第5話/100歳記念日

2006-08-12 11:07:53 | Weblog
合計年令約300歳の家族

大発見
「ねぇ、お父さんいくつ数えたら出ていいの」
 いつものように、夕飯前の女房が台所で忙しいときに、二人の子どもを連れて行った近所の銭湯で、4年生だった娘がお風呂から上がるときに、いつも10数えてから出ていた幼児の頃の口調を真似て聞いて来た。

「家族の歳の数だけ!」
 私はもう大きくなったのだから数を数えるより、身体が温まればいいのだというくらいのつもりで娘にそう突き放すように言っておいた。
 しばらく湯舟に黙って浸かっていた娘が、ちょうど百才だと言い出した。
 カランの前で身体を洗っていた息子もそれを聞いて指折り数えて、あらためて百才であることを確認した。

 まったくの偶然から見つけた家族の年令の合計が百才になるという発見は、意味もなく何か嬉しい発見で、子どもたちは銭湯から走って家に帰るとその発見を女房に報告した。
 その日の夕食時の話題はもっぱら子どもたちがこの年令に達するまでの回顧に終始したが、そのうち息子が百才の記念日で何かをしようよと言い出した。
 バレンタインデーだの父の日だの商業主義の中で踊らされているイベントデーより、我が家だけのオリジナルイベントデーの方が私は好きだ。

 クリスマスやお正月のように世間一般での慣例のある行事でもなく、どんな祝い方をしても構わないことだからと、何をするか計画を二人の子どもに任せておいた。

 数日して出て来た計画書には、大きなケーキにロウソクを100本立て、色紙に家族4人の足形を押してそれぞれがサインをするというものだった。
 足形を押すというのは、子どもたちが生まれて産院から帰って来たときに足の裏に墨を塗って色紙に足形を採っておいたから、色紙には足形を押すものだと思い込んでいたらしい。
 100本のロウソクは多すぎるので、10本に省略し、足形は手形に変更してもらったが、さて4人の家族が手形を押せる大きな色紙があるかどうかが心配でったが、専門店を訪ねてみたら案ずるより産むが易しというように、5人でも10人でも押せそうないろいろなサイズの色紙が売られていた。

世界ではじめての
 百才記念日は家族の中の誰かの誕生日の来る前ならいつでもいいのだが、計画がまとまった次の日曜日をその日と決めた。
 どうせ手づくりの記念日だから、ケーキも子どもたちに作ってもらうことにした。
 子どもたちが生クリームやいろいろなトッピングをこねくりまわして飾り付けたケーキは、まるで厚化粧の年増芸者のようだったが、ま、その分二人が楽しんだのだからいいとしよう。

 次は色紙に手形を押す作業になるが、手のひらに真っ黒に墨をつけるというのは普段ならイタズラ的で叱られそうな行為だが、今日ばかりは公認どころか親も一緒だ。
 親の方だって手のひらに墨を塗るなどということは小学校の習字の時間にイタズラをして叱られて以来のことだから緊張感がある。
 その緊張を楽しみながら、2枚の色紙に後日写真を貼るスペースを残して4人で手形を押してサインをする。
 色紙を2枚にしたのは、やがて二人が巣立って行くときにそれぞれに持たせてやりたかったからだ。

 手づくりケーキを前にまず記念写真撮影。
「家族の百才記念日をしたなんて、日本でうちが初めてじゃあないかな」
「日本どころか、世界でも初めてかもね」
「今度は二百才記念日もやろうね」
「二百才記念は後何年経ったらできるの?」
 困ったことを聞く子どもたちだ、私が高校2年生のとき、数学の単位を落とし追試を受けてやっと3年生に進級出来たのをまだ話していなかったっけ。

「お父さんが五十才になったとき、お母さんが・・・」と指折り数えてみるがなかなか答えは出て来ない。
 そうだ、現在の家族の年令は関係なく、これからの残りの百才分を単純に家族の人数で割ればいいのだという簡単な計算にたどり着くまでずいぶん時間を要したものだった。

後日談
 しかし、その時点での計算上の200才は私が64才になったときだったが、その二百才記念日は祝えなかった。
 忘れていたのではなく、途中から子どもたちのそれぞれが伴侶を得て、家族の人数が増えて25年前の計算の前提が崩れてしまい、それぞれの伴侶の年令を加え、今ではさらに孫たちも加わっていつの間にか三百才近くになっていた。

 ま、無理に三百歳記念日をすることはない。
 息子と娘のそれぞれの家族で、また百歳記念日を祝って家族の絆を深めてくれればいいだろう。
 しかし、私たち老夫婦が二人だけで二百歳を迎えるのはなかなか容易なことではない。



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