空に問う。

空に問うても果てがない

やっぱり神などいない

2018-04-27 14:54:44 | 日記
やっぱり神などいない。嫌なところピンポイントでついてくる。

思うに、相当ヤバ目の村の連中に呪われてきたんだろうな。

実際に被害者は沢山いる。

けど一部の人も気が付いていない。

まあ呪いや呪詛で人生が壊されるなど、想像もできないからだろう。運が尽きた。それで大概は説明ができるから。

想像するに、祖霊社とは幕末の神仏分離で寺の持仏堂を排して建てられたものであり、社家(出雲国造など)には古くからあるらしいが、一般的にはそう古い宗教儀礼ではない。そして祖霊社に先祖霊を合祀したようである。どちらと言えば招魂社の理念に近いんだろう。

おいらもたくさんの神社巡りをしてきたが、ここ以外は出雲大社でしか見かけたことはないし、例えば出雲大社でも、教派神道である出雲大社教の敷地内にあるから、それとも性質的には違うのだろう。

人にそれぞれに与えられる運や徳には限界がある。金なら貸し借りも出来るが、運や徳は貸し借りは出来ない。だからそれを上積みするために修行や奉仕をするのだけれども、それで得られるのは運ではなくて徳なのである。徳とは人間の尊厳を高める上書きアイテムではあるが、徳そのものが財貨に変わりうることはない。

例えば極端な話ではあるが、強運を持つ者がいて目障りならば殺してしまえばいい。それは相手から命も奪うが運も奪い去る。徳がある人物ならば徳そのものは奪われない。

それを合理的に奪い去ることが出来れば人は罪を犯さずとも済む。実際に戦前までは他人を呪う行為そのものは違法とされてきた。今日では科学的ではないと脅迫罪に問われる微罪でしかないが、以前は重罪であった。

仮にある程度は効力があったからこそ禁じられたのではないのだろうか?今でも招魂神社である靖国神社で招魂祭が堂々と行われているが、招魂術なる儀式を明治政府は法律を用いて禁じている。死者を冒涜する行為として不敬としたのか、効力を齎すモノであったから禁じたのかは想像の域を超えないけれど、それを犯罪行為として認知してる証拠である。

魂振りとは神道で現在も行われる生者への回復法であるが、招魂術は死者を操るための儀式であり、技法である。かつて多くの国民が英霊が国を守ってくださるのだと信じていた時期がある。でも英霊が守護神となるには鬼にならずには完成しない。それが招魂術である。

招魂術なるものが日本に渡来したのは陰陽道が伝えられた時だと言われる。それまでは物部神道の鎮魂術が用いられているが、その死者をも蘇らせる力は生者にのみ行われた。天皇の治世を強くする事は延命をすることであったからだ。

陰陽道とは中国の民間習俗である道教と陰陽五行説が合わさったものだが、洗練あれたのは朝鮮半島であり、呪術的な変化が加えられている。陰陽道は朝廷に採用(あくまで天文学、暦の作成などが目的)されるが、大和朝廷も招魂術を禁じている。

朱子学は儒教を体系化したものであるが、そこには当然民間習俗である道教の理念も含まれている。

朱子学を統治に利用したのが徳川家康であり徳川幕府である。武家諸法度などはまんま朱子学の理念である。

徳川統治下では天皇制はあくまで形骸的なものとされてきた。なぜならば武士が恐れる存在こそ祟る一族である皇族や貴族であるからだ。だから一般的な農民はその存在すら認知していないのが現実である。

その大陸的な思想である朱子学に反対するものが起こしたのが、古事記をベースにした神道を体系化した国学である。今では正史とされる古事記は江戸中期まで偽書とされていたらしいが、そもそも正史とされた日本書紀の存在も広く知らされてきたかは疑問であるところ。

考えてみると似て非なる書物は無数に存在し、その都度体制に不都合なものは排除された来た。本来たくさん存在するはずの「風土記」なる地域の歴史を記した書物さえ不敬として焼却されている。

何故に古事記が下敷きにされたのか・・・。その変節はおいらには分からないが、いまだに古事記に拘る文化人や思想などが乱れていることを思うと、日本の現存する魔道書もしくは呪いの書と言っていいのではないかと思う。朝廷が古事記を日本書記に写し直す必要を感じたかは、それこそ想像だが、秘匿せねばならない箇所があったからではないかと思うんだ。

で、招魂社戻るが、あれほど幕末の志士たるものらが熱狂した国学ではなく、何故に一般的に朝鮮朱子学と言われる教義を用いて、死者の斎場でしかない招魂社を下関で作ったのかという点。国学の下である古事記や神道の儀礼。少なくとも古事記は神道のバイブルではない。なぜかと言えば神話を描いただけであり、死後の救済が記されていないからである。黄泉は死者の国であり決して人間は蘇り再生はしない。人は永遠に死んだままである。それでは少なくとも二世を願う宗教として広く信仰の対象となるはずがない。なりえるはずがないのだ。

だから明治政府は真剣に黄泉の神であるスサノオノミコトが黄泉で人間を救済する神として祀ることを考えた。そこで参考とされたのが国学の中で極めて異彩を放つた平田篤胤の神学である。平田神学では黄泉の神は人間を救済すると説いた。妻を亡くした篤胤の古事記ファンタジーなのだが、これに下級武士は熱狂したそうである。幕府側の統治システムの寺に対するあくなき抵抗なのだろうが。

しかし伊勢神道派の反発もあり、民衆に生き神として尊ばれた出雲神道派は排除された。天子様よりも人気があったからかも知れない。

幕末や明治初頭の廃仏毀釈が盛んに行われた地区は坊主どもが権力を行使する差別が蔓延していたのではないかと考えられる。そうでなければ仏像や本堂を焼き討ちする理由がない。神仏が集合した宗教的な概念は何百年も続いてきたのである。だからそこには仏教に対する復讐心しかないはずだ。

伊勢神宮は早い段階で仏教要素を廃絶したとされ、決して古代から神のみを祀っていたわけではない。それは出雲大社にしてもそうだし吉田神社にしてもまた然りである。

しかし神道のみを信仰対象とする一族や民衆がまったく存在しないとも言えない。現代社会ではないから、都の文化が伝わる速度は緩やかだと思う。閉鎖的な山中のならどうだろう。天皇を神として仰ぎ、南北朝時代の武人がこしらえたならどうだろう。閉鎖してしまったらどうだろうか。

仏よりも神に注視した宗教形態は他から見れば異端である。まあその村は江戸期の国学に心酔する藩主が日本で最初の神仏分離を行った地区でもある。純粋培養された神道が更に洗練された可能性はないだろうか?その村人からすればまさに神の天啓である。

おかしな話だが、おいらのいう呪う神主の家系は何やら、まつろわぬモノを祀る一族であるらしい。それを憑き物筋であるキツネとか外道とかヘビの類いと考えていたのだが、それは早計らしい。おいらが思うにそれは元々鬼なのではないだろうか?いわゆる祖霊の集合体は鬼の様相を纏っているのではないのだろうか。一つの魂は虫のように小さなモノであり、その集合体が鬼なのではないかと考える。

虫程度の小さなモノであれば結界を張った家でも侵入が出来るだろうし、数が寄せ合えば鬼の形態も取れるのではないんだろうか。先に家の中では黒い小さなモノが蠢いていた。なのにそれが突然に消えて、ある日の朝に形を持ったとすればわかり易い。あの日鬼は霧散したのだ。おいらに毒素は注入したけれど、それ自体は霧散されたのだ。

呪詛ならば必ず「返し」が存在する。規定された理念が理念を覆し存在することはあり得ない。古事記がベースならば「返し矢」があるはずだ。呪い返しというもので、今ではブーメランと言われる類い。やり過ぎの誹謗中傷はブーメランと化し、発した者へ返るわけだ。

考えてみると神道には神敵が存在しない。キリスト教なら悪魔やルシファー。仏教なら地獄の鬼や冥府の主が存在する。しかし神道には相対する絶対悪は存在しない。だから神は神同士で殺し合いう。その神同士の殺し合いを描いたのが古事記に代表される神話だ。だから天皇=神の敵は人間でしかないのだ。

返しが神主に返ったとか、家族が犠牲になったとか、属する会社に事件が発生したとか、そういう経過は耳目していない。という事は素朴に呪いが返ろうと、呪術が敗れようとノンリスクの無敵な神職ということになる。しかし極めて無能な人間である。

だって、おいらのような拙い霊感の持ち主にも、呪いを駆使した呪術を見破られてんだから、技術者としての才能も憚れるではないか。きっとこの小さなオッサンに嫌悪感を抱く人が少なからずいたが、それは彼の放つ禍々しい邪は気を感じ取っているからだろう。仕事はしないが会社の邪魔にはなっていない縁故者としてほぼ黙認されていたが、時々この小さなオッサンに牙を剥く人がいた。

で、だいたいが退社したり、厄を貰ったように当然事故死したり、精神に異常をきたしたりしてる。おいらは長い間みてみぬふりをしていた。何故ならば17歳のころにこの小さなオッサンの一族にすでに一度呪われていたからである。だから知らん顔してやり過ごしてきたが、因縁が生じるとはこういう事で関係性が年々近づいていき、同じ会社の人間となってしまった。

その時点で、ある宮司さんは神のご神託として、おいらに退社を薦めてきた。あの時点で逃げていれば目をつけられることもなかったんだろうが、神のお目こぼしで助かったとは思いたくないし、思いたくもなかった。少なくとも水面下で闘った。相手が強力な呪術の使い手でも所詮は一人の非きりな人間と考えて
いたし、味方するものも少ないと思ったからである。

何度も云うが、神に心酔してもそこから無尽蔵に運を引っ張り出せるはずがない。高天の原は遠すぎるし、黄泉には穢れがいっぱいだ。

仕事しない縁故者なら黙ってりゃいいのにでしゃばりで威張る。だから悪目立ちする。それを窘められてもびくともせずに存在をアピールし、小さな神主は名士であると時代錯誤な物言いをする。その町には小さなオッサンが関わるより二社よりも由緒正しき神社が無数に存在するわけだが、どうも神道の信者が多い町の中での地元あるあるではなさそうな勢いである。

おいらが呪詛をやる気満々で、それを実行しているのだと明確にしたのはある出来事だった。

会議中にライバル会社に仕事を奪われたことを上司から酷く叱責された。あの後の事だが、たまたまライバル会社の担当者を知っていたおいらに、氏素性、住所、生年月日まで聞いてきたことだ。

ご存知の通り、寺社で祈願、祈祷するときに当然該当者の氏名、生年月日は訊かれる。寺で住所を記載するのは後に郵送物を送るためのものだが、神道は少し違う。

寺では対象となる人物もしくはその人の持ち物や写真などお坊に分かるもの、触れるものを託すが、神社では無用。苗字だけでもいいんだよね。だから氏名、住所、生年月日が分かればほぼ相手を特定し、祝いだろうと縁切りだろうと、呪いだろうと定義上は出来てしまうのだ。

住所は簡単に変わるが、氏名や生年月日は変わることなく相手を特定できる。住所など東京都なら東京都内でいいんだよ。だいたいの場所くらいは分かるだろうし、その当事者に直接繋がる何某はそう何人もいない。

おいらの氏名は比較的ポピュラーで、漢字が違い読みだけなら無数に同姓同名が存在することを知っている。無個性に近い名前と言っても過言ではないだろう。トラブルがあってちょっとだけ同姓同名同生年月日を調べて貰ったら、全国に数千以上いることに驚愕した。

でも今考えると、その分、紛れることは出来たのかも知れない。今は名前の一部を戸籍上改名しているから、紛れることが出来なくなった。氏名上、無個性になることは日本人として呪いを防ぐ方法なのかも知れない。

だからフェイスブックやツイッターで氏名や呼称、誕生日を晒すのは危険な事であるのだ。顔も知らない相手から呪詛される可能性だってある。その場合の呪いとは神道の事なんだよ。嫌いだけど、明治天皇の玄孫である竹田氏は誕生日を秘匿してるし、名前も芸名かも知れない。

おいらの氏名にトラップがあるとすれば、それが読み難いということかな。姓名漢字としてはポピュラーだが、だいたいマトモに呼ばれたことがない。それが唯一の救いになっているのかも知れない。

で、呪う神主に具体的に何をされたかと言えば、人生を乗っ取られたことかな?役職や地位や尊厳や・・・運に連なるようなモノをごっそりと横取りされた。それも普通にあり得ない状況でである。

まあ、おいらが会社を変な宗教で呪っていて、右翼思想の持主とか喧伝はされてる。だから呪術以外の方法でも極めて危険な人物である。あうことないこと風潮して回るんだな。それは他人の事で経験済み。おいらがその他人と懇意であり内容を知らないと思ったから罵詈雑言を教えられた。

まあどんな人物に似ているかと言われるとアベシンゾーかな。一人の人間にありえないほどの強運が備わってる。で、総理とこの呪う神主が何となく繋がっているような気がするんだな。

極めて特殊な神道の、極めて近しい呪術の在り方。それは修験道とも密接に関わりがある。

出身地だけで考えると、200キロも離れていない。むしろ思考は山口県もしくは長州に近い。歴史の捏造改ざんが盛んに行われる町である。

実際にアベのそれは招魂術系の形態ではないのかと思うんだ。そして閉鎖村に根付いた特殊な神道に招魂術が混ざりこんでる神社。

実は明治政府が神仏分離もしくは廃仏毀釈を全国区で行う前に実施された町がある。いわば今の霊的形態の雛形になった場所である。廃仏毀釈に関して明治政府は「民衆がこんなにやり過ぎるとは思わなあった」と見識を述べているが、それは想定済だった。

だってその町では寺が焼かれ、仏像にも火がかけられた。堂宇は悉く排斥され、すでに神仏分離がなされていた神道の部分には一切手をつけなかった。

だから幕府の紐付きである寺文化に対して、どの程度の廃仏が行われるか・・・予測は出来ていたんだと思う。特に被差別地域や格差社会のあった地区ほど酷い結果となったようだ。

先週、その村を訪れて驚愕したのは、その神社の氏子代表や経理が会社役員だったり、総務の子だったということが判明した事。会社ではなかったが、組織ぐるみで行われた呪詛だったという事。そういえばその役員に物申す果敢な部下は同時に呪う神主の天敵でもあった訳である。おいらもその中のひとり。

縁故の方で贔屓していた上司とは違ったんだ。

まあこの会社は今の自民党のようなモノで、村組織のメンバーは内閣みたいな者なのかなぁ。極端に変わることを恐れ、外部の意見には耳を貸さず、利権と補助金にどっぷりまみれた今の政権与党と同じ。社長は世襲で、アベと同じくらいに世間知らずでアホ。何かといえばゴルフ。

でもたぶんアベらは首をひねっているのだろう?どうして無策なのに盤石か。それこそ神の思し召しくらいに考えている。でも実際はミクロである村組織の行う呪術が、マクロである日本全土に影響を及ぼしているのだと思う。

その村の成り立ちに関わった武人は陰陽道の招魂術の使い手であったのかも知れない。手柄を立てたはずなのに都には戻らずに辺鄙な秘境に身を隠した。一時でも一時期でも南朝の末裔が隠された村ではなかったのだろうか・・・。その後に末裔は長州にと移された。

その村には強固な結界が張られ、現在科学の粋でもあるナビゲーションまで狂わせ、その村に疑念を抱くおいらの侵入を阻止しようとした。車は家に属するもので、スマホの番号は変えているからアプリが正常に位置を示したのだと思う。少なくともスマホの祈願はしたことがないから、車にしか影響しなかったんだろう。車は別神社ではあるが祈願してる。逆を辿ることは出来るのかもしれない。

でもそろそろアベ政権も正念場。二つに繋がりがあるのなら、マクロがミクロに影響を及ぼすことはあり得るだろう。現に衆院選の前に、その町の悲願がアベ政権下の終焉付近で達成されている。今は通常よりも早くに市政を使い広報を開始してる。たぶんアベ政権が終わると自動的に、その悲願は無効化される。そうなれば表上の呪う神主の社会的地位は著しく損なわれる。もしくは反動で死ぬる可能性もある。

おいらはすでに反動が関わってくる環境には存在していないから、損害は免除される。

ここが乗っ取り犯と違う見識だったんだけど、おいらはおいらの仕事がアベ政権でなくなった場合に失効することを予見していた。だけどその中でがむしゃらに他者を呪い、邪魔者を排除することに大忙しで、俯瞰してモノを見る目は残念ながら彼にはない。

だからしょせん他人の偽りの人生を乗っ取っても4年が限度だった・・・。

たぶんからくりを完全に暴けたら呪術的なものから解放されるのだと思う。呪術は一流でも呪術者が二流三流なのだから、いずれ破たんする。

天皇になるためには先祖である天皇霊が憑依しないと正式な天皇ではないと言われている。それは出雲国造で現在も体現される神事である。

実は以前の小さなオッサンは無力だった。邪悪な雰囲気など微塵もなかった。清浄といっても良かった。性格も悪いし、人をハメることを躊躇わない粗悪な人間であっても、光が失われてはいなかった。

これは彼の側近の話だが、昔が霊が視えるとか、そういう類いのオカルト話は一切しなかったらしいし、地鎮祭で会社を休むにしてもバイトだし、サボる理由にもしていたらしい。清貧な人間ではなく、霊能もなかったようなのだ。

しかし実父が無くなり神主の座を譲り受けた頃から、おいらにも神主の霊感話が耳に届くようになった。いわゆる黒い人型が周辺に視えるようになったという話。

おいらはそれこそ、その村で守護を余儀なくされた先祖霊を召喚した想念である鬼だと推察しているのだが、本人には自分に禍をなす存在にしか視えないようだ。ちゃんとした交代の儀式を行わずに能力だけを譲渡された格好なんだろう。

たぶん異系統の祝詞でも伝わって云うんだろう。天皇の末裔を匿うためにつくられた隠れ里。末裔が移された後も変わらずに陰陽道の秘儀や招魂術を持ちいて周辺の集落から身を隠した。

明治時代になって悲願が達成される。天皇が統治する世が誕生したのである。もしかすると志願兵の数は群を抜いているのかも知れない。そして持仏堂ではなく、新しくわが村だけの招魂社を建設したのかも知れない。

だが皮肉なことに、その武人は都人に習い、神仏習合の寺で供養をされているようだ。しかし今は合祀されているだろう。軍隊の父と呼ばれた山縣有朋なら戦場で死なずとも靖国に合祀されたはずであるが、山縣は忠魂(英霊の昔の呼び名)になることを拒んだのだろう。そんな彼も下関で高杉晋作が誕生させた新しい宗教の招魂社で今は神として合祀されている。皮肉な話である。

実は前日のドライブには同行者がいて、軽く何かに憑りつかれていた。いきなり往来の道路を野原みたいに歩き出したり、突然にメガネが欲しいと言い始めて、その後に窮地に立たされても補正された視力は一切役に立たなかった。おいらは憑依に気が付いていたから、安い眼鏡屋があったから購入を薦めた。それで神上り(仏教でいう成仏のこと)した。

で、鬼はおいらに手形を残した。Tシャツは処分したが、上に着てたジャケットはそのままにしてる。お気に入りだったけど処分しないといけないかな。とりあえず洗濯に出そう。白い繭が浮かんだり、手形が浮き出たら、それが媒介して、おいらにいまだ影響を及ぼしてるはず。ああ服代ももったいない。

まあ命には代えられないか。

たぶん傍観者として選ばれたんだろう。アベ政権もしくは呪う神主やその村自体が存続を余儀なくされる事変が起こったら、役目は完了するのかな?

惨めな死に方ではある。

だからもう神に利用されるのはこりごりなんで、神道はもう信仰しない。褒美はなにも貰えなかった。

ご利益を求めてひらすらに神社詣でする人もいるだろうが、そういうひたすら彷徨う人にご利益が与えられることはない。たぶん聖域で軽く気力を奪われるだけ。それを神の触りなんて言う人もいるが、聖地なら酔ったりしない。聖地に行くと安らぐはずだよ。

おいらにもそんな神社の聖域を感じられる場所もあったけど、どうもおいらは自分で望むほどに神には愛されていないようだし、むしろ聖域を汚す存在みたいだから、申し訳なくていけない。だから遠くから感謝の気持ちを込めて、ありがとうございましたと謝意を送りたい。

で、今も斜め上から覗いているようだが、それこそ魔物の目を通してみる世界はぼんやりしてるはず。今は自分を世間から隠すアイテムを利用してるから、PC画面がぼんやり見える程度だろう。

もうすぐ終わりだぞ。

もうすぐ村は死に絶える。

それはおいらが呪った奴らの不幸を望まなくても、厄災というモノは呪術に反して相応に戻る。

云っておくが、低能なくせにやり過ぎだ。

他人から奪い去った運気でなされた成功は自然の摂理や形骸意識にも反するモノ。反するモノはどんな形であれ、物事の決着がつけば淘汰される。

せめて異教の朱子学を用いた似て非なる招魂術を、守り抜いた陰陽道系の神道と融合させなければ、こんな大掛かりな決着にはならなかったものを・・・。150年の周年で終わるなんてね。

だいたい5年刻みの周年は縁起が悪いとされている。

水害かなぁ?おいらは何故か水に穢れている。

で、おいらもそろそろ、この自分での死を覚悟しないといけないね。

深く関わりすぎてしまったようだ。

さあ首実検。洗濯をしてみよう。

訪れると、運くらいは取り戻せると思っていたけど、無理だった笑。








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