オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「玉照姫」

2018-05-20 | 豊国錦絵

玉照姫(たまてるひめ)は平安時代中期の女性【伝説上】

生没年未詳

元治1年(1864)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

玉照姫は美濃守・何某(なにがし)の女(むすめ)であったが

家凶(ほろ)びて尾張國・鳴海長者に身を偶(よせ)たり

容顔(かおかたち)勝れて美麗(うつくしい)ので

長者の妻は妬心(ねたみこころ)を逞しくして

日毎野の草を刈らせ海の潮を汲ませ 苛く使い

旱天雨日(なつのそらあめのひ)も笠さえ着させないので

或人が哀れんで笠一つを与えると

雨ふる日田植えしてかえり来る時

この辺に立っている十一面観音の前にくると

寺荒れと堂が壊れかけて体が濡れておられる佛さま 

己の身に比べて痛ましく思い笠を観音に奉り

亡父母吾身 現当利益 と廻向して帰った

藤原基経の子 藤原兼平(ふじわらのかねひら)中将が

東國下向の時図らずに見そめられ

兼平君はがやがて玉姫を倶して帰洛の後 北方を仰がれた

これによって報恩の為伽藍の再建がなり 今の笠寺是なり

             (柳亭種彦記)


冬の日歌仙 山本荷兮の附句に

『笠ぬぎて 無理にと濡るる 北しぐれ』




古今名婦伝 「長山宵子」

2018-05-18 | 豊国錦絵

長山宵子(ながやましょうこ)は江戸時代前期-中期の女性

寛文11年(1671)-正徳2年(1712)

慶応2年(1866)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

長山宵子は常州(常陸国)長山七平の女(むすめ)で

師岡輿右エ門(もろおかうえもん)に嫁いだ

若黨(わかとう)に不届き者がいて夫の留守に

宵子にせまり憐戀(れんれん)の情を述べて密に通ぜんことを乞う

宵子一刀に若黨を斬り 夫帰宅の上しかじかと告るに

顔色も平生と異ならず心配することのない烈婦であった。

実子はいなかったが 家婢(こしもと)が一子を産み

その子善助と號(なづ)け いたわり心をこめて養育し

善助は十五歳まで宵子を実母と思い育つ

善助が幼年に重き病にかかった時

宵子は神嵜(かんざき)寺に裸足詣りして病は忽ち癒えた 

貞烈慈愛婦道の龜鑑(かがみ)と云うべし

             (柳亭種彦記)


あとの句は読みきれておりません


 


古今名婦伝 「白拍子祇王」

2018-05-16 | 豊国錦絵

祇王(ぎおう)は平安時代末期の白拍子

生年未詳 - 承安2年(1172)

文久2年(1862)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

祇王は京中第一の白拍子なり

容麗(かおうるわしく)藝妙(げいたえ)なり

妹祇女(ぎじょ)と共に美名を擅(ほしいまま)にする

相国殿(清盛)に召されて寵遇比(ちょうぐうひぐい)なく

毎月百石百貫を贈られ母の刀自(とじ)も富昌(さかえ)たり

ここに又佛(ほとけ)と呼ぶ舞姫同時に召し入れ

歌わせ舞せ佛の様を御覧ずるに標致(きりょう)も技も祇王に勝れり

殊に齢さえ妙年なれば入道殿は惚れ惑い帳臺(ちょうだい)に抱き入れて

忽ちに祇王に暇を与えた 其時祇王は障子の表に

萌出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に 遭(あは)で果つべき

と、書いてすごすご宿所に帰り 

渕瀬とかわる飛鳥川浅ましの世を嘆く程であった

再び参れと召され 今はもう参らないと断ると

母にふりかかる後難を怖れて出かけようとするも

このような憂い目に懲り果てて 嵯峨野に隠れて尼となる 

其時二十一歳なり

             (柳亭種彦記)

 

『海も山も 坊主にしたり きょうの月』