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新一生青年が!

日常の日記です。

古堅の家族壕・墓

2021-03-10 17:15:24 | 日記

                                  

 

 

                                  

 

 

                                  

                                            小走りで通り過ぎた男性

 

 

 

                                  

 

 

                                  

 

 

                                  

 

 

                                  

                                    草木が生い茂っていたり危険と感じた時は、行きません。

                                    崖葬墓も戦争中は避難壕として使用されていた?

 


 あたりはフルギンウガン(古堅御願所)と真栄田城址で囲まれた小さな窪地のようになっており、下は広場になっていました。広場はかつては闘牛場だったのですが、そこは防衛隊の屯所(とんしょ)となっており、宿舎や炊事場などの急造施設がありました。
 この辺の壕は山あいにあり、しかも雑木に覆われているので、池原良盛たち数家族は安全だと信じて疑いませんでした。それで空襲警報が発令されるたびに、そこに避難していたのです。
 ところが3月25日、遠くで聞えてくる爆弾の炸裂音(さくれつおん)が近付いてくるのに脅(おび)えながらじっとしていると、突然、ガガーンというすさまじい爆発音を聞いたと思ったら、何がなにやら分らなくなってしまいました。
 気が付くと、硝煙(しょうえん)と土ぼこりが立ち込めて何も見えません。やっと人心地がつき、硝煙の晴れ間を恐る恐るはい出して、壕口から下をうかがいますと、防衛隊自活班が飼っていた数羽の鶏は、その囲いとともに跡形もなくなっていましたし、小川のほとりには馬が死んで屍(しかばね)をさらしていました。爆弾は防衛隊施設を狙って2発以上も投下されていたのです。
 良盛たちの壕はクランク型になっており、入り口には畳を立てかけてありましたので、爆風の被害は余りありませんでした。隣接のナーカ小(池原芳英)の壕とは中が筒抜けになって繋がっていました。ナーカ小の隣にはイーチ(伊波寛裕)の壕がありました。
 芳英らの壕口は潰されてしまっていましたので、空襲後はしばらく、中が筒抜けになっていた良盛の壕から出入りしました。
 寛裕は爆風で耳をやられ、一時は聴覚をうしなっていました。防衛隊員は数名が戦死したと言われましたが、その中には嘉手納の城間時計店の長男も含まれていました。(池原良盛の証言より)

 

 


昼食です。

2021-03-10 13:41:37 | 食事

                                                                                                                         

                                                                                                                                        車中で食べました。