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Motofukuの下松(くだまつ)考察ブログ

山口県にある下松市について考察します

華陵高校は墓地の上に造られた

2016-01-24 12:28:15 | 歴史
県内では山口県立西京高等学校と同じく新しい高校である。県内で唯一英語科を有する。日本の校歌の歌詞としては珍しく、英文が含まれている事でも知られている。野球部が2008年(平成20年)の選抜高等学校野球大会(春の甲子園)に21世紀枠で出場。校訓は「感動・探究・健康そして雄飛」wiki参照

甲子園でいきなり「フォーアラー!リーチフォザスター!」と英語で言い出しちゃから変な笑いがこみあげた記憶があります。

この高校は墓地の集合地帯でして、地価を抑える為にこの場所に建てたそうです。
墓地は西側に一箇所に移動され、行方の分からない遺骨は市が観音像を建てて鎮めているそうです。
当時は反発する人もいたそうですが、駐車場もあり、墓が一箇所(当時は藪の中を行き来していた)になって楽になったと評判です。

ここは殆どが女子生徒です。そのため男子の運動部は弱小揃いでした。
野球部が甲子園に行くほど強くなったのは大浪監督の指導の賜物だと評判ですね。

某マネジメント本のようなビックリする快進撃でした。


笠戸島の火振岬

2016-01-20 22:30:32 | 歴史
笠戸島には嵐を起こし、船頭さんに恐れられた明神様がいたそうです。
島の人たちは深浦の入江の西丘に、今の松王(おそらく松尾と同じと思われる)にそれに併せて、火振岬の沖を通る船が難儀せずに済むようになったといわれています。

深浦八幡宮の社伝によれば天安元年(857)宇佐八幡宮より勧請された際、御神体を乗せた船が笠戸島に近づいた時、濃霧が発生し全く視界がきかなかった。

その後松明を火振岬で灯すと島の在りかがわかり、現在の地亀山に鎮座されたということです。

また元寇を退治したと荒ぶる神として信仰されていた時期もあったようです。

おそらくこの明神は弁財天、シヴァ、愛染明王、市杵島姫尊であり、空海が広げた拝火密教の流れに近いものでしょう。

北極星信仰は仏教というより拝火教であり、西アジアから渡ったものです。
仏教には本来北辰信仰はないし、火振神事などは拝火教の方が似たものがあります。

空海の弟子たちが、笠戸島の祠を慰めて回ったそうですのでおそらく間違いないでしょう。



「聖火」は拝火教徒にとって特別なことのようです。

閼伽井坊

2016-01-01 20:01:01 | 歴史
花岡八幡宮の元にあって真言宗です。
本尊は虚空蔵菩薩。住職は三池孝尚さん。

最近テレビ朝日の「ぶっちゃけ寺」でお見かけします。

風土注進案には、由来記録などは火災のために紛失し、八幡宮の社坊9カ寺の一つとして尊崇と記録されています(1599)

岩清水を赤井と呼んでこの水を飲めば病が治るという伝説があるという。

建築様式から考えるに、閼伽井坊は室町の頃に創建されたのではないかと考えられます。
創建の伝説はのちに、神道ベースの民俗信仰から継ぎ足されたのではないでしょうか。

花岡山において閼伽井坊は貴重な水源だったことがわかります。

また花岡八幡宮の多宝塔には大日如来が祀られており、信仰が厚く江戸時代には村上宮司が多宝塔の改築を奉納したことが記録されています。

末武村の猿川

2015-12-10 20:55:56 | 歴史
来年の干支に関連してちょっと申に関連する話題。

末武の猿川について、古くから上流から猿が流れてきたので猿川(申川)になったという伝説があります。

末武上地に「古所」(こそ)の地名があるが、これは猿振の振に古い丘があることからきており、高橋に「蓼原」の地名があるのは千代次の茅の沢山生えている地から関連があるのではないでしょうか。

高橋は遠石八幡宮の氏子ですが、明治以前は花岡八幡宮が高橋の氏子を収めていたようです。

遠石に移ったのは花岡八幡宮の末寺(閼伽井坊など)が明治に入って廃寺、縮小した影響でしょう。



歌から見る下松のルーツ

2015-12-01 11:23:33 | 歴史
下松市の地名については百済津という説と、北辰妙見信仰の伝説によるものがあることはすでに説明しました。

それとは別に確実な資料が残っているものとして、下松という地名が残っている由来が別の時代に存在します。

足利時代の武将として今川貞世という人が、紀行文「道ゆきぶり」の貞世が住吉神社に詣でて、霊験を讃える条文の間に

此歌のこゝろは、今年九月に豊後の高崎の城より、宗久といふ僧此方にわたり侍らんとて、船に乗りはべりながら、順風なかりける夜の夢に、よはひ八十ばかりの翁の、かみひげ白きが、烏帽子に浄衣きたる一人出来て、左の袖をひろげで、これに乗て、船出せよといひて、外をうちふり給ひければ、をひ風吹きてこなたにわたりぬとおぼえけるを、夢心地に住吉の大明神よと思ひて侍るに、やがて其暁風よくなりぬとて舟いでて、日のうちに周防の「くた松」というところにつきぬとかたられし事を、ふと思い出して侍りしほどに、この歌もその心をかたむけてよめるなり

とあります。これは貞世が鎮西探題として九州に下向した時につけられたもので、これが「くた松」の初見であると考えられます。

時代としては降星伝説よりも「くた松」が後になるのですが、そもそも大和言葉は濁音を使わない傾向があります。
ですのでこっちが本当の由来ではないかという人もいます。
その証拠に明治の神仏分離の際、妙見社の記録にも降松神社は「くたまつ」という表記があったようです。

ですが、町おこしには「くたっとした松」よりも「星降る街」の方がいいわけで、、、(笑)
この話を知る人は下松市にはほとんどいません。