元気と情熱(株)社長 右田哲朗(みぎた) 別名 MOJA大将 の楽しくいこうやブログ!

MOJAも今年で9年目。仙台の街チャリンコで走る、ひげでぶオヤジブログ。ポリシーはライフスタイルを大切にです!

親父とスイカ

2010-08-01 10:59:35 | 想い出

写真は、ボキ大好きな「はつ」の塩焼きです。はつ、好きなんです。

 

毎年、夏になって、スイカをみるとボキは3年前に逝った親父をおもいだす。

 

親父はスイカが大好きで、大きいスイカを半分に切って、それをスプーンで

くりぬいて食べる食べ方が好きだったようだ。

 

時には、おふくろが黙ってみていると、家族の分とかは、一切考えず、

ひとりで半分食っちまうという荒技をやってのける男。

 

まさかのスイカフリークだった。

 

ボキが小学生のころ、夏休み・・・・

 

ある夜中にトイレにいくと、台所から

「しゃかしゃか~~」音がする。

「????なんだ」

「やべ~泥棒か?」

 

そ~~~っと台所をのぞくと、人影だ。

 

やっぱり!

暗闇の中で

口の周りを真っ赤にしているスイカ親父が立っていた。

 

中途半端に開いた冷蔵庫からは、かすかに庫内灯の光がもれて、

闇夜に親父を下から照らしているから、まさに不気味、妖怪のようだった。

ボキ「何、やっているの~」

と台所の電気をつけるボキ。

親父「スイカ、食っているんだよ~お前も食うなら、いいぞ。食ったら、しまっとけよ」

 

 

親父は、スイカにスプーンをおっ立てたまま、放置して、口をふいて寝室に戻っていった。

 

呆然・・・・・・・・

たしか・・・・去年も夏の夜になると、台所から「しゃかしゃか・・・・」

音が聞こえてたな・・・・・

(親父だったのか~~)

 

翌日、親父は朝から、腹を壊したのか?

トイレを往復していた。

(どうしたんだ?)

その時だった。

 

台所からおふくろの声だ。

母「え~~~~昨日、半分とっておいたスイカがまるごと、ないわよ~

  お前たち、夜中に何をやっているの?」

と僕ら馬鹿兄弟が怒鳴られた。

 

トイレからでてきた親父にもおふくろは、イライラ口調で言う。

母「おとーさん、ちょっとこの子たち、怒ってやって。夜中に全部、スイカ

たべちゃったのよ~今日、親戚が来るからみんなで、食べようと思ったのに」

 

親父、一言。

「うるせー。俺だよ。食ったのは。あと、テツロー(ボキの名前)も食った」

 

さすがにスイカフリークは堂々としていた。

母「おとーさん、スイカ半分もたべちゃったの?」

父「いや、テツローも食べた」

母「テツローは、食べないわよ、あんた、一人で食ったな~」

父「なんで、あいつは食わないんだよ~」

 

その時、ボキは言った。

(スイカフリークに向かって、まさかの発言をしてしまった)

 

ボキ「あの~ボキは、スイカ、好きじゃないから、食えないんだ~」

親父は激怒。

父「バカヤロースイカが食えないって、なんだ~バカヤロー」

(あの~お父様、好き嫌いは個人的なものなので、そこまで怒らなくても)

 

父「よし、今日はスイカ、買ってくるぞ」とか言って、

親父は、ボキにスイカ特訓させそうな勢いで車に乗り込んで、どこかに行ってしまった。

(やべ~~~このままでは、スイカ食わされる~~~)

 

ボキは逃げた。スイカと親父から

なぜ?

スイカ嫌いになったかって???

 

その前年、カブトムシの虫かごにいれてあって放置され、やや腐ったスイカを食べてしまったんだ。

不覚だった。

それで食中毒になって2日間寝込んで以来、スイカが食べれなくなっていたのだ。

 

最近になって、やっとスイカが食えるようになった。実に30年かかかったよ。

夏になって、スイカをみると、スイカ妖怪の親父を思い出す。

 

今でもきっと天国でスイカをスプーンでしゃかしゃか、やっていることだろう。

 

またね!

 

 


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少年時代

2010-05-22 02:27:30 | 想い出

 

ボキの中では時々、聞きたくなる曲、第一位です。

 

井上陽水 - 少年時代


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親子しみじみ

2010-05-05 10:14:23 | 想い出
写真は

去年の5月、北海道のママさんの実家にいったときの写真

これは旭川の動物園で休憩中の
ママさんとおふくろさん。

ボキはこの2時間前に高速道路でスピード違反で覆面に罰金きられて、ちょいとおちてました

ママさんのおふくろさんは、本当にほのぼのしてて、優しい人格者です。
ママさん、昼間からビールのむな~
またね

コメント (2)
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サッカーのユニフォーム

2010-05-03 22:57:52 | 想い出
お休みのゴールデンウィークにはいりまして、各店舗忙しくさせていただいてます。

ありがとうございます。


そういえば、

ワールドカップまであと1カ月を切って、実はちょっと恐れてます。

moja創業してから3回目のワールドカップですが。


過去2回のワールドカップの月は、1ヶ月間かなり、売上苦しんだのよん。

特に日韓開催のときは、やばかった・・・・


ボキもアルゼンチンvsスウェーデン戦、観に行ったよ。


かなり昔だけど、ボキが高校生の時、サッカー部だったころ。


ボキの母校は、毎年、好きな国の代表ユニフォームをぱくって、その年の

レギュラーたちがユニフォームを選んでたの。


当時、ボキの先輩たちの代のユニフォームは、アルゼンチンの代表チームの

ユニフォームと同じで当時の水色と白の縦じまだった。

まだ、マラドーナが現役でスターだったころね。


ボキは、当時から個人的にブラジルよりもアルゼンチンの派手な攻撃型サッカーが好きだった。

だからユニフォームは、先輩たちが着てるのが一番よかった。


でも、2年間同じは同級生のみんなは当然、嫌だというので~

結局、フランスの代表チームのブルーのユニフォームになった。


が、そこで問題勃発。

このフランスのユニフォームは当時、高校生には人気がありすぎた。

練習試合をやろうとすると、相手チームとかさなることがあまりにもおおかった。

すると弱い僕らの学校はaway用に用意してた、しょぼいのに着替えさせられたっけ。


当時はフランスにはミッシェル プラティニというスーパースターがいたから

高校生には憧れのユニフォームだったわけ。

もっともプラティニといえばフランスより人気があったユニフォームがあったな。


彼が所属してたクラブチーム、イタリア セリエA
のユベントスのユニフォーム(白と黒の縦じま)だ。

ありゃー相当な数のチームがぱくってたっけ。


とボキは、このサッカーのユニフォームの影響か
けっこう、水色(アルゼンチンカラー)やブルー(フランスカラー、日本もか)が好きだ。

あ、それより好きな色がありました。

実は、赤です!


mojaカラーなんちって。

5月はいって本店、ひろし店長、絶好調じゃない?


PS:一番町店と仙台駅前店は5月5日まで飲み放題やってるよん!
  mojaは全店、営業してます!
  さ~~ぐいぐいいこう!
  ジューシー焼き鳥をほうばろう!


またね!




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親父とラーメン

2010-03-04 12:53:46 | 想い出

こんにちは~

 

本当は昨日の夜まで東京にいる予定だったのですが、

あまりにも歯が痛くて、急遽、帰ってきました。

 

実は1月に箱根に行った時に温泉宿でカニ鍋食べて、最後のおじや食べてるときに

かにの甲羅がはいっててね。

「ぐきっ!!!!」と音がしたと思ったら、そのあと

歯茎から大量出血~~

 

後日そこが化膿して、ほっておいたら歯茎がおかしくなって、いまだにだめ。

最近、本当に固いもの食えないの、全然だめだわー。

歯医者さんには行ってますが・・・・なおらない YOYOYo~。

 

話かわりまして~~~

 

みなさんは、自分の人生を振り返って、心の内面を形成したのは

いつごろだったでしょうか?

 

僕は親父が、たくさん話をしてくれてた小学生から14歳頃までだったと思います。

僕は親父が教えてくれたことがあまりにも多すぎて、

男にとっては、本当に親父の存在はでかいな~と思うのです。

 

僕が親父の偉大さで真似できない点がひとつあります。

それはね、あの人からあの人が亡くなるまで一度も陰で人の悪口を聞いたことが

ありませんでした。一度もないのです。すごいです。

 

僕らの家族が、陰で人の悪口を言おうものなら烈火のごとく怒って

「やめろ!」

といいました。

 

本当に人の悪口を陰で決して言わないという性格だったので

本当にたくさんの人に愛されました。

 

うちの親父はいつも突然でした。

 

僕が20歳でオーストラリアに旅立つ前の日にスナックにつれっていってくれたのも突然。それまで親父とスナックにいったことなかったのになー

親父「おい、テツ(僕の名前)、ちょっとカラオケやるぞ!」

初めて、親父のまともな石原裕次郎を聞いたな。けっこう、うまいの。

 

そして、歌い終わると

「テツ(僕の名前)!おまえさ~絶対、青い目の外人のかわいこちゃんを

連れて帰ってこいよ!」

僕「は??????ナンパしにいくんじゃねーよ。」


親父「だから、結婚するときは外人な。おまえ、それでオーストラリア人になっちゃえよ!そしたら、俺、向こうにいくから ハローとかいってな!けつとかさわりながら!」

とめちゃめちゃ、親父の妄想発言!!何を言っているんだ!

 

それがそれから2~3年も帰らなかった僕への最後の贈る言葉だったのだから。

 

それで、翌日、僕が旅立つ玄関には見送り、誰もいない!

これだから、笑える家族だったです。

 

親父は僕が中学校2年生の頃から少し、仕事がお暇になったらしく

夕方4時半ごろには、よく、家に帰ってきてた。

それでね、突然、言うんだ。

 

「テツ、俺はラーメン好きなんだ。だから松戸市(千葉県)のすべてのラーメン屋の

ラーメンを食べることにした。」

僕「??????え~~~ラーメン屋さん、多すぎるよ。いくつもあるぜ!」

 

親父「俺は、行った日と店の名前と味を書き留めてるから・・・」と手帳みつめて、にやにやしてる。

なんと、すでに親父はひそかにラーメン屋さんめぐりを開始していたのだ。

 

と言ったかと思ったら、

親父「おまえ、俺のバイクの後ろに乗れ!」とフルフェイスのメットをよこされた。

そして、親父が当時乗ってた、750CCのバイクで市内のラーメン屋にむかった。

 

僕が部活動が早く終わった日には、けっこう、誘われた。

 

当時の僕は、

「親父は何が楽しいのか?」

まったくわからなかったけれど。

ただ、まー親父のおごりでラーメンいただけるなら、それもいいな!と。

 

あるとき、

僕「もう、何軒くらいまわったの?」

と聞いてみた。

親父「もうすぐ、100軒だ。すごいだろ。まだまだ店はあるな~」

ととってもうれしそうに手帳を見つめてた。

 

が、数日後、持病の糖尿病が悪化して入院した。

 

帰ってきて、おふくろは僕に言った。

「あんたら、ラーメン屋なんて毎日毎日、行っているから、こうなったのよ!

馬鹿なのよ。いい年こいて」

 

そんな親父が大好きだった。

退院したら、きっぱりすっぱり、ラーメン屋に行かなくなっていて寂しかったが・・・・

そのあとは、一昨年亡くなるまで一度もラーメン屋に一緒に行くことは、なかった。

 

あ~もう1回、一緒にラーメンを食べたかったな。

親父はスープが大好きでほとんど、スープをのみほしてたのを思い出す。

 

そんな、僕の会社で今回、ラーメン屋さんをやることになった。

生きていたら喜んだろうな。

仏壇で拝んできたよ。

 

人生はつながってる。

そして、人生はまわっている。

だから今日という日に無駄はないのだと信じている。

 

そのなかでいいこともあれば、悪いこともあるんだよね。

 

またね!

 

 

 

 

 

 


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