空に問う。

空に問うても果てがない

普通に・・・・考えると答えは目の前にあるもんだ!

2014-11-25 00:31:07 | 日記
今日は大田市の物部神社の例大祭「鎮魂祭」に行きました。毎年恒例のDRコパさんや角松敏生さんもいました。今年は祝日だったので通年よりも参拝客が多い。2時間前(午後8時から祭祀開始)に到着するも席確保できず・・・。20年目にして初お立ちです笑。

まあ、お礼(お詫びかな)をしに参りましたので、今までとはなんだか違う気持ちになりました。

それにしても、今年のスピ率は半端なく高かった。

『日御碕神社のスサノオに近づくと、不思議な圧を感じるんです』とか『空気感半端ない神社ですね』とか・・・・・。

石見神楽の「ヤマタノオロチ」見ながら、あの女性は”クシナダ(姫)かなぁ?”。ん、あれはあなたを呼んだスサノオノミコトだよ??それに大きく言えばこの神社さんはあんまりスサノオ関係ないけど・・・。でも視えるんだろうな?感じるんだろうなぁ?

おいらもあんな風に見えるのかと思うと少しゾッとした。でも目くそ鼻くそを笑うみたいな感じでしょうね。こんだけスピがたくさんいると、境内の空気感半端なくて気持ち悪かったですね。日ごろ参る時の神社の聖域っぽさは今日は微塵もありませんでした。社務所のそばに喫煙コーナーがあるんですが、そこがいちばん清浄かも知れない。あるいは手水舎の男前の竜神さまがいるところ・・・。喫煙コーナーからは戦艦石見の船首に飾られていた物部神社のご祀神”ウマシマジノミコト”のブロンズ像の背中が見えます。今日も祭祀の間はここでたばこを吸っていようかと思ったくらい・・・・。

でもやっぱり神さんいないなぁ?ここ数年は、いるのにいない。なんて表現したらいいのか、わからないけど、いつ行っても不在感がする。

以前は、キリっとした荘厳さで、威圧されるくらいの空気感(神気っていうとスピみたいだから)に満ちていたから”来るモノ”を拒んでた。だから、”あるのにない”みたいな神域だった気がする。今は普通に誰でも入れる憩いの場みたいになった。単純に「受け入れてもらえたんだ」って気持ちにはならない。きっと嫌われているから・・・・・。

今年の春先に宮司さんにすごく親切にしていただいた。心から心配していただいた。

なのに、なのに、その暖かいご厚意の期待に添えないくらい状況が悪化した。毎日毎日精進に務めた。けれど心と体はバラバラになっていく。引きちぎられそうなくらい心が痛くて、些細なことで涙が出た。自分の存在や魂の軽さに情けなくなった。

ふと思った。神様の神威に応えられない自分がいる。それが悲しいって。期待に応えられない自分がいる。それが辛いって。どうしてかわからないけど、いろんな思いがこみ上げてきて、死なないでいることに精一杯になった。家族もおかしな行動をとり始めるし、榊をあげれば3日で枯れ、神棚が湿気て結露したりする・・・・。母は急に思い立ったように寺に通いだし(まあ、これは正解かな)熱心な信者もどきになるし、父は情緒不安定になった。いちばん落ち込みたいはずのおいらは毎日異様な両親を説得しなだめすかすことばかり。家にいても地獄、会社にいても地獄だった・・・・。

おいらもあれほど熱心に神様に祈ったことはない。その頃はまだ祝詞が作文だとか知らない頃で、大祓の祝詞も上げられなかったから、精一杯祈った。祈り続けた。でも家に帰ると死んだ魚みたいな目をした両親がいる。いったい何日取り留めもない鬩ぎを味わったことだろう。

呪いさんがどんだけの力で押してきたのかは想像しか出来ないけど、それを何とか押しとどめていただいているとは思えなかったし、それは今も思っていない。むしろ二宮神社である多鳩神社や三宮である大祭天岩門彦神社に参りだしてからの方が状況は改善した。気持ちを取り戻せた。

悔しかった。何十年も信じ続けた神様が、おいらの近くにはおられないことが・・・・。その期待に応えられないことが、ただ悔しかった。今思えばあがかないで速攻で仕事を辞めるようにしろってお告げだったのかも知れないし、むしろそうしていれば救われたとも思う。でも悲しきサラリーマンであるおいらはきっちり閉店まで責任を全うすることを選んだ。逃げ出すのは固辞した。

でも相手には何も返せなかった。ただおいらがボロボロのサンドバッグみたいに打ち捨てられただけだった。すごい神様だと思う。思うからこそ、相手にも相応のバチが下されるものと思っていた。相手も神職。だから手を抜いているのだと思った。疑心暗鬼が生じた。おいらが神の期待に応えられない(って気持ちを強く持つこと)のと同様に、おいらの期待(氏素性のしれた相手)に神が応える気もないんだと・・・・・・・・。4月の誕生日以前はあれほど胸に充満していた暖かな気持ちが、それ以降滅した。寒気だけがした。おいらを支えていたつっかい棒を足先でちょこんと弾かれるみたいにバランスが崩れた。これは閉店する最後の最後まで起こり続けた。8月16日から1か月に渡り、浜田市にある神社に毎朝参拝した。それでも期待に応えられない自分を恥じたり、期待に応えてくれない神を不信に思うことはなかった。

「鎮魂祭ってなんの祭なんだ?」と訊く参拝者の人がいたが、簡単に言えば「心と体をきつく繋ぎ直す」お祭りである。こういう人やスピ系で溢れる境内に、やっぱり神の息吹は感じることが出来なかった。何故か、しーーーーーーーんとしてた。おいらが感じることが出来なくなったのだろうけど、泣くことはない。こんなおいらでもちゃんと迎えてくださる神社へ詣でれば何故か涙があふれて止まらなくなる。どこかで期待していたけど、当然泣くことは出来なかった。あの激しいまでの清浄さをついぞや感じることがもう出来ないんだろう。それくらいにおいらは神様に背いたし、神様にも愛されなかった。片思いしてるような不憫さをずっと感じていた。

せめてスピ系の人らみたいに、盲目的にご利益やご神徳を信じることが出来れば、感じることが出来れば、取り戻せるのかも知れないけど、きっともうご縁もないのだろうと静かに思った。30年にわたる禍根の中にも組み敷かれた神社だったこと。もしあの時に、この神社に訪れていなければ、そもそも過去の呪詛や因縁が再発しなかっただろうことは事実なのだ。16年も勤めあげてきた仕事をさも簡単に辞めてしまえたのは、おいら側にそういう事情があったからだ。信じたものに裏切られた気持ちにずっと苛まれていたし、考えてみればただの一度も願いを聞き届けて貰えなかった事実が、おいらを打ちのめしたのだ。去年の春先は呪いさんに勝てると思った。出来れば引き分けると思った。でも完敗した。負けたのはおいらであって神ではない。神はただの一度もおいらを救ってはくれなかった。だからもう例大祭に行くのもきっと今年が最後だ。これを確かめに体調不良で熱があったが出掛けた。でもやっぱり期待通りに、もうおいらには神気を感じることは出来なった。それは家族も同様みたいだった。意味のなく交わした約束事を、ただ律儀に果たすために・・・・。

それでも気が向けばお詣りはするだろう。ほんの少しでも願い(ほぼ叶わなかった笑)が叶ったのだし、お礼とお詫びを兼ねて・・・・。

祈願の申込書の下に祈願する内容を書く欄があったけど、「お礼」とだけ書いた。総代のおじちゃん等はあれこそ祈願内容を書くように進めていたが、おいらの「お礼」には無反応だった。祈願に来たのではない。最後のお礼に来ただけだ。

何も叶えては下さらなかったけど魂は今も身体と一緒にここにあって生きている。それを揺さぶり続ける「何か」はきっともう与えられはしないだろう。神はいち早くおいらの過ちに気が付いたから幾度となくおいらを辞職させようとした。辞めることを常に促すようだった。それを無視して商売繁盛だの会社の祓いをして貰った。傷が浅いうちに早く辞するように本当にあからさまで解かり易い合図や環境の変化を教えていた。それをずっと無視していたのだから虫のいい話である。だから容赦なく、引きはがされた。・・・・・でも相も変わらずに禍根に引きずられてる。

呪った方が悪いのか、呪われた方が悪いのか、そんな単純なロジックからも今はまだ抜け出せていない。だって向こうには何の返しも返っていないし、むしろ増々強大になり、すべてを飲み込もうとしてる。それでも神が何もしないのはアンフェアだと「思って」しまったんだ。

まあ人間ごときに神の何たるかなどわかるはずもないし、もう理解したいとも思わない。呪いを抜けるには神を否定しないと始まらないことを薄々感じてはいた。神と神は確かに争わない。だって領域や縄張りを冒すことはない。それに向こうは小さなお社でも宮司なんだ。おいらは一般人。すでにこの段階で神VS神の争いになるはずもない。おいらの仕事を「辞めさせたい」気持ちはともに同じだったから。奪うと促すの差異ではあるが、根本は同じだったのだから。どんな選択肢をとっても、どちらの神も、おいらが辞職することを望んでいたのだから、最初から祓いでも祈願でも、それはすべて前職の立場にある以上は同じだったのだから。辞めることだけが唯一の手立てのはずなのに逃げ出さず闘いを挑んでしまった。それは両方の神とも同じ決断を下していたのだから、立ち向かおうとするたびに状況が悪化するのは目に見えていたことだ。

おいらはもう未来をみていたい。ちゃんと繋がりを少しでも感じることが出来る禍根に存在しない神社も神様もある。ふるさとの大切な神様なんだから、おいらなりに奉じていこうと思っている。

正直、今日も辛いばっかりだった。おいらにだけわかる印ももういただくことはない。感度はいいアンテナを持っていても受信機は壊れていたみたいだ。それはただ仕事が楽しかったから続けただけで、おいらの過ちを正そうとして通常起こりえない状況まで作り上げてくれて何度も心を挫かせて前職を辞めることだけを促して貰ったけど、やっぱりそれでも仕事自体は楽しかったし、おいらはおいらで通常ありえない状況をそのたびに覆してきた。それは神に対する背信行為だと今はようやく気が付いた・・・・・・。けど、合わないものはしょうがない。神様に捨てられたから言うのじゃないけれど、おいらが神様を忘れないと禍根も悲しい過去ももう消えないんだ。きっとおいらが忘れても、足が遠のいても神さんは怒ったりしないだろう。むしろ過ちにようやく気が付いて、何もなくなって、年老いしてしまったおいらのことなど無関係に神の神意は16年もかかって届いたのだから。でも人間は悠久の時を生きることは出来ないぞって逆に教えてあげたいな。一方的すぎますって笑。もう無駄な御祈願貧乏も今年で最後!大好きな仕事を辞めるためだけにお賽銭上げてきたわけじゃありませんよ笑。高位な存在なんだから、軒並に他の神を従わせて、すごい力で薙ぎ払った結果、おいらは絶望的なくらい惨めで情けない人間に逆戻りしました。

崇敬するあまりに神の神意に気付かぬとは大馬鹿でした。だから地元の神さんや人から神に上げられた一同がこぞっておいらを慰めてくれていたわけです。呪いさんに何も返らなかったのはそういうことだったんですね。「辞めた方がヨシ」も「辞めさせるがヨシ」も同じ事だから。こういう時にいちばん頼ってはいけない神さまの一柱に頼ってしまっていたわけなんですね。他の神さま申し訳ないです。ご無理をさせました。本当に申し訳ないです。叶うはずもない願いをお願いしておりました・・・・・。

おいらにはご縁はありませんでしたが、物部神社はすこぶる神気の高い気が澄んだ聖域です。皆さんも出かけてみてくださいね。おいらはおいら自身においての祈願は叶うものではありませんでしたが、でもこの2年間に紹介して祈願していただいた人らは問題も解決し、すこぶる良い調子になっています。

おいらだけが例外だってことの意味にもう少し早く気が付いていたら、もしかするとウマシマジノミコトが生涯の唯一の神様だったのかも知れません。

てか、十分にスピですね笑。だから無駄にスピ力にハマってる若い人らを見たから気の毒に思っただけです。願いを間違えずに、解釈を間違えずに、己を導く存在を見つけて欲しいと思いました。

お礼とお詫びには顔を出しますが、それくらいは許してくださいますようにお願い申し上げます、です。

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