介護というには大袈裟ですが。

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パートナーの異変に。11

2022-09-21 05:08:33 | 日記
社交ダンス教室のパートナーだった男性の異変に最初に気付いたのは、母だった。
『社交ダンスは男性のリード次第で、女性はついていくだけだ。』
と、よく言っていた。
今回も男性のリードに任せていたのだろう。優雅で紳士的な振る舞いは、ダンスにおいても、いかんなく発揮され、母は心底信頼していたからだ。
しかしその日は違った、パートナーは倒れはしなかったが、足元は時折、大きくフラつき、呼吸の乱れは隠しようがなかったという。
最初母は、自分が悪いのではと思った、しかしすぐにパートナーが、いつもと違うことを感じた。
『少し休みますか?』
『大丈夫ですよ』
最初は気丈に平常に振る舞っていたパートナーも、それから2分くらいたってからか、母に告げた。
『少し休みます。』
『そうですね。』
母は笑顔で快諾した。
紳士はホッとした様子を見せ、近くの椅子に倒れ込むように座りこんだ。
周囲の人は異変に気づき心配をしたが、紳士は平静を装い、笑顔で対応したという。
何事もなかったように、時間がユックリ流れた。



衰えに過敏10

2022-09-20 03:42:49 | 日記
母は習い事を続けていく事を躊躇していた。衰える体に必要以上に過敏になっている印象だった。
ふらつきは私の想像以上にショックな出来事として母の脳裏に刻み込まれた。
足元の衰え、そして周りの言葉が聞き取りにくいことに対して、思うように事が運ばない焦りや苛立ちは本人でないと理解出来なかった。
私個人的には習い事は続けてほしかった。しかし嫌なら辞めれば良い。
本人の好きにすれば良いと思っていた。

母は習い事でも休むのは嫌がった。
毎週3回の習い事を、休む事なく続けた。
そんなとき、社交ダンスの教室でのことだ。 
同じ教室に通う、ほぼ同じ年の男性がいた。変な意味ではなく母と気が合い、ダンスパートナーも度々組んでいたらしい。母は彼の紳士的な振る舞いや、ダンスのリードに安心感を持ち、頼っていた部分があった。
しかし、そんな彼も後期高齢者でもある。
そんな彼が、教室のレッスン中に、軽い立ちくらみをしたらしい。そこでレッスンをやめておけば良かったが、彼はレッスンを続けた、母も、そして周りも彼の異変に気付いていなかった。

体の痛みより痛い自信の喪失。9

2022-09-19 06:07:06 | 日記
母は、ふらつき、壁に右肩を強打したものの、そこまで大事には至らなかった。
その日は、応急処置的にシップを貼り、翌日近くの外科に私と行くことにより、一時的に、痛みは回復をした、少し腫れているので、塗り薬とシップを多めに外科の先生から貰い、何かあれば、また来てくださいね。
という感じだった。
母は少し元気を取り戻し、毎日朝、夕の2回、塗り薬をせっせと塗って、几帳面に決まった大きさのシップを貼った。
そのかいもあって、腫れた肩から脇腹も少しずつ回復をした。
ただ今までより、母に元気のないのが気がかりだつた。
母はコロナ禍の前は週に3日、異なる習い事をするほど外出をした。しかしコロナ禍において、習い事が隔週になったり、一時休養になったりしていた。それが少しずつ再開するタイミングでの、ふらつきだった。
母は習い事に行くことを少しためらい始めた。体の痛みはなくなったが、精神の痛みは消えていなかったのである。
『もう年だから、習い事は、みんなに迷惑かねぇ』
母が私に告げた。




大事にはいたらなかったが。8

2022-09-19 04:52:18 | 日記
母は電話を取ろうと立ち上がる時に足を滑らせ右に大きくよろけた。
私の脳に強い衝撃が走った。
その時、幸いな事は、母は壁に右肩を強打したものの、頭は打っていなかった。グループホームの90歳のおばあちゃんとの一番の違いは、頭を強く打たなかった事。それにより右肩の強い打撲と腰をひねったことにより、動作がぎこちなくなったものの、最悪の結果は回避出来た。
母は感情を表さず無表情だった。時間にして、30秒位だったかもしれない。
しかし、その、ほんの少しの30秒が私にとっては忘れられる事の出来ない、長い長い30秒だった。
あんな母の表情は見たことなかったからだ。
すぐに子供達が駆け寄り声をかけた、母はやっとそこで表情を取り戻し、気丈に、そして笑顔で振る舞った。
鳴っていた電話のベルは、気づいたら切れていた。

蘇った記憶 7

2022-09-18 07:28:59 | 日記
20年近く前のグループホームでの出来事は、今でも、はっきり覚えている、90歳を超えた、おばあちゃんの転倒は、その場の空気を一変させた。施設職員は驚く程、明らかに動揺をした。すぐに救急車が呼ばれ、警察が来た。私達ボランティアは、ほどなく解散となった。そしてその施設には、その後2.3回は行ったものの、何か全体的に静かな施設になっていた。私もその施設にボランティアに行くのをやめたのか、やめさせられたのか、はっきり覚えていないが、行っていない。90歳を超えたおばあちゃんは、すぐに病院に入院をした。私は、おばあちゃんが大好きだつたので、お見舞いに一度伺った。
その時のおばあちゃんは私の知っている人ではなかった、覇気がなく、こちらの声掛けにも、愛想は振りまくも、私の事は全く覚えている様子はなかった。
ご家族によれば、認知が急激に進んだとのことだつた。
そして、その後、その当時の同じボランティア仲間から聞かされるのだが、お見舞いに伺った2年後に死去される。
どういう経緯をたどったかは定かではないが、あの面倒見の良い、おばちゃんの姿は、輪投げのオリエンテーションを最後に、その後見ること出来なかった。と伝えられた。
私は人の人生が、終わるキッカケを見たようで、なんとも言えない気分になった。
人間は嫌なことは忘れる生き物なのか、あれから20年たった今日。
慣れない営業に配属され、数字数字数字と追いまくられているうちに、20年前の施設の光景は、綺麗に忘れていた。
しかし母の転倒によって、あの20年前の光景が、怖いくらいにシンクロし蘇った。