スケッチは30数年前に取材旅行の折に入った福島県郡山市にあった小さな銭湯「花の湯 」
これまでに銭湯の女湯から火のついたような赤ん坊の泣き声を聞かされて閉口させられた経験がしばしばあっただけに、我が家の子どもたちは赤ん坊の頃から風呂好きで助かった。
女房と長男が産院から帰ってきた日、私は女房に言われるままにベビーバスに水を足したりお湯を足したりしながら水温を計ってオロオロしていた。
女房の方もまだ慣れない手つきながら、赤ん坊の頭を手のひらで支え、親指と小指で耳をふさいでそっとベビーバスで沐浴をさせたときに息子が見せてくれた笑顔にどれだけ救われたことか。
子どもたちがベビーバスを卒業して、家族揃って銭湯に通うようになってからも、兄妹喧嘩が始まる「よーし、風呂屋に行こう!」と銭湯に連れ出すと、喧嘩はすぐに納まり風呂から帰る頃にはもう仲の良い兄妹に戻っていた。
かくいう私も子どもたちに負けない銭湯好きで、夜遅くまで仕事をするときは、我が家のすぐ裏にあった銭湯の閉店まぎわの11時に飛び込むことにしていた。
ひと風呂浴びてくると、新しい電池に取り替えたおもちゃのロボットのようにまた仕事を続けるパワーが蘇ってきた。
ただ私の場合は風呂ならどこでもいいわけではなく、銭湯に限るのである。
内風呂やホテルのユニットバスでは手足を伸ばしてくつろげず、汗を流していくらかはさっぱりするが、充電とまではいかない。
取材旅行などの折にも、銭湯の無い街なら別だがホテルのバスでひと汗流した後は、街へ銭湯を探しに出かけることにしている。
内風呂とちがって、ザブッと湯舟につかってもお湯が溢れる心配もない。
ことに冬など湯気でのぼせることもなく十分に温まることができるから、銭湯に入って湯冷めをすることもなく、新たな仕事ができるエネルギーがまた湧いて来る。
こうしてこれまでに湯舟につかった銭湯は、新潟市、魚津市、富山市、敦賀、京都市、大阪市、名古屋市、静岡市、伊東市、郡山市、須賀川市などなどとかなり広範囲にわたっている。
余談になるが、イラストレーターをしていた30歳代のころ新潟から福井、京都に向けて銭湯めぐりの旅の途中、富山の駅前は風情のある木造の土産物街があり、その脇に「観音湯」という銭湯があった。
しかし、あいにくその日は定休日で観音湯には入ることはできなかった。
さして変わった外観の銭湯でもなかったが、釣り落とした魚のように入り損ねた銭湯は妙に気になる。
そんなことがあって、東京からかなり離れた富山の街はもう来ることもないと思っていたが、イラストレーターから工作おじさんに仕事が変わった30年後に、富山県こどもみらい館から、児童館などの指導員研修に招かれた。
30年振りの富山の駅前の景色は一変していて、当時を忍ぶ木造の建物などはなく、目の前にはビル街が広がっていた。
東京でも銭湯はどんどん減って行く時代で、地方都市とはいえこれだけ変ぼうした富山駅前ではあのときの銭湯はもう残っていまい・・・と思いつつ、研修を終えてから担当のH氏に30年昔の思い出話しをしたところ、観音湯はアルペンルートの登山者たちが汗を流して行く銭湯としてまだありますよと教えてくれた。
その日はホテルに着くと観音湯に向い、私にとっては30年間の胸のつかえを洗い流して来ることが出来た。
*
また地方都市だけでなく、夏の暑い日には東京での打ち合わせの帰りも、銭湯を見つけるとひと汗流すと共に体力と気力の充電をして来ることにしている。
そして銭湯は皆同じように見えていても、土地によって湯舟の位置や形に違いがあり、脱衣場に貼ってあるポスター、看板、客同士の会話などにその街の様子が垣間見えて面白いものである。
我が家のすぐ裏の銭湯は急げば家を出てから1分もしないうちに湯銭を払い、服を脱ぎ湯舟にひたれるくらい近いところにあるが、銭湯には1軒1軒別の顔があり、私が取材先の銭湯でいろいろ味わった街の風情を子どもたちにもミニ体験させたくて、銭湯探検隊を思いついた。
年々銭湯の数は少なくなっている時代だったが、そのころの世田谷の銭湯事情はそれほど悪化しておらず、子どもたちの行動半径の中に4軒の銭湯があって、女房が夕飯の仕度を始める頃になると今日はあの銭湯、明日はあちらと銭湯渡り鳥を楽しんでいた。
やがて、息子が小学校に入って自転車に乗れるようになると、娘は私の自転車の後ろに乗せて、息子の自転車と2台で今日は東の方に行ってみようと方向だけを決めて、あてもなく走り出す。
「あっ、向こうに煙突が見えたよ」
「じゃあ、次の角を右に・・・」
こうして開拓した銭湯は11軒に及んだ。
ゆず湯、菖蒲湯、お正月の朝湯・・・。
また、湯あがりに水をかぶっているいるよそのおじさんを見たむすこは、自分も粋がって真似をして冷たいしぶきをよその人にかけてしまって叱られたりしながら、学校と家族だけでなく銭湯を通して社会とのつながりを体験してきた。
別の項に書いた家族の年令合計が100歳だったことの発見も銭湯の中だった。
銭湯のひとときが一番リラックスできる時間で、他愛もない会話でも一番親子のコミニュケーションを通わせることのできる空間だった。
これまでに銭湯の女湯から火のついたような赤ん坊の泣き声を聞かされて閉口させられた経験がしばしばあっただけに、我が家の子どもたちは赤ん坊の頃から風呂好きで助かった。
女房と長男が産院から帰ってきた日、私は女房に言われるままにベビーバスに水を足したりお湯を足したりしながら水温を計ってオロオロしていた。
女房の方もまだ慣れない手つきながら、赤ん坊の頭を手のひらで支え、親指と小指で耳をふさいでそっとベビーバスで沐浴をさせたときに息子が見せてくれた笑顔にどれだけ救われたことか。
子どもたちがベビーバスを卒業して、家族揃って銭湯に通うようになってからも、兄妹喧嘩が始まる「よーし、風呂屋に行こう!」と銭湯に連れ出すと、喧嘩はすぐに納まり風呂から帰る頃にはもう仲の良い兄妹に戻っていた。
かくいう私も子どもたちに負けない銭湯好きで、夜遅くまで仕事をするときは、我が家のすぐ裏にあった銭湯の閉店まぎわの11時に飛び込むことにしていた。
ひと風呂浴びてくると、新しい電池に取り替えたおもちゃのロボットのようにまた仕事を続けるパワーが蘇ってきた。
ただ私の場合は風呂ならどこでもいいわけではなく、銭湯に限るのである。
内風呂やホテルのユニットバスでは手足を伸ばしてくつろげず、汗を流していくらかはさっぱりするが、充電とまではいかない。
取材旅行などの折にも、銭湯の無い街なら別だがホテルのバスでひと汗流した後は、街へ銭湯を探しに出かけることにしている。
内風呂とちがって、ザブッと湯舟につかってもお湯が溢れる心配もない。
ことに冬など湯気でのぼせることもなく十分に温まることができるから、銭湯に入って湯冷めをすることもなく、新たな仕事ができるエネルギーがまた湧いて来る。
こうしてこれまでに湯舟につかった銭湯は、新潟市、魚津市、富山市、敦賀、京都市、大阪市、名古屋市、静岡市、伊東市、郡山市、須賀川市などなどとかなり広範囲にわたっている。
余談になるが、イラストレーターをしていた30歳代のころ新潟から福井、京都に向けて銭湯めぐりの旅の途中、富山の駅前は風情のある木造の土産物街があり、その脇に「観音湯」という銭湯があった。
しかし、あいにくその日は定休日で観音湯には入ることはできなかった。
さして変わった外観の銭湯でもなかったが、釣り落とした魚のように入り損ねた銭湯は妙に気になる。
そんなことがあって、東京からかなり離れた富山の街はもう来ることもないと思っていたが、イラストレーターから工作おじさんに仕事が変わった30年後に、富山県こどもみらい館から、児童館などの指導員研修に招かれた。
30年振りの富山の駅前の景色は一変していて、当時を忍ぶ木造の建物などはなく、目の前にはビル街が広がっていた。
東京でも銭湯はどんどん減って行く時代で、地方都市とはいえこれだけ変ぼうした富山駅前ではあのときの銭湯はもう残っていまい・・・と思いつつ、研修を終えてから担当のH氏に30年昔の思い出話しをしたところ、観音湯はアルペンルートの登山者たちが汗を流して行く銭湯としてまだありますよと教えてくれた。
その日はホテルに着くと観音湯に向い、私にとっては30年間の胸のつかえを洗い流して来ることが出来た。
*
また地方都市だけでなく、夏の暑い日には東京での打ち合わせの帰りも、銭湯を見つけるとひと汗流すと共に体力と気力の充電をして来ることにしている。
そして銭湯は皆同じように見えていても、土地によって湯舟の位置や形に違いがあり、脱衣場に貼ってあるポスター、看板、客同士の会話などにその街の様子が垣間見えて面白いものである。
我が家のすぐ裏の銭湯は急げば家を出てから1分もしないうちに湯銭を払い、服を脱ぎ湯舟にひたれるくらい近いところにあるが、銭湯には1軒1軒別の顔があり、私が取材先の銭湯でいろいろ味わった街の風情を子どもたちにもミニ体験させたくて、銭湯探検隊を思いついた。
年々銭湯の数は少なくなっている時代だったが、そのころの世田谷の銭湯事情はそれほど悪化しておらず、子どもたちの行動半径の中に4軒の銭湯があって、女房が夕飯の仕度を始める頃になると今日はあの銭湯、明日はあちらと銭湯渡り鳥を楽しんでいた。
やがて、息子が小学校に入って自転車に乗れるようになると、娘は私の自転車の後ろに乗せて、息子の自転車と2台で今日は東の方に行ってみようと方向だけを決めて、あてもなく走り出す。
「あっ、向こうに煙突が見えたよ」
「じゃあ、次の角を右に・・・」
こうして開拓した銭湯は11軒に及んだ。
ゆず湯、菖蒲湯、お正月の朝湯・・・。
また、湯あがりに水をかぶっているいるよそのおじさんを見たむすこは、自分も粋がって真似をして冷たいしぶきをよその人にかけてしまって叱られたりしながら、学校と家族だけでなく銭湯を通して社会とのつながりを体験してきた。
別の項に書いた家族の年令合計が100歳だったことの発見も銭湯の中だった。
銭湯のひとときが一番リラックスできる時間で、他愛もない会話でも一番親子のコミニュケーションを通わせることのできる空間だった。