1月にデビュー。リングネームを付けるにあたってプロモーターからいくつかの名前のリストを提示されたところ、人間の二面性(喜びと怒り)を自身のキャラクターに表現すべく、「2つの顔」を意味するドス・カラスを選んだ。
デビュー当時の覆面も怒顔や笑顔をデザインしたものを被っていたが、これは不評だったという。そこで1971年夏、兄マスカラスが2回目の日本遠征から帰国した際、日本の専門誌『月刊ゴング』が企画したマスカラスのマスクデザイン・コンクールに寄せられた読者のハガキの束をドス・カラスに渡し、その中から気に入ったものを選ぶよう助言。ドス・カラスはそこから双頭の鷲がデザインされた覆面を選び出し、以降自身のマスクとした。彼はそのハガキを、現在でも大切に保管しているという。
1970年代前半は、マスカラスのアメリカでの主戦場でもあったテキサス州サンアントニオに遠征し、ホセ・ロザリオとのタッグで活動。1975年からは、EMLLを脱退したフランシスコ・フローレスが旗揚げしたLLIに参戦。以降メキシコでの主戦場をLLIに移し、1978年6月20日、カネックを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した。
同年8月、全日本プロレスに初来日。8月24日の田園コロシアム大会において、兄マスカラスとのマスカラス・ブラザーズでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、好勝負を残した。翌1979年3月は単独で再来日して『第7回チャンピオン・カーニバル』に出場。同年の末にはマスカラス・ブラザーズとして『'79世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦、ザ・ファンクスやアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークと熱戦を展開した。
以降も全日本プロレスの常連外国人選手となり、1980年2月の来日時は、大先輩ドクトル・ワグナーとの「UWAメキシコ・ライトヘビー級選手権」と銘打たれた架空のタイトルマッチが実現、技巧戦の末に勝利を収めた。同年8月の来日時にはマスカラスと組んでPWF杯争奪タッグトーナメントの第1回大会に出場、1回戦でクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・スタイガー、2回戦で極道コンビ、決勝でザ・デストロイヤー&ザ・クルーザーを破り、優勝を果たした。翌1981年8月に行われた第2回大会にもマスカラス・ブラザーズとして出場、決勝でリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを下して2連覇を遂げた。
1983年2月25日には愛知県体育館にて、当時大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。同年11月開幕の『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』にもマスカラスとの兄弟タッグチームで参加し、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビやタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の凶悪コンビとも対戦、これが昭和期の全日本プロレスへの最後の来日となった。
1984年2月26日、エンリケ・ベラからUWA世界ヘビー級王座を奪取。1985年1月20日にはUWAの総本山エル・トレオにてスタン・ハンセンとシングルマッチで対戦、テクニコに転向した宿敵カネックともタッグを組み、翌週の『UWA10周年記念興行』にてハンセン&ベビー・フェイス(ホセ・グアダルーペ・フェンテス)のチームを破った。
同年より新日本プロレスへ転出し、11月開幕の『IWGPタッグ・リーグ戦』にカネックとのコンビで参加。藤波辰巳とのシングルマッチも実現したが、リーグ戦はアントニオ猪木&坂口征二、藤波&木村健悟、ブロディ&ジミー・スヌーカ、ディック・マードック&マスクド・スーパースターなどのチームを相手に1勝4敗2分けで参加8チーム中6位の戦績で終わった。翌1986年5月の再来日ではザ・コブラとの試合で左腕を負傷、途中帰国を余儀なくされている。
以後、しばらく来日は途絶えることとなったが、1986年はEMLLのリングにも登場し、1月28日にビジャノ3号&ビジャノ5号と組んでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロ、エル・ブラソ、ブラソ・デ・プラタ)からナショナル・トリオ王座を奪取。同年12月30日にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を再び獲得している。1989年にはWWAの世界ヘビー級王者にも認定された。
1990年代に入り、日本へはW★ING、ユニバーサル・プロレスリング、WARなどインディー系の団体に参戦。1995年7月にはみちのくプロレスに来日、『第1回ふく面ワールドリーグ戦』でザ・グレート・サスケを破り優勝した。
1992年2月2日、カネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取して同タイトルへの3度目の戴冠を果たすも、AAAの出現などでLLIは崩壊寸前となり、1994年10月よりCMLLに移籍。1996年3月22日にはエクトール・ガルサとラ・フィエラをパートナーにCMLL世界トリオ王座を獲得した。しかし、1997年6月にAAAから選手を借り受けて単独興行を主催したことによりCMLLを解雇され、以降は準レギュラーのポジションでAAAに出場。2000年9月にデビューしたドス・カラス・ジュニアとも親子タッグを結成した。
2002年7月、全日本プロレスへの約19年ぶりの来日が実現。かつての全日本マットで「夏の風物詩」と謳われたマスカラス・ブラザーズを再結成し、武藤敬司ともタッグを組んだ。セミリタイア後の2010年5月8日には、WWEのメキシコシティでの興行にスペシャルゲストとして登場、チャボ・ゲレロ・ジュニアを相手に凱旋試合を行うドス・カラス・ジュニアをリング上から紹介した。
Wikipediaより
本人使用済みです。
TJ製。
坂口征二戦モデル。
ビル・イーディー
来歴
ジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で覆面レスラーの "流星仮面" マスクド・スーパースター(The Masked Superstar)に変身。グレート・マレンコをマネージャーに付けて頭角を現す。1977年3月には新日本プロレスの第4回ワールドリーグ戦に来日。公式戦では坂口征二から勝利を収め、アントニオ猪木とジョニー・パワーズの辞退もあり全勝でトップ通過する活躍を見せたが、優勝戦では坂口に敗れた。なお、同リーグ戦にはジートの初代パートナーだったベポ・モンゴルことニコリ・ボルコフも参加しており、両者は公式戦で対戦している。大型外国人対決としても注目されたが、当時はすでにイーディーの方が格上であり、フォール勝ちを収めている。
以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1978年3月の来日時はマネージャーのマレンコを帯同し、3月30日に蔵前国技館で猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1979年9月6日には福岡スポーツセンターにて、坂口の北米ヘビー級王座にも挑んだ。1981年8月6日、蔵前国技館での猪木との「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」に敗れて覆面を剥がされたため、同年10月には素顔でビリー・クラッシャー(Billy Crusher)と名乗って来日していたが、ほとぼりが冷めるとマスクド・スーパースターに戻った(以後、1984年8月の新日本のパキスタン遠征にもビリー・クラッシャー名義で参加しているが、1981年8月の猪木との覆面剥ぎマッチでは、覆面を剥がされた直後にタオルで顔を隠して逃走するなど素顔を完全に晒していなかったこともあり、ビリー・クラッシャーとマスクド・スーパースターが同一人物であることは公表されなかった)。1982年9月21日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が獲得したWWFインターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の挑戦者を務めた。
IWGPリーグ戦には1985年から1986年まで2年連続で参加。年末のタッグリーグ戦でもディック・マードックとのコンビで上位に食い込む活躍を残している。また、1985年8月にはスーパー・マシーン(Super Machine)としてマシーン軍団に加入、アンドレ・ザ・ジャイアントのジャイアント・マシーンとコンビを結成した。スーパー・マシーンは覆面レスラー史上にも稀な「正体も覆面レスラーの覆面レスラー」ということになる。
マスクド・スーパースターに変身後のアメリカマットでは、トップクラスのヒールとして主にNWAの南部テリトリーを中心に活躍。ミッドアトランティックではマイティ・イゴール、ワフー・マクダニエル、ブラックジャック・マリガンと抗争を繰り広げ、1980年4月にはトーナメント決勝でマリガンを破り、空位となっていたTV王座を獲得。ビッグ・ジョン・スタッドをマスクド・スーパースター2号に変身させ[16]、マリガン&アンドレ・ザ・ジャイアントとの大型タッグ対決も行われた。同年下期からは一時的にベビーフェイスに転向し、リッキー・スティムボートともタッグを組んだこともある。フェイスターン中はポール・ジョーンズをパートナーに、レイ・スティーブンス&ジミー・スヌーカ、スティーブンス&イワン・コロフ、ミネソタ・レッキング・クルーのジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンなどのチームとミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を争った。
他地区では、1980年にテネシー州メンフィスのCWAに出場、4月28日のミッドサウス・コロシアムでのメインイベントでは、前王者ジェリー・ローラーの返上で空位となっていたCWA世界ヘビー級王座をビル・ロビンソンと争った。1981年にはフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWにて、ケン・パテラを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得したとされている。
近年のホームタウンでもあるジョージアのGCW(ジム・バーネット主宰)では1970年代末から1980年代初頭にかけて、トミー・リッチとの遺恨マッチやミスター・レスリング2号との覆面レスラー同士の抗争を展開したほか、スタン・ハンセンとも何度となく対戦している。ハンセンとはタッグを組んだこともあるが、日本において両者の対戦やタッグチームが実現することはなかった。1981年8月15日にはスティーブ・オルソノスキーを破り、前年10月に新設されたNWAナショナル・ヘビー級王座を獲得[、翌月の9月12日にはリッチからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取して、ナショナル王座と統一させている。戴冠中の同月22日には、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。翌1982年もリッチやポール・オーンドーフを相手にナショナル王座を争い、GCWのフラッグシップ・タイトルとなった同王座を通算3回獲得した。
1983年下期、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、10月17日と11月21日の2カ月連続で当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦、初戦ではリングアウト勝ちを収めている。翌1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの体制下でスタートした全米侵攻にも、スタッド、オーンドーフ、ロディ・パイパーらと共にヒールの主力メンバーとして参加し、同年2月10日にはNWAの本拠地であったセントルイスのキール・オーディトリアムにて、新WWF王者ハルク・ホーガンの初防衛戦の相手を務めた(この試合は、WWFの全米侵攻第1弾のメインイベントでもあった)。
WWF離脱後は一時ジョージアに戻り、キングコング・バンディと組んで1984年5月6日にロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取[30]。同年下期にはスチュ・ハートの運営するカナダ・カルガリー地区のスタンピード・レスリングにおいて、ニック・ボックウィンクルを破ったとして、同地区で新設されたIWA世界ヘビー級王座のチャンピオンに認定されている[31]。その後はAWAに進出し、ミスター・サイトーの用心棒的なヒールとなって、WWFでも因縁のあったサージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争した。
1986年の上期はビル・ワットの主宰する中南部のMSWAに出場、新日本プロレスでのパートナーだったマードックと組み、テッド・デビアス、スティーブ・ウィリアムス、ジム・ドゥガンらと対戦した(MSWAでは、ジン・キニスキーの息子ケリー・キニスキーがマスクド・スーパースター2号に変身していた)。同年はフロリダ地区にも参戦し、7月22日にレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取している[34]。親友でもあるディノ・ブラボーの招きにより、カナダのモントリオール地区でも活動した。
マスクド・スーパースター名義としては1976年から約10年間に渡って活躍した。覆面レスラーのギミックは短命に終わる場合の多い米マット界においては異例のキャラクター寿命を誇り、日本マットに定着したザ・デストロイヤーを除くと、ミスター・レスリング1号&2号、ザ・スポイラー(スーパー・デストロイヤー)などと並ぶ、アメリカのマスクマンの代表格だった。
1986年の後半からは前述のマシーン軍団の一員、スーパー・マシーンとしてWWFと再契約。NWA時代のライバルでもあったマリガン=ビッグ・マシーンも加わり、日本からやって来たベビーフェイスのマスクマン軍団として売り出される。
2009年7月、久々の来日が実現。7月4日に新木場1stRINGにて『流星仮面FIESTA』と題された記念大会が覆面MANIAの後援で開催され、スーパー・ストロング・マシーンと組んでミステル・カカオ&4代目タイガーマスクと対戦した。7月5日には新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場して挨拶を行っている。
2011年7月には、少年犯罪者更生に向けてのチャリティー活動の一環として、東京と大阪での引退ツアーが開催された。大阪プロレスの主催による7月15日の『流星仮面Osaka FINAL』では6人タッグマッチで藤波辰爾と対戦[44]。7月17日に新木場1stRINGで行われた『流星仮面FIESTA・FINAL』では、メインイベントの引退試合に初代タイガーマスクとのタッグチームで出場、藤原喜明&ブラック・タイガーVから勝利を収めた。
その後は2012年3月31日、フロリダ州マイアミビーチで行われたプロレスリング・スーパースターズ主催の "Tribute To Championship Wrestling From Florida" に出場、メインイベントの8人タッグチーム・エリミネーション・マッチにおいて、ロン・バスやラリー・ズビスコらと組み、マイク・グラハム、ブライアン・ブレアー、カルロス・コロン、ラニー・ポッフォ組と対戦した[。
Wikipediaより