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Motofukuの下松(くだまつ)考察ブログ

山口県にある下松市について考察します

紀氏は岸?

2015-11-28 21:37:44 | 歴史
昨日の日記で閃いたことがありました。

都濃郡の紀氏はすなわち岸、つまり満州に派兵したのちの田布施出身の総理大臣の岸信介と考えれば、現在の状況に似てきます。

当時の日本軍が皇国史観を持っており、朝鮮出兵を神話に沿って意図的に演出した可能性もありますが、
1300年前のあの時も戦前と同じ状況に置かれたのだと考えれば、(韓国は併合されており、韓国人は日本人として戦った、つまり任那日本府)あの頃の謎もとけてくる気がします。

下松(木➕ハ➕ム➕下)=キシ(木下公)

そういえば天下を取った大名の名前は、、、

周防灘沿岸部のツノ地方、日本書紀においての角国伝承

2015-11-27 15:57:18 | 歴史
列島内におけるヤマト勢力の拡大は、例えば「日本書紀」崇神天皇10年に見える四道将軍派遣の物語で、吉備津彦が西道を平定した所伝や九州地方征伐のため、周芳の佐波郡を進発した説話などでうかがえます。

周防灘のツノ地方が朝鮮出兵過程において、中継的な役をはたしたのは「日本書紀」の「角国、角臣伝承」から知られます。蘇我韓子(稲目の祖父)、大伴談(オオトモノカタリ、大伴室屋の子)、紀小鹿火宿禰(オカイノスクネ)は紀小弓宿禰の葬式のためにやって来ました。
そのとき、小鹿火は独りで角国(ツノノクニ=周防国都濃郡都濃郷)に留まりました。
子の大磐は父の死を聞いて新羅に兵を派遣したが、漢城(ソウル)を掌握することが出来ずに帰国し、この責任をとる形で、小鹿火は倭子連(ヤマトゴノムラジ)を遣わして八咫鏡を大伴大連(オオトモノオオムラジ)に献上して、祈り請いました。
「わたしめ、紀卿(キノマヘツノキミ=紀氏のこと)と共に天朝(ミカド)にお仕えるのは耐えられません。だから請い願います。角国に留まらせて欲しいです」
それで大連は天皇に申し上げて、角国に留まり居らせました。この角臣たちは、最初は角臣に居ました。角臣と名付けられるのはこれが始まりです。

雄略天皇はヤマトタケルとして身内にも恐れられた天皇だと言われています。
当時は大伴氏が最も力のある時代でした。

また神功皇后が筑紫国下向の際、西豊井と末武川の境界を流れる川で玉釣川という川があります。船をつないで釣り糸を垂れ玉を釣り上げたので玉釣川だったとか。
これは後世の由来の後付けらしいです。現在は玉鶴川に名前を変更しました。

妙見社と周慶寺

2015-11-20 20:48:47 | 歴史
下松駅の南出口から進むと、妙見社に着きます。山門をくぐりぬけると権現造りの社が見えます。

「妙見社縁起」によれば敏達天皇の戊戌7年9月11日
青柳浦の松に大星が降臨し、七晩光り輝いていた。神のお告げで「我が霊をこの地に鎮祭せよ」とあったので、祠を建ててこれを祀り下松の里としたそうです。

その後推古天皇の御代(595)に桂木山に御霊をうつし、社を洲屋大神(すのやおおかみ)と唱えました。

和銅2年(709)花岡八幡宮が勧請された時期には、大内正恒が高鹿垣山ヘ上宮を立て、神号を北進妙見社と称す。大内茂村が使者の僧侶を送ったことも。

康平元年(1057)大内貞長により鷲頭山に移転。
さらに明治11年(1879)11月1日神仏分離の煽りを受けて現在の位置に。

ちなみに妙見社に行けば亀が放し飼いにされています。
これは陰陽道からみる、北極星と玄武の繋がりからです。

さて、妙見社から西へ50メートルほど行くと周慶寺に着きます。

浄土宗の寺院で山号は麟祥山。軒先のシンボルは毛利紋。堂々として印象的ですね。
堂角岌翁という人が開いたお寺で、もともとは林松山大蓮寺といったそうです。
すっごい緑に溢れるネーミング(笑)

こちらは元和4年(1618)に八世貞誉の代、現在の地にうつり、西福寺として浄土宗道場として栄えたと伝えられます。

現在は毛利就隆の母堂の菩提寺として崇敬されています。

百度参りの遺構

2015-11-19 23:53:24 | 歴史
下松には江戸時代の中頃の百度碑が残っています。

神仏に願をかけたり、お礼参りをするための石造です。
願掛けは切実なものであり、信仰を集めた証拠でもあります。

下松市での百度碑の遺構は

文化13年(1816)花岡八幡宮
文久2年(1862)後野社
明治13年(1880)妙見社
明治38年(1905)深浦八幡宮
にあります。

なお花岡八幡宮の百度石には片野茂四郎と言う人が奉寄してくださったそうです。

花岡八幡宮が毛利元就によって改築される年ですね。


熊本県八代市球磨の妙見信仰?

2015-11-17 22:30:30 | 歴史
大内氏の北辰信仰のルーツは実は熊本にもあったという説があります。

これは「下松市史異説」の河村烝一郎さんが主張されています。

ただ彼が妙見伝説の歴史を掘り起こしている八代は天草の隣に位置しており、近世にキリシタンが影響を受け潜伏していたでもあります。

江戸時代にも東インド会社の影響を受け、日本には金比羅宮や霊山の象頭山が信仰されました。
これもある種の北極星信仰の一つです。

私は、後から来た北極星信仰(古神道系)と、もとからあった妙見信仰(修験道)がごっちゃになっているのではないかと考えます。このあたりは詳しくわかりませんが、、、

一方で、「下松市史異説」からは妙見信仰を仏教の一部と単純に考えているな、と受け取れる部分がありました。

北極信仰は仏教のように色々な宗派がありますので、ルーツを辿る時には「妙見菩薩」という仏教のジャンルではなく(そもそも仏教に妙見信仰はない)仏教やキリスト教と同じ目線で扱うべきだと考えます。

北極星信仰は古代メソポタミアからあったと言われています。

文献中心だと我が国の資料はどうしても当時の金文職人が離集した中国、朝鮮半島のものに頼りがちですが、信仰の根本は文字を超えた感覚的、構造的なものにあります。

そこを踏まえて読むといいかもしれないですね。