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法泉寺の桜~武田勝頼の歯髪塚

2025年04月01日 | 山梨の歴史文化ニュース

桜があちらこちらで咲き始めました。

みなさん、春ですね!

さて、今日は桜にちなんだ山梨のむかしばなしをひとつ。

 

写真は、甲府市にある法泉寺にある武田勝頼の墓所です。

 

戦国武将武田勝頼は武田信玄の息子としてうまれ、後継者として激動の時代を生きた人物です。近年の大河ドラマ「どうする家康」では、眞栄田郷敦さんが演じて話題となりましたね。

 

天正10(1582)年3月、甲斐国は織田信長と徳川家康の連合軍の侵攻を受けました。武田勝頼は居城である新府城を焼き払い、東へとむかい再起を図ることとしましたが、最期は天目山のふもと田野というところで自害したとも討ち死にしたともいわれています

信長の配下に打ち取られた勝頼の首級は、息子信勝の首級とともに首実検に供するため西へ西へと運ばれていきました。そして現在の長野県で信長と対面したのち、さらに西へとはこばれ京都で晒されることとなったのでした。

京都では、あまりにむごい処置に武田家から深い帰依を受けていた妙心寺の南化玄興というお坊さんがその首級を引き取って手厚く供養し、境内開山堂のそば近くにすでに建てられていた父信玄の墓のとなりに葬ったのでした。

(南化玄興は恵林寺の快川紹喜の弟子で、武田信玄とも織田信長とも親交があったのだそうです。)

このとき、甲斐国法泉寺のお坊さんが妙心寺にて勝頼の歯と髪を譲りうけ(説によっては首級とも)、大切に甲斐国まで運んできたのだそうです。

帰国したばかりのころは織田勢がいたるところで武田の残党狩りをしており、まっすぐ寺に帰ることができなかったのだとか。

のちに勝頼の歯と髪は境内にひそかに埋葬されましたが、目印に山桜の木が植えられたといいます。

現在墓所の側らに見ることができる桜はこのとき植えられたものなのでしょうか。

武田勝頼が亡くなったのは3月11日。ちょうど桜の咲く今頃なのですね。墓所の桜はこのあたりに自生する桜とは種類が違うのだとか。

遠い京の都から一緒にはこばれてきたのでしょうか・・・。

数日前にはまだ咲いていなかったのですが、今頃咲いているかもしれません

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