戦争を語りつぐ証言ブログ

<戦争を語りつぐ60年目の証言>サイトの管理人・スタッフから、
取材の近況や関連情報をお届けします。

2人の戦争未亡人(06.6.30)

2006-06-30 11:07:57 | Weblog
 先日追加掲載した証言「戦争末期、予科練の部隊に私は勤めていた」の中で、証言者・堀川さんの実姉(90才)の夫が戦艦大和と共に海底へ沈み、3人の幼児を抱えて苦労しながら再婚もせずに育て上げた話を聞いたところだが、同じ運命の戦争未亡人を母にもつYさんが次のような回想を語ってくれた。
     *    *    *    *    *    *
 先日お会いした60代の男性Yさん(私の目上に当たる人)から、すでに故人となった両親と唯一人の弟について切実な追憶を聞いて胸のつまる思いがした。
 
 Yさんは父親の顔を知らず思い出も何一つない。まだ物心もつかない幼児期に父が中国戦線で戦死したからだ。その時、Yさんの母は22歳だった。19で結婚して、父が二度目の出征をして戦死したとき弟はお腹に宿っていたという。
 弟は父が戦死した後に生まれ、母は20歳を過ぎたばかりの若さで戦争未亡人となり、戦後は再婚もせず2人の遺児を女手一つで育てあげた。
 
 戦後、父の同僚が戦地から無事に帰国した姿に接したとき、永遠に生きて帰らない父と比べて母は無念の思いに駆られて泣き崩れたという。その同僚の方は、自分独りが帰国して悪いことをしたような気がしたと後々まで語っていた。その思いからかYさんの父代わりになっていろいろと相談に乗ってくれた。
 
 Yさんは一度だけ母からひどく叱られた記憶がある。憶えていた軍歌の一節を何気なく口ずさんでいたら「そんな歌は口にしないで!」と厳しく口止めされたという。母は夫だけでなく実の兄弟が2人とも戦死していたから、愛する人々を死に追いやった軍歌を骨身に徹して嫌悪し、耳にしたくなかったに違いない。
 
 母はYさんが30歳になった年、Yさんの母は49歳の若さで急死した。その朝まで普段と変わらず町内の婦人会費を集めて廻ったあとで会合の席上、机に顔を伏せたまま息を引き取っていた。
 Yさんは苦労して育ててくれた母のあまりにも早い死に慚愧の思いで悲しんだ。父のもとへ早く旅立ちたかったのだろうかと自分を慰めようともした。
 
 その直後Yさんの長男がトラックに跳ねられて重傷を負ったが、車輪があと半回転すれば頭を踏みつぶされていたところを奇跡的に後遺症もなく助かった。母が身代わりになってくれたのではないかと、今も母への思いが募るばかりーーと語ってくれた。

「特攻隊員の真実」の紹介(06.6.05)

2006-06-05 17:16:55 | Weblog
 私がメンバーに入れてもらっているML<no_mor_war>(西羽 潔 氏主宰)の中で、私どものサイトに関係の深い記事が出ていましたので、一部転載させて頂きます。
 それは「最後の特攻隊員」(1998年、高文研)の著者、信太正道さんが、かつて「小林よしのりファンの若者たちへ」と題して配布されたチラシのメッセージです。チラシを配布されたのですから、一人でも多くの戦争を知らない世代の人々に伝えるために転載することを了解して頂けると思います。

 信太さんは海軍兵学校出身の神風特攻隊員、航空自衛官、日航機長という経歴を持ち、現在「戦争屋にだまされない 厭戦庶民の会」の会長として活躍されているとのことです。
 次に転載されたチラシの再転載になりますが、改めて戦争の実態を知ることがいかに大事かを思い知らされるのです。
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    小林よしのりファンの若者たちへ

          特攻隊員の真実

             元神風特別攻撃隊古鷹隊・海軍少尉 信太正道

 小林よしのりのコミック『戦争論』(新ゴーマニズム宣言スペシャル)がたいへん
売れているようです。その中で彼は、「戦争の中で愛と勇気が試され/自己犠牲の感
勤が生まれ/誇りの貴さを思い知ることもある」と戦争を賛美しています。なにか、
六○年前の雑誌『少年倶楽部』を読んでいるような気になりました。

 当時の日本の少年たちは、戦争賛美の記事やイラストを満載した、こうした雑誌を
血わき肉おどらせながら読み、知らぬうちに〃軍国少年〃に染めあげられていったの
です。

 小林よしのりには、当時の無邪気な〃軍国少年〃の姿が重なります。彼こそまさに
「洗脳されっ子、純粋まっすぐ君」です。

 新聞はオウム真理教による〃小林よしのり暗殺計画〃を報道しました。「あのとき
戦争をして運よく生き延びた」と、彼はそこで特攻隊を体験した気持ちになり、『戦
争論』のうち二割近くの紙面を特攻隊にさいています。しかし、私たち戦争体験者か
ら見れば、それはお笑いです。オウムは、麻原彰晃が起こした、大規模ではあるが、
一つのテロにすぎません。戦争とはほど遠いものです。またオウムに狙われたとして
も、必ず殺されるわけではありません。絶対的に死ななければならなかった特攻とは
比較になりません。『戦争論』は、しょせんマンガです。

 小林よしのりは本当の軍隊を知りません。あまりにもおセンチです。たとえば、少
年飛行兵は卒業前に「郷土訪問飛行」が許され、出身小学校では全校生徒が校庭にそ
の飛行兵の名を人文字で描いて大歓迎するのだった!と感動して描いています。

 とんでもありません。郷土訪間飛行は重大な軍隊の規律違反でした。これはァメリ
カ空軍でも同じで、ホーム・ピッケは厳禁・厳罰です。(それでも外出中にこっそり
故郷に手紙を出し、郷土訪問飛行を実行した不届き者たちは後を絶たなかったようで
ずが。)

 このように軍隊は、小林よしのりが考えるほど甘っちよろいところではありません。

 小林よしのりはまた海軍兵学校の「教育参考館」に展示された特攻隊員の遣書に感
涙しています。実は私は海軍兵学校の卒業生です。私の在校中(戦争中の一九四二~
四五年)は、そこは文字どおり教育に参考になる物が展示されており、お涙頂戴とは
無縁でした。

 例えば、艦隊勤務で必要な生活用品とか、飛行機に積まれる航空糧食等が展示され
ていました。日中戦争開戦時、弾丸を撃ち切った樫村兵曹長は、敵機に体当たりして
、国民を驚喜させました。その片翼が半分以上ちぎれた樫村機が、教育参考館に展示
されていましたが、しかしそれは、樫村兵曹長を賛美するためではありません。航空
力学の参考になるからです。私たちは、凱旋した樫村兵曹長が酒癖がわるく、酒場で
大言仕語ばかりして、 パイロットを首になったことを教えられていました。

 私たち海軍兵学校の同期生(七四期生)三六名からなる神風特攻隊古鷹隊は、北海
道の千歳航空隊で訓練を受けた同期の二百名の中から、指名によって編成されました
。日本の敗戦のちょうど二○日前、一九四五年七月二五日のことです。

 その翌日、近くの旅館で、横浜からやってきた両親と最後の面会の機会を与えられ
ました。私が二百名の中から特攻隊に選ばれたことを聞くと、母は突然、「正道、二
階にいらっしゃい」と言い、部屋に入ると、「断わることはできないの?」と言って
泣きくずれました。もちろん、そんなことが不可能なのはわかりきっているのです。

 そのあと体当たりの訓練が続いて翌八月一○日、身辺整理を命じられ、「遺書」を
書くことをすすめられました。しかしそこに〃本心〃など書けないことは、海軍兵学
校に入ってすぐに身にしみて思い知らされていました。

「……ご両親様有り難うございました。正道はこれから御国の為に行きます」

 これが私の「遺書」の結びでした。

 八月一三日、千歳航空隊を出発し、陸路、前進基地に向かいました。その移動の途
中、仙台駅で敗戦を迎えました。仙台は無残な焼け野原になっていました。敗戦を知
り、誰もが悲しそうな顔をしていました。だけど同時に、お互い「助かった!」とい
う目つきを隠すことはできませんでした。

 私たち海軍兵学校卒業生は、しばしば同期生会を開きます。そこでときどき、古鷹
隊の生き残りと顔を合わせます。でも、隣り合わせに座ることはありません。何故だ
かわかりますか?仙台駅での弱気を語りたくないからです。私たちは、いまでも「海
ゆかば」や「軍艦マーチ」「同期の桜」に陶酔する集団だからです。

 私が日本航空に在職中、ステュワーデスの結婚式に招待されました。彼女の父親が
同期生だからです。同期生の一人が、祝賀会で挨拶しました。

「俺は空の特攻隊であった。新婦の父親は海、つまり、回天の特攻隊であった。だか
ら、父親の気持ちがよくわかる」

 私は、「なに言ってやがんだ」と唖然としました。なぜなら、彼は特攻隊の指名か
らまぬがれた一七○名の一人だからです。日本に生き残る一万人以上の〃自称、特攻
隊員〃は、みんな彼のように大法螺を吹きまくっているのでしょう。私たち特攻隊員
は、右翼からは賛美され、左翼からは「特攻くずれ」とさげすまれ、屈析した気持ち
でおります。本心をあまり語りたくはありません。

 小林よしのりは、若者たちに喜んで郷土(クニ)のために死んでもらう物語を用意
すべし、と強調しています。だまされないでください。戦争も、そして軍隊も、小林
よしのりが考えているようなものとは違います。特攻隊当時はもちろん、海軍兵学校
当時も、小林よしのりのような無邪気な「純枠まっすぐ君」は私の周囲に一人もいま
せんでした。みんな自分の行く手に「死」を見ていたからです。「死」に対して無知
で鈍感な者だけが、戦争を賛美できるのです。
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