玉音放送の前日、陸軍がクーデターを起こしてる。映画、日本でいちばん長い日、である。
陸軍青年将校らの反乱である。
戦争を続けたかったのだ。
青年将校らは上官二名を殺害してる。
もしかするとやむを得ず、天皇暗殺もあり得たのかも知れない。
その終結は奇跡のようなものだという証言もある。
最後の最後まで愚かな陸軍。
見事に自決か。
悲しい選択肢だ。
戦後、敗戦の責任を持って自決された多くの軍人がいる。例えばそこからの日本を支える人材もあっただろう。でも志が折れた人間は死を切望するのかもしれないな。
牟田口廉也のように、最後の最後まで指揮下にて戦死した兵隊らに謝意も述べずに生きながらえた老害もいる。
作戦の失敗は無能な部下の責任だと証言してる。
こういう人って今風に言うと心理学的に分類されるサイコパスとでも言うんだろか。それとも作戦の失敗を認めてしまうと自我が崩壊してしまうとでも言いたいのだろうか。
ただこういう無責任な上官のもとで戦場で無残に散った人は本当に気の毒に思う。尊厳的な死に様すら選ぶ余地がないのであるから。
戦争って、イヤだな。
憎しみは生まれてから学ぶものだとかつてマンデラさん言った。憎しみをな学べるのなら同じくらい愛を知ることができるとオバマは言う。
なんかたくさん英霊さんについて考えて来たけど、やっぱり国を呪うと思いたくはないなァ。
ただただ、靖国信仰と英雄史観をこれ以上ごちゃまぜにしないで美化しないでありのままの無念を思い悼むことができるのだろうか。
やっぱり英霊さんを人間のあるべき霊性に戻して昇天させてあげたいな。神として祀ることが恒久的な苦痛を与えてしまうのではないかとつい考えてしまう。
死んでも自由になれないこと思うと、その不自由さが辛くのしかかる。
中島みゆきのアルバム曲に異国という歌がある。
100年しても私は死ねない 私を埋める場所などないから
100億粒の灰になっても私 帰り支度をし続ける
戦争は決して美化するものではない。勝者であろうが、敗者であろうが、戦争を正しく語るべきではない。
国が死ぬのではない。
人が死ぬことなのだから。
陸軍青年将校らの反乱である。
戦争を続けたかったのだ。
青年将校らは上官二名を殺害してる。
もしかするとやむを得ず、天皇暗殺もあり得たのかも知れない。
その終結は奇跡のようなものだという証言もある。
最後の最後まで愚かな陸軍。
見事に自決か。
悲しい選択肢だ。
戦後、敗戦の責任を持って自決された多くの軍人がいる。例えばそこからの日本を支える人材もあっただろう。でも志が折れた人間は死を切望するのかもしれないな。
牟田口廉也のように、最後の最後まで指揮下にて戦死した兵隊らに謝意も述べずに生きながらえた老害もいる。
作戦の失敗は無能な部下の責任だと証言してる。
こういう人って今風に言うと心理学的に分類されるサイコパスとでも言うんだろか。それとも作戦の失敗を認めてしまうと自我が崩壊してしまうとでも言いたいのだろうか。
ただこういう無責任な上官のもとで戦場で無残に散った人は本当に気の毒に思う。尊厳的な死に様すら選ぶ余地がないのであるから。
戦争って、イヤだな。
憎しみは生まれてから学ぶものだとかつてマンデラさん言った。憎しみをな学べるのなら同じくらい愛を知ることができるとオバマは言う。
なんかたくさん英霊さんについて考えて来たけど、やっぱり国を呪うと思いたくはないなァ。
ただただ、靖国信仰と英雄史観をこれ以上ごちゃまぜにしないで美化しないでありのままの無念を思い悼むことができるのだろうか。
やっぱり英霊さんを人間のあるべき霊性に戻して昇天させてあげたいな。神として祀ることが恒久的な苦痛を与えてしまうのではないかとつい考えてしまう。
死んでも自由になれないこと思うと、その不自由さが辛くのしかかる。
中島みゆきのアルバム曲に異国という歌がある。
100年しても私は死ねない 私を埋める場所などないから
100億粒の灰になっても私 帰り支度をし続ける
戦争は決して美化するものではない。勝者であろうが、敗者であろうが、戦争を正しく語るべきではない。
国が死ぬのではない。
人が死ぬことなのだから。
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