メーカー メキシコ製。
全長約1,260mm。
重量約3.3kg。
ストラップ本革編み込み。
刻印無。
収納袋無。
NWA世界ヘビー級王座
概要
1948年に設立された、新NWA(アライアンス)の初代王座にはオーヴィル・ブラウンがついた。1949年にブラウンと旧NWA(アソシエーション)の世界王者のルー・テーズによるタイトルマッチが行われるはずであったが、ブラウンが交通事故に遭い引退したため、テーズが第2代王者の認定を受けることとなった。
その後、新NWAはこの世界王座を正当化するためにフランク・ゴッチを初代王者とし、2代目以降は適当に過去の団体の王者をつぎはぎしてルー・テーズに至る系譜をつくりあげた。そしてルー・テーズは第38代王者として認定を受けた。以後はここからNWA世界王者の代数をカウントしていくこととなる。
NWA世界ヘビー級王座は、ルー・テーズやジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイスなどの実力あるレスラーたちの功績により、1980年代前半まで世界最高峰のベルトとして広く認知されるに至った。このタイトルを手にした者は全米各地(時には日本を初めとする海外)のNWA会員のプロモーターのテリトリーを転戦し、その地区のローカルチャンピオンと防衛戦を行わなければならず、かなりの体力と精神力が要求された。ただし、NWA王座は反則・リングアウトによる勝ち/負けでは移動せず、またオーバー・ザ・トップロープは反則というルールが存在したため、それを利用してベルトの防衛を行うこともできた。
NWA王者は各地のスターレスラーと防衛戦を行う仕組みになっているため、実力差を見せつけるような試合はせず、苦戦しながらの辛勝や引き分け・反則負けなどで防衛を重ねていく。そこで、インサイドワークに長けたテクニシャンタイプが多く、反則防衛を多用するヒール(悪役)タイプのレスラーも少なくない。
NWA世界ヘビー級王座ベルトを獲得した日本人レスラーはこれまでに何人もいるが、NWA黄金期にこのタイトルを獲得したレスラーは、ジャイアント馬場(3度獲得)ただ一人である。ただし、いずれも戴冠期間は1週間以内で、NWA王者(ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス)の来日期間中にいわば一時的に王座を貸与されていたものであり、いずれも前王者との再戦・再々戦でベルトを奪還されている。
1980年代末、WWFの全米進出によってテリトリー制が崩壊し、NWA末期における最大の団体であったジム・クロケット・プロモーションズがテッド・ターナーに買収されてWCWが台頭した後は、NWA王座は実質的にWCWが管理するようになり、その際はWCWの管理する一王座という扱いであった。そのため、その権威は大きく下がり、さらにWCWのNWA離脱と共にスター選手もNWAから離れたため、権威は更に大きく下落した。1990年代後半から2000年代初頭にかけてはインディー団体の一王座にまで権威は低下した。
2002年に入り、NWAとの業務提携によりTNAが王座を管理する権利を獲得(管理する期間は2014年まで)。以降実質的にTNAの王座となっていたが、2007年5月業務提携終了によりベルトの管理権を剥奪された。
以降はROHなどアメリカのインディー団体や、メキシコのCMLLでタイトル戦が行われている。2008年10月25日にはブルー・デモン・ジュニアがメキシコ人レスラー、覆面レスラーとして初のNWA世界ヘビー級王者となっている。2013年よりNWAから新日本プロレスへ挑戦表明がなされ、新日本プロレスのビッグマッチでもタイトル戦が行われるようになった。2014年1月4日東京ドーム大会で小島聡が、日本人としては橋本真也以来の王座に輝いた。
また、WWEの世界ヘビー級王座は元々WCW世界ヘビー級王座を復活させたものであるが、WCWの番組内でWCWとNWAの両王座が統合された経緯を根拠に同一のものと主張、あるいは意図的に混同し、NWA、WCW、WWEに至る世界王座のDVDを販売している。
ベルトの改変
NWAが公式に初代ベルトとするものはルー・テーズが第2代王者に認定された際に持っていた物で、このベルト自体は1921年から使用されていた。1960年、長年の功績をたたえテーズに贈呈された後、UWFインターナショナルのプロレスリング世界ヘビー級王座に使用され、テーズも最高顧問に就任。
初代が贈呈された後、黒革の2代目ベルトが作成された。
3代目はハーリー・レイスが初めて王座奪取した1973年に角ばったデザインの物を作成。馬場が三度奪取した際のベルトはこのデザインのものである。このベルトは一時小橋建太に貸与されていた。
4代目は1986年にリック・フレアーが5度目の戴冠を果たした際に黄金に輝くベルトを作成。「ビッグ・ゴールド」(en:Big Gold Belt)、また「フレアー・モデル」と呼ばれる。このベルトはWCWでもそのまま使用され、NWA離脱後もWCW世界ヘビー級王座(のちにWWE世界ヘビー級王座)のベルトとなった。
そしてNWAがインディー系組織として再始動すると、レイス時代のものを復刻し現在に至る。
Wikipediaより
メーカー名 FIGURE TOY製 ウルトラデラックス 1000本限定 証明書付き
仕様
• ベルト部分:本皮仕様
• カバー: クロスケース付き
• サイズ: 約 135cm プレートの厚さ:4 mm
• 重量:約4.2kg
刻印有。
収納袋有。
ランディ・オートンネームプレート付。
世界ヘビー級王座 (WWE)
世界ヘビー級王座(せかいヘビーきゅうおうざ、World Heavyweight Championship)は、アメリカのプロレス団体WWEにおける王座の一つである。WWEにおいて2013年までWWE王座と並ぶ最高位のタイトルであった。
概要
WWE王座と並び、団体の最高位の王座であり、王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。
王座に用いられているチャンピオンベルトは旧NWA、WCW時代にリック・フレアーが十数回に渡り戴冠し活躍したことから、フレアー・モデルという通称を持つ。フルモデルチェンジを繰り返しているWWE王座とは対照的に、エンブレムをWWEのものに変更するなどの処理こそ施されたものの制定から現在まで同一のベルトを使用し続けている。
なお、アメリカでは単に「世界ヘビー級王者 "World Heavyweight Champion"」と表記する場合は、かつて世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座を指す。そういった点を考慮しても、又は最近WWEから発売された世界ヘビー級王座の歴史を辿るDVDでの扱い方を見ても、今日のWWEにおいてこのタイトルは、公式な歴史を見れば非常に浅いものの、かつて栄華を誇ったNWA世界王座、その後それを受け継いだWCW世界王座の流れを受け継いだタイトルであると言え、同等価値のWWE王座がWWEという団体の歴史を象徴する王座であるならば、これはアメリカンプロレスそのものの歴史を象徴するタイトルであるといえる。
また同王者を制定する際、混同を避けるため「WWE世界ヘビー級王座」は「WWE王座」へと改称されている。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,300mm。
重量約1.8kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
NWA世界ジュニアヘビー級王座
NWA世界ジュニアヘビー級王座(NWAせかいジュニアヘビーきゅうおうざ、NWA Junior Heavyweight Championship)は、NWA(National Wrestling Alliance)本部直轄のプロレスのタイトルである。
王座創設は新NWA(アライアンス)が発足される前の第二次世界大戦中の1943年で、後にアライアンスの初代会長に就任するピンキー・ジョージによりケン・フェネロンが初代王座に認定されている。1944年にはMWA王者エディ・キャンベルを下し王座統一。
1949年、新NWA王者ビリー・ゲルツと旧NWA(アソシエーション)王者レロイ・マクガークの間で王座統一戦が行われ、勝利したマクガークにより新旧王座が統一された。1950年2月、マクガークが交通事故による失明のため返上。1950年11月13日王座決定戦でバーン・ガニアがベルト獲得。1951年に王座を獲得したダニー・マクシェインは3州の王座を吸収する。
その後、元王者でオクラホマ地区のプロモーターであったマクガークによって同王座の管理・運営をNWAから任されることになり、主にマクガークのプロモートするNWAトライステート地区(オクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー)で選手権試合が行われるようになった。だが、このことが王座の占有を招く結果となり、NWAの反主流派と呼ばれていたプロモーター達(WWFのビンス・マクマホン、CWFのエディ・グラハム、ハリウッド・レスリングのマイク・ラベール、新日本プロレスの新間寿ら)と反目する原因となった。
1979年に当時の王者であったネルソン・ロイヤルの引退に伴い、反主流派はロサンゼルスにて同年12月10日に王座決定戦を行い、スティーブ・カーンを新王者に認定するも、これに異を唱えたマクガークも1980年2月11日にオクラホマで王座決定トーナメントを決行し、ロン・スターを新王者に認定したため、一時期、2つの『NWA世界ジュニアヘビー級王座』が混在するなどの事態を招いたが、最終的にはマクガーク版のタイトルの正当性が認められた。なお、反主流派が新設したタイトルは「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」として日本に定着している。
ケン・マンテルが王者時代、フリッツ・フォン・エリックが1万ドルで製作したレジー・パークス製作のベルトが贈られる。1974年12月5日には、日本大学講堂においてマンテルにジャンボ鶴田が挑戦。1982年5月25日レス・ソントンからタイガーマスク(初代)が奪取するが、NWA本部では王座獲得のみを記録し、アメリカではソントンが継続して王者として活動する。タイガーマスクは新日本プロレス認定の王座として防衛戦を続ける。ソントンがWWFに移籍すると、その後はジム・クロケット・ジュニアが管理、最終的に、ロイヤルが過去の実績が認められ認定されるが1988年に王座は封印。新日版王座は、タイガーマスク引退後に1983年11月3日にザ・コブラが獲得[1]。WWFの同級王座と共に新日本プロレスにて管理されていたが[2]、WWFと新日の業務提携終了に伴い、1985年10月31日をもってWWFジュニアヘビー級王座を返上。この機会に、1985年8月に王者であったコブラがNWA王座も返上することとなった。
その後、USAチャンピオンシップ・レスリングにて王座のタイトルマッチが行われていたが、団体が閉鎖しその時点で王者であったネルソン・ロイヤルが1988年にアトランティック・コースト・レスリングを設立し、そのまま王者として活動するも、団体が閉鎖した事で、管理者がいなくなり王座は宙に浮いた状況になっていたが、1995年8月30日に日本のレッスル夢ファクトリーにて王座が復活し、新王者決定トーナメントが開催され、茂木正淑が王者として認定される。だが、この頃にはNWAの権威が低下したこともあり、マイナータイトルの一つという扱いとなっており、一時は(1996年から1998年まで)ジュニア8冠王座のひとつになっていた。8冠王座解体後は新日から離れ、NWA本部が直接管理する王座となり、その後新日がNWAと再提携したことにより、一時タイガーマスク(4代目)や獣神サンダー・ライガーが王者となるなど、再び新日と関係を持つようになったが、再び提携が解消されたことにより、新日から完全に離れ、現在はインディー団体のレスラーを対象にした王座として存続している。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,250mm。
重量約2.2kg。
ストラップ本革。
プレート部分 縦29cm 横31cm。
収納ケース無。
刻印無。
マジックテープ式。
AWA世界ヘビー級王座
AWA世界ヘビー級王座(AWAせかいヘビーきゅうおうざ、AWA World Heavyweight Championship)は、アメリカン・レスリング・アソシエーション(以下「AWA」と略)が認定するプロレスの王座の一つである。かつてはNWA・WWF(現:WWE)とならび「世界三大王座」と言われていたタイトルである。
なお、俗にAWAと言われた王座はオマハ(世界ヘビー級王座 (オマハ版))、ボストンやオハイオ、シカゴ(AWA世界ヘビー級王座 (ボストン版))などにも存在したが、最終的に消滅または「三大世界王座」といわれたバーン・ガニア(ミネアポリス)版のAWAに吸収された。カール・ゴッチやドン・レオ・ジョナサンの経歴に「AWA世界ヘビー級王者」とあるのはそれらの団体王座の獲得歴である。この項目ではガニア版AWAのタイトルについて述べる。
歴史
1960年5月にNWAミネアポリス地区からNWAを脱退してAWA創立。同月にAWAが当時NWA世界ヘビー級王者であったパット・オコーナーをNWA脱退後もそのまま初代AWA世界ヘビー級王者として継続して認定(記録上は、オコーナーのNWA王座獲得日である1959年1月9日)、オコーナーをAWA・NWA統一世界王者とする。そして、AWAは王者であるオコーナーにバーン・ガニアとの指名試合を勧告、90日以内にガニアとの試合を行わない場合はAWA王座の剥奪をすると通達。しかし、オコーナー側はガニアとの指名試合を拒否したため、指名試合勧告から90日後にオコーナーのAWA王座は剥奪され、1960年8月に指名挑戦者であったガニアをAWA王者と認定、AWAとNWAの世界王座が切り離され独立をする。
1963年9月には当時AWA世界ヘビー級王者であったバーン・ガニアが、世界ヘビー級(オマハ版)王者であったフリッツ・フォン・エリックを破り王座を統一し、オマハ版世界王座を吸収。このことから、日本では世界ヘビー級王座(オマハ版)をオマハ版AWA世界ヘビー級王座と俗に呼称される場合がある。
AWAが日本と提携交流のあった期間にはたびたび日本でもタイトルマッチが行われていた。1970年代には国際プロレスとAWAが提携し、ガニアが国際プロレスのリングで防衛戦を行った。1970年代中期以降AWAは全日本プロレスとも交流を始め、国際プロレスと並行して交流をし、国際プロレスの崩壊後には全日本プロレスとの交流をさらに深める。そして、1980年代後半のAWA衰退期には新日本プロレスと関係を持つようになった。日本人ではジャンボ鶴田とマサ斎藤が王者になっている。
1991年にAWAは団体の活動を終了し王座は消滅。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,250mm。
重量約2.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
AWA世界タッグチーム王座
AWA世界タッグチーム王座(AWAせかいタッグチームおうざ、AWA World Tag Team Championship)は、アメリカン・レスリング・アソシエーション(以下「AWA」と略)が認定するプロレスのタッグ王座の一つである。かつてはNWA・WWF(現WWE)とならび「世界三大タッグ王座」と言われていたタイトルである。
歴史
元々はバーン・ガニア率いるNWAミネアポリスで認定されたNWA世界タッグチーム王座の一つであったが、1960年にガニアがNWAから脱退してAWAを創立したためタイトル名を改め、NWA脱退前から(AWA創立時)の現NWA世界タッグチーム王者チームであったスタン・コワルスキー&タイニー・ミルズ組を初代AWA世界タッグチーム王者チームとして、そのまま継続して認定をした。
以降、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやロード・ウォリアーズなど、プロレス史に名を残す数々の強豪タッグチームが戴冠し、その権威を高めた。
日本でも、1970年代から1980年代にかけてのAWAの提携団体だった国際プロレスや全日本プロレスのリングにおいて、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルなどのチャンピオン・チームによって防衛戦が行われている。
AWA末期にはマーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズなど新世代のチームが戴冠したが、1991年のAWA崩壊に伴い封印された。
Wikipediaより
歴代のNWA世界チャンピオンの直筆サイン。
(画像1枚目)鉄人ルー・テーズ 直筆サイン色紙2枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、直筆サインポートレート1枚
(画像2枚目)野生児バディ・ロジャースWRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、ディック・ハットン 直筆サイン色紙1枚、マットの魔術師 パット・オコーナー 直筆サイン色紙1枚、荒法師 ジン・キニスキー 直筆サイン色紙1枚、直筆サインポートレート1枚
(画像3枚目)ドリー・ファンク・ジュニア 直筆サイン色紙1枚、テリー・ファンク 直筆サイン色紙1枚、美獣 ハリー・レイス 直筆サイン色紙1枚、南部の麒麟児 ジャック・ブリスコ 直筆サイン色紙1枚、直筆サイン入ブロマイド1枚、アメリカン・ドリーム ダスティ・ローデス 直筆サイン色紙1枚
その他 ジャイアント馬場/トミー・リッチ/リック・フレアー/ケリー・フォン・エリック/ロニー・ガービン/リッキー・スティンボート/スティング/藤波辰巳/蝶野正洋/ザ・グレート・ムタ/バリー・ウインダム/ダン・スバーン/小川直也/ビル・ゴールドバーグ等/以下 ジュニアヘビー ダニー・ホッジ/ヒロ・マツダ/ケン・マンテル/ネルソン・ロイヤル/レス・ソン・ソントン/ジェリー・ブリスコ/タイガーマスク/ザ・コブラ等 以上 直筆サイン色紙各1枚
NWAは、アメリカ合衆国のプロレスプロモート連盟。正式名称はナショナル・レスリング・アライアンス(National Wrestling Alliance、全米レスリング同盟)。
複数のプロレス関連組織がNWAを名乗ったが、今日において一般的にNWAと呼ばれるのは、このナショナル・レスリング・アライアンス(全米レスリング同盟)である。そのため、本項では全米レスリング同盟についてを中心に記述している。
歴史
発足
1948年7月に、アイオワ地区のプロモーターであるピンキー・ジョージが中心となり、セントルイスのサム・マソニックやミネアポリスのトニー・ステッカーら5人のプロモーター達と共に結成された。第二次世界大戦後、プロレスを再興させるために「世界タイトルの認定」を行い、世界王者を抱えることによって興行的に大都市のプロモーターに対抗する意図があった。あくまで連盟であるため非営利組織であったが、談合カルテルとしての側面を持ち合わせており、1956年には独占禁止法違反により司法省に告訴された。
黄金期
当初、ピンキー・ジョージは、アメリカ中西部地区に限った統一世界王座の構想を持ち、NWA結成を呼びかけたが、瞬く間に加盟するプロモーターの数が増え、間もなく発足メンバーの1人であるサム・マソニックに実権を奪われた。以降、1960年代から1970年代にかけては、マソニックのリーダーシップにより黄金期を形成。ボブ・ガイゲル、フリッツ・フォン・エリック、エディ・グラハム、ジム・バーネット、ジム・クロケット・ジュニアなどのプロモーターが繁栄テリトリーを築き、フラッグシップ・タイトルのNWA世界ヘビー級王座はプロレス界における世界最高峰の王座とされた。しかし、1980年代前半に入り、ケーブルテレビの普及やオイルショック以降のガソリンの高騰(当時多くのレスラーは現在以上に車で移動していた)、WWFとの興行戦争などにより、低迷する加盟地区が続発、NWAの力も衰退していくことになった[1]。
衰退期
1984年、WWF(現:WWE、1983年まではNWAの一員だった)が豊富な資金とケーブルテレビの活用を背景に全米に勢力を拡大し始めると、次第に興行に行き詰まる地区が続出。AWAのバーン・ガニアと組んで対抗しようとしたが、資金力と団結に劣るNWAに勝ち目はなく、衰退の一途をたどり始める。1980年代後半に入ると王者リック・フレアーを擁するノースカロライナ州のプロモーター、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化しNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制は形骸化。ダラスのプロモーターで元会長のフリッツ・フォン・エリックのようにNWAからの独立に活路を求める者まで出る始末だった。しかし、ジム・クロケット・プロモーションズもWWFとの興行戦争に敗れ経営難となり、1988年11月の当時、テレビ放映権を持っていたテッド・ターナーに買収され、新団体、WCWが発足する。WCWでは買収後はNWA王座とWCW王座のタイトルマッチを並行して行っていたが、1993年にWCWもNWAから脱退した。
衰退後
WCWの脱退後もNWAは団体として存在するものの、マイナータイトルの1つという位置付けにすぎず、かつての威厳はない。1994年8月、当時加盟していたECWにおいてNWA世界ヘビー級王座の王座決定戦が行なわれたが、王座を獲得したシェーン・ダグラスは「こんな王座に価値はない」とチャンピオンベルトを投げ捨てる暴挙に出た(この一件でECWは脱退している)。かつての権威を取り戻す動きを起こしても、WWEの勢力が強く、また当時とはプロレスの位置付けや見方が大きく変わっているために、苦戦している。
その中でも2002年に設立されたTNA(Total Nonstop Action)はNWAに所属する団体の中で急速に勢力が拡大している団体であり、単一メジャーのWWEに次ぐ勢力となりつつある。元WWE出身の選手も多く在籍する。しかし、2007年5月にNWAと業務提携を終了、NWAからタイトルを剥奪され 、TNA独自の新タイトルに切り替えることになった。
その他、ジョージア地区のNWAアナーキー(NWA Anarchy)は、2005年4月まで存続した団体、NWAワイルドサイド(NWA Wildside)の後を継いで、毎週全米とカナダで週1回のテレビ番組を供給している。NWAプロ・レスリング(NWA Pro Wrestling)は、ルチャ・リブレを取り入れたスタイルでアメリカ南西部地区、カリフォルニア地区、ニュージャージー地区を中心に興行を行なっている。
2008年には、EMLL(現:CMLL)のスターであったブルー・デモンの息子、ブルー・デモン・ジュニアがNWAメキシコ(NWA Mexico)を創立。彼はルチャドールで初めてNWA世界ヘビー級王座に就いた。
現在
2012年、テキサス地区のブラウンズビルのプロモーターで、NWA会員のブルース・サープが加盟団体の保険制度に不正があるとし、NWA理事会に提訴するが、NWAの専務理事がこれに応じなかったため、裁判となり、同年8月にサーブがNWA標章の権利を勝ち取り実権を掌握。これ以降、NWAは加盟プロモーターによる合議制から、加入希望者がNWAに対し標章使用料を支払うライセンス制度に変更され、現在に至っている。
日本のプロレス団体との関係
日本では、日本プロレス(以下日プロ)が1960年代後半にNWAへ加盟したが、それ以前にも正式な加盟はしていなかったものの、力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズの招聘を実現させタイトルマッチを組むなどNWA本部とは友好な関係を構築し、正式な加盟後も日プロは崩壊までメンバーであった(名義人は芳の里淳三)。
全日本プロレス(以下全日本)に関しては、ジャイアント馬場がアメリカ遠征時代からNWAとの関わりが強く、全日本創立直後に芳の里がすでに加盟していたにもかかわらず臨時総会まで開いて加盟が認められている(全日本と友好関係にあったアマリロのプロモーター、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけによるとされる)。1984年より馬場は、全日本の会長の立場で4期に渡って日本人唯一のNWA第一副会長を務めた。だが、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化したことによってNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制が形骸化したことや、NWAから「鶴田、天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」という指示が出たことにより、全日本はNWAとの関係を見直すようになり、最終的には脱退し、団体内での闘いにシフトしていった。
新日本プロレス(以下新日本)に関しては、当時の社長であったアントニオ猪木が加盟を申請したが、NWA側から拒否され、坂口征二と新間寿が新日本側の加盟名義人として申請し加盟を認められている。だが、NWAへの加盟は認められたものの、世界ヘビー級王座のタイトルマッチは全日本のみに限られ、新日本では、世界ヘビー級王座のタイトルマッチが行うことはできなかったりと、待遇には差があった。猪木はこれを逆用して「NWA王者は俺が恐くて挑戦を逃げた」と国内で宣伝し、日本のファンには受けたが他のレスラーやプロモーターからは顰蹙を買った。その背景からNWAを脱退していたWWWF(現:WWE)と提携を結び、WWWFがNWAに再加盟してWWFに改称した後もNWA反主流派同士として関係は続いた。その後、WWFと提携解消に至ると、全日本がNWAと徐々に疎遠になっていったのとは対照的に、NWAとの関係を深め、当時提携していたWCWと連携し空位になった世界ヘビー級王座の決定トーナメントを開催するなどしていたが、WCWがNWAから脱退したことで、新日本もNWAとの関係を見直し、脱退している。
女子では日本女子プロレス(以下日女)が創立して間もなく松永高司を名義人として加盟していたが、松永は日女を離脱して全日本女子プロレス(以下全女)を旗揚げしたためそのまま全女に移るも、1970年にWWWAの権利を獲得したのもありNWAとの関係は疎遠になっていた。しかし、1970年代末期に全女はファビュラス・ムーラとその一門をNWAチャンピオンとして招聘し、ムーラの女子王座をナンシー久美に、女子タッグ王座を横田利美&塙せい子にそれぞれ挑戦させている。2000年にはNEO女子プロレスが加盟しNWA女子パシフィック王座&NEOシングル王座を創設している。
2001年に橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONE(以下ZERO-ONE)がNWAに加盟し、実質的な日本支部として活動を行い、「NWA」の冠の付いた王座を複数認定していた。2004年にZERO-ONEが崩壊したことで関係は一時途絶えるが、後継団体のZERO1では引き続き独自に「NWA」の冠がつくタッグ王座の管理・認定を続けた。2011年にはZERO1がNWAに加盟(実質的には再加盟)したことで、これらZERO1が管理するNWA王座もNWA側により追認された。しかしザ・シーク(2代目)が持つNWA世界ヘビー級王座の剥奪に抗議したため同年限りでNWAから脱退し、同じNWAの略称を持つ独自の組織たる「ニュー・レスリング・アライアンス(New Wrestling Alliance)」を立ち上げた。一方、ZERO-ONE崩壊後、当時新日本取締役だったサイモン・ケリー猪木がNWAに加盟し、再び新日本と関係を持つが、サイモンの新日本退社とIGF旗揚げに伴い、新日本はNWAから脱退し、代わりにIGFが加盟して現在に至っている。IGFでは澤田敦士がNWAヘリテイジ王座を獲得しており、NWA傘下当時のZERO1主催の大会「火祭り」にNWA枠として出場した。
なお全日本と新日本の他にも、国際プロレスの社長、吉原功も1970年に加盟申請しているが、日プロによる妨害工作で却下されている。また、大木金太郎が韓国のプロモーターとして加盟している。新日本脱退からZERO-ONE加盟まではI.W.A.JAPAN、レッスル夢ファクトリー、UFOが加盟していた。I.W.A.JAPAN創始者のビクター・キニョネスはプエルトリコのプロモーターとして1994年から2001年まで加盟していた。
2013年3月、NWA側から新日本へ挑戦表明の映像が公開され、同年4月開催予定の新日本両国国技館大会への参戦を直訴し、世界ヘビー級王座、世界ジュニアヘビー級王座、世界タッグ王座のタイトルマッチが行われるなど、再び交流を持つようになった。だが、あくまで新日本では、同団体の王座であるIWGPを格上の王座として対応している。
2015年、NWA世界女子王者サンタナ・ギャレットがスターダムに参戦し、同団体にて世界女子王座のタイトルマッチが行われることになった。
Wikipediaより
歴代のAWA世界チャンピオンの直筆サイン。
(画像1枚目)AWAの帝王 バーン・ガニア 直筆サイン色紙2枚
(画像2枚目)ドン・レオ・ジョナサン 直筆サイン色紙1枚、原爆男 ウィルバー・スナイダー 直筆サイン色紙1枚、ドクターX 直筆サイン入写真(ビル・ミラー 直筆サイン色紙1枚)
(画像3枚目)粉砕者 クラッシャー・リソワスキー 直筆サイン色紙1枚、マッドドッグ・バション 直筆サイン色紙1枚、鉄の爪 フリッツ・フォン・エリック 直筆サイン色紙1枚、その他 エドワード・カーペンティア
その他 ディック・ザ・ブルーザー(直筆サイン色紙と直筆サイン入ポスター:ディック・ザ・ブルーザーとブルーザー・ブロディのW直筆サイン ディック・ザ・ブルーザーの妻の証明の手紙付き)/ドクターX(=ザ・デストロイヤー) 直筆サイン入ポスターとポートレート/ニック・ボックウインクル/オットー・ワンツ/ジャンボ鶴田/リック・マーテル/スタン・ハンセン/カート・ヘニング/ラリー・ズビスコ/マサ斎藤等 以上 直筆サイン色紙各1枚
アメリカン・レスリング・アソシエーション(American Wrestling Association、略称:AWA)は、1991年までアメリカ合衆国に存在したプロレス団体。
概要
1960年5月。バーン・ガニアがミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを脱退して設立。ミネアポリスを本拠に、シカゴ、ミルウォーキー、オマハ、デンバーおよびカナダのウィニペグなど、アメリカの北部地域を活動領域とした。形式上はNWA同様にアメリカ各地のプロモーターの連合体であったが、実際には一つの「団体」であり、実権はプロモーター兼プロレスラーのガニアが掌握していた。会長はスタンリー・ブラックバーンらガニア以外の人物が務めていた。
フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座には、当時のNWA世界ヘビー級王者だったパット・オコーナーを初代王者として独自に認定、オコーナーをAWAとNWAの統一世界王者とし、ガニアとの指名試合を勧告する。しかし、オコーナー側は正式なブッキング要請がないとして対戦を拒否。これにより1960年8月、AWA世界ヘビー級王座はガニアに移動。以降、ガニアはAWAのオーナー兼世界チャンピオンとして一時代を築いた。
かつてはNWAやWWWF(後のWWF)と並ぶ全米3大メジャー団体であり、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ロード・ウォリアーズなどが最初のブレイクを果たしたのもAWAのリングだった。WWFがNWA傘下に入っていた時期は、フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座と並ぶ2大世界王座とされたこともあった。
また、オーナーのバーン・ガニア自身がオリンピック出身だったこともあり、レスリング(バロン・フォン・ラシク、ラーズ・アンダーソン、クリス・テイラー、ブラッド・レイガンズ)や重量挙げ(ケン・パテラ)などのオリンピック代表または代表候補の選手を積極的にスカウトし、AWAでデビューさせている。1970年代からは「ガニア・キャンプ」と呼ばれるプロレスラー養成所を開設。団体内に自前のジムを持つことは当時のアメリカのマット界では珍しい事例であり、トレーナーにはガニア自身に加え、ビル・ロビンソンやコシロ・バジリを起用して新人選手を育成した。キャンプの出身者には、リック・フレアー、リッキー・スティムボート、サージェント・スローターなど、後にNWAやWWFの世界王者となったレスラーも少なくない。
インディアナ州インディアナポリスのWWAやテネシー州メンフィスのCWA、テキサスのサンアントニオ地区、カナダのモントリオール地区とも提携し、1982年からはソルトレイクシティやサンフランシスコに進出するなど勢力を拡大したが、1984年に始まったWWFの全米マット制圧に際し最初のターゲットにされ、ハルク・ホーガンをはじめとする主力選手やスタッフ(ブッカーのジャック・ランザ、アナウンサーのジーン・オーカーランド、マネージャーのボビー・ヒーナンなど)を次々と引き抜かれたため、一気に弱体化。WWFへの対抗手段として、NWAのジム・クロケット・プロモーションズやCWAとの合弁事業組織「プロレスリングUSA」を立ち上げ、各地で合同興行を開催したが、ジム・クロケット・ジュニアとの確執などでNWAとの共同路線も頓挫。本拠地ミネアポリスでの観客動員も激減し、団体としての活動は1991年に終了。権利関係は後年になってWWF(現:WWE)に買い取られた。そのため、近年ではWWE 24/7にてAWAの試合も放送されている。
日本との関わり
日本のプロレス団体とは、NWAが日本プロレスと提携していたため、その対抗策として1970年より国際プロレスと提携。AWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアをはじめ、AWA世界タッグ王者チームのマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションやニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、初来日の「まだ見ぬ強豪」だったダスティ・ローデスやワフー・マクダニエルなど、AWAのスター選手が続々と国際プロレスに来日した。その一方で、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフなど、国際プロレスに参戦していたヨーロッパの選手がAWAに登場し、彼らのアメリカ進出の契機ともなった。しかし、団体のエースだったストロング小林の離脱やTBSのテレビ放送打ち切りなどで経営状態が悪化した国際プロレスは、高額なブッキング料が必要とされるAWAとの提携を1975年に解消、カルガリーに居住していた大剛鉄之助をブッカーに、カナダを外国人選手の新しい招聘ルートとした。
以降、AWAは全日本プロレスと提携を開始したが、もともと全日本プロレスは国際プロレスと友好的な関係にあったこともあり、1979年から1980年にかけては、当時のAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルが国際プロレスに再登場し、ラッシャー木村や大木金太郎を相手に防衛戦を行った。1981年の国際プロレス崩壊後は日本での提携先を全日本プロレスに絞り、1984年にはジャンボ鶴田が日本人初のAWA世界ヘビー級王者となっている。活動末期の1980年代末からは、マサ斎藤の仲介で新日本プロレスとも関係を持つようになった。女子では1980年代後半にジャパン女子プロレスと接点を持ち、AWA世界女子王者のシェリー・マーテルが来日して防衛戦を行っている。
Wikipediaより
歴代のWWWF世界チャンピオンの直筆サイン。
(画像1枚目)人間発電所 ブルーノ・サンマルチノ 直筆サイン色紙2枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、直筆サインポートレート1枚
(画像2枚目)スーパースター・ビリー・グラハム 直筆サイン色紙3枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚
(画像3枚目)大巨人 アンドレ・ザ・ジャイアント 直筆サイン色紙1枚(当時、アンドレはファンにサインしなかったので新日プロの柴田レェフリー経由で入手)、その他モンスター・ロシモフ 直筆サイン色紙1枚とアンドレ・ザ・ジャイアントとジャイアント馬場の寄せ書き直筆サイン色紙1枚付き)、超人 ハルク・ホーガン 直筆サイン色紙2枚
その他 イワン・コロフ/ペドロ・モラレス/スタン・スタージャック/ボブ・バックランド/アントニオ猪木/アイアン・シーク/ランディ・サベージ/アルティメット・ウォリアー/サージェント・スローター/ジ・アンダーテイカー/リック・フレアー/ブレット・ハート/ヨコズナ/スティーブ・オースチン/ザ・ロック/HHH/ビンス・マクマホン/クリス・ベノア/クリス・ジェリコ/ジョン・シナ/カート・アングル/AJスタイルズ/ブロック・レスナー(直筆サイン入ポートレート)等 以下 ジュニアヘビー カルロス・エストラーダー/藤波辰巳/剛竜馬/タイガーマスク/ダイナマイト・キッド等 以上 直筆サイン色紙各1枚
WWE(英: WWE, Inc.、World Wrestling Entertainment)は、アメリカ合衆国のプロレス団体及び興行会社。
2002年以前はWWF(英: World Wrestling Federation) 1979年3月1日以前はWWWF(英: World Wide Wrestling Federation)という名称であったが、まったく同じ略称の World Wide Fund For Nature(世界自然保護基金)に名称の改変を求める訴訟を起こされて敗訴してWWEに改めた(ちなみに近年販売されているオフィシャルなDVD等においては過去の映像の中で「WWF」の語が発せられた場合は全て「WWE」と訳出されている。マークやロゴの場合はぼかしなどで修正していた)。2012年に世界自然保護基金との交渉により映像や音声の修正無しでの過去の映像の使用が可能になった。ちなみに設立当初の WWWFの読みは「スリー・ダブル・エフ」である。
1999年より株式を公開(当初はNASDAQ、現在はニューヨーク証券取引所)しているが株式の約8割をオーナーであるマクマホン・ファミリーと関係者で保持しているために会社の経営権は不動となっている。なお取引所内で使われる証券コードもWWEである。
力道山のサイン色紙。
(画像1枚目)
昭和38年(1963年)8月3日の長野県飯田市の飯田市営今宮球場で書かれた直筆サイン色紙です。
他に木村政彦(書籍に直筆サイン)、遠藤幸吉、豊登、芳の里淳三、吉村道明、沖シキナ等からほぼすべての日本人選手の直筆サイン色紙多数。
日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス、旧U.W.F.等。
(例)
タイガーマスクの場合
佐山サトル、サミー・リー、タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパータイガー、復活初代タイガーマスク、タイガーキング(新旧書体の違う2種)、初代タイガーマスク、ザ・マスク・オブ・タイガー(英語とカタカナヴァージョンの2種)。
前田日明の場合
新日時代、イギリス遠征時代のクイック・キック・リー、第1次U.W.F.時代、第2次U.W.F.時代、リングス時代。
ストロング小林の場合
小林省三、覆面太郎、ストロング小林、ストロング金剛
ジャンボ鶴田の場合
トミー・ツルタ、ジャンボ鶴田(英語と日本語ヴァージョンの2種)。
スーパー・ストロング・マシンの場合
スーパー・ストロング・マシン、魔界1号、ブラック・ストロング・マシン、平田淳嗣
金本浩二の場合
金本浩二、三3代目タイガーマスク、キング・リー
KENTAの場合
小林健太、ヒデオ・イタミ、KENTA
等、すべてのサイン有。
力道山(りきどうざん、朝鮮語:역도산(ヨットサン、Yeokdosan / Yŏktosan)、朝鮮文化語:력도산(リョットサン、Ryeokdosan / Ryŏktosan)、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シルラク、김신락(Gim Sinrak / Kim Sinrak))。大相撲の力士出身。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。
プロレス転身
その後二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務める新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン(フリーメイソン#関連団体も参照)」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。
1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、テレビ放送が1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。
後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる謎の試合に繋がっていった。
1954年12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリー「ハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な憶測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也著の 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となった。
大相撲出身の力道山が天下を取ったことで角界からプロレス入りする者が続出し、現在も日本プロレス界の付き人制度等、相撲の影響が垣間見える。
1955年、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年、フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)。力道山はルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1958年4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した。
1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり・・・」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという。
1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという。
1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。
Wikipediaより
昭和38年(1963年)8月3日の長野県飯田市の飯田市営今宮球場で書かれた直筆サイン色紙です。
往年の強豪外国人レスラーの直筆サイン。
(画像1枚目)ニューヨークの帝王 アントニオ・ロッカ 直筆サイン色紙1枚(猪木VSテーズ戦で来日時)
(画像2枚目)神様 カール・ゴッチ 直筆サイン色紙各3枚(ドイツの字体の違う3種)
(画像3枚目)ヨーロッパ最強の男 ローランド・ボック 直筆サイン色紙2枚
アントニオ・ロッカ、カールゴッチ、ローランド・ボック、アーニー・ラッド、アドリアン・アドニス、アニマル・ウォリアー、 ホーク・ウォリアー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、アレックス・スミルノフ、ウルトラマン、カネック、エル・ソリタリオ、エル・ハルコン、エル・レオン・ティニブラス、オースチン・アイドル、オックス・ベーカー、オレイ・アンダーソン 、ジン・アンダーソン、ラーズ・アンダーソン、キング・カーチス・イヤウケア、カール・フォン・ショッツ 、クルト・フォン・ヘス、ボブ・オートン、ボブ・オートン・ジュニア、サイクロン・ネグロ、カリプス・ハリケーン、キラー・カール・クラップ 、キラー・カール・コックス 、キラー・コワルスキー、キラー・トーア・カマタ、キラー・ブルックス、キラー・バディ・オースチン、クラッシャー・バンバン・ビガロ、クリス・マルコフ、クレージー・セーラー・ホワイト、ジミー・スヌーカ、グレッグ・バレンタイン、ケン・パテラ、ゴリラ・モンスーン、ザ・サモアンズ1号、2号、ザ・シーク、ジート・モンゴル 、ボロ・モンゴル、パット・パターソン、シーン・リーガン 、ジェイ・ヤングブラッド、ジプシー・ジョー、ジム・ブランゼル、ジョージ・ゴーディエンコ 、ジョニー・エース、ビッグ・ジョン・クイン、ジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ、ビック・ジョン・テンタ、ジョン・トロス、スティーブ・ウイリアムス、モンゴリアン・ザ・ストンパー、スパイロス・アリオン、セーラー・ホワイト、エル・ソラール、ターザン・タイラー、タイガー・ジェット・シン、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス 、タグ・ファーナス、ダニー・クロファット、ダニー・リンチ、チャボ・ゲレロ、ディーン・ホー、ディック・スレーター、ディック・マードック、テキサス・マッケンジー 、テッド・デビアス、テリー・ゴーディ、ミル・マスカラス、ドス・カラス、ドス・カラス・ジュニア、イホ・デ・ドスカラス、トニー・ガレア、トニー・ロコ、ドン・デヌーチ、ニコリ・ボルコフ、ネルソン・ロイヤル、ポール・ジョーンズ、バッド・ニュース・アレン、バロン・フォン・ラシク、ハンス・シュミット、ピート・ロバーツ、ビクター・リベラ、ビッグバン・ベイダー、ヒューラカン・ラミレス、マクガイヤー ブラザ-ス、ビル・ロビンソン、 初代ブラック・タイガー、二代目ブラック・タイガー、三代目ブラック・タイガー、四代目ブラック・タイガー、ブラックジャック・マリガン、ブラッド・レイガンズ 、ブル・ラモス、ブルーザー・ブロディ、ベアキャット・ライト、ペロ・アグアーヨ、ザ・マミー 、ホースト・ホフマン、ポール・オーンドーフ、ボビー・ヒーナン、ボブ・ガイゲル、ブルドッグ・ボブ・ブラウン、ボブ・ループ 、ボボ・ブラジル、マーク・ルーイン、 マーク・ロコ.、マイク・ロトンド、マスクド・スーパースター、ビリー・クラッシャー、ザ・バラクーダ、ミスター・レスリング 、ミレ・ツルノ、ムース・モロウスキー、ムーンドッグ・ロニー・メイン、ラリー・ヘニング、リック・スタイナー、スコット・スタイナー、レイ・スチーブンス、レイ・メンドーサ、レッド・バスチェン、テキサス・レッド、ロッキー・ジョンソン、ワフー・マクダニエル、ワルドー・フォン・エリック、ウエイン・ブリジッ、パク・ソン、デビッド・フォン・エリック、ザ・スピリット(=キラー・カール・コックス)、テキサス・アウトローズ寄せ書き、マイク・フォン・エリック、ウェイン・ブリッジ等その他多数。
(例)
アンドレ・ザ・ジャイアントの場合
国際プロレス時代のモンスター・ロシモフ、新日本プロレス時代のアンドレ・ザ・ジャイアント、全日本プロレス時代のジャイアント馬場との寄せ書き
ザ・デストロイヤーの場合
ザ・デストロイヤー、ドクターX、ディック・ベイヤー
マスクド・スーパースターの場合
マスクド・スーパースター、ボロ・モンゴル、ビリー・クラッシャー、スーパー・マシーン、デモリッション・アックス
等、すべてのサイン有。
プロレスの異種格闘技戦、K-1、PRIDE等の選手の直筆サイン。
(画像1枚目)ボクシング世界王者 モハメッド・アリ 直筆サイン色紙1枚(猪木戦で来日時)
(画像2枚目)レオン・スピンクス 直筆サイン色紙1枚、マーシャルアーツ世界王者 ザ・モンスターマン(ランバジャック・ジョニー・リーとの寄せ書き、為書き有)、極真空手 ウイリー・ウイリアムス 直筆サイン色紙1枚、柔道金メダリスト ウイリアム・ルスカ 直筆サイン色紙1枚
(画像3枚目)K-1歴代王者 93年度王者 ブランコ・シカティック、94・95・98年度王者 ピーター・アーツ、96年度王者 アンディ・フグ、97・99・00・02年度王者アーネスト・ホースト、01年度王者 マーク・ハント、03・04年度王者 レミー・ボンヤスキー、05年度王者 セーム・シュルト 各直筆サイン色紙1枚、ブランコ・シカティック、アンディ・フグ以外は各直筆サインカード1枚、
モハメッド・アリ、マイク・タイソン、フロイド・メイウェザー・ジュニア、ジョージ・フォアマン、マニー・パッキャオ、レオン・スピンクス 、ロベルト・デュラン、チャック・ウェプナー、大場政夫、ファイティング原田、輪島功一、西城正三、ガッツ石松、具志堅用高、藤猛、渡辺二郎、井岡弘樹、辰吉丈一郎、鬼塚勝也、薬師寺保栄、葛西裕一、川島郭志、坂本博之、竹原慎二、畑山隆則、亀田興毅、内山高志、井岡一翔、井上尚弥、村田諒太、入江聖奈、ザ・モンスターマン、ランバジャック・ジョニー・リー、ミスターX、 ウイリー・ウイリアムス、ベニー・ユキーデ、ドン・ナカヤ・ニールセン、レフトフック・デイトン、トム・マギー、ラジャ・ライオン、エメリヤエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヴァンダレイ・シウバ、ミルコ・クロコップ、マーク・ケアー、マーク・コールマン、ブランコ・シカティック、 ピーター・アーツ、アンディ・フグ、アーネスト・ホースト、マーク・ハント、 レミー・ボンヤスキー、 セーム・シュルト、チェ・ホンマン、ボブ・サップ、石井和義、佐竹雅昭、角田信朗、シーザー武志、三船久蔵、猪熊功、アントン・ヘーシンク、ウイリアム・ルスカ、山下泰裕、斉藤仁、古賀稔彦、小川直也、グレゴリー・ベリチェフ、吉田秀彦、野村忠宏、井上康生、鈴木桂治、石井慧、テディ・リネール、ウルフ・アロン、阿部一二三、阿部詩、佐藤ルミナ、桜井"マッハ"速人、宇野薫、高田延彦、桜庭和志、藤田和之、魔裟斗、山本郁榮、山本“KID”徳郁、秋山成勲、五味隆典、須藤元気、所英男、朝倉未来、朝倉海、クレベル・コイケ、大山倍達、ジャック・サンダレスク、中村忠、芦原英幸、山崎照朝、添野義三(添野義二)、盧山初雄、長谷川一幸、東孝、佐藤勝昭、二宮城光、中村誠、松井章圭、黒澤浩樹、緑健児、八巻建志、塚本徳臣、成嶋竜、木山仁、フランシスコ・フィリオ、エヴェルトン・テイシェイラ、エリオン・グレーシー、ヒクソン・グレーシー、ホイス・グレーシ、アリスター・オーフレイム、アレクサンダー・カレリン、谷亮子、岡本依子、山本美憂、浜口京子、吉田沙保里、伊調馨、登坂絵莉、ギャビ・ガルシア、高野人母美、RENA、浅倉カンナ、沢村忠、島三雄、富山勝治、藤原敏男、猪狩元秀、立嶋篤史、武田幸三、那須川天心、武尊、堀口恭司、大鵬、栃錦、北の湖、輪島、貴ノ花、千代の富士、小錦、若乃花、貴乃花、曙、朝青龍、白鵬、日馬富士、稀勢の里、等多数。