阿波の水軍を語るには、森水軍の森甚太夫と森甚五兵衛の両家を措くことはできない。阿波の水軍は森水軍を主軸としていたからである。
森水軍は遠く室町、戦国の時代から阿波周辺の海域を取り締まっていた。本拠地は鳴門を中心として土佐泊にあったと言われているが、阿波藩主の蜂須賀家は阿波国の南方海域を重要視し、二千石の中老として椿泊へ給地を与えた。それ以来、森水軍の本拠地は椿泊となった。
阿波の国衆が微禄でしか登用されなかった中、高禄で抱えられたのには、紀伊水道から瀬戸内の海域を熟知する海の名門として、他に抜きん出ていたことが挙げられよう。
徳島市新蔵町の下屋敷には、数十艘の船を泊めた船だまりがあった。松の植わった土手にその面影を窺うことができる。
(写真は福島橋南側・新蔵町の森家船だまり)
森水軍は遠く室町、戦国の時代から阿波周辺の海域を取り締まっていた。本拠地は鳴門を中心として土佐泊にあったと言われているが、阿波藩主の蜂須賀家は阿波国の南方海域を重要視し、二千石の中老として椿泊へ給地を与えた。それ以来、森水軍の本拠地は椿泊となった。
阿波の国衆が微禄でしか登用されなかった中、高禄で抱えられたのには、紀伊水道から瀬戸内の海域を熟知する海の名門として、他に抜きん出ていたことが挙げられよう。
徳島市新蔵町の下屋敷には、数十艘の船を泊めた船だまりがあった。松の植わった土手にその面影を窺うことができる。
(写真は福島橋南側・新蔵町の森家船だまり)