時は流れ、三年が過ぎた。
大吾先輩は柔道の名門大学からスカウトされ、学費全額免除の特待生になり、
俺はひたすらデッサンとクロッキーの練習を続け、海星を卒業後、地元を出て美大に進んだ。
小さなワンルームマンションで初めての一人暮らしを始め、居酒屋のバイトにサークル活動、
慌しく月日は流れ、ほどなくして同じサークル仲間の優香という女性と付き合い始めた。
二つ年上の、世話好きな姉さん女房のような人だ。
先輩からは毎年季節の節目にハガキが届いた。
短い文章で近況を報告し、俺もそれに返事を書いた。
大学へ入ってからの先輩の快進撃は多くの注目を集め、あっという間に有名人になった。
連日多くの報道陣に囲まれ、まるでポップアイドルのようにテレビで先輩の笑顔が流れた。
おばさんのリハビリも順調で、今では簡単な料理なら自分で作れるようになったらしい。
俺達は別々の道を歩み始め、いろんなことが変わっていった。
一つ一つは小さな変化かもしれない。
だけど、それが積み重なって人は成長するんじゃないかと思う。
あの日の別れから俺達は、まだ一度も会っていなかった。
日々の生活に追われ、過去を振り返ることもほとんどなかった。
それでもこの胸の奥に、今でも大吾先輩と過ごした日々は光り輝いてる。
「新ちゃん! 始まるよ!」
ベランダで月を眺めていた俺に優香が言った。
「おっ! マジか!」
俺は慌てて部屋にもどり、優香と並んでテレビの前に座る。
「ついに決まるのね」
「おう」
試合開始の合図。
画面の中で先輩が戦っている。
相手は同じ階級で最大のライバルと言われる選手だ。
「あっ!」優香が思わず声をあげた。
相手が先制攻撃で内股をかけ、先輩は一瞬バランスを崩す。
何とかそれに耐えて体勢を立て直すと、激しい攻防が続いた。
――先輩!
俺は心の中で叫んでいた。
――勝ってくれ! 大吾先輩!
その時、
「一本!」
相手の一瞬の隙をついて、大吾先輩の一本背負いが決まった。
先輩はガッツポーズで何かを叫んだが、会場の大歓声がその声を打ち消した。
解説者も舌を巻くほどの見事な一本背負いだった。
「やったじゃん新ちゃん! 先輩勝ったよ!」
優香はまるで自分のことのように喜んでいる。
「あぁ、勝った……」
俺は全身から力が抜けて気の無い返事になったしまった。
「ちょっと待って、今乾杯のコーラ持ってくるから!」
画面の中では試合を終えた先輩がインタビューを受けていた。
「鈴木選手、優勝おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ついにオリンピックの出場権、手に入れましたね!」
「はい。これも応援してくださったみなさんのお陰です。
本当にありがとうございました!」
「この勝利を、今誰に一番伝えたいですか?」
「伝えたい人はたくさんいます。
でも、しいて上げるなら、やっぱり親父に伝えたいです。
たぶん空の上から見てるとは思うんですけど」
先輩はそう言って笑った。
「そうですか。次は天国のお父さんにオリンピックの金メダル、
見せてあげられるといいですね!」
「はい! ありがとうございます!」
「優勝おめでとうございます! 鈴木大吾選手のインタビューでした!」
先輩はカメラに向かって礼をし、画面から消えた。
++++++++++
「カンパーイ!」
俺と優香はグラスにコーラを注いで乾杯した。
それから俺は、今まで散々話してきた大吾先輩の偉大さをもう一度優香に伝える。
面倒くさそうに相槌を打つ優香を突付きながら勝利の余韻に浸ってると、表彰式が始まった。
一位の大吾先輩が先頭で表彰台へ向かう。
「ねぇ、鈴木先輩、何持ってるの? あれ」
「えっ?」
先輩が脇に何かを挟んで持っているのが見えた。
「さぁ、何だろ」
表彰台へ上った先輩が、脇に挟んでいたものを両手で持ち、胸の前に掲げた。
それをカメラが映し出す。俺は一瞬息を呑んだ。
「なに? 写真?」優香が呟く。
解説者とリポーターも不思議そうに、
「鈴木選手、額縁に入った写真を持っていますか?
――いや、あれは絵ですね」
「はい。何でしょうね」
先輩の手元がアップになった。
「はぁ、これはどうやら、鈴木選手自身を描いた絵のようですね」
「はははっ、そうですね。上手いじゃないですか、そっくりですよ」
それは紛れもなく、俺があの日渡した先輩の絵だった。
拙い線で描かれたそれは、今見るととても褒められた出来じゃなかった。
俺は急に恥ずかしくなって黙り込んでしまう。
「なにあの絵。何で絵なんか持ってんだろうねえ?」
「さ、さぁ……」
「何かあの絵ってさぁ、新ちゃんが描く絵に似てるね」
「そうか?」
「似てるよ。――えっ、もしかして」
優香が探るような目で俺を見る。
「新ちゃんが描いたの? あれ」
「い、いいからテレビに集中しろよ!」
「なによぉ~! ほんとのこと言いなさいよぉ~!」
「いいから! テレビ!」
「やだ顔が赤くなってんだけど? 何それー!」
そうこうしてるうちに、首に金メダルを掛けた先輩のインタビューが始まった。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ところで鈴木選手、今手に持っているこの絵は、どうなさったんですか?」
「これは高校時代の親友が書いてくれた僕の絵です。似てませんか?」
先輩が自分の顔の横に絵を掲げ、楽しそうに笑う。
「いやぁ、そっくりですね。髪型なんかも特徴捉えてますし」
「そうなんです」
「しかし、どうしてまたこの絵を持って表彰式に?」
「この絵には大切な約束があるんです」
「約束? と言いますと?」
「すみません、ちょっとそれは」
「何か特別な理由があるんですか?」
「はい」
テレビを見ていた優香が、
「ねぇ、大切な約束って、何?」
「し、知らん」
「知らんって、新ちゃんが描いたのに知らないわけないでしょー!」
「そういう大事なことは簡単に言うもんじゃないんだよ!」
「あっ!認めた! ――ふ~ん、いいよぉ~だ。言いたくないならべつにー!」
「ほらー! 優香がうるさいから先輩のインタビュー終わっちゃったよ!」
「えーっ!? それあたしのせいー!?」
そうして優香とふざけながら遊んでいると、俺の携帯電話が鳴った。
その着信音は、ある人専用に設定してあるものだ。
俺は慌ててベランダに駆け出し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、新太郎か?」
「はい」
「勝ったぞ。ようやくオリンピックに行ける」
「はい、試合見てました。あんな綺麗な一本背負いできるの先輩くらいっすよ」
「ははっ、サンキュ」
「先輩……」
「ん?」
「あの絵、ずっと持っててくれたんですね……」
「もちろん。この絵にはまだ足りないものがあるからな」
「そっか……」
俺はそのまま黙り込んでしまった。
空には白銀の満月。
先輩の声を聴くのは一年ぶりだった。
「どうした、新太郎」
「いや、べつに……」
「…………」
「先輩……とうとうオリンピックに行くんだ……」
「あぁ」
大吾は額縁から絵を取り出し、そっと裏返す。
そこには少し擦れた文字で、
約束!
オリンピックで金メダルを取ったら、必ず俺に会いに来て下さい!
そしたら俺、この絵に金メダルを描き足します!
その日まで頑張れ! 大吾先輩!
「新太郎、今なにしてる?」
「月を眺めてます」
「俺も見てる。綺麗な満月だ」
「先輩……必ず会いに来て下さい。俺、待ってるから」
「あぁ、もちろん」
二人はお互いの姿を月に描き、小さく微笑む。
新太郎と大吾の人生は、まだ始まったばかりだ。
完
大吾先輩は柔道の名門大学からスカウトされ、学費全額免除の特待生になり、
俺はひたすらデッサンとクロッキーの練習を続け、海星を卒業後、地元を出て美大に進んだ。
小さなワンルームマンションで初めての一人暮らしを始め、居酒屋のバイトにサークル活動、
慌しく月日は流れ、ほどなくして同じサークル仲間の優香という女性と付き合い始めた。
二つ年上の、世話好きな姉さん女房のような人だ。
先輩からは毎年季節の節目にハガキが届いた。
短い文章で近況を報告し、俺もそれに返事を書いた。
大学へ入ってからの先輩の快進撃は多くの注目を集め、あっという間に有名人になった。
連日多くの報道陣に囲まれ、まるでポップアイドルのようにテレビで先輩の笑顔が流れた。
おばさんのリハビリも順調で、今では簡単な料理なら自分で作れるようになったらしい。
俺達は別々の道を歩み始め、いろんなことが変わっていった。
一つ一つは小さな変化かもしれない。
だけど、それが積み重なって人は成長するんじゃないかと思う。
あの日の別れから俺達は、まだ一度も会っていなかった。
日々の生活に追われ、過去を振り返ることもほとんどなかった。
それでもこの胸の奥に、今でも大吾先輩と過ごした日々は光り輝いてる。
「新ちゃん! 始まるよ!」
ベランダで月を眺めていた俺に優香が言った。
「おっ! マジか!」
俺は慌てて部屋にもどり、優香と並んでテレビの前に座る。
「ついに決まるのね」
「おう」
試合開始の合図。
画面の中で先輩が戦っている。
相手は同じ階級で最大のライバルと言われる選手だ。
「あっ!」優香が思わず声をあげた。
相手が先制攻撃で内股をかけ、先輩は一瞬バランスを崩す。
何とかそれに耐えて体勢を立て直すと、激しい攻防が続いた。
――先輩!
俺は心の中で叫んでいた。
――勝ってくれ! 大吾先輩!
その時、
「一本!」
相手の一瞬の隙をついて、大吾先輩の一本背負いが決まった。
先輩はガッツポーズで何かを叫んだが、会場の大歓声がその声を打ち消した。
解説者も舌を巻くほどの見事な一本背負いだった。
「やったじゃん新ちゃん! 先輩勝ったよ!」
優香はまるで自分のことのように喜んでいる。
「あぁ、勝った……」
俺は全身から力が抜けて気の無い返事になったしまった。
「ちょっと待って、今乾杯のコーラ持ってくるから!」
画面の中では試合を終えた先輩がインタビューを受けていた。
「鈴木選手、優勝おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ついにオリンピックの出場権、手に入れましたね!」
「はい。これも応援してくださったみなさんのお陰です。
本当にありがとうございました!」
「この勝利を、今誰に一番伝えたいですか?」
「伝えたい人はたくさんいます。
でも、しいて上げるなら、やっぱり親父に伝えたいです。
たぶん空の上から見てるとは思うんですけど」
先輩はそう言って笑った。
「そうですか。次は天国のお父さんにオリンピックの金メダル、
見せてあげられるといいですね!」
「はい! ありがとうございます!」
「優勝おめでとうございます! 鈴木大吾選手のインタビューでした!」
先輩はカメラに向かって礼をし、画面から消えた。
++++++++++
「カンパーイ!」
俺と優香はグラスにコーラを注いで乾杯した。
それから俺は、今まで散々話してきた大吾先輩の偉大さをもう一度優香に伝える。
面倒くさそうに相槌を打つ優香を突付きながら勝利の余韻に浸ってると、表彰式が始まった。
一位の大吾先輩が先頭で表彰台へ向かう。
「ねぇ、鈴木先輩、何持ってるの? あれ」
「えっ?」
先輩が脇に何かを挟んで持っているのが見えた。
「さぁ、何だろ」
表彰台へ上った先輩が、脇に挟んでいたものを両手で持ち、胸の前に掲げた。
それをカメラが映し出す。俺は一瞬息を呑んだ。
「なに? 写真?」優香が呟く。
解説者とリポーターも不思議そうに、
「鈴木選手、額縁に入った写真を持っていますか?
――いや、あれは絵ですね」
「はい。何でしょうね」
先輩の手元がアップになった。
「はぁ、これはどうやら、鈴木選手自身を描いた絵のようですね」
「はははっ、そうですね。上手いじゃないですか、そっくりですよ」
それは紛れもなく、俺があの日渡した先輩の絵だった。
拙い線で描かれたそれは、今見るととても褒められた出来じゃなかった。
俺は急に恥ずかしくなって黙り込んでしまう。
「なにあの絵。何で絵なんか持ってんだろうねえ?」
「さ、さぁ……」
「何かあの絵ってさぁ、新ちゃんが描く絵に似てるね」
「そうか?」
「似てるよ。――えっ、もしかして」
優香が探るような目で俺を見る。
「新ちゃんが描いたの? あれ」
「い、いいからテレビに集中しろよ!」
「なによぉ~! ほんとのこと言いなさいよぉ~!」
「いいから! テレビ!」
「やだ顔が赤くなってんだけど? 何それー!」
そうこうしてるうちに、首に金メダルを掛けた先輩のインタビューが始まった。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ところで鈴木選手、今手に持っているこの絵は、どうなさったんですか?」
「これは高校時代の親友が書いてくれた僕の絵です。似てませんか?」
先輩が自分の顔の横に絵を掲げ、楽しそうに笑う。
「いやぁ、そっくりですね。髪型なんかも特徴捉えてますし」
「そうなんです」
「しかし、どうしてまたこの絵を持って表彰式に?」
「この絵には大切な約束があるんです」
「約束? と言いますと?」
「すみません、ちょっとそれは」
「何か特別な理由があるんですか?」
「はい」
テレビを見ていた優香が、
「ねぇ、大切な約束って、何?」
「し、知らん」
「知らんって、新ちゃんが描いたのに知らないわけないでしょー!」
「そういう大事なことは簡単に言うもんじゃないんだよ!」
「あっ!認めた! ――ふ~ん、いいよぉ~だ。言いたくないならべつにー!」
「ほらー! 優香がうるさいから先輩のインタビュー終わっちゃったよ!」
「えーっ!? それあたしのせいー!?」
そうして優香とふざけながら遊んでいると、俺の携帯電話が鳴った。
その着信音は、ある人専用に設定してあるものだ。
俺は慌ててベランダに駆け出し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、新太郎か?」
「はい」
「勝ったぞ。ようやくオリンピックに行ける」
「はい、試合見てました。あんな綺麗な一本背負いできるの先輩くらいっすよ」
「ははっ、サンキュ」
「先輩……」
「ん?」
「あの絵、ずっと持っててくれたんですね……」
「もちろん。この絵にはまだ足りないものがあるからな」
「そっか……」
俺はそのまま黙り込んでしまった。
空には白銀の満月。
先輩の声を聴くのは一年ぶりだった。
「どうした、新太郎」
「いや、べつに……」
「…………」
「先輩……とうとうオリンピックに行くんだ……」
「あぁ」
大吾は額縁から絵を取り出し、そっと裏返す。
そこには少し擦れた文字で、
約束!
オリンピックで金メダルを取ったら、必ず俺に会いに来て下さい!
そしたら俺、この絵に金メダルを描き足します!
その日まで頑張れ! 大吾先輩!
「新太郎、今なにしてる?」
「月を眺めてます」
「俺も見てる。綺麗な満月だ」
「先輩……必ず会いに来て下さい。俺、待ってるから」
「あぁ、もちろん」
二人はお互いの姿を月に描き、小さく微笑む。
新太郎と大吾の人生は、まだ始まったばかりだ。
完