少女は掃き溜めのようになったアパートの台所で、ゴミの中からお菓子の袋を見つけた。
中を開くと季節外れの大きなゴキブリがゆっくりと這い出してくる。
少女は顔色ひとつ変えることなくゴキブリを払いのけると、中に残っていた粉々のお菓子を食べた。
それから踏み台に乗って水道の蛇口に口をつけ、水を飲む。
部屋にはもう腐った食材とゴミしか残っていなかった。
少女は締め切ったカーテンの隙間から外を覗き、心の中で小さくつぶやく。
――あと少しのがまん。
江口陽子、七才の記憶。
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陽子には母しか居なかった。
その母は生活の為にと夜の仕事を始め、一年しないうちに金遣いの荒い商売女に成り果てた。
部屋は荒れ果て、足の踏み場もないほどの散らかり具合だった。
朝起きるとテーブルの上に千円札が一枚。
朝昼晩の食事をそれで賄えということだ。
母は陽子を愛していなかった。
それどころか、外に作った男が子供嫌いで、陽子のことを心底疎ましいとさえ思っていた。
ある日陽子は、明け方に帰宅してゴミの上でそのまま寝てしまった母の手を握った。
もしかすると愛情のような温かい何かを感じられるかもしれない。そう思って試してみたのだ。
しかし、握った手からは何も感じられなかった。
目の前に居るのは、ただ酒臭い息を吐くだけのみっともない大人の女だった。
陽子も母を愛していなかったのだ。
それから間もなくして、母は陽子を捨てて蒸発した。
独り部屋に残された陽子は、少しずつ貯めていた千円札のお釣りをかき集め、
それを数日間の食費に当てた。お金が底をつくと、部屋に残された物は何でも食べた。
腐る寸前の残飯、洋服の下で潰れていたお菓子のクズ、どうしようもない空腹は水道水でごまかした。
驚くことに、わずか七才だった陽子はほとんど本能だけで二ヶ月間を独りで生き抜いたのだ。
近所の人の通報で発見された時、陽子は生きているのが不思議なほど痩せ細り、
立つこともできないほど衰弱しきっていた。
――やっと迎えに来てくれた……。
陽子は救助にやってきた男に抱きかかえられた瞬間、そのまま意識を失った。
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二ヶ月の入院生活を終えると、身寄りのない陽子は孤児院へ預けられた。
そこは独裁者のような院長と性格の歪んでしまった子供達の巣窟だった。
無口な陽子は格好の標的にされ、入ったその日から酷いイジメが始まった。
持ち物を破壊され、体を殴られ、食事も満足に取らせてもらえなかった。
しかし、何をされても口答えせず、感情を一切表にださない陽子を誰もが不気味がり、
イジメが収束する頃には誰も陽子のことを相手にしなくなった。
攻撃されない代わりに、存在そのものを彼らの世界から抹消されたのだ。
食べて、寝て、学校へ通う。
ただそれだけの生活が中学になるまで続いた。
友達など一人もできなかった。
――そんなのわかってる。それがあたしの運命だもん。
陽子には一つの力があった。
自らの意思とは無関係に、未来がどうなるかわかってしまうのだ。
それは明確なビジョンとして見えるわけではなく、ただ漠然と、自分の身に何が起こるのか察知することができた。
母が自分を捨てること、救助がやってくるだいたいの期間、その後の孤児院での生活、
すべて予め陽子にはわかっていた。だから何も言う必要がなかったのだ。
その時が来るまで待っていれば、未来は陽子の見た世界のままに進行していくのだから。
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中学に入り、陽子に運命の出会いがあった。
橘ゆうこ先生。彼女はどういうわけか特別陽子に親切にしてくれた。
最初はただの同情かと思ったけど、不思議なことに、
閉じた貝のように頑なだった陽子の心を、彼女は意図も簡単に解き放つことができた。
知ってしまえば単純な話。橘ゆうこにも陽子と同じ力があったのだ。
ゆうこの力は陽子よりも遥かに強力だった。
どこまで先が見えるのかはわからないが、ゆうこは陽子が将来きっと幸せを手に入れられると教えてくれた。
「あなたのことを心から愛してくれる人が必ず現れる。
だから、今がどんなに辛くても諦めたりしないで生き続けるのよ」
ゆうこのその言葉は、陽子が猛に出会うまでの大きな支えとなった。
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陽子は学生支援機構の協力により、無事高校を卒業することができた。
ゆうこに出会ってからの陽子は、それ以前とはまるで別人と言っていいくらいに明るく活発になった。
表情豊かに感情を表現し、辛かった過去は全て洗い流したように美しい女性へと成長した。
いくつかの恋愛も経験したし、職場では美人で働き者だとみんなが彼女を褒めた。
そうしているうちに、陽子は自分の力がどんどん弱まっていることに気づいた。
微かな予感めいたものを感じることはあったが、それも外れることが多かった。
力はまるで、幸せと引き換えに陽子のもとを去ってしまったようだった。
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二十七歳の夏。
友達に誘われてプロレス観戦に行った陽子は、
場外乱闘の際、選手の体にぶつかって転んだ拍子に軽い怪我をした。
当日は団体責任者から謝罪を受け、さして興味のないプロレスグッズを手渡されただけだが、
後日、改めて謝罪に訪れたのが猛だった。
陽子は猛の体にぶつかったのだ。
それは運命としか言いようがなかった。
二人は瞬く間に惹かれ合い、やがて猛は陽子にプロポーズをした。
陽子の周囲はみな反対した。
二人も連れ子の居る男と結婚などありえないと。
だが陽子は、猛こそがゆうこの言っていた、自分のことを心から愛してくれる相手だという確信があった。
入籍届けを出したその日、陽子は子供のように泣きじゃくった。
自分という人間の人生に、これほどまでの喜びが待ち受けているとは夢にも思わなかった。
猛のことが愛しくて仕方なかった。虎男と沙希が可愛くてしかたなかった。
資金の関係で式を挙げることは出来なかったが、陽子にとってそれはどうでもいいことだった。
――あたしに家族が出来たんだ。子供が出来たんだ。
自分の胸に顔を埋めて泣き崩れる陽子の髪を、猛の大きな手がそっと撫でた。
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ねぇ沙希、ごめんね。
あたしもっといっぱい、沙希にお料理のこと教えてあげればよかった。
欲しいって言ってたあの服、買ってあげればよかった。
いつかお嫁さんになった沙希を見たかった。
沙希はきっと美人になるだろうなぁ。
虎男、こんなあたしで本当にごめん。
虎男にお母さんらしいこと何もしてあげられなくて、ごめん。
もしもこの声が届くなら、虎男にひとつだけお願いがあるの。
沙希を守ってあげて。
近い将来、この子の命が危険に曝されることになる。
守れるのは虎男だけだよ。
いつも怒ってばかりでごめんね。
虎男のことが大好きだよ。
猛、本当にありがとう。
あなたに出会えてよかった。
愛してるよ。
猛……。
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体中から噴出した陽子の血液が、まるで生き物のように雅美の全身に纏わりついた。
その瞬間、断末魔の叫びと共に雅美の姿は消え去る。
虎男は襖を開けて押入れから這い出すと、そのままピクリとも動かない陽子の体を揺すり、
「陽子さん……陽子さん……陽子さん! 陽子さん!」
声が枯れるまで叫び続けた。
しかし、もはやその声は陽子に届かない。
こうして陽子は二十八年の生涯に幕を閉じた。
猛との結婚から、わずか一年半だった。
つづく。