憲法第9条・・・を問題視して護憲派をけん制する人も危険だと思うんだな。安倍さんの団体創生「日本」での意見を訊いてると、国民主権、平和主義、基本的人権の3つを指摘してる。
自衛隊は確かに憲法では違法になる・・・けど、ここだけ改正ではなくて修正出来ないもんだろうか。憲法で認められたいない自衛隊員は差別を味わっているんだろうか?日本の軍隊は海外での派兵の活動行動を抑止される。平和憲法が護っているのは国民の一人でもある自衛隊員そのものでもあるんじゃないのかなぁ。
某作家の井沢さんの言う意味の”中学生でも分かる”という言い方自体が間違ってる気がするんだけど・・・。確かに自国防衛は今のままでは無理だけど、改憲して軍と明記したら在日米軍は日本から撤退してくれるのかな?そこのところを誰も語らずに、自国防衛を叫ぶから、戦争アレルギーや加害責任(本当は自国民に対する責任大)を持つ日本人は護憲派に廻るのではないかと思うけど。
韓国には軍があり徴兵制度もある。自国防衛が出来るはずなのに在韓米軍がいる。そして在韓米軍の許可なくして自由に行動できない。自国の政治判断が出来ないアメリカのひも付きの国を間近で見ていると、そもそも戦争さえ起こしてはいけないとある日本国憲法でいいんじゃないと思うけど。
それに安倍さんの言う「日本を取り戻そう」にしても、どこから何から取り戻すんだ。戦後レジュームからの脱却って聞こえはいいけど、アメリカの目をちょろまかして、貴族政治に戻したいと云うことでしょう。そうどこかから制圧されてる「日本」をどこかから取り戻すんじゃなくて、国民から主権を取り上げて政治家、資本家、軍隊のために「日本を(国民)から取り戻そう」と言ってる風にしか思えない。
自国防衛を歌うなら同時に米軍撤退の議論も同時に発議するべきなんじゃないのかなぁ。自国防衛のために自衛隊を自衛軍にして憲法の違法性を取り除きたい。だけど韓国と同じように自国防衛を自国で判断できない・・・その矛盾をどう解決するんだろう。
実際に本土防衛の要とされてきた迎撃ミサイルシステムのPAC3。しかしカバーできるのは半径20キロ。今、島根、広島などグアムにミサイルを発射する軌道上にある県に設置されたけど、県内どころか一つの市さえカバーできない。それで国民の安心安全は担保出来ないと思う。それは日本の憲法で軍隊を保持してないけないに縛られているからなのかなぁ。
イージスアショアの導入を決めたけど・・・北の脅威を叫び続ける安倍内閣が本気で有事を想定しているのならもっと早い段階で導入すべきでしょ?この5年間何をしていたのか問いたいぞ。とにかく安倍さんも「敵」が存在しないと何も出来ない。岩盤規制も敵なら、頻繁に日本海でミサイル実験をする北はもっと敵でしょう。
イージスアを導入しますって、昨日今日で設置できるはずもない。敵国として政治利用していた割に、北の良心を信じているのならバカとしか言いようがない。憲法を変えずとも出来ることをせずに、自衛隊を海外で危機に晒し、武器輸出まで可能にしているのに、脅威に対する防衛は出来てないってそもそも本末転倒してる。
要するに自衛隊のことを目くらましにして政府が改憲を訴えるのは、別の目的があるからとしか思えないよ。だって発射寸前に気象衛星を打ち上げるためのロケット発射をニュースにするけど、じゃあ海外から見て日本はそのロケット実験を北朝鮮のように怪しい実験だと海外から非難されているわけ?軍を保持してはいけない国がミサイルや戦闘機を所有しているってことが本当に世界的な大問題ならばもっともっと海外は日本をバッシングしてるんじゃないんだろうか。二重構造を内政問題に従っているのは政府のような気がするけどね。
で、某作家井沢さんも言うけど、明治時代の最初は平和ボケをしていた。しかし宗教革命である神仏分離を行ってから、西洋の原理主義の上っ面を掬ったような神道で社会基盤を作ろうとして実行に移した。軍事国家を目指し徴兵制を導入した。
太平安泰の260年前は戦に明け暮れ、血をダラダラ流し続けた陰惨な時代である戦国時代があった。260年間平和だったし、海外が特に侵攻してきた訳でもないのに軍事国家になろうとした。たぶん強い国が弱い国を支配する植民地支配がブームになっていたから、秀吉さえも失敗した朝鮮出兵を再開しただけのような気がするけど。
確かに日本には古来から「怨霊信仰」と「穢れ」の概念がある。追われた政敵は必ず天皇(国家)を祟る。だから死後に位を与え神として祀りあげることを条件に、怨霊を支配し神として働かせた。でもそれは千年よりも前の貴族社会の信仰であって、必ずしも怨霊として慰霊した訳でもないし、いつの間にか英雄すら神となる時代が来てる。貴族が穢れを嫌い、警察機能を放棄したから武士が武力でこの国を支配したって言うけどさ。天皇の存在自体が怨霊な訳だよね。菅原道真や平将門は別の霊にしても、だいたい怨霊となったのは天皇家の血筋なんだ。天皇家を滅ぼせば祟られる。そう信じられてきたから江戸末期まで天皇家は続いていたけど、どうして家康が天皇家を滅ぼさなかったのかだけは疑問である。
万世一系が尊ばれていた訳でもないだろうし、天皇家を頂点に徳川政治が行われていたとは思えない。もし天皇家に武家が恐れる祟り性がなければ滅ぼしていたと思うんだよね。江戸時代に天子様の存在を江戸町民が知る由もないのである。武家社会が恐れたのは天皇家の祟る性質のみであろう。それが権威をとなり時の為政者に生かされていただけの一族と考えるべきじゃないのかと。
戦でばんばん人を殺した戦国武将の中には、そんな残虐性よりも庇護しなければ自身一族を祟る天皇家の血筋は怖かっただろうし、天皇家の血筋を身内に取り込んだのは、祟る一族に参加して権威を上げようとしたからじゃないのかと。それこそ怨霊信仰が伝説化された極みが天皇家なんだと思うけどなァ。
普通、国王(大王でも天皇でも呼び方はどうでもいいが、王様だよね)の義務と言えば国民を養うことだ。もし国民を養わずに劣勢を敷いた王様や王朝は滅ぼされる。日本の王制は世界に類をみないほど異質だと思う。何故なら国民が天皇家を養っていると言った要素が強いからである。
かつて大王と認めた中国は何度も滅びと再生を繰り返しているから、ずっと中国が日本王朝を天皇家が統治する国として認めた訳ではあるまい。早い段階から中国に貢物を献するのを辞めて属国支配からも脱却してる。海外の大国が認めたから日本は天皇家の所有する国だったんだろうか。あくまで内政的に”かつての支配者統治者である天皇家”にその在位を与えていたにすぎないと思うけどなァ・・・。だって京都ではいざ知らず、江戸に公家の権力が届いていたとは思えないんだよね。
まあ公家にしても”祟る性質”を利用したんだと思う。天皇の権威が記紀神話に裏打ちされたように、公家は天皇家との姻戚関係があったから権威が移譲された訳だし、その権威の移譲を目的に、徳川家も天皇家の血筋を欲したんだから・・・。もし徳川家康がもう少し生きていたら、天皇家を滅ぼしていたんじゃないかと思う。殺さずとも乗っ取って次の祟り神になる道を選んだかも知れない。
神は死の穢れを嫌うから、天皇家や公家が武力行使を武士に譲り、やがて武士も死の穢れを嫌うようになって、罪人を処刑する際には浪人を使用するようになったと言うのは言い過ぎじゃないかなぁ。誰だって権力を持てば自身の手を汚して殺傷行為に出ないんじゃないのかなぁ。がしがしに仏教の理念が浸透している訳だしね。穢れを恐れたと云うよりも殺生をし極楽浄土へいけないことが武家から与奪権を奪っていったんじゃないかと思うけど。
某井沢さんは明治発案の天皇家のルールを古代にまで用いて語ろうとするけど、いったん正当性を失っていた祟り神の性質を天皇家に与えて、新ルール作りをしたのが長州藩が代表した明治新政府なのではないかと思う。天皇のために兵隊が死なないなら、英霊は神にはなれないんだ。少なくとも明治政府は記紀神話の神(天皇家を含む)と天皇の臣下のみ神として祀ることを許可してて、八百万の神々を信仰対象とするのは禁じている。天皇のために死ねば「怨霊」となり、その御霊を祀れば「神」となる新しい神道のルールを作った。明確に神を信ずることはどういうことで、どういう教えの元に神道が存続していたのか、全く教義がないのである。記紀神話は神が是であることは書き記しているが、殺生を奨励しているわけでも否定している訳でもない。
実際に神道にはないもないのだ。神道とはその宗教儀礼にこそ意味があるだけで、神道を信じることで平和や幸福は約束されないし、死後の救済も与えられてはいない。英霊制度はキリス教の免罪符に似せてはいるが、天皇のために戦い死んだとしても天国に召されるわけではないし、死後の救済が確約されている訳でもない。靖国という神道でいうところの戦死した者だけが召される極楽などの定義は神話でも想定はされていない。だから明治天皇と新政府が勝手に創出した神道世界の作り事でしかない。長い日本の歴史のなかで「靖国」という死者の国を批准したことなど一度もない。神道には明確な死生観はないし、天国に類似するのは常世であり、黄泉である。人間は肉体が腐っても滅びても魂として普遍なのである。そして神にも寿命がなく死ぬことはない。
国家神道と呼ばれる約80年間の神道の理念は、古代からの日本の風土慣習を全く無視したもので、神道と呼べるのかも疑問である。それは政治が軍隊の重要性を歌うためのプロガバンダに過ぎなかったんだと思うし、その思想が頂点に達し、国民が戦争に熱狂し玉砕一緒になったのは軍の邪な思想信条だったんではないかと思う。あくまで最初は戦死した国民の尊い生き方をした奨励するたに設けられた勲章みたいな肩書が「英霊」だったわけで、神を新しく作り出すことが目的ではなかったと思う。名もなく粗末に扱われてきた国民の犠牲を評価するものであったはずだ。なのに大戦中の「英霊」は潔いよい死に様を良い国民の見本とするために利用された。英霊になることは国民の名誉されたからである。
陸海軍が信じる、自分たちに絶体的に勝利をもたらす神を信仰するために・・・。ちなみにその神とは誰の事だろう。本当に神道を理解し、人の穢れを何よりも嫌うはずの神の儀式をなぜ死体が転がる戦場で祝詞を唱え戦勝祈願などが出来るんだろう。陸海軍が信奉した神が穢れの概念を持つ神とは思えないんだよね。人間の死の穢れを推奨する神など有史以来、日本には一柱の神もいない。そんな神とは鬼である。命を奪う神は神話には登場しない。
自分たちを鼓舞し勝利へと導く神など存在しない。あの神道こそ作り事であって、英霊とは戦争被害者であると思う。少なくとも今は神の名を与えられてはいるが、おいらはどうしてもその悪列な軍の信奉した思想信条が元になった宗教としての国家神道はただの邪教に思うんだな。英霊は神とならずとも良かったんだと思うんだ。死んだ者はすべて神となるなんてことは神話にも書かれていない。軍のバカどもは日本神話がギリシャ神話や北欧神話と類似することに気づかずに、聖書のソレと同じようなものだと誤認してしまったのが最初の間違い。神話はあくまでも神話で多神教の世界観であり、西洋は一神教を基礎に持つ国家の集合体である。神話とは抒情詩であり物語を逸脱してはいけないのであるが、その違いに気づけなかった。神話の死者の国は、天国や極楽浄土ではない。
せっかく神社神道はGHQの神社令により解体され、一宗教としての確立を許されたのに布教することはなかった。それまで熱狂的に国家神道の信者であった国民への求心力が一気に消滅してしまうとは考えんかったんだと思う。それは法律として定められてきたから従っていたにすぎず、国民は救済を求めて神道を信仰していたわけではなかったからである。だから頑なに宗教としての神社神道は衰えた。布教と言う宗教における根底がなかったせいだ。それはただの法律であったから、人は救いを求めて仏教を信仰するようになる。
神社神道と言うべきか日本では急速に廃神社が増えている。しかし同時に廃寺も増えている。それは戦後に家族制度が崩壊したことにもよるが、日本に限らず世界的に宗教の熱心な信者は減っている。これだけの情報社会となり、宗教の理念が稚拙になったからだと思う。宗教の多くは科学や人類の英知を否定し、どうしても矛盾を生んでしまうせいだ。
しかしどこの国の歴史史観にも当時の歴史背景として宗教を用いて語るのに、日本の歴史はある時期から徹底して当時の宗教観を無視して歴史上の人物を語るようになっている。過去の天皇が仏教の熱心な信者であったことは黙殺されているし、戦国武将が何を信仰してきたか、とても曖昧にしている。当時の仏教は様々な宗派を網羅する学問の場でもあるから、何百年もその寺が一つの宗派の仏教を信仰してきたかは疑問なのである。御寺と呼ばれる天皇家の菩提寺でもある泉涌寺はいまでそこ真言宗の寺であるが、いろんな仏教の宗派も同時に学んでいた。もちろん神道もその中の一つである。
ちゃんと宗教の歴史を語らないと、なかなか日本の歴史や習俗は見えてこない。なのに今は語ることさえタブーであるし、浄土真宗の古刹は浄土真宗のみで何百年の続けられたと誤認されている。日本には宗教観がないと言われて久しく経つが、誰も過去の宗教観に言及しないからだと思う。歴史家は宗教を廃絶し、歴史を語る。かろうじてキリシタン大名は出てくるが、当時はキリスト教も仏教の宗派の一つのような括り方をされてきたせいで、大名が信仰する”宗教のようなもの”として受け入れやれている。死後の救済がある点などキリスト教と類似点が多いのは神道ではなく、本来は仏法なのである。ただキリスト教には殉死という、仏教では理解しにくい教義があったので、のちに禁止されてしまうけど、殉死と切腹は違う概念として処理されてしまうのだ。武士道の忠義は精神論であって宗教性が強いものではなかったからだろう。
で、神道に話を戻すが、安倍さんや右派もしくは保守系の指示菩提である極右団体日本会議には伊勢神宮、神社本庁の神主や理事らが名を連ねている。それは何故かと言えば戦前まで神官は国家公務員であり国に仕え、権力を有していたし、世襲制が高い大神社や浄土真宗など一部の寺社の由緒ある家系には男爵の位が与えられた貴族の一員であるからだ。だから当然、安倍さんら側の日本を(国民主権から)取り返そうと言うプロガバンダは、貴族政治を取り返そうという意味なので、元男爵の一員として貴族だった大神社はその職位や特権権力を取り戻したいのである。今更爵位を取り戻してもそれが神道の布教活動に有利になるとは思えないが、国の保護下に逃げ込んでまた甘い汁を吸おう言うという性格が見え隠れしている。
伊勢神宮や出雲大社は国と言うパトロンがいなくても十分に宗教として成り立つと思うけど、国や政治の一つに昔のように融合されたいんだろうなァ・・・。長い日本の歴史の中で極めて神官の地位は低かった。神官の地位が保証されていたのはそれこそ国家神道の80年間しかないのである。歴史的にも常に仏教の下に置かれてきたのが、いちばん長い歴史を持つとされる神道なのである。神道はいつの間にか渡来の仏教に、思想である陰陽道にその地位を奪われ、骨抜きにされている。今でこそ20年に一度遷宮が行われている伊勢神宮であるが、時の為政者の信仰や天皇家貴族のパトロンを失ったときは200年近く放置されていた。用するに遷宮もなく社殿はボロボロだった。今でこそ白木作りに拘っているが、昔の社殿は朱塗りであった。朱塗りにするのは防腐処置である。だから神道が一度も途切れずに篤い信仰を天皇家や国民から受けていたと言うのはただの幻想であるし、明治時代に内宮の祭神は天照大神とされてきたが、それまでご祀神であった伊勢の大神と天照大神は別神であるのではないかと言われてる。天照大神をご祭神として祀っていたのは伊勢の一宮である伊雑宮と言われてるんだよ。
神道を調べれば調べるほど、江戸時代と明治時代で、その宗教性や神聖な部分が異なるんだなァ。吉田神道や伊勢神宮のように早い段階から仏教要素を取り除いた神道の教派は数少なかったんだよ。なのに恒久的に同じ形態だと信じてる日本人は国民の数ほどに多い。
やっぱり神道には天皇制や戦争や軍隊の思想が絡んでしまうから、考えることや疑うことさえ未だにタブーなんだと思う。歴史的に神様が人間の願いを訊くような身近な存在になったのは戦後からと考えるべきなんだけど。
それでも戦争犠牲者の慰霊施設である靖国神社が国の管轄下保護下に入ることを切望する気持ちはなんとなくわかるんだ。神として合祀した国民をただの霊性として還俗させるのはとても難しいと思うからだ。だから神社の肩書きを返上して、靖国戦没者慰霊施設(仮)として宗教や神性をともわんない、半ば憲法に記載されない違法軍隊として内外から二重構造になっている自衛隊のような”存在”になればいいんじゃなかと思うんだよね。日本人ですらその歴史背景や成り立ちを理解出来ないのであるから、靖国神社だけは海外からもその役割が分からないと思うんだよ。神道の神としての英霊信仰よりも、英霊と言う神性を伴った国民戦死者を慰霊すればいいんじゃないのかな?民間の戦争犠牲者も合祀する形にしてね。
その宗教的な理念の共有で歴史ある伊勢神宮や神仏習合時代からなる他の神社と同等に扱うのがすでに無理なんだよね。いまはそれに右翼の聖地になっている訳だしね。しかし陸海軍の理想と理念はそれを異なるとすることに異論しかないと思うけど。。
歴史認識で観ても、伊勢神宮を頂点とする神社神道(国家神道)と靖国神社を同じ宗教思想理念に基づき同列に処理することは神道自体を否定してしまうことになると思う。差異が多すぎるんだ。靖国神社がその独自性を担保するためにはほかの神社神道と一線を駕す必然性があると思うんだよ・・・。同じ風に装うからタブーになるし、いつまでも戦死者の慰霊から遠い存在になってしまう・・・。
まあ神社が貴族社会や貴族政治に帰属することになれば国民は違和感しか感じないだろうなぁ。いまも伊勢、出雲の宮司家はある意味神格化しているのに、そこに法的な敬意づけや根拠を与えなくてもいいと思う。廃寺も廃神社も宗教の限界や、仏教の先祖供養の仕組みが破たんしたせいだろうし、信仰が損なわれたことは布教体制に問題があるのであって、先祖を粗末にしたらバチが当たるという教義自体が緩やかに崩壊していったんだと思うよ。先祖供養は国民の義務ではない。一般人が墓を持ち故人を供養するようになった歴史も明治からなので先祖供養の仏教の歴史もまた神社神道と同じく150年程度の歴史しかない。墓を持てるのは武家もしくは豪農の一部であって、一般国民はそういう権利や習俗さえもなかったとみるべきなのである。だから神道が国家神道から外れたから日本古来からの儀礼や信仰が失われたという論拠はそのまんま仏教にも当てはまるのだ。
すべては宗教を利用して社会制度作りをしようと企んだ明治新政府の神仏分離と言う宗教革命が悪政悪令であったと云うことなのである。ただその悪令の責任はすでに国側にはないと思うんだよね。天皇家を中心とした文化形態の中で必ずしも神道が占めていたウエイトや優先順位は低かったのだしね。厳密にいえば天皇家が国祭祀を永続して行っていたかとなると、それも不確かなことなのだろうしね。考えると避雷針も備えていない御殿に落雷が落ちて火事になることが、怨霊の祟りだという気持ちをもう現代人は理解できない。崇徳天皇を代表とする怨霊信仰も神道の理念の中では破たんしてるって知ってた?
神道では古い霊性の存在をそもそも認めていないし、墓や塚など一通り供養されている御霊は悪霊にならないとされてるんだから。明治天皇が讃岐の崇徳上皇の御霊を鎮める慰霊祭を行ったのは、明治政府による怨霊信仰の復古を政治的に主導したと考えるべきなんだよね。
怨霊信仰失くして英霊信仰もまたないと云うことになる。そこだけは切実に確信犯的に天皇の祟り神としての性格のアリバイ作りをしてるんだよね。だあから最終的に英霊=怨霊は怖いとなってしまう。怨霊信仰とはそれまでの自然崇拝と同じで、神として崇め奉るから、禍いや祟り(自然災害、疫病)がおの身に降りかかりませんようにと言ういう「護法」的な概念なんだよね。崇め祀れば安泰であるという安心感を得るための”儀礼”なのである。死生観を仏教に借りてきた神道から、そもそもその精神的価値観を分離しようとしたことに最初から無理があった。
実際においらは”英霊”さんが怖い。あんな悲惨で杜撰な作戦しか立てられない軍隊の、その指揮官を恨んで亡くなったのは事実だろうから。でもそんな罰を受けもせずに戦犯を逃れた軍将校らはたくさんいて、そういう人が畏れ崇めるための英霊制度に特に意味があるとは思えない。その無念がさぞ苦しかっただろうと思ってしまう多くの国民は極楽浄土でゆっくりと休んで欲しいと思っているんじゃなかろうか。靖国を肯定するには、一度神道を解体して、仏性を融合させないと理解不能になるんだよ。
ああよくわかんなくなっちゃった(笑)。
某井澤さんと同じ意見なのは歴史を語るときに宗教的な背景やアプローチを持ちいるべきだと云うことだけ。中学生でも理解できない二重構造や矛盾を抱えてる憲法や世俗、習俗慣習などなんでもかんでも肝要に受け止めて法に時々逆らってでも、魂の救済を願うのがおそらく日本人。陸海軍や政治家、資本家などの支配者らが戦死者の祟りを恐れて、作り上げた靖国信仰は国民にとっての安全装置にはなり得なかったと言うのが真実なのだろう。そういう支配層の罪悪感を補てんする思想であることが、なんだか物悲しい気持ちにさせる。国民が胸を張って戦死者の成仏を願える社会にして欲しい。感謝や謝意って言うのはある意味、供養とは違う概念だと思うんだよね。死んでくれてありがとうは言い過ぎだけど、私たちのために戦い戦死してくれてありがとうも、つい心に浮かぶと罪悪感が湧いてしまうんだよ・・・。
あれは悲惨で無意味な戦争だと思えるのが、国民の生命を守らずに、国体と言う概念を護らせようとした政治家、軍部の考え方が異質に思えてしまうからだ。近代憲法とは国民を国から守る法律が「主体なのに、何故に国を守るために主権を国家に献上しろと言う、古臭い憲法論になるのかが分からない。戦前の家族主義に戻しても、現代社会の歪みは埋められない。
不戦の誓いに代わる言葉があるはずである。ただ自衛隊を軍隊として認めないと自衛官を社会的に差別してるつもりは国民の側にはない。ヘンな話、平和軍でいんじゃないのかなぁ。国民の護りためだけに戦うような良い言い回しはないんだろうか。
しかし日本人はそもそも「国」を未だに信用していないんだな。単に戦争が出来るような状態に戻したり、憲法に軍隊を規定したら、必ず侵略戦争に打って出てしまうのではないかと日本の国体主義をどうしても疑ってしまう。個人個人は善人なのに人は集団になると思う少し変わった性善説に基づいているし、政治家や軍隊は必ず国民や国体を重んじるんじゃないかと邪推してしまう。それはかつての戦争の反省すべきは反省しようと勇気ある試みを実践すると必ず右翼思想が騒ぎ立てるからである。731部隊の非人道的な実験に、毒ガス製造に、そこに携わって人たちは自ら加担した責任を重んじながら、敗戦は非人道的な行為の限りを尽くした我が国は罰せられた、またはバチが当たったのだと日本的宗教原理が働いてしまうからと、未だに軍の悪意ある計画に加担した国民の一人一人の傷が癒えていないことを知ってるからだ。
それは本来国が負うべき責任であって、戦争加害者である政府の被害者である国民は、その罪の意識を戦争や愚かな政府のせいにしてしまえば良かったんだが、国はその責任をさっさと放棄して、苦しむ国民の心のケアに時間や税金を割こうとはしなかった。すべてを多いかすくことで国の恥部を失くそうとした。しかし国民は騙されなかった。おいらは今も毒ガス製造被害により長年病気と闘う人が、同時にその製造した毒ガスで亡くなった人たちに責任を感じている日本人の真心は美しいと思うんだ。
国なんて幻想は別に美しくなくてもいい。そこに住む人の心が美しければいいんじゃないかと思う。政府に代わり、毒ガス被害を受けた中国の村に謝罪に訪れた国民に対して、国は救済もしていない。こんな出鱈目な国はないし、こんな国民を愚弄する国家もないと思う。
平和憲法を呼ばれる憲法で守られたのは戦犯政治家や戦犯軍人じゃないのかなぁ。平和憲法をもってしても政府による国民の戦争犠牲者に対するフォローは得られていないのが現実だ。平和憲法をいちばん自分らの逃げ道にしてきた政治家が、その憲法を「日本を取り戻そう」という敵なし現在の情勢の中で、国民から(主権)日本を取り戻そうと叫んでる姿がみっともない。
敵は、中国ですか?ロシアですか?それとも韓国ですか?北朝鮮ですか?
世界共通の敵あるテロリストですか?テロの危険視を訴えるけど、こんなノンセキュリティのわが国でどうしてテロが起こらないんだろう?
誰から、どこのどんな国から「日本を取り戻すん」だろう。
安倍の言う美しい国とは、いつの時代のどの時点の日本だろう?
あんな下らない政治家の後継者がいないと言うのなら、日本の政治家はもういなくてもいいということなのか。
安倍さんなどは平成の錬金術師、竹中平蔵の操り人形ではないか。加計学園の、国家戦力特区が合法的に特定人物に特権が渡るような仕組みを作ったのは安倍さんじゃないよ。そんな頭脳明晰な人だと幻想を抱いてるバカな国民がいることが嘆かわしい。合法的に政策を進めるための仕組みを考えたのは竹中平蔵らのブレイン集団であって、頭の悪い安倍さんらが考え付くはずないじゃないか。
安倍さんは言い訳がましいただの理想に潰されたボンボンですよ。加計学園などのように国家ぐるみの犯罪が明らかになるのは成熟した国家として恥ずべきことだから、逆に国家と法律に守られて大罪を免れているのも安倍さんなんだよね。田中角栄さんは公私の弁えが出来ていた。あれだけの権力者が検察にに圧力をかけられなかったわけではないだろう。しかし現実にはその権力を私物化して、ロッキード事件を闇に葬り去りはしなかった。
安倍さんに正義がないのは火を見るよりも明らかである。官僚や検察警察を操り、自衛隊の最高指揮官としての責任も大臣に押し付けるような悪辣な宰相なんだよ・・・。とてもこのに国に相応しい人物ではないことを、総理自らが証明してる。
何でか、熊本地震が起こって熊本城の事ばかりを注視したけど、城が崩れたのは天災の地震のせいに出来たけど、阿蘇神社が崩壊したことになかなか理由を見つけられなかった。熊本城がなんとか城の品位を保った壊れ方をしたのと違い、神社は完全な倒壊だった。それこそこれは天罰なのかという気持ちになった。
後付で地元の人が「私らの身代わりになって貰えたんだと思う」という落としどころを見つけたけど、実際に神が住まう神社がものの見事にペシャンコに潰れたのは物凄いショックだった。本当に神はもう日本にはいないんじゃないのかと思った。
因みに被害を受けた阿蘇神社は明治政府から男爵の爵位を与えられた神社の一つであり、国家神道のシンブル的な象徴の一つでもあった。
おいらには今の日本の腐敗した政治に対する神々からのメッセージに思えた。日本の神はただ是であるだけで、戦争を好んだ武神はしない。にも拘わらず未だに神道に傾向することで右翼は思想を深めていく。あれは土地の霊性の怒りではないのかと思ったんだ・・・。
神は決して、今も国家神道を重んじる保守や右翼の動向を許していないのだと思う。死の穢れを神に纏わせたのは他でもない、陸海軍の将校であり、戦争に突き進むことをヨシとしたアホな政治家どもなのだから・・・。神が死の穢れや人間の穢れを嫌うのは天照大神以降の神々からではない。古代の神は死を忌み嫌っていた。
たぶん神を軽視し、人間の都合が良い存在に変えてしまったのは明治政府である。あれからずっと神は怒り続けてる。
それをもっと政治家は恐怖すべきだと思う。
自衛隊は確かに憲法では違法になる・・・けど、ここだけ改正ではなくて修正出来ないもんだろうか。憲法で認められたいない自衛隊員は差別を味わっているんだろうか?日本の軍隊は海外での派兵の活動行動を抑止される。平和憲法が護っているのは国民の一人でもある自衛隊員そのものでもあるんじゃないのかなぁ。
某作家の井沢さんの言う意味の”中学生でも分かる”という言い方自体が間違ってる気がするんだけど・・・。確かに自国防衛は今のままでは無理だけど、改憲して軍と明記したら在日米軍は日本から撤退してくれるのかな?そこのところを誰も語らずに、自国防衛を叫ぶから、戦争アレルギーや加害責任(本当は自国民に対する責任大)を持つ日本人は護憲派に廻るのではないかと思うけど。
韓国には軍があり徴兵制度もある。自国防衛が出来るはずなのに在韓米軍がいる。そして在韓米軍の許可なくして自由に行動できない。自国の政治判断が出来ないアメリカのひも付きの国を間近で見ていると、そもそも戦争さえ起こしてはいけないとある日本国憲法でいいんじゃないと思うけど。
それに安倍さんの言う「日本を取り戻そう」にしても、どこから何から取り戻すんだ。戦後レジュームからの脱却って聞こえはいいけど、アメリカの目をちょろまかして、貴族政治に戻したいと云うことでしょう。そうどこかから制圧されてる「日本」をどこかから取り戻すんじゃなくて、国民から主権を取り上げて政治家、資本家、軍隊のために「日本を(国民)から取り戻そう」と言ってる風にしか思えない。
自国防衛を歌うなら同時に米軍撤退の議論も同時に発議するべきなんじゃないのかなぁ。自国防衛のために自衛隊を自衛軍にして憲法の違法性を取り除きたい。だけど韓国と同じように自国防衛を自国で判断できない・・・その矛盾をどう解決するんだろう。
実際に本土防衛の要とされてきた迎撃ミサイルシステムのPAC3。しかしカバーできるのは半径20キロ。今、島根、広島などグアムにミサイルを発射する軌道上にある県に設置されたけど、県内どころか一つの市さえカバーできない。それで国民の安心安全は担保出来ないと思う。それは日本の憲法で軍隊を保持してないけないに縛られているからなのかなぁ。
イージスアショアの導入を決めたけど・・・北の脅威を叫び続ける安倍内閣が本気で有事を想定しているのならもっと早い段階で導入すべきでしょ?この5年間何をしていたのか問いたいぞ。とにかく安倍さんも「敵」が存在しないと何も出来ない。岩盤規制も敵なら、頻繁に日本海でミサイル実験をする北はもっと敵でしょう。
イージスアを導入しますって、昨日今日で設置できるはずもない。敵国として政治利用していた割に、北の良心を信じているのならバカとしか言いようがない。憲法を変えずとも出来ることをせずに、自衛隊を海外で危機に晒し、武器輸出まで可能にしているのに、脅威に対する防衛は出来てないってそもそも本末転倒してる。
要するに自衛隊のことを目くらましにして政府が改憲を訴えるのは、別の目的があるからとしか思えないよ。だって発射寸前に気象衛星を打ち上げるためのロケット発射をニュースにするけど、じゃあ海外から見て日本はそのロケット実験を北朝鮮のように怪しい実験だと海外から非難されているわけ?軍を保持してはいけない国がミサイルや戦闘機を所有しているってことが本当に世界的な大問題ならばもっともっと海外は日本をバッシングしてるんじゃないんだろうか。二重構造を内政問題に従っているのは政府のような気がするけどね。
で、某作家井沢さんも言うけど、明治時代の最初は平和ボケをしていた。しかし宗教革命である神仏分離を行ってから、西洋の原理主義の上っ面を掬ったような神道で社会基盤を作ろうとして実行に移した。軍事国家を目指し徴兵制を導入した。
太平安泰の260年前は戦に明け暮れ、血をダラダラ流し続けた陰惨な時代である戦国時代があった。260年間平和だったし、海外が特に侵攻してきた訳でもないのに軍事国家になろうとした。たぶん強い国が弱い国を支配する植民地支配がブームになっていたから、秀吉さえも失敗した朝鮮出兵を再開しただけのような気がするけど。
確かに日本には古来から「怨霊信仰」と「穢れ」の概念がある。追われた政敵は必ず天皇(国家)を祟る。だから死後に位を与え神として祀りあげることを条件に、怨霊を支配し神として働かせた。でもそれは千年よりも前の貴族社会の信仰であって、必ずしも怨霊として慰霊した訳でもないし、いつの間にか英雄すら神となる時代が来てる。貴族が穢れを嫌い、警察機能を放棄したから武士が武力でこの国を支配したって言うけどさ。天皇の存在自体が怨霊な訳だよね。菅原道真や平将門は別の霊にしても、だいたい怨霊となったのは天皇家の血筋なんだ。天皇家を滅ぼせば祟られる。そう信じられてきたから江戸末期まで天皇家は続いていたけど、どうして家康が天皇家を滅ぼさなかったのかだけは疑問である。
万世一系が尊ばれていた訳でもないだろうし、天皇家を頂点に徳川政治が行われていたとは思えない。もし天皇家に武家が恐れる祟り性がなければ滅ぼしていたと思うんだよね。江戸時代に天子様の存在を江戸町民が知る由もないのである。武家社会が恐れたのは天皇家の祟る性質のみであろう。それが権威をとなり時の為政者に生かされていただけの一族と考えるべきじゃないのかと。
戦でばんばん人を殺した戦国武将の中には、そんな残虐性よりも庇護しなければ自身一族を祟る天皇家の血筋は怖かっただろうし、天皇家の血筋を身内に取り込んだのは、祟る一族に参加して権威を上げようとしたからじゃないのかと。それこそ怨霊信仰が伝説化された極みが天皇家なんだと思うけどなァ。
普通、国王(大王でも天皇でも呼び方はどうでもいいが、王様だよね)の義務と言えば国民を養うことだ。もし国民を養わずに劣勢を敷いた王様や王朝は滅ぼされる。日本の王制は世界に類をみないほど異質だと思う。何故なら国民が天皇家を養っていると言った要素が強いからである。
かつて大王と認めた中国は何度も滅びと再生を繰り返しているから、ずっと中国が日本王朝を天皇家が統治する国として認めた訳ではあるまい。早い段階から中国に貢物を献するのを辞めて属国支配からも脱却してる。海外の大国が認めたから日本は天皇家の所有する国だったんだろうか。あくまで内政的に”かつての支配者統治者である天皇家”にその在位を与えていたにすぎないと思うけどなァ・・・。だって京都ではいざ知らず、江戸に公家の権力が届いていたとは思えないんだよね。
まあ公家にしても”祟る性質”を利用したんだと思う。天皇の権威が記紀神話に裏打ちされたように、公家は天皇家との姻戚関係があったから権威が移譲された訳だし、その権威の移譲を目的に、徳川家も天皇家の血筋を欲したんだから・・・。もし徳川家康がもう少し生きていたら、天皇家を滅ぼしていたんじゃないかと思う。殺さずとも乗っ取って次の祟り神になる道を選んだかも知れない。
神は死の穢れを嫌うから、天皇家や公家が武力行使を武士に譲り、やがて武士も死の穢れを嫌うようになって、罪人を処刑する際には浪人を使用するようになったと言うのは言い過ぎじゃないかなぁ。誰だって権力を持てば自身の手を汚して殺傷行為に出ないんじゃないのかなぁ。がしがしに仏教の理念が浸透している訳だしね。穢れを恐れたと云うよりも殺生をし極楽浄土へいけないことが武家から与奪権を奪っていったんじゃないかと思うけど。
某井沢さんは明治発案の天皇家のルールを古代にまで用いて語ろうとするけど、いったん正当性を失っていた祟り神の性質を天皇家に与えて、新ルール作りをしたのが長州藩が代表した明治新政府なのではないかと思う。天皇のために兵隊が死なないなら、英霊は神にはなれないんだ。少なくとも明治政府は記紀神話の神(天皇家を含む)と天皇の臣下のみ神として祀ることを許可してて、八百万の神々を信仰対象とするのは禁じている。天皇のために死ねば「怨霊」となり、その御霊を祀れば「神」となる新しい神道のルールを作った。明確に神を信ずることはどういうことで、どういう教えの元に神道が存続していたのか、全く教義がないのである。記紀神話は神が是であることは書き記しているが、殺生を奨励しているわけでも否定している訳でもない。
実際に神道にはないもないのだ。神道とはその宗教儀礼にこそ意味があるだけで、神道を信じることで平和や幸福は約束されないし、死後の救済も与えられてはいない。英霊制度はキリス教の免罪符に似せてはいるが、天皇のために戦い死んだとしても天国に召されるわけではないし、死後の救済が確約されている訳でもない。靖国という神道でいうところの戦死した者だけが召される極楽などの定義は神話でも想定はされていない。だから明治天皇と新政府が勝手に創出した神道世界の作り事でしかない。長い日本の歴史のなかで「靖国」という死者の国を批准したことなど一度もない。神道には明確な死生観はないし、天国に類似するのは常世であり、黄泉である。人間は肉体が腐っても滅びても魂として普遍なのである。そして神にも寿命がなく死ぬことはない。
国家神道と呼ばれる約80年間の神道の理念は、古代からの日本の風土慣習を全く無視したもので、神道と呼べるのかも疑問である。それは政治が軍隊の重要性を歌うためのプロガバンダに過ぎなかったんだと思うし、その思想が頂点に達し、国民が戦争に熱狂し玉砕一緒になったのは軍の邪な思想信条だったんではないかと思う。あくまで最初は戦死した国民の尊い生き方をした奨励するたに設けられた勲章みたいな肩書が「英霊」だったわけで、神を新しく作り出すことが目的ではなかったと思う。名もなく粗末に扱われてきた国民の犠牲を評価するものであったはずだ。なのに大戦中の「英霊」は潔いよい死に様を良い国民の見本とするために利用された。英霊になることは国民の名誉されたからである。
陸海軍が信じる、自分たちに絶体的に勝利をもたらす神を信仰するために・・・。ちなみにその神とは誰の事だろう。本当に神道を理解し、人の穢れを何よりも嫌うはずの神の儀式をなぜ死体が転がる戦場で祝詞を唱え戦勝祈願などが出来るんだろう。陸海軍が信奉した神が穢れの概念を持つ神とは思えないんだよね。人間の死の穢れを推奨する神など有史以来、日本には一柱の神もいない。そんな神とは鬼である。命を奪う神は神話には登場しない。
自分たちを鼓舞し勝利へと導く神など存在しない。あの神道こそ作り事であって、英霊とは戦争被害者であると思う。少なくとも今は神の名を与えられてはいるが、おいらはどうしてもその悪列な軍の信奉した思想信条が元になった宗教としての国家神道はただの邪教に思うんだな。英霊は神とならずとも良かったんだと思うんだ。死んだ者はすべて神となるなんてことは神話にも書かれていない。軍のバカどもは日本神話がギリシャ神話や北欧神話と類似することに気づかずに、聖書のソレと同じようなものだと誤認してしまったのが最初の間違い。神話はあくまでも神話で多神教の世界観であり、西洋は一神教を基礎に持つ国家の集合体である。神話とは抒情詩であり物語を逸脱してはいけないのであるが、その違いに気づけなかった。神話の死者の国は、天国や極楽浄土ではない。
せっかく神社神道はGHQの神社令により解体され、一宗教としての確立を許されたのに布教することはなかった。それまで熱狂的に国家神道の信者であった国民への求心力が一気に消滅してしまうとは考えんかったんだと思う。それは法律として定められてきたから従っていたにすぎず、国民は救済を求めて神道を信仰していたわけではなかったからである。だから頑なに宗教としての神社神道は衰えた。布教と言う宗教における根底がなかったせいだ。それはただの法律であったから、人は救いを求めて仏教を信仰するようになる。
神社神道と言うべきか日本では急速に廃神社が増えている。しかし同時に廃寺も増えている。それは戦後に家族制度が崩壊したことにもよるが、日本に限らず世界的に宗教の熱心な信者は減っている。これだけの情報社会となり、宗教の理念が稚拙になったからだと思う。宗教の多くは科学や人類の英知を否定し、どうしても矛盾を生んでしまうせいだ。
しかしどこの国の歴史史観にも当時の歴史背景として宗教を用いて語るのに、日本の歴史はある時期から徹底して当時の宗教観を無視して歴史上の人物を語るようになっている。過去の天皇が仏教の熱心な信者であったことは黙殺されているし、戦国武将が何を信仰してきたか、とても曖昧にしている。当時の仏教は様々な宗派を網羅する学問の場でもあるから、何百年もその寺が一つの宗派の仏教を信仰してきたかは疑問なのである。御寺と呼ばれる天皇家の菩提寺でもある泉涌寺はいまでそこ真言宗の寺であるが、いろんな仏教の宗派も同時に学んでいた。もちろん神道もその中の一つである。
ちゃんと宗教の歴史を語らないと、なかなか日本の歴史や習俗は見えてこない。なのに今は語ることさえタブーであるし、浄土真宗の古刹は浄土真宗のみで何百年の続けられたと誤認されている。日本には宗教観がないと言われて久しく経つが、誰も過去の宗教観に言及しないからだと思う。歴史家は宗教を廃絶し、歴史を語る。かろうじてキリシタン大名は出てくるが、当時はキリスト教も仏教の宗派の一つのような括り方をされてきたせいで、大名が信仰する”宗教のようなもの”として受け入れやれている。死後の救済がある点などキリスト教と類似点が多いのは神道ではなく、本来は仏法なのである。ただキリスト教には殉死という、仏教では理解しにくい教義があったので、のちに禁止されてしまうけど、殉死と切腹は違う概念として処理されてしまうのだ。武士道の忠義は精神論であって宗教性が強いものではなかったからだろう。
で、神道に話を戻すが、安倍さんや右派もしくは保守系の指示菩提である極右団体日本会議には伊勢神宮、神社本庁の神主や理事らが名を連ねている。それは何故かと言えば戦前まで神官は国家公務員であり国に仕え、権力を有していたし、世襲制が高い大神社や浄土真宗など一部の寺社の由緒ある家系には男爵の位が与えられた貴族の一員であるからだ。だから当然、安倍さんら側の日本を(国民主権から)取り返そうと言うプロガバンダは、貴族政治を取り返そうという意味なので、元男爵の一員として貴族だった大神社はその職位や特権権力を取り戻したいのである。今更爵位を取り戻してもそれが神道の布教活動に有利になるとは思えないが、国の保護下に逃げ込んでまた甘い汁を吸おう言うという性格が見え隠れしている。
伊勢神宮や出雲大社は国と言うパトロンがいなくても十分に宗教として成り立つと思うけど、国や政治の一つに昔のように融合されたいんだろうなァ・・・。長い日本の歴史の中で極めて神官の地位は低かった。神官の地位が保証されていたのはそれこそ国家神道の80年間しかないのである。歴史的にも常に仏教の下に置かれてきたのが、いちばん長い歴史を持つとされる神道なのである。神道はいつの間にか渡来の仏教に、思想である陰陽道にその地位を奪われ、骨抜きにされている。今でこそ20年に一度遷宮が行われている伊勢神宮であるが、時の為政者の信仰や天皇家貴族のパトロンを失ったときは200年近く放置されていた。用するに遷宮もなく社殿はボロボロだった。今でこそ白木作りに拘っているが、昔の社殿は朱塗りであった。朱塗りにするのは防腐処置である。だから神道が一度も途切れずに篤い信仰を天皇家や国民から受けていたと言うのはただの幻想であるし、明治時代に内宮の祭神は天照大神とされてきたが、それまでご祀神であった伊勢の大神と天照大神は別神であるのではないかと言われてる。天照大神をご祭神として祀っていたのは伊勢の一宮である伊雑宮と言われてるんだよ。
神道を調べれば調べるほど、江戸時代と明治時代で、その宗教性や神聖な部分が異なるんだなァ。吉田神道や伊勢神宮のように早い段階から仏教要素を取り除いた神道の教派は数少なかったんだよ。なのに恒久的に同じ形態だと信じてる日本人は国民の数ほどに多い。
やっぱり神道には天皇制や戦争や軍隊の思想が絡んでしまうから、考えることや疑うことさえ未だにタブーなんだと思う。歴史的に神様が人間の願いを訊くような身近な存在になったのは戦後からと考えるべきなんだけど。
それでも戦争犠牲者の慰霊施設である靖国神社が国の管轄下保護下に入ることを切望する気持ちはなんとなくわかるんだ。神として合祀した国民をただの霊性として還俗させるのはとても難しいと思うからだ。だから神社の肩書きを返上して、靖国戦没者慰霊施設(仮)として宗教や神性をともわんない、半ば憲法に記載されない違法軍隊として内外から二重構造になっている自衛隊のような”存在”になればいいんじゃなかと思うんだよね。日本人ですらその歴史背景や成り立ちを理解出来ないのであるから、靖国神社だけは海外からもその役割が分からないと思うんだよ。神道の神としての英霊信仰よりも、英霊と言う神性を伴った国民戦死者を慰霊すればいいんじゃないのかな?民間の戦争犠牲者も合祀する形にしてね。
その宗教的な理念の共有で歴史ある伊勢神宮や神仏習合時代からなる他の神社と同等に扱うのがすでに無理なんだよね。いまはそれに右翼の聖地になっている訳だしね。しかし陸海軍の理想と理念はそれを異なるとすることに異論しかないと思うけど。。
歴史認識で観ても、伊勢神宮を頂点とする神社神道(国家神道)と靖国神社を同じ宗教思想理念に基づき同列に処理することは神道自体を否定してしまうことになると思う。差異が多すぎるんだ。靖国神社がその独自性を担保するためにはほかの神社神道と一線を駕す必然性があると思うんだよ・・・。同じ風に装うからタブーになるし、いつまでも戦死者の慰霊から遠い存在になってしまう・・・。
まあ神社が貴族社会や貴族政治に帰属することになれば国民は違和感しか感じないだろうなぁ。いまも伊勢、出雲の宮司家はある意味神格化しているのに、そこに法的な敬意づけや根拠を与えなくてもいいと思う。廃寺も廃神社も宗教の限界や、仏教の先祖供養の仕組みが破たんしたせいだろうし、信仰が損なわれたことは布教体制に問題があるのであって、先祖を粗末にしたらバチが当たるという教義自体が緩やかに崩壊していったんだと思うよ。先祖供養は国民の義務ではない。一般人が墓を持ち故人を供養するようになった歴史も明治からなので先祖供養の仏教の歴史もまた神社神道と同じく150年程度の歴史しかない。墓を持てるのは武家もしくは豪農の一部であって、一般国民はそういう権利や習俗さえもなかったとみるべきなのである。だから神道が国家神道から外れたから日本古来からの儀礼や信仰が失われたという論拠はそのまんま仏教にも当てはまるのだ。
すべては宗教を利用して社会制度作りをしようと企んだ明治新政府の神仏分離と言う宗教革命が悪政悪令であったと云うことなのである。ただその悪令の責任はすでに国側にはないと思うんだよね。天皇家を中心とした文化形態の中で必ずしも神道が占めていたウエイトや優先順位は低かったのだしね。厳密にいえば天皇家が国祭祀を永続して行っていたかとなると、それも不確かなことなのだろうしね。考えると避雷針も備えていない御殿に落雷が落ちて火事になることが、怨霊の祟りだという気持ちをもう現代人は理解できない。崇徳天皇を代表とする怨霊信仰も神道の理念の中では破たんしてるって知ってた?
神道では古い霊性の存在をそもそも認めていないし、墓や塚など一通り供養されている御霊は悪霊にならないとされてるんだから。明治天皇が讃岐の崇徳上皇の御霊を鎮める慰霊祭を行ったのは、明治政府による怨霊信仰の復古を政治的に主導したと考えるべきなんだよね。
怨霊信仰失くして英霊信仰もまたないと云うことになる。そこだけは切実に確信犯的に天皇の祟り神としての性格のアリバイ作りをしてるんだよね。だあから最終的に英霊=怨霊は怖いとなってしまう。怨霊信仰とはそれまでの自然崇拝と同じで、神として崇め奉るから、禍いや祟り(自然災害、疫病)がおの身に降りかかりませんようにと言ういう「護法」的な概念なんだよね。崇め祀れば安泰であるという安心感を得るための”儀礼”なのである。死生観を仏教に借りてきた神道から、そもそもその精神的価値観を分離しようとしたことに最初から無理があった。
実際においらは”英霊”さんが怖い。あんな悲惨で杜撰な作戦しか立てられない軍隊の、その指揮官を恨んで亡くなったのは事実だろうから。でもそんな罰を受けもせずに戦犯を逃れた軍将校らはたくさんいて、そういう人が畏れ崇めるための英霊制度に特に意味があるとは思えない。その無念がさぞ苦しかっただろうと思ってしまう多くの国民は極楽浄土でゆっくりと休んで欲しいと思っているんじゃなかろうか。靖国を肯定するには、一度神道を解体して、仏性を融合させないと理解不能になるんだよ。
ああよくわかんなくなっちゃった(笑)。
某井澤さんと同じ意見なのは歴史を語るときに宗教的な背景やアプローチを持ちいるべきだと云うことだけ。中学生でも理解できない二重構造や矛盾を抱えてる憲法や世俗、習俗慣習などなんでもかんでも肝要に受け止めて法に時々逆らってでも、魂の救済を願うのがおそらく日本人。陸海軍や政治家、資本家などの支配者らが戦死者の祟りを恐れて、作り上げた靖国信仰は国民にとっての安全装置にはなり得なかったと言うのが真実なのだろう。そういう支配層の罪悪感を補てんする思想であることが、なんだか物悲しい気持ちにさせる。国民が胸を張って戦死者の成仏を願える社会にして欲しい。感謝や謝意って言うのはある意味、供養とは違う概念だと思うんだよね。死んでくれてありがとうは言い過ぎだけど、私たちのために戦い戦死してくれてありがとうも、つい心に浮かぶと罪悪感が湧いてしまうんだよ・・・。
あれは悲惨で無意味な戦争だと思えるのが、国民の生命を守らずに、国体と言う概念を護らせようとした政治家、軍部の考え方が異質に思えてしまうからだ。近代憲法とは国民を国から守る法律が「主体なのに、何故に国を守るために主権を国家に献上しろと言う、古臭い憲法論になるのかが分からない。戦前の家族主義に戻しても、現代社会の歪みは埋められない。
不戦の誓いに代わる言葉があるはずである。ただ自衛隊を軍隊として認めないと自衛官を社会的に差別してるつもりは国民の側にはない。ヘンな話、平和軍でいんじゃないのかなぁ。国民の護りためだけに戦うような良い言い回しはないんだろうか。
しかし日本人はそもそも「国」を未だに信用していないんだな。単に戦争が出来るような状態に戻したり、憲法に軍隊を規定したら、必ず侵略戦争に打って出てしまうのではないかと日本の国体主義をどうしても疑ってしまう。個人個人は善人なのに人は集団になると思う少し変わった性善説に基づいているし、政治家や軍隊は必ず国民や国体を重んじるんじゃないかと邪推してしまう。それはかつての戦争の反省すべきは反省しようと勇気ある試みを実践すると必ず右翼思想が騒ぎ立てるからである。731部隊の非人道的な実験に、毒ガス製造に、そこに携わって人たちは自ら加担した責任を重んじながら、敗戦は非人道的な行為の限りを尽くした我が国は罰せられた、またはバチが当たったのだと日本的宗教原理が働いてしまうからと、未だに軍の悪意ある計画に加担した国民の一人一人の傷が癒えていないことを知ってるからだ。
それは本来国が負うべき責任であって、戦争加害者である政府の被害者である国民は、その罪の意識を戦争や愚かな政府のせいにしてしまえば良かったんだが、国はその責任をさっさと放棄して、苦しむ国民の心のケアに時間や税金を割こうとはしなかった。すべてを多いかすくことで国の恥部を失くそうとした。しかし国民は騙されなかった。おいらは今も毒ガス製造被害により長年病気と闘う人が、同時にその製造した毒ガスで亡くなった人たちに責任を感じている日本人の真心は美しいと思うんだ。
国なんて幻想は別に美しくなくてもいい。そこに住む人の心が美しければいいんじゃないかと思う。政府に代わり、毒ガス被害を受けた中国の村に謝罪に訪れた国民に対して、国は救済もしていない。こんな出鱈目な国はないし、こんな国民を愚弄する国家もないと思う。
平和憲法を呼ばれる憲法で守られたのは戦犯政治家や戦犯軍人じゃないのかなぁ。平和憲法をもってしても政府による国民の戦争犠牲者に対するフォローは得られていないのが現実だ。平和憲法をいちばん自分らの逃げ道にしてきた政治家が、その憲法を「日本を取り戻そう」という敵なし現在の情勢の中で、国民から(主権)日本を取り戻そうと叫んでる姿がみっともない。
敵は、中国ですか?ロシアですか?それとも韓国ですか?北朝鮮ですか?
世界共通の敵あるテロリストですか?テロの危険視を訴えるけど、こんなノンセキュリティのわが国でどうしてテロが起こらないんだろう?
誰から、どこのどんな国から「日本を取り戻すん」だろう。
安倍の言う美しい国とは、いつの時代のどの時点の日本だろう?
あんな下らない政治家の後継者がいないと言うのなら、日本の政治家はもういなくてもいいということなのか。
安倍さんなどは平成の錬金術師、竹中平蔵の操り人形ではないか。加計学園の、国家戦力特区が合法的に特定人物に特権が渡るような仕組みを作ったのは安倍さんじゃないよ。そんな頭脳明晰な人だと幻想を抱いてるバカな国民がいることが嘆かわしい。合法的に政策を進めるための仕組みを考えたのは竹中平蔵らのブレイン集団であって、頭の悪い安倍さんらが考え付くはずないじゃないか。
安倍さんは言い訳がましいただの理想に潰されたボンボンですよ。加計学園などのように国家ぐるみの犯罪が明らかになるのは成熟した国家として恥ずべきことだから、逆に国家と法律に守られて大罪を免れているのも安倍さんなんだよね。田中角栄さんは公私の弁えが出来ていた。あれだけの権力者が検察にに圧力をかけられなかったわけではないだろう。しかし現実にはその権力を私物化して、ロッキード事件を闇に葬り去りはしなかった。
安倍さんに正義がないのは火を見るよりも明らかである。官僚や検察警察を操り、自衛隊の最高指揮官としての責任も大臣に押し付けるような悪辣な宰相なんだよ・・・。とてもこのに国に相応しい人物ではないことを、総理自らが証明してる。
何でか、熊本地震が起こって熊本城の事ばかりを注視したけど、城が崩れたのは天災の地震のせいに出来たけど、阿蘇神社が崩壊したことになかなか理由を見つけられなかった。熊本城がなんとか城の品位を保った壊れ方をしたのと違い、神社は完全な倒壊だった。それこそこれは天罰なのかという気持ちになった。
後付で地元の人が「私らの身代わりになって貰えたんだと思う」という落としどころを見つけたけど、実際に神が住まう神社がものの見事にペシャンコに潰れたのは物凄いショックだった。本当に神はもう日本にはいないんじゃないのかと思った。
因みに被害を受けた阿蘇神社は明治政府から男爵の爵位を与えられた神社の一つであり、国家神道のシンブル的な象徴の一つでもあった。
おいらには今の日本の腐敗した政治に対する神々からのメッセージに思えた。日本の神はただ是であるだけで、戦争を好んだ武神はしない。にも拘わらず未だに神道に傾向することで右翼は思想を深めていく。あれは土地の霊性の怒りではないのかと思ったんだ・・・。
神は決して、今も国家神道を重んじる保守や右翼の動向を許していないのだと思う。死の穢れを神に纏わせたのは他でもない、陸海軍の将校であり、戦争に突き進むことをヨシとしたアホな政治家どもなのだから・・・。神が死の穢れや人間の穢れを嫌うのは天照大神以降の神々からではない。古代の神は死を忌み嫌っていた。
たぶん神を軽視し、人間の都合が良い存在に変えてしまったのは明治政府である。あれからずっと神は怒り続けてる。
それをもっと政治家は恐怖すべきだと思う。
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