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Motofukuの下松(くだまつ)考察ブログ

山口県にある下松市について考察します

周防都濃宰判

2017-11-18 14:33:05 | 歴史
都濃郡は萩藩毛利本家と徳山藩毛利氏によって分割支配されていたが、萩藩毛利本家の所領を管轄するために設けられたのが都濃宰判勘場で花岡宰判勘場とも呼ばれています。
この都濃宰判勘場横で現在は花岡の四恩幼稚園前にある庭木に「春雨桜」と刻まれた石碑があります。

文久元年(1861)藩主毛利敬親公が江戸参勤の途中、福川の本陣から病気のため急遽花岡の茶屋で療養することになりました。
当時、花岡は宿場町として栄えており、いろいろな人が休息所として利用していたそうです。

敬親公はそこで目にした立派な一本の槙柏をたいそう気に入られたそうです。
碑は明治三十七年(1904)弘瀬宜路の発意で建碑され、敬親公の雅号から「春雨櫻」とされました。

ちなみに、根元にある蘇鉄 ( ソテツ ) が桜花の妨げになるのではないか?と漏らされたのを部下から伝え聞いた宿場の人たちが、その後日、蘇鉄を花岡小学校の近くに移したそうです。

春雨櫻の場所


長州農兵

2017-10-27 13:21:53 | 歴史
日本沿岸に異国船の出没が頻繁になった事で、弘化元年(1844)ごろから長州藩は周防長門沿岸の防衛強化を始めました。
藩内では嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけに、攘夷運動が高まり安政5年(1858)「御軍政之事」により、農民に武器を持たせることを容認し、
さらに万永元年(1860)になると、藩は「沿岸警備」、「攘夷決行」、「四境戦争」での三段階を基準にした農兵の取り立てを行い、各宰判別に郷校を建て在住の役人・各係累に至るまで文武の修練を始め村民のうちから適任者を選んで戦闘訓練を行い農兵に取り立てることにしました。
この制度は「農兵銃陣訓練」であり、稽古訓練場は庄屋の庭先であったり、寺社の境内を使って訓練を行っていました。
毛利藩主敬親は新式ゲーベル銃を千丁入手して軍の近代化に務め、諸郡の役人や庄屋を「農兵取立御用掛」に任命し、農兵の指令を代官所の管轄下におき、数か所にまたがる農兵や郷勇軍あるいは市勇軍とし、(奇兵隊の先駆けとなる)萩と山口の町は農商兵として組織されました。

都農宰判(旧下松市)では須々万村から内藤治郎作、井上嘉一郎、末武北村から武弘九蔵、浅江村から松岡梅太郎、加藤恒太郎の五名が農兵司令に任命され、彼らは18~20歳くらいまでの若者でした。

文久3年(1863)5月馬関戦争の翌年の下関戦争で長州藩は尊王攘夷と開国派の内乱が続き、高杉晋作が藩主より委任を受け「奇兵隊」を結成したことが藩内諸隊発生の先鞭になりました。
その後、慶応元年(1865)太田絵堂での萩政府軍との諸隊との戦いでは両軍ともに、農兵が参戦、その後藩政府は「武備恭順」として軍政の改定を行い、慶応2年(1866)幕府との決戦に備え諸隊諸兵を藩を挙げて整備しましたが、3年に及んだ長州征伐は結局、長州の藩政府と幕府との和議成立により終結し、その結果農兵は解散、再編成されていきました。

農兵と諸隊との違いは農兵は町奉行所、あるいは代官所の管轄下にあり、諸隊は政事堂の指揮下にあったことです。
農兵は在郷武士の訓練などを通して、また郷校での教育などの結果、諸隊の結成を容易にさせました。

都農宰判が徴兵した地域は周南市の小畑から光市の浅江にまで及んでいます。

下松市についての由来

2016-02-05 20:43:17 | 歴史
下松の地名については古来より「鷲巣山旧記」の皇星降臨説と、百済との交易による百済津説、今川貞世の「道ゆきふり」等にある湿地の松を意味する「クタマツ」より転化した説などあります。

北辰妙見伝説は金輪神社にありますが、推古天皇の御代には海に沈んでますのでそのまま文献通り捉えるのは難しいでしょう。

大内氏の時代に妙見伝説を周防一帯に持ってきて支配を正当化させたのでしょう。
当時の日本人にはそのような発想はありません。(第一人者の空海は新羅人と言われています)
海外との貿易にも多言語を要するため、自称するだけではなく実際に大内氏は混血か大陸系だと言われています。

はじめは「クタマツ」だったのが、空海伝説が広まり、平安時代に入り安倍清明が陰陽道で星祭を行うようになり、その後大内氏が信仰した一帯の妙見伝説に影響しました。

船乗りは向かう方角が肝心ですので、夜にも向きが変わらない明かりが見える必要があります。
そのため北極星信仰が根付くようになりました。
大内氏が妙見信仰だったのは夜に明かりが必要な交易船に乗っていたためでしょう。
農耕民族が昼間に太陽の天照大神を崇める感覚とは真逆で、
大陸から来た騎馬民族(大内氏)は夜中に北極星の天之御中主神を崇めるようになります。




戦後下松は新幹線(日立)と共にあった

2016-01-30 21:16:08 | 歴史
戦後の下松市は新幹線が造られた頃、日立を始めとする鉄道車輌メーカーに携わる人達が大忙しで、社員が住みこんでから、生野屋や東陽団地が賑わい始めたという話を聞きました。

ただし、造られた新幹線の最寄り駅は徳山駅とやや離れてますので、経済的には当時華やかなりし頃の銀南商店街に持って行かれて、あまり旨みはなかったようですね^^;

映画館、パチンコ、競艇場、大型スーパー、、、
当時の若い人はまず徳山に行きました。

花岡八幡宮で社員の結婚披露宴が毎日の様に行われていたそうですよ。
七五三もひっきりなしにお参りが来て大変だったそうです。

下松市のどんと焼き

2016-01-26 21:05:57 | 歴史
11日午前11時より今や恒例となった「どんど焼」が金輪公園で行われた。北斗町自治会(山内 務会長)、古川町自治会(田中 武治会長)との共催。

近隣の町内会の方々も多数の正月飾りを持ちより500以上。前夜、須々万から持参した人もいたようですね。例年よりも参加者が多く、福引きも一人一枚と制限があり、松賞は2万5千円の自転車、ゼンザイの接待もあり、主催者の方々の御苦労が感じられます。