いつぶりだかわからないくらい久々のブログ更新がこんな内容だなんてって、自分でも思うんだけど、きっと書いて置きたいんだろうな。
去年の10月30日に、母が死んだんです。59歳だった。あと少し頑張れば年金を貰えて、念願だった親友のおばさんとの旅行もできたはずなのに。神様も酷いよね。
癌と診断されてから約2年間、母は本当に苦しんだと思う。喉の癌だったから、2回の手術でまともに喋れなくなり、食事ができなくなり、お腹に穴をあけて、そこからミキサー食を流し込んでた。慢性的な痛みが体中にあった。激しい痛みを伴う治療にさんざん耐えて、我慢して、必死に生きようと頑張ってたのに、ある日突然、脳出血を起こした。脳にも癌が転移してたんだって。
病院に駆けつけると、母の顔は別人のように変わってた。さっきまで普通に喋って、自分で立って歩くこともできたのに、まるで別人だった。左半身が麻痺して、うわ言のように「頭がめちゃくちゃ痛くなって、急に手足が動かなくなった」って、何度も繰り返し言ってた。わたしと姉は、病院の廊下で泣きながら悔いた。こんなになる前に、どうして母のために何かしてやらなかったんだろうって。
脳出血で倒れてから2週間後に、母は死んだ。この2年間、さんざん苦しんだのに、最後の2週間に、母は一生分の苦しみを味わったと思う。薬で眠り、意識が戻るとベッドの上でのたうち回るほどの激痛が体中を襲い、常に首を絞められてるような窒息の恐怖。わたしは仕事を休んでずっと母に付き添ったけど、本当に見てられないくらいの苦しみようだった。
「こんなに苦しいなら死んだほうがまし」
我慢強く、弱音を少しも吐かなかった母が、痛みにもがきながらそう言った。わたしと姉は、意識を深く落として、二度と目が覚めることのない薬を投与してもらうことにした。母を楽にしてあげるには、それ以外の選択肢はなかった。
10月30日は、姉の誕生日だった。
その日の朝6時、わたしと姉は、母の心臓が停止して、呼吸が止まる瞬間まで、手を握って傍にいることができた。母の親友のおばさんもすぐに駆けつけてくれた。それから3日間、わたしも姉も、一生分の涙を使い果たしたんじゃないかというほど泣いた。数えきれないくらいの後悔が波のように押し寄せて、毎日心の中で母に謝ってた。今でもその思いは消えていない。
わたしは、自分の魂の半分が欠けてしまったような気がしてる。母が生きてたときは憎たらしいことしか言えなかったのに、いざ死んでしまってから、世界中でこれほど尊敬できる人は二度と現れない、すごい人だったんだって思い知らされてる。母はわたしと姉のために、自分の人生のほとんどを費やしてくれた。わたしたちのために、すべてを尽くしてくれた。病気で体がぼろぼろになって、不安で気持ちが押しつぶされそうでも、わたしのために食事を用意してくれたり、わたしの体を気づかってくれた。死んでしまう直前まで、わたしと姉には何ひとつ迷惑をかけず、自力でなんでもこなしてた。振り返ると、母はやりきったと思う。わたしと姉をこの世に産んでくれて、愛情を注いでくれた。
このことをこうして書けるのは、もう誰の慰めも必要ないほどに心は落ち着いてるってことなんだろうな。今でも不意に寂しさに襲われるけど、正直なところ、まだ母が死んでしまったという実感がはっきりわかない。今もどこかで生きてるような気がする。姉も、親友のおばさんも同じことを言ってる。母に「死」というものがあまりにも似合わないからだ。
わたしは母が死んでから、自分がいつか死ぬということに対する恐怖がなくなった。死んで、母とどこかで出会い、そうしてまた生まれかわる。そのことが待ち遠しいほど。だからそれまで、頑張って生きようと思う。死にたいって思うことがもしあっても、母が与えて、育んでくれた命をぜったい無駄にしたくない。
このブログをどれだけの人が読んでくれるかわからないけど、もしもあなたに、親を大切に思う気持ちが少しでもあるなら、親孝行は親が元気なうちにって、本当にそう思います。
追記。
母が脳出血を起こしたあと、少しだけ様態がましになって筆談ができたとき、たくさんのことを話せた。
「今までごめんな。母さんにキツいこといっぱい言って、たぶん傷ついたやろうなってわかってたけど、素直に謝ったりできんかった。ほんまに悪かった」わたしがそう言うと、母は「親子ってそんなもんやろ」と紙に書いた。
「産んでくれてありがとう。別れてしもたけど、あの父親と母さんの間に生まれて本当によかった。つらいこともあるけど、楽しいことのほうがずっと多かった。ほんまにありがとう」母は安らかな顔で2回ほど頷いた。