『石見の戦国武将』だと・・・・。グラントアで行われる企画展の名称だけど、ほぼ「益田氏」しかいないんだから、益田の戦国武将にしろよ。山口県と絡めて・・・とかふざけたこと言ってる。ホントに益田は山口県大好きだ。隷属してる(笑)
どうも益田って場所は近代のことを無かったように振る舞うから嫌いだ。浜田藩であったことはあんまり語らないんだよね。激戦地だし、廃仏毀釈でやりたい放題やってる・・・。
神御本氏は益田氏の前身で、もとは浜田に合った国府の石見国司さん。大臣クラスの地位にありながら国司に任命された藤原北家の一人。今風に言うと左遷で、流罪に近いんだろうか。今の浜田市国分町あたりに船でついて土地の名前であった神御本(みかもと)姓を名乗る。たぶん海岸線を抑えていた一族と友好関係にあったんだろう。この一族は浜田と益田で友好的な関係にあった。
山岳地は他の豪族に抑えられていたから、西へと下っていく。浜田市周布町に山城跡があるけどそれを築いたのが益田氏。その地の周布氏も益田氏の末裔である。益田氏とは益田の地名を取った姓なんだろうね。
で、栄華を築いたのは戦国時代よりも前で、おいらの中では益田氏に戦国武将に思えないですけど。
とっとと退散するからね。山口県の方へ、そして更に九州の方へ・・・。
まあ「石見の明治維新」とかやったら完全にアウトだけどね・・・。やらないか・・・ボロでるし。
益田氏は元貴族だから、都とのパイプはあったんだろうなァ。その関わりがないと後鳥羽院が間違えて人麻呂の歌を詠んだりしていない。
人麻呂が国司だったころ、江津市の敬川町、二宮神主町あたりに皇族の末裔がおさめる割と大きな集落があったものとされてる。日本の怨霊の一人である長屋王の子供で、その名も石見王と言った。
人麻呂の出生地が益田市って話もある。これはまあ百歩譲って信じてもいいけど、終焉の場所は益田市では絶対にないし、石見地方ではないと思う。都で亡くなってると思う。別に左遷対象となるほどの人物ではなかったと思う。
万葉歌人と呼ばれるけど万葉集が編纂されたのは人麻呂の死後100年後の事。そして当時、宮廷歌人などという職業はない。歌の上手い下級仕官であっただろうけど、謎は多いなぁ。
この当時、怨霊以外は対象ではないから廟を立てたとするのであれば、それは小さなお堂のようなものだろうね。それがあった鴨島が千年前の万寿の津波で海に沈んだと言われてる。鴨島とは大きな砂州だったんだろうか。
この万寿の津波は石見地方に相当な被害を齎す。旧浜田市を除き、山口県須佐町から大田市まで海岸線は被害を受けた文献が残ってる。その際に悲しいけど江津市にあった大きな集落は滅びたんだろうなァ。ここにはちゃんと津波の後に仏像が海から流れて来て、今も大切にまつられてる。
たぶんこういう話をぶっちゃけ敬意漬けのためにでっち上げたのが益田氏なんじゃないかと思うんだよね。元々1300年前に益田市に都から春日氏族が入植してる。春日族と言えば藤原一族である。
神御本氏は任期を終えて都に還るように命令を受けているが、そのまま浜田市に残った。暗殺を恐れていたのかも知れないね。
ヘンな話だけど江津市では人麻呂公や伊良子姫の存在を感じるけど、益田では何も感じない。津波の後に益田市の高津の浜にも像が流れついている伝説があるんだけど・・・。それが人麻呂公の廟に収められていたものかは微妙だなぁ・・・。
思うに出生地だったからこそ天皇の覚えもあった歌人、人麻呂死後に勅命で廟がたてられたんではないかと思うんだ。終焉地だから廟がたったんではないと思う。
人麻呂を偲ぶ古い和歌に出てくる古名は江津市のものなのだけれど、後鳥羽院の歌以降、益田市の古名に変えられている。万寿の地震の後だから伝説が変質したんだと思うんだ。どういう場所であるか伝えるために歌人でもあった後鳥羽上皇に進言したんじゃないのかなぁ・・・・。
今は終焉の地が益田市であると既成事実になっている。まあ当時もすでに石見地方の中心は山岳部を中心にした浜田市であって、流刑地を名乗るなら、当時の益田市はまつろわぬ場所と云うことになるんだがね。
益田の柿本神社は姫神が合祀されていないから、寂しそうなんだよね。その点、江津市の柿本神社では夫婦神として祀られてる。人麻呂が詠んだ和歌の舞台は浜田市以東から安来市までの間なんだよね。益田の歌は詠まれていない。それだけが現実である。
空海作とも言われるが、呪詛歌である「いろは歌」は人麻呂公作だと思うんだな。そんな気がする・・・。
ロマンチストで愛妻家のイメージもあるけれど・・・。
益田市の三枚推しと言えば、益田氏、人麻呂、雪舟なんだけど、雪舟は数々の庭園も残しているし、しっかりかの地で亡くなっているから、もう少し推せばいいと思うんだけど、人麻呂に益田氏に絞るのは何故なんだろう???歴史好きとしたら不思議でしょうがないんだけど・・・。
だから・・・戦国武将のイメージは益田氏にはありません・・・。こうやって歴史は改善され、新しいイメージが定着するんだと思った。別に益田氏はを戦国武将にする必要性がないんで、当惑してしまう・・・なぁ。今の益田文化を築いた偉人ではあるが、戦国武将と言うほどに活躍したとは思えないんだけど・・・。
隣の白い壁の反射が気になって結局窓ガラス二枚とも目隠しシールを貼った。
でも今年できた新築の家の石州瓦が異常に乱反射することも気が付いた。とにかく眩し過ぎて迷惑な光だ。
この家の地鎮祭は南向きで行われていない。東と南は隣家に面しているとはいえ、普通は南もしくは東に向けて祭壇を設けるよね。北側にあるのはおいらの家の並びなんだが、地鎮祭の最中、イライラしてとっても厭な気分になった。
おいらの家もおいらがいるから不気味だけど、その家も不気味だなと思う。きっと霊障はバンバン起きてるだろうな。我が家の負担がだいぶ軽くなったからね。くわばらくわばら。
もう北のミサイル飽きたなぁ・・・。
ミサイルが落ちない技術を望むと、それは革新になっちゃうんだけど、日本には破片も落としてほしくないなァ・・・。
昼間には撃たない神話があるから、のんびりしてるけど演習最終日だから撃ったりしてね。
どうも益田って場所は近代のことを無かったように振る舞うから嫌いだ。浜田藩であったことはあんまり語らないんだよね。激戦地だし、廃仏毀釈でやりたい放題やってる・・・。
神御本氏は益田氏の前身で、もとは浜田に合った国府の石見国司さん。大臣クラスの地位にありながら国司に任命された藤原北家の一人。今風に言うと左遷で、流罪に近いんだろうか。今の浜田市国分町あたりに船でついて土地の名前であった神御本(みかもと)姓を名乗る。たぶん海岸線を抑えていた一族と友好関係にあったんだろう。この一族は浜田と益田で友好的な関係にあった。
山岳地は他の豪族に抑えられていたから、西へと下っていく。浜田市周布町に山城跡があるけどそれを築いたのが益田氏。その地の周布氏も益田氏の末裔である。益田氏とは益田の地名を取った姓なんだろうね。
で、栄華を築いたのは戦国時代よりも前で、おいらの中では益田氏に戦国武将に思えないですけど。
とっとと退散するからね。山口県の方へ、そして更に九州の方へ・・・。
まあ「石見の明治維新」とかやったら完全にアウトだけどね・・・。やらないか・・・ボロでるし。
益田氏は元貴族だから、都とのパイプはあったんだろうなァ。その関わりがないと後鳥羽院が間違えて人麻呂の歌を詠んだりしていない。
人麻呂が国司だったころ、江津市の敬川町、二宮神主町あたりに皇族の末裔がおさめる割と大きな集落があったものとされてる。日本の怨霊の一人である長屋王の子供で、その名も石見王と言った。
人麻呂の出生地が益田市って話もある。これはまあ百歩譲って信じてもいいけど、終焉の場所は益田市では絶対にないし、石見地方ではないと思う。都で亡くなってると思う。別に左遷対象となるほどの人物ではなかったと思う。
万葉歌人と呼ばれるけど万葉集が編纂されたのは人麻呂の死後100年後の事。そして当時、宮廷歌人などという職業はない。歌の上手い下級仕官であっただろうけど、謎は多いなぁ。
この当時、怨霊以外は対象ではないから廟を立てたとするのであれば、それは小さなお堂のようなものだろうね。それがあった鴨島が千年前の万寿の津波で海に沈んだと言われてる。鴨島とは大きな砂州だったんだろうか。
この万寿の津波は石見地方に相当な被害を齎す。旧浜田市を除き、山口県須佐町から大田市まで海岸線は被害を受けた文献が残ってる。その際に悲しいけど江津市にあった大きな集落は滅びたんだろうなァ。ここにはちゃんと津波の後に仏像が海から流れて来て、今も大切にまつられてる。
たぶんこういう話をぶっちゃけ敬意漬けのためにでっち上げたのが益田氏なんじゃないかと思うんだよね。元々1300年前に益田市に都から春日氏族が入植してる。春日族と言えば藤原一族である。
神御本氏は任期を終えて都に還るように命令を受けているが、そのまま浜田市に残った。暗殺を恐れていたのかも知れないね。
ヘンな話だけど江津市では人麻呂公や伊良子姫の存在を感じるけど、益田では何も感じない。津波の後に益田市の高津の浜にも像が流れついている伝説があるんだけど・・・。それが人麻呂公の廟に収められていたものかは微妙だなぁ・・・。
思うに出生地だったからこそ天皇の覚えもあった歌人、人麻呂死後に勅命で廟がたてられたんではないかと思うんだ。終焉地だから廟がたったんではないと思う。
人麻呂を偲ぶ古い和歌に出てくる古名は江津市のものなのだけれど、後鳥羽院の歌以降、益田市の古名に変えられている。万寿の地震の後だから伝説が変質したんだと思うんだ。どういう場所であるか伝えるために歌人でもあった後鳥羽上皇に進言したんじゃないのかなぁ・・・・。
今は終焉の地が益田市であると既成事実になっている。まあ当時もすでに石見地方の中心は山岳部を中心にした浜田市であって、流刑地を名乗るなら、当時の益田市はまつろわぬ場所と云うことになるんだがね。
益田の柿本神社は姫神が合祀されていないから、寂しそうなんだよね。その点、江津市の柿本神社では夫婦神として祀られてる。人麻呂が詠んだ和歌の舞台は浜田市以東から安来市までの間なんだよね。益田の歌は詠まれていない。それだけが現実である。
空海作とも言われるが、呪詛歌である「いろは歌」は人麻呂公作だと思うんだな。そんな気がする・・・。
ロマンチストで愛妻家のイメージもあるけれど・・・。
益田市の三枚推しと言えば、益田氏、人麻呂、雪舟なんだけど、雪舟は数々の庭園も残しているし、しっかりかの地で亡くなっているから、もう少し推せばいいと思うんだけど、人麻呂に益田氏に絞るのは何故なんだろう???歴史好きとしたら不思議でしょうがないんだけど・・・。
だから・・・戦国武将のイメージは益田氏にはありません・・・。こうやって歴史は改善され、新しいイメージが定着するんだと思った。別に益田氏はを戦国武将にする必要性がないんで、当惑してしまう・・・なぁ。今の益田文化を築いた偉人ではあるが、戦国武将と言うほどに活躍したとは思えないんだけど・・・。
隣の白い壁の反射が気になって結局窓ガラス二枚とも目隠しシールを貼った。
でも今年できた新築の家の石州瓦が異常に乱反射することも気が付いた。とにかく眩し過ぎて迷惑な光だ。
この家の地鎮祭は南向きで行われていない。東と南は隣家に面しているとはいえ、普通は南もしくは東に向けて祭壇を設けるよね。北側にあるのはおいらの家の並びなんだが、地鎮祭の最中、イライラしてとっても厭な気分になった。
おいらの家もおいらがいるから不気味だけど、その家も不気味だなと思う。きっと霊障はバンバン起きてるだろうな。我が家の負担がだいぶ軽くなったからね。くわばらくわばら。
もう北のミサイル飽きたなぁ・・・。
ミサイルが落ちない技術を望むと、それは革新になっちゃうんだけど、日本には破片も落としてほしくないなァ・・・。
昼間には撃たない神話があるから、のんびりしてるけど演習最終日だから撃ったりしてね。
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