阿波の水軍まつり

江戸時代から続くだんじり・関船の曳きまわしを紹介します。

もっと歴史を !!

2008年07月12日 19時52分49秒 | Weblog
 昭和20年の終戦を境に、私たちは日本の歴史、いや郷土の歴史さえ捨てさろうとした。人々の生活の歴史を消し去ることは不可能だが、それでも、歴史を否定することで歴史の連続性を失うことを余儀なくされた。今、歴史を冷静に振り返る時が来ていると思う。人間は歴史の中で生きることはあっても、歴史の中で孤立する生活を営むことは難しい。
 まず、身近な郷土の歴史を勉強しよう。江戸時代の260年の間、世界的にも稀と言われる平和な時代の智恵に学ぶことは自然なことだろうし、歴史に立脚してまちづくりを考えることもまた重要なことである。誰もこれを否定することは出来ない。阿波の徳島にも興味津々の歴史がある。
 写真は、蜂須賀家の菩提寺「興源寺」さん。

日本一の石灯篭・阿波藍商の印

2008年07月11日 18時15分59秒 | Weblog
 徳島市二軒屋町にある勢見山の金毘羅さんに、日本一を誇る石灯篭がある。金毘羅さんと言えば、讃岐の金毘羅さんが有名だが、徳島県内にも三大金毘羅さんがある。勢見山の金毘羅さん、徳島市川内町宮島の金毘羅さん、鳴門市木津の金毘羅さん、これである。阿波藍商たちは、海上輸送の安全を祈願して航海に関係する神社、県内の神社を始めとして広島の厳島神社、讃岐の金毘羅さん、大阪の住吉神社に石灯篭や鳥居、玉垣、狛犬などを寄進した。
 天保二年(1831)、大阪の住吉神社に神社中最大の一対の大灯篭が寄進された。勢見山の金毘羅さんの高灯篭はそれに関連するものであるが、この石灯篭は高さ九メートル、天保十年(1839)、藍玉大阪積仲間たちが寄進したものである。。

波乱万丈の阿波藍商 「大串龍太郎」

2008年07月10日 20時40分31秒 | Weblog
 阿波藍商は大小にかかわらず郷土に貢献した。中でも、東京の澁澤栄一、大阪の五代友厚が多くの企業設立に参画したように、徳島にあっては、大串龍太郎ほど企業の設立を企てた人物は少ないだろう。
 例えば、明治二十七年(1894)徳島電燈会社の設立。東京、京都、大阪、名古屋、横浜などの大都市に次いで7年後に電燈を灯したのである。又、徳島鉄道会社がある。明治二十九年(1896)、発起人18名と共に会社を設立し、自ら社長に就任した。この会社は鉄道国有化法によって、明治四十年(1907)に国有化された。設立時の開通区間は徳島~蔵本、府中~西麻植であった。金融機関としては、徳島銀行があったが、徳島県では第八十九国立銀行、久次米銀行につぎ明治十五年(1882)第三番目の銀行として設立され、大串龍太郎が頭取となった。この銀行は昭和初期の金融大恐慌の荒波に呑まれ、日本銀行総裁と徳島県知事の立会いのもと阿波商業銀行と合併することとなった。
 いづれにしても、藍商・大串龍太郎は企業家として徳島県に抜群の貢献をした人物と言える。
 写真は、阿波藍商の盛衰について熱弁をふるわれる泉康弘先生(波乱万丈の阿波藍商・講演会にて)

数奇な運命 千山丸

2008年07月09日 21時56分57秒 | Weblog
 安政四年(1857)、阿波藩主13代蜂須賀斉裕の船として建造された「千山丸」は、現在残っている大名の船としては日本で最も古い和船である。「千山丸」の価値は建造年が明らかなことでも船舶建造史上で貴重な存在である。
 文久二年(1862)、幕府は大名の所有している軍船扱いの関船、小早船、鯨船などの廃船を命じて、総て破却してしまった。
 その中、「千山丸」は蜂須賀家が釣り舟として使用すると言うことで破却を免れ、明治時代を迎えて、蜂須賀侯爵の南常三島別邸のお船蔵に保管されていた。
 もう一つの大きい理由は、大正天皇が皇太子の時分に徳島へ来られ、「千山丸」で鳴門までおいでになった経緯があり、天皇の乗られた船ということで廃船にすることができなかった。このような偶然に偶然が重なり、徳島城旧表御殿内の御船小舎に保存されていたのである。このような経緯が無ければ、「千山丸」は廃船となっていただろう。
 写真は、「千山丸」について語る須藤茂樹学芸員(阿波の水軍まつりシンポジウムにて)

阿波藍商の活躍~阿波水軍と共に~

2008年07月08日 23時01分29秒 | Weblog
 阿波水軍、言い換えると阿波藩の財政を支えたものに阿波藍商の商業活動(廻船事業)があった。「阿波の水軍まつり」は言うまでもなく徳島の町づくり活動であるが、江戸時代から明治時代にかけての阿波藍商は徳島の町づくりに言い尽くせない貢献をした。
 阿波藍商は徳島産の藍玉を主力商品として全国を股にかけた商業活動を展開した。その利益は莫大なものがあり、全国から集められた富は阿波藩の財政援助に投入された。阿波藍商の波乱万丈の活躍については、泉康弘先生の名著『藍の豪商』~経営戦略と盛衰~に詳しいが、阿波の水軍も阿波藍商の水運も持ちつ持たれつの関係を保ちながら、その盛衰を同じくした感がある。
 写真は藍商が奉納した大鳥居(鳴門・妙見神社の大鳥居)

阿波の水軍を支えたもの

2008年07月07日 20時00分00秒 | Weblog
阿波水軍は350艘を超える関船、小早船、鯨船、荷船、御駕籠船、御馬船、御風呂船、御道具船などそれぞれの用途に即した和船がいた。
船は領内の拠点、徳島は勿論のこと、鳴門の北泊、撫養港や淡路の由良、洲本、岩屋などにも配置されていた。
船の建造や修理に携わる役人を始めとして、船大工、鍛冶職人、桶職人、船頭、水主など水軍町に居住する人々は千数百人を上回ったにちがいない。
これらの人々が阿波の水軍を支えていた。
写真は往時の面影はないが、静かな佇まいを見せる鳴門・撫養港の風景。

眉山を望む水域で

2008年07月06日 01時19分55秒 | Weblog
参勤交代のコースは、まずお城の東にある福島橋のたもとで川御座船に乗り、津田沖に停泊する海御座船「至徳丸」に乗り移るのだが、その前に千山丸には一仕事がある。海の守護神「龍神様」を受け取るために福島の四所神社へ向うことだ。ご祈祷を終えた龍神様を安宅の船着き場で恭しく受け取ると、至徳丸へと送り届ける。
早朝に、お城を出立された蜂須賀様は,新町川の河口を通過し、お昼頃には御座船に乗り移られる。いよいよ出帆であるが、後ろを振り返ると、眉山の優美な姿が目に入る。
阿波の水軍まつり千山丸競漕は、往時を偲んで、この新町川河口水域で行われる。

阿波の水軍まつり もう一つの主役

2008年07月05日 21時01分30秒 | Weblog
阿波の水軍祭りのもう一つの主役は『千山丸』である。
阿波水軍を構成した船に鯨船がある。鯨船自体はさほど珍しくはないが、江戸時代に建造された和船となると、現在日本に残っているのは『千山丸』しかない。数奇な運命を辿って生き残っている鯨船千山丸については別項で述べたいと思っている。
千山丸の仕様は、安政四年(1857)建造、船体長10.44メートル、肩幅2.77メートル、深さ0.64メートルである。平成八年、国指定の重要文化財となっている。
阿波の水軍まつりでは、この『千山丸』と同じ鯨船を造って新町川河口水域で競漕行事をしようとするものだ。
写真は、千山丸を紹介するパンフレット(徳島市立徳島城博物館)

船型だんじりの呼び方

2008年07月04日 18時16分11秒 | Weblog
 船の形をしただんじりの呼び方は地域によって異なる。江戸時代に水軍を持っていた四国の各藩には御座船や鯨船を模しただんじりが残っているが、呼び方はそれぞれにちがう。御船、御神船、御座船、鯨船、宮船、席船などである。だんじり自体の歴史は非常に古いから江戸時代以前に溯って呼び方を受け継いでいるのは当然かも知れない。
 徳島では阿南市を境として、北の地域では「船だんじり」、南の地域では「関船」と呼ばれている。
 関船はずばり、海賊(水軍)が海上に動く関所を設けて海上通行税を徴収していたことを物語っている。それが証拠に今でも、土地の古老は祭りの関船が近づいて来ると、「関が来る」と言うのである。
 写真は、松茂町長原にある若宮神社の船だんじり(八幡丸)。

宍喰の関船

2008年07月03日 00時28分46秒 | Weblog
 海部郡海陽町久保にある宍喰の祇園さん(八坂神社)は、日本三社に入る名門祇園さんの一つとされている。京都の祇園祭りには及ばないが、大山(桂男鉾)、小山(長刀鉾)、商人仲のだんじりなどと一緒に、関船「八幡丸」の巡行を見ることができる。
 宍喰の祇園さんのお祭りは、7月16日(水曜日)、17日(木曜日)であるが、鉾の優雅さと関船の勇壮な姿が印象的である。徳島で今年最初に見ることができる、飾りたてた関船は宍喰の祇園さんの「八幡丸」である(17日)。
写真は巡行する関船「八幡丸」(徳島新聞社提供)

徳島で一番古い船だんじり

2008年07月02日 00時40分59秒 | Weblog
 江戸時代、享保14年(1729)以前に造られたと思われる船だんじりがある。記録の残るものとしては徳島で一番古い船だんじりのようだ(徳島大学総合科学部・高橋晋一教授 談)。
 これは、阿南市原ケ崎町の蛭子神社で曳き回されていた。今は、神殿横の倉庫の中にしまわれている。船体長7メートル、肩幅1.8メートル、高さ1.5メートルの海御座船を模したものであり、船だんじりや関船の原型を留めた貴重な船である。
 往時の原ケ崎地区の繁昌振りが窺われる逸物でもある。

堂の浦の船だんじり・その2

2008年07月01日 06時40分54秒 | Weblog
 地元の造船所で造られた船だんじりである。和船を造る船大工さんは次第に少なくなり、今では1人か2人だと言う。「自分が元気なうちでないと、出来んでよ」と老社長は言っていた。如何にも寂しいことだが、時代がそうさせたのだ。
 この船だんじりは海御座船を模したものだ。はるか昔には森水軍が根拠地としていた土地柄で、その流れを汲んでいる人たちも多いかも知れない。