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Motofukuの下松(くだまつ)考察ブログ

山口県にある下松市について考察します

花岡八幡宮の歴史

2015-11-08 19:16:38 | 歴史
花岡山にはいまからおよそ1300年程前の和同2年(709)に豊前国(大分県)宇佐八幡宮の分霊を勧請せられた由緒ある神社があります。

和同2年というとパッとこないですが、元明天皇の御代に都が平城京に遷都される(710)前の年だと考えてください。

八幡宮の神様は応神天皇を主神とする、神功皇后、比売命のいわゆる八幡三神を祀っています。

花岡八幡宮の伝承によると花岡山に八幡神が勧請されるさい、三奈木氏という人の夢枕に神様が出て社を建て祀ったら、辺りに瑞雲が広がり、一夜にして大山に花が咲き誇ったということです。

江戸時代に言い伝えが形となって残ったものが
香取素彦が奉納した亀像の頭上にある版上に残っています。

現在沿道にある染井吉野は明治になって東京都豊島区染井村で品種改良によって生まれ、御神幸絵馬には松が書かれています。


また伝承の花は昔は十月桜、山桜だったと言われています。
写真は相撲場の後ろの山桜です。



大内氏の先祖(多々良後裔と見た場合)

2015-11-06 10:37:06 | 歴史
新撰姓氏録には多々良氏に関して、任那の条に「爾利久牟王」の後で欽明天皇の御代に帰化し、黄金の多々利(方形の台)と黄金の桶を献じたので天皇はこれを讃えて多々良の姓を与えたと言う意味を記しています。

この「爾利久牟王」ですが、ネットで調べてみると京都の神社が出てきました。

祖神として祀られているのが百済の国、豊璋(ほうしょう)が出てきました。
扶余豊璋は恐らく「トヨ」のルーツであり、藤原氏だともいわれています。

「爾利久牟王」の子孫は日本に居住していたことがわかります。
ただし、韓国では任那の資料自体が倭国の創作だということになっているので、資料解釈においては政治経済や文書を遺した金文職人の状況まで正確に想像する必要があります。

多々良の後裔は大内氏という事実と、百済からきた多々良部族の末裔、という離れた時代の物語が繋がっているのでわかりにくいです。

とにかくこの王がどんな人なのかはっきりしない(実在したのかなど)と前に進まないですね。
韓国の資料も調べる必要がありそうです。

ただ、大内氏(多々良氏)の系図を重ねてみれば、物語を造った上で琳聖太子イコール豊璋、そう思わせるところがあります。

花岡の閼伽井坊塔婆は藤原鎌足が建て、本堂には「金剛界大日如来像」が祀っているのですが、藤原系の神(稲荷)も同時に祀られていたのかもしれません。
それが「法静寺」=「豊璋寺」の可能性もありますね。
続きはまた今度、、、



大内氏の系図

2015-11-05 21:23:43 | 歴史
大内氏の全盛期は大内弘世、大内義弘親子と言われています。
特に大内義弘は山口の大内文化を築いた勇将として知られるばかりでなく、60年にわたって抗争が繰り広げられた南北朝の動乱を明徳2年(1391)に終結させ、それまで対立の続いていた南北朝の合体を成功に導きました。

この大内氏のルーツについては「大内氏多々良譜牒」に大内氏は百済国聖明王の第三皇子である琳聖太子であり、推古天皇19年(611)、周防国佐波郡多々良浜に着き、摂津国荒陸(あらはか)で聖徳太子に謁見した。そして太子から多々良姓を賜り周防国に下向し本拠地にしたと記されています。

ただ、伝承変遷の跡を辿ると、年代が経つにつれて大内氏がそのルーツを「盛って」いるのがわかります。

まず大内義弘が朝鮮に使いを出して、その系図を見せた資料の中では「先祖は本百済の始祖高氏の後裔であり、難を逃れて日本にやってきた」とあり自ら高義弘と名乗っていました。


ところが氷上山興隆寺には義弘の弟盛見が自分は「先祖が琳聖太子だ」ということを述べた資料が残されており(写真は龍福寺大内氏歴代絵図)

その琳聖太子も、高句麗の始祖である朱蒙のある類別の弟温祖を始祖として
百済王の末聖明王の第三皇子になる云々という、、、

おそらく下松の降星物語はかなり後の方に(政弘の代か)作られた可能性が高いです。
なんかすごくなってませんか(^^)

琳聖太子という偉大な人物はフィクション(作り話)です。

ですがモデルでないかと考えてられている人がいます。

今日は疲れたので続きはこんど、、、

狐の嫁入り

2015-11-03 15:47:01 | 歴史
今日は法静寺(花岡福徳稲荷)にて狐の嫁入りがありました。

住職が江戸時代に米川に住む白狐の老夫婦の夢を見て
手厚く葬り、本堂に位牌を安置したことが由緒です。

行列の歴史は意外に浅く、昭和に入ってから戦後の復興を願い、
豊穣祭の一環として地元の人が始めたそうです。
最近流行りのハロウィンの様なものですね。

行列に参加する新郎新婦役は誰がつとめたか秘密にするのが習わしなのだとか。


閼伽井坊塔婆と大化の改新

2015-11-02 12:21:04 | 歴史
花岡の八幡宮には閼伽井坊塔婆という多宝塔があります。

この塔婆は藤原鎌足が建てたと伝えられており、室町時代末期、現在の形に遺されたといいます。

高さは13メートル50センチほど、檜皮葺の屋根が特徴で、傷んだ部分は山口の「ひわだや」さんに修繕して頂くそうです。

ところでこの塔婆には「大日如来」が祀られているそうですが、藤原鎌足って「大化の改新」で有名な人ですよね。
神社の境内に仏像があるのは違和感が、、、


そのあたりを尋ねると、塔婆は神社の敷地にあるがお寺の管理になってるそう。
お正月のお祭りも別々にやる。(江戸までは一緒)
建築関係者は八幡宮(神社の氏子)中身は仏像、今の管理は閼伽井坊(お寺)だから引き継ぎが大変なんだとか。

閼伽井坊はもともと真言宗御室派の偉い人が花岡山にやってきて、屋号「華丘山」を切り開いて作ったお寺なのだそうです。

ここから推測ですが、弘法大師は高野山を開くため、地元の神様(高野明神)に祈願をしてから入山しました。
また東寺を建てたときも稲荷(藤原氏の神使)に祈願したといいます。

同じように花岡山に祈願して閼伽井(清らかな水)を掘ったのでは?
そして大日如来が花岡八幡宮の境内に祀られていたのは
まだ仏教が根付いていない頃に、神様の意志を受けて仏様を祀った
という証なのかもしれません。

藤原鎌足が建てたというのに「大日如来」というのは
崇仏対廃仏という大化の改新史観を疑う貴重な資料かもしれませんよ~。

とはいえ仏像は象徴として室町以降の多宝塔に後から入れた可能性もあります。
それは陶氏か大内氏かわかりませんが、、、

少なくとも仏像は文化13年の拝殿改築の時にはあったらしいですね。
その資料も地蔵院(現在花岡小学校、児童公園)がなくなって紛失したらしいです。

残されたのは言い伝えのみ。

謎が深まるばかりです、、、