昨日の午後は、 母とケアマネさんとの面談日でした。
いつも通りの 話をした後で、
何かのきっかけで 母が戦争引揚時の体験を話し始めました。
母が11才頃に 旧満州から、母親と8人の兄弟たちと一緒に 戦禍を逃げ惑ってきた話です。(父親は 徴兵されてしまい
生死も不明のままに)
中国人の援助を受けたことや ロシア兵に脅され物を奪われたこと
襲撃されて銃弾に倒れた17歳の兄、体が弱い姉は、私の母が手を引いて逃げていましたがいよいよ歩けなくなって、
泣く泣く置き去りにしなければいけなかったと。知り合いのお母さんが あと少しのところまできて 丸太橋から落ちて
川に流されて行ってしまったこと。
周りの家族の中の ひもじくて泣く赤ん坊は、
襲撃の的になるので 同じ引揚者の男たちに 皆 連れていかれて、しまったという
耳をふさぎたくなるような 酷い話。
鉄道の貨物列車にも、何度も乗り換えて 移動したと。
一緒に逃げていた沢山の家族には 体力が持たなくなった母が 子供たちを 中国人に託した人もいたと。
母も 一時は 中国人の家庭に 保護されて暮らしたが 引き上げ船が出るころには
母親がちゃんと 迎えに来てくれたそうです。
引揚者を必死に 守って誘導してくれた団長さんたちは 本当に 知識も行動も素晴らしかったようで
そのお陰で 私たち子孫がいるのですね。
私が子供の頃から 何度となく 聞かされた話でありましたけれど、
昨日の母の 語りは 流暢で 鮮明で 初めて聞く内容もあり、
目の前に ありありと映像が浮かんでくるような 気がしました。
(きっと 以前の私は 生活に追われていて、母の話を 半分聞き流していたのでしょう)
母は、5人の兄姉を この引揚げ時に失ったそうです。
終戦から4年後に
シベリアに抑留されていた 母の父が突然 帰国してきました。
それまで 一人で家族を支えてきた母の母は、
腸の病気で何度も手術をうけたけれど 亡くなり、
それを機に
婿養子だった母の父は、徳島を出て、北海道で開拓に入る決心をしたのだそうです。
そんな時代だったとはいえ、
困難につぐ 困難に 立ち向かった私の祖父母の 強さを尊敬します。
画像私の祖母 「クマノさん」
とても 素敵な人だったと 聞きます。会いたかった。。
その日 いつもは 15分くらいで 帰るケアマネさんが 話を いつまでも聞いてくれて
気が付くと 一時間も経っていました。
母は 自分が頑張って 生きている意味を
どうしても いま 言いたかったのかもしれません。
その間 通り雨が4回ほど バチバチと 大きな音を立てベランダに打ち付けてていました。
※この記事は 7/29に 書いたけれど 心が重くて 非公開にしていましたが、
やはり 戦争の悲惨さは 語り続けなければ いけないもの・・・
後日聞いたら 7/22に、母を訪ねた次女の一家にも この話をしたのだそうです。
小学4年生の孫が 一番真剣に聞き入っていたそうです。
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