先日追加掲載した証言「戦争末期、予科練の部隊に私は勤めていた」の中で、証言者・堀川さんの実姉(90才)の夫が戦艦大和と共に海底へ沈み、3人の幼児を抱えて苦労しながら再婚もせずに育て上げた話を聞いたところだが、同じ運命の戦争未亡人を母にもつYさんが次のような回想を語ってくれた。
* * * * * *
先日お会いした60代の男性Yさん(私の目上に当たる人)から、すでに故人となった両親と唯一人の弟について切実な追憶を聞いて胸のつまる思いがした。
Yさんは父親の顔を知らず思い出も何一つない。まだ物心もつかない幼児期に父が中国戦線で戦死したからだ。その時、Yさんの母は22歳だった。19で結婚して、父が二度目の出征をして戦死したとき弟はお腹に宿っていたという。
弟は父が戦死した後に生まれ、母は20歳を過ぎたばかりの若さで戦争未亡人となり、戦後は再婚もせず2人の遺児を女手一つで育てあげた。
戦後、父の同僚が戦地から無事に帰国した姿に接したとき、永遠に生きて帰らない父と比べて母は無念の思いに駆られて泣き崩れたという。その同僚の方は、自分独りが帰国して悪いことをしたような気がしたと後々まで語っていた。その思いからかYさんの父代わりになっていろいろと相談に乗ってくれた。
Yさんは一度だけ母からひどく叱られた記憶がある。憶えていた軍歌の一節を何気なく口ずさんでいたら「そんな歌は口にしないで!」と厳しく口止めされたという。母は夫だけでなく実の兄弟が2人とも戦死していたから、愛する人々を死に追いやった軍歌を骨身に徹して嫌悪し、耳にしたくなかったに違いない。
母はYさんが30歳になった年、Yさんの母は49歳の若さで急死した。その朝まで普段と変わらず町内の婦人会費を集めて廻ったあとで会合の席上、机に顔を伏せたまま息を引き取っていた。
Yさんは苦労して育ててくれた母のあまりにも早い死に慚愧の思いで悲しんだ。父のもとへ早く旅立ちたかったのだろうかと自分を慰めようともした。
その直後Yさんの長男がトラックに跳ねられて重傷を負ったが、車輪があと半回転すれば頭を踏みつぶされていたところを奇跡的に後遺症もなく助かった。母が身代わりになってくれたのではないかと、今も母への思いが募るばかりーーと語ってくれた。
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先日お会いした60代の男性Yさん(私の目上に当たる人)から、すでに故人となった両親と唯一人の弟について切実な追憶を聞いて胸のつまる思いがした。
Yさんは父親の顔を知らず思い出も何一つない。まだ物心もつかない幼児期に父が中国戦線で戦死したからだ。その時、Yさんの母は22歳だった。19で結婚して、父が二度目の出征をして戦死したとき弟はお腹に宿っていたという。
弟は父が戦死した後に生まれ、母は20歳を過ぎたばかりの若さで戦争未亡人となり、戦後は再婚もせず2人の遺児を女手一つで育てあげた。
戦後、父の同僚が戦地から無事に帰国した姿に接したとき、永遠に生きて帰らない父と比べて母は無念の思いに駆られて泣き崩れたという。その同僚の方は、自分独りが帰国して悪いことをしたような気がしたと後々まで語っていた。その思いからかYさんの父代わりになっていろいろと相談に乗ってくれた。
Yさんは一度だけ母からひどく叱られた記憶がある。憶えていた軍歌の一節を何気なく口ずさんでいたら「そんな歌は口にしないで!」と厳しく口止めされたという。母は夫だけでなく実の兄弟が2人とも戦死していたから、愛する人々を死に追いやった軍歌を骨身に徹して嫌悪し、耳にしたくなかったに違いない。
母はYさんが30歳になった年、Yさんの母は49歳の若さで急死した。その朝まで普段と変わらず町内の婦人会費を集めて廻ったあとで会合の席上、机に顔を伏せたまま息を引き取っていた。
Yさんは苦労して育ててくれた母のあまりにも早い死に慚愧の思いで悲しんだ。父のもとへ早く旅立ちたかったのだろうかと自分を慰めようともした。
その直後Yさんの長男がトラックに跳ねられて重傷を負ったが、車輪があと半回転すれば頭を踏みつぶされていたところを奇跡的に後遺症もなく助かった。母が身代わりになってくれたのではないかと、今も母への思いが募るばかりーーと語ってくれた。