どうも、朱子学がネックなんだね。習俗である儒教を学問化した朱子学。「大学」「中庸」『論語』。そんくらいの知識しかないんだけど・・・。まあ朱子学があったからこそ、中国、朝鮮は近代化が遅れたと言われてる。13世紀に中国から朝鮮にもたらされた朱子学は、それまで高句麗の国教であった仏教を廃絶し、朱子学を唯一の学問とした。
まあ仏法とは学問なんだよね。日本の場合はどうなんだろう。本来の仏教の原点はどんな理由があろうと殺生を禁じた。だから他の宗教に滅ぼされたという。インドではヒンドゥー教が、朝鮮では朱子学が仏教を追いやっていく。
日本の場合は、独特の解釈があって戦う武装僧侶がいた。仏敵は滅ぼしてもよいという考えだな。僧兵を持つ宗派が権力を持つようになり政治にも関与してくるのを防ぐために信長は比叡山を焼きうちした。仏教が戦う宗教であったことはあんまり知られていないのかなぁ。信長の極悪性を示す証拠として必ず持ち出せれる話。
日本では朱子学が台頭してきて、天皇を中心をした国作りをするべき尊王論が生まれて、やがて討幕運動に繋がる。
んで、西郷どんと松陰先生は儒教の一つである陽明学の方に近いのに、その後の軍隊は朱子学を重んじてる。まあ朱子学のながれを汲んでる教育勅語から道徳に用いられるようになるからかなぁ。
考えてみると、日本ってオリジナリティないよね。
まあちょんまげに着物、帯刀は嫌だけど、倒幕せずとも日本はあったような気がするなぁ。。。基本ベースになっているのは日本的な思想ではなくて、中国や西洋に習っただけだもんなぁ。多宗教的過ぎるし、多様性過ぎる。だから本質がどこにあって、揺るぎない絶対的なモノがいつでも少しないんだなぁ。
おいらはまあ神道と右翼の繋がり方を一切無視して、神道大好きっ子だったけど、他から見るとおいらの言動、発言は右的なものに見られていたんだろう。どちらかと言うと退魔みたいなものが、密教の言う祈祷よりも効果があると思っただけなんだけどね。結果的には違ったけど。
まあおいらの神社の正当性や権威を誇示するときに、爵位なんか持ち出してコメントしていたからなァ。大嘗祭(新嘗祭)という国璽が本当に切れ間なく途切れなく天皇家で引き続き行われていたのか、も、分からないのにね。
神道も仏教も明治のころに死んだ。
まあ神道に関しては比較的新しい学問?だったと思うけど、その儀礼しかない本質は死んだのだと思う。
死んでる思想を非宗教、超宗教と位置付けることにどんな大義があったんだろう。仏教を信じても神道を信じても、問題は何ら解決されなかったぞ。だからいろいろあって諦めた。
しかし右翼扱いされるとは思わなかったぞ(笑)
なんかもっと神社が憩う場所になるといいんだが、いまだに右翼さんらにリスペクトされてるとしたら、おいらが過ごしたい場所ではないわ。
学問か、宗教か、それを超越した宗教か、考えれば考えるほど下らなくなる。
英語のkillとmurder。ともに殺す意味だけど、死ぬのと殺すじゃ意味が違うもんな。
戦争で死んだ。戦争で殺された。日本語で並べても結果と理由の違いは歴然としてる。解釈がされない絶体的なモノがやっぱりあるわけじゃない。正義は突き詰めると、悪そのものになるからね。仏敵に対する僧兵なんて典型的な例だと思う。
純度を高めた思想も教義も正義も・・・悪なんだよね。
見方次第だし、味方次第。
生と死が常にワンセットの状態が生きてること。死がないと生きてることにはならないわけだし。
おいらは何を探し求めていたのか、結論が出なくなった。出せなくなったというべきか。
まっ、おいらは死について神も仏も持ち出せなくなった。誰も成仏していないし、どれも悪霊なんかじゃない。それぞれの純度の濃度や解釈が違うだけの事。
アメリカの正義にウンザリしてるし、北朝鮮の挑発にも腹が立つ。アメリカ憎しの右翼じゃないし、保守でもない。平和を持ち出すと左翼にされるし・・・。
バカにされてるアメリカを見てると愉快に思っているのかなぁ。安倍の異次元発言を訊くと虫唾が走るのはどうしてなんだろう。同じ目にあわせて犠牲者を増やすのか、果たしてアメリカをやっつけたいのが正義なのか、悪なのか。
答えは一つじゃないのに、同じような問題はたくさんはある。すべてが納得する答えなどどこにも存在しないんだよね。
しょせんは呪いも内側の理解と解釈であって、外側にはなんにもないんだとしたら、無為に費やした時間が重くなるね。思い出の総重量が一気に増す感じ。
そういう内側の理解を肯定しないように、解釈しないような保護装置が愛なのかなぁ。陳腐だけど。
考えると、最終的に自分が減る。
心なんてものは砂のお城みたいなものだから減れば壊れる。倒壊する。
コンクリートを混ぜたらもうそれは心でもないし、信条でもない。
たぶんおいらの場合、おいらが救われない事には解決しないんだと思うなァ。
楽して生きる。
それがたぶん救いだったんだと思うし、そうなるために頑張っていたんだと思うけど、おいらはおいらを救えずに、おいらはおいらを裁き続けてる。
おいらを救えよ。
と、おいらに命令する。
別に世界の事も東アジアの事もどうでもいいんだと思う。
そんなものに時間を費やしても金にならないし、救われないからな。
書いてんのは暇つぶしかな。
「大学」「中庸」『論語』を愛読したら安倍明恵みたいなけったいなモノになってしまうから今更読まないけど。
死ぬまで学びだなんて思うんじゃなかった。人は学べない。
人に学んでも人は人を超えられるわけでもないんだから・・・・。
まあ仏法とは学問なんだよね。日本の場合はどうなんだろう。本来の仏教の原点はどんな理由があろうと殺生を禁じた。だから他の宗教に滅ぼされたという。インドではヒンドゥー教が、朝鮮では朱子学が仏教を追いやっていく。
日本の場合は、独特の解釈があって戦う武装僧侶がいた。仏敵は滅ぼしてもよいという考えだな。僧兵を持つ宗派が権力を持つようになり政治にも関与してくるのを防ぐために信長は比叡山を焼きうちした。仏教が戦う宗教であったことはあんまり知られていないのかなぁ。信長の極悪性を示す証拠として必ず持ち出せれる話。
日本では朱子学が台頭してきて、天皇を中心をした国作りをするべき尊王論が生まれて、やがて討幕運動に繋がる。
んで、西郷どんと松陰先生は儒教の一つである陽明学の方に近いのに、その後の軍隊は朱子学を重んじてる。まあ朱子学のながれを汲んでる教育勅語から道徳に用いられるようになるからかなぁ。
考えてみると、日本ってオリジナリティないよね。
まあちょんまげに着物、帯刀は嫌だけど、倒幕せずとも日本はあったような気がするなぁ。。。基本ベースになっているのは日本的な思想ではなくて、中国や西洋に習っただけだもんなぁ。多宗教的過ぎるし、多様性過ぎる。だから本質がどこにあって、揺るぎない絶対的なモノがいつでも少しないんだなぁ。
おいらはまあ神道と右翼の繋がり方を一切無視して、神道大好きっ子だったけど、他から見るとおいらの言動、発言は右的なものに見られていたんだろう。どちらかと言うと退魔みたいなものが、密教の言う祈祷よりも効果があると思っただけなんだけどね。結果的には違ったけど。
まあおいらの神社の正当性や権威を誇示するときに、爵位なんか持ち出してコメントしていたからなァ。大嘗祭(新嘗祭)という国璽が本当に切れ間なく途切れなく天皇家で引き続き行われていたのか、も、分からないのにね。
神道も仏教も明治のころに死んだ。
まあ神道に関しては比較的新しい学問?だったと思うけど、その儀礼しかない本質は死んだのだと思う。
死んでる思想を非宗教、超宗教と位置付けることにどんな大義があったんだろう。仏教を信じても神道を信じても、問題は何ら解決されなかったぞ。だからいろいろあって諦めた。
しかし右翼扱いされるとは思わなかったぞ(笑)
なんかもっと神社が憩う場所になるといいんだが、いまだに右翼さんらにリスペクトされてるとしたら、おいらが過ごしたい場所ではないわ。
学問か、宗教か、それを超越した宗教か、考えれば考えるほど下らなくなる。
英語のkillとmurder。ともに殺す意味だけど、死ぬのと殺すじゃ意味が違うもんな。
戦争で死んだ。戦争で殺された。日本語で並べても結果と理由の違いは歴然としてる。解釈がされない絶体的なモノがやっぱりあるわけじゃない。正義は突き詰めると、悪そのものになるからね。仏敵に対する僧兵なんて典型的な例だと思う。
純度を高めた思想も教義も正義も・・・悪なんだよね。
見方次第だし、味方次第。
生と死が常にワンセットの状態が生きてること。死がないと生きてることにはならないわけだし。
おいらは何を探し求めていたのか、結論が出なくなった。出せなくなったというべきか。
まっ、おいらは死について神も仏も持ち出せなくなった。誰も成仏していないし、どれも悪霊なんかじゃない。それぞれの純度の濃度や解釈が違うだけの事。
アメリカの正義にウンザリしてるし、北朝鮮の挑発にも腹が立つ。アメリカ憎しの右翼じゃないし、保守でもない。平和を持ち出すと左翼にされるし・・・。
バカにされてるアメリカを見てると愉快に思っているのかなぁ。安倍の異次元発言を訊くと虫唾が走るのはどうしてなんだろう。同じ目にあわせて犠牲者を増やすのか、果たしてアメリカをやっつけたいのが正義なのか、悪なのか。
答えは一つじゃないのに、同じような問題はたくさんはある。すべてが納得する答えなどどこにも存在しないんだよね。
しょせんは呪いも内側の理解と解釈であって、外側にはなんにもないんだとしたら、無為に費やした時間が重くなるね。思い出の総重量が一気に増す感じ。
そういう内側の理解を肯定しないように、解釈しないような保護装置が愛なのかなぁ。陳腐だけど。
考えると、最終的に自分が減る。
心なんてものは砂のお城みたいなものだから減れば壊れる。倒壊する。
コンクリートを混ぜたらもうそれは心でもないし、信条でもない。
たぶんおいらの場合、おいらが救われない事には解決しないんだと思うなァ。
楽して生きる。
それがたぶん救いだったんだと思うし、そうなるために頑張っていたんだと思うけど、おいらはおいらを救えずに、おいらはおいらを裁き続けてる。
おいらを救えよ。
と、おいらに命令する。
別に世界の事も東アジアの事もどうでもいいんだと思う。
そんなものに時間を費やしても金にならないし、救われないからな。
書いてんのは暇つぶしかな。
「大学」「中庸」『論語』を愛読したら安倍明恵みたいなけったいなモノになってしまうから今更読まないけど。
死ぬまで学びだなんて思うんじゃなかった。人は学べない。
人に学んでも人は人を超えられるわけでもないんだから・・・・。
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