パリを拠点に活躍した版画家の菅井汲(くみ)は、母絹甫の兄に当たります。
母親違いの兄妹ですが、父親に当たる人物は、音楽、美術、語学とあらゆる方面に才があったため、絹甫の姉妹たちは、国際弁護士の走りであったり、はたまた宝塚の男役トップスターであったり。言ってみりゃ、絹甫がまだ一番普通だったりして・・・
ひと回り年上の菅井汲。みんなは本名の貞三から「貞ちゃん」と呼んでいました。
子供の頃からとにかく絵が大好きで、いつでも部屋の隅っこで紙切れに、大人になってからは煙草のバットの箱に絵を描いていたそうです。そのころ、こんな世界的な画家になると誰が思ったでしょうね~
いやいや、見抜いていたのが私の曾祖母、初代絹甫。
実の父親は、女の子はメチャ可愛がりする一方、男の子には完全に無関心。
そこで初代絹甫は、押絵の生徒さんたちの帯を描かせることで、大阪美術学校に通う学費を作らせたのです。
初代絹甫がいなかったら、菅井汲の出発はなかったかも・・・
才能に恵まれながらも、筆舌に尽くしがたい複雑な家庭環境で育った伯父は、美術学校を出た後、阪急百貨店の美術で仕事をするようになります。昔、お馴染みだった色んな絵のついた包装紙を作ったのもこの人です。
私が生まれた時、菅井汲は31歳。近くの本通り商店街にあった呉服屋さんで、赤い綺麗な着物を買って喜んでくれたそうです。
その翌々年、最初の奥さんを日本に置いて、パリへと旅立ちます。
そこから次々と認められ活躍していくわけですが、誰の手にもわたっていない、極々初期の細密画風のお猿の掛け軸が家にあります。これって・・・お宝物かも
今月いっぱい、芦屋の美術博物館で館蔵品の展示があるもんで、ダメもとで母に誘いかけてみたところ、意外にも行く気に
最近、ほとんど外出する気になれなかった母が、「貞ちゃんに会いたいわ・・・」と。
斬新で、何一つ無駄を感じさせない作品を身近に見ながら、懐かしいあの頃にタイムスリップした遠い目が潤んでいるような・・・
「日本的とか東洋的とか、ちっぽけなこと。日本人である以前にもっと大きな私個人」
「作品は完成したら後は鼻紙みたいなもん。それを有難がるのはおかしなこと」
「共感者などというあいまいさはつまらない」・・・・・
「ほんとほんと!!私もいつも思ってるんよ!」って共感する言葉だらけ。
絵の事、押絵の事、いっぱいいっぱい話したかったな・・・
爽やかな梅雨の晴れ間のひととき、「病気に負けんと、がんばらなあかんよ!」って、伯父が妹の背中を押してくれたような朝でした。
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