難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「壬申の乱」の勝ち組と負け組を、令和元年に捜索

2021年02月04日 | 歴史紀行
「壬申の乱」の勝ち組と負け組を
 令和元年に捜査


    制作開始 令和元年8月 8日
    校正加筆 令和3年2月 4日

 壬申の乱の迷説明は、別ブログ
 女の戦い?「壬申の乱」を立ち上げます。
 そちらをご覧ください。(制作途中、すみません!)

  令和元年8月14日
 「桑名郡家 懸神社(あがたじんじゃ)




  令和元年8月13日
 「文袮麻呂墓」




 今回の宇陀地区、桑名地区の探索は。
 令和元年5月に、彦根市の山岳地帯、明幸集落を訪れて、
 考えてしまった雑想
 から始まりました。

 詳しい経過は
「壬申の乱」を令和元年に探索 -その2- をご覧ください。

 明幸集落を訪れ、歴史好きの私の心が、考えなくてもいい
ことを、想像想定し始めてしまいました。
 明幸集落出身の方には、
「くだらない妄想をするな!」と怒られそうなのですが。
それは、.........

 この妄想の前提は、明幸集落が、地区の武奈町、男鬼町などと
手を組み、千三百年前に起こった、壬申の乱に参加
したと、歌声喫茶で出会った、その地区の出身の方に
偶然、教えてもらい。明幸集落が大海人皇子側か、
大友皇子側かどちらについたかを想定する内、
どうやら、地元に残っている言い伝えなどから、
負けた大友皇子側に、ついたようだということになり、
歴史好きの私の心が大きく動き、5月にその地を
訪れさせてもらい、訪問したその場所で、私の心に、
大きな声で語りかけてきたのが、この地区の
それからの、千三百年間が見えてしまったと、
妄想させられてしまったことです。

「何を根拠にそんなこと言うとるんや?」

 現地を訪問し、目のあたりにした廃村の状況と、その逆に
大海人皇子側についた、明幸集落の、すぐ隣地区の、
息長氏の地元の町並みの賑わい。大海人皇子が戦いの
最初に、たった三十人程で吉野から逃げ出した時に
最初に味方についてくれた、たのもしい猟師二十人の
甘羅村(奈良県宇陀市大宇陀区)の地区の明るい
印象とあまりに違うと、思ってしまったのです。

「ナンのコッチャ?」

 私は、関西の貧しい人間ですので、見栄やプライドより、
お金の価値の大きさ辛さは、身にしみてよく知っていると
思っていますの、ついつい。
 千三百年前、当時の最高権力者から、ご褒美を与えられた、
戦争功労者側と、逆に敵方についてしまった戦争犯罪者への、
天と地ほども違う、冷たい辛い対応の差が、年月と伴に
薄まることは決して無く、むしろ借金の金利がドンドンと
膨らむように、今に至っているのでは無いかと、思えて
しまったのです。

 北陸地区や中部東国から、京都奈良に通じる幹線道路が
ニギヤカに幾本も交差している、息長氏の地区。
 伊勢や東国から、飛鳥奈良に通じる路が幾本も通っている、宇陀地区。

 地図を見て不思議に思ったのですが、不破関から、山沿いに入り
武奈、明幸地区を通り、多賀大社に抜ける路を切り開くのは、千三百年も
掛けなくても、出来そうですよね。
 三重県から河内風穴を通って、多賀大社へ抜ける路も広く出来そう
ですよね。
 何故、手が着けられていないのでしょうか?
「壬申の乱」の後、そういう要因が積み重なって、千三百年後に
明幸集落は、廃村になってしまったのでは無いでしょうか?

 5月の索で、見えてきた事を、
「壬申の乱」の勝ち組と、負け組(仮名)として、8月に
宇陀地区と、息長氏の地区、明幸集落とを再度散策しました。

 宇陀地区のネット資料に、壬申の乱の項目が僅かしか見当たりません!
一番知りたいのは、立派なものになっているはずの、猟師二十人の住まいです。
「見つけられるか? 大丈夫だろうか?」



 8月12日から〜14日まで、探索をしてきました。
台風10号のせいで、スケジュールは無茶苦茶に成ってしまいました。

※ 雑記中、順次編纂してゆきたいと思っています。

12−1)大和郡山市のヒダ水郷
12−2)スナック「おねえ」お盆休みのため、別のスナックへ。
12−3)泊まりは 大和郡山サンホテル

13−1)宇陀の吾城 道の駅宇陀
13−2)宇陀松山旧城下町古い町並み
13−3)文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓 

  文袮麻呂の墓? て誰のお墓? 壬申の乱に関係あるの?





 皆さん、お恥ずかしい限りなのですが、私は、壬申の乱の散策を始めて、
宇陀の甘羅の辻で、タムロしていた猟師20人が、吉野から逃げ出した
大海人皇子の、わずか30人ほどの隊列に加わったことに興味を持ち、
関連史跡を調べるまでは、文袮麻呂の名前すら知りませんでした。
 でも、日本書紀に吉野からの一行の中に、文袮麻呂(書袮麻呂)の名前が
書かれており、その墓が猟師20人が合流した、甘羅の辻から数キロの
ところに造られていた事に、何か私が納得できる関連を解かねばならない
謎がありそうで仕方がないのです。
 
 山の中のその又山の中。
途中意外に、農家集落多し。
地方農家としては、珍しいと思える数軒の豪邸発見。
もしかしたら。(妄想発生!!)


 墓のすぐ側に(100m程)、農家がありました。
この農民が、近くの山を開墾して、墓を偶然発見したのかな?
 200m程途中に、地元の農家の墓が数基分ありました。
車の中から、ざっと数えただけですが、二十基 程でした!!
 この日(8月13日)盂蘭盆会法要でしょうか、お墓参りに
お花を持って、車で数家族が来られていました。
文袮麻呂の墓との関連を、想像してしまいそうな近さでした。


 ここで文袮麻呂の墓のことを、ネットで調べたことを書いておきます。
1) 墓は、江戸時代後期1831年、偶然近くの農家が、山を耕作中に発見。
2) 墓は、当時(707年、千三百年前)としては非常に珍しい火葬墓。
3) 掘り起こされた出土品から、墓誌を刻んだ銅板が見つかり、
 その記載文により、「壬申の乱」の英雄、文袮麻呂の墓とわかる。
 分かるまでは、ずいぶん時間が経ったようです。
4) 遺品は当初地元の、龍泉寺に収められた。
 後日(昭和27年)国宝に指定され、東京国立図書館に所蔵される。

13−3)文袮麻呂の墓から、猟師がタムロしていた、甘羅の交差点までの
 最短と思える道をLIFEで走行。
 この道を1300年前に猟師たちは通ったのだろうか?

13−4)甘羅村の交差点から、文袮麻呂の墓がある山を望む。


←①   ②↑   ③↑ ④→
 ①宇陀市榛原
 ②文袮麻呂墓のある山
 ③墓のある山からの交差点
 ④大宇陀、松山城城下町
*画像解析度により、若干位置に差異があります。)


 手前の丘と丘(農家と農家)の間から、確かにハッキリと望めました。
 山の名前は不明です。調べる方法があるのだろうか?

 さあここで、疑問点 不明点 謎を整理してみます。
1)何故此処に、文袮麻呂のお墓が在ったの?
2)誰が造ったの?
3)誰が管理していたの?
4)何故お墓があることを、誰も忘れてしまい、江戸時代の末期に、
 偶然掘り起こされたの?
5)文袮麻呂の子孫はどうしたの?

 ネットで調べたことを元に、妄想を綴ってゆきます。

 お墓は、その人が亡くなったときの地区に、親族や、知人が作るのが
今も昔も変わらないと思います。だって、その後の、お墓の維持や
個人を偲んでのお参りのときに、近くにないと困りますものね。
 でも文袮麻呂は中国 漢系の渡来人が祖先で、この宇陀地区の
出身者でも、ユカリのある部族でもありません。
「壬申の乱」の後も、天武天皇に従って、飛鳥の宮に行き、臣下として、
政務を取っていたと想像するのが、矛盾がないと思えますよね。
文袮麻呂の死後も、息子の文馬養が奈良の都で、政務に着いていたと
されています。
つまり、文族は文袮麻呂の死後は、奈良に拠点を置き、宇陀地区に
縁がなかったと考えられますよね。
 私が想定できる状況は、只一つしか思い浮かばないのです。

 「壬申の乱」の論功行賞で、猟師20名が住んでいた宇陀地区を
与えられ、もちろん、猟師20名も褒美と共に同地区の所有を
国から公に認められたと想定できますよね。
 文袮麻呂が飛鳥の他にも、宇陀地区に豪華な家が造られて住まいして
いたことは容易に想定できそうですね。
 その師弟関係から、文袮麻呂の死後、墓を是非、宇陀地区に
造らせてほしいと、文袮麻呂の親族に願い出て、豪華なお墓が
造られた。そうして、その墓に通じる上り坂の途中に墓をお守りする
意味合いで、自分たちの種族の墓を造り、恭順を示す格好にした
というお話でどうでしょうか?

 文袮麻呂の墓から200mほど降りた処にある20基ほどの墓地
その墓地に先祖の墓としてお参りに来られる子孫たちは、この上に
文袮麻呂様のお墓があることを、何代先の子孫に申し伝えられた
のでしょうか。
 私は残念ながら、8代前の自分のご先祖が、何処で何をされておられたか
存知上げません。皆さんはどうですか?
 文袮麻呂の墓も、おそらく、10代ほど後の300年後には、
申し伝えが行われなくなり、坂の先の木立の中は、1000年後に
ご近所の農家の方が手を入れるまでは、誰も知られない事に
なったのでしょうね。

 文袮麻呂と、甘羅村の辻にタムロしていた猟師20名との関係が
想定していた関係を持って、文袮麻呂の死後にお墓が造られたとして、
「壬申の乱」の当時を妄想してみたいと思います。

 大津宮から逃げ出し、吉野で隠遁していた大海人の皇子に従っていた
文袮麻呂は、近江朝との差し迫った状況から、東国へ逃げることを計画しており、
その途中の宇陀地区の山間部には、武力に優れた猟師がいるとの
情報を聞きつけ、その時が来れば知らせるので、途中で合流してほしいと
前もって許諾を取り付けていた。

 此処で朝廷とか、権力となんの関係もない、一般人の猟師20名の立場から、
これから起こることの流れを見ていきたいと思います。
テレビも新聞もない時代ですから(当たり前か)朝廷の権力闘争など
彼らはまるで知らない訳で、かろうじて、中大兄皇子が総指揮をして、
唐と戦いをして、百済の白村江で大敗してしまい、その後、唐軍が
やって来て、随分偉そうにしている様だ、
(昭和二十年代の GHQ 米兵の所業を思い起こしてください。
 婦女子は自分の遊び道具と思い込み、悪行の限りを尽くしましたよね。)

というくらいは、噂で聞いていたかもしれません。 

 朝一番に、宇陀の山間部の猟師の家々に、首領の大伴朴本連大国
(おおとものえのもとのぬらじおおくに;日本書紀に記載あり。)
大国さんから甘羅村の辻に、戦いの武具を揃えて集まるようにと、
強い支持があり、何がなんだか、意味がよく解らず、山を降りて、
甘羅村の辻へ行き、20人で、たむろしていた。

 そこへ男女三十人ほどの一団がやって来て、その中から
文袮麻呂(ふみのねまろ)が出てきて、
「こちらの急な要望に応じて、日本を唐に売った近江朝廷の
 討伐軍に参加してくれて、とても感謝します。」
「この後、我らの総大将 大海人の皇子様と鵜野のさらら姫様と共に
 桑名 不破関を経て、大津宮に向かおう!!」
「不審な輩が居たら、あなた達が率先して、ヤッツケてくれ。」
「貴方達の弓矢の威力に、とても期待していますよ!」
「そして、戦いの終わった後の褒美を、期待してください。」

(文袮麻呂が関西人;祖先が漢国からの渡来人系で浪速に
 居住していたと思われるので、関西弁を検討中。)

「近江朝廷て言ってたけれど、去年の12月に亡くなられた、天智天皇の
 長子 大友皇子が即位されているんだよね。」
「大丈夫かいな? でも勝てば官軍だからな。
 ご褒美がもらえるなら、やるしかないぞ!」
「名張を過ぎれば、各地から援軍が合流してくれるそうやから、
 名張を超えるまでの辛抱や!」


{ 壬申の乱の数ヶ月後
  宇陀 甘羅村にて }

「やっと甘羅村へ帰ってこれたなあ、
 初め此処で、大海人の皇子さんの一行に出会った時、元気のない
 30人程の隊列に、こんなんで大丈夫かいなと、心配やったんやけど、
 進んでいくほどに、味方しますという兵隊がドンドン現れ、
 不破関に着いたときは、4万人程になっていたよな。」

「それに途中で、話し方に特徴のある戦闘の参謀が加わって、
 俺ら皆、大きな戦なんかしたこと無いのに、
 いろいろ訓練させられ、隊列を組んだり、歓声を上げたり、
 皆の服に赤い布を着けさせられたり、何するんやと思ってたら、
 隊列を組んだ団体が、赤い布を着けて、大声で歓声を上げて、
 進んでいったら、敵の奴らビックリしてしもうて、戦う前に
 逃げ出しよったもんな!」

「後は逃げ遅れた敵の将軍を、切り倒したら終いやったもんな。」
「後から、文袮麻呂大将に聞いたら、戦い方をいろいろ教えてくれた
 あの参謀は、新羅からやって来た軍人やったんやて。
 そら朝鮮では隣の国同士で、沢山の戦争を体験してるもんな。」
「この壬申の乱が終わってから、沢山のご褒美をもらって、
 船まで新調してもろうて、嬉しそうに新羅へ帰ったそうやで。」

「なんでも、今から千年以上後の歴史学者から、
「壬申の乱」は、唐と新羅の仲違いから起こった代理戦争や
 言われるそうやで。」

「あれ? この壬申の乱は、天智天皇の女房で、
 世継ぎの大友皇子さんの子供を生んだ、十市女王(といちのひめ)のお母さんで
 元は大海人の皇子さんの女房やった、歌作りの上手い
 額田王姫
(ぬかたのおおきみ)と、
 大海人の皇子の正式な后の、鵜野のさらら姫
(後の持統天皇)さんとの、
 女同士の諍いが発端や言うて、行軍の途中で、鵜野のさらら姫さんの女官に
 聞いたで。」
「そもそも、大海人の皇子の子供の、十市女王を生んでいる、額田王姫を
 天智天皇が無理やり大海人の皇子さんから奪い取ったらしいんや」

「兄弟同士で何かややこし話やな!」

(女は口が軽いというのは、今も昔も一緒ですよね。)

「本当にあの女官達はお喋りやったな。
 聞いてもいないのに、大海人の皇子さんの、そもそもの生い立ちや、
 白村江の戦いのときの所業なんか、後の世の人が聞いたら、大騒動に
 成りそうな事まで、ペラペラと。」

(女官達が喋った話の内容は、皆様で御想像ください。
 もしかして、甘羅村の猟師二十人のお墓の中に眠っていたりして!?)

「文袮麻呂さんが我々を取り立ててくれて、勝ち戦に加われたもんやから、
 物凄いご褒美や、この宇陀地区の所有を授けられた、文袮麻呂の
 代理で、正式な権利を得られたからなあ、これからどんだけ生活が
 楽に成るこっちゃ、分からんくらいやで。」

 ここまでの妄想で、文袮麻呂の墓が、宇陀地区 甘羅村の直ぐ傍の
皆が見上げられる山の上にあり、1000年以上もその墓の存在が
地元の人から忘れられていて、たまたまそこを掘り返した農民に
発見されたという、不可解で、文袮麻呂様の子孫さん達にとって、
とても恥ずかしい事件の、辻褄が合うように思うのですが、
如何でしょう?
 それを確定するのは、文袮麻呂の墓の200mほど坂下の20基程の
恐らく造った当事者の地元農家のお墓の中に、1300年前の何か、
印があれば、凄い発見になって大騒動になりそうですが?

 実は、文袮麻呂の墓の下200mほどの処にある、20基ほどの
墓地の写真や、大宇陀の松山地区から、文袮麻呂の墓に向かう途中の
こんな山がある場所に、こんな立派な大きい農家があるなんてと思われた、
家が何軒も見かけられて、スマホ写真で何枚か撮影したのですが、
個人のプライバシーに触れる恐れがありそうですので、
ブログに掲載していません。ご容赦下さい。

 このお話は、此処ぐらいまでですよね。

 一度皆様がご自身の足(車)で、ご自身の目で、
是非ご探索されることを、強くおすすめします。
千三百年前の「壬申の乱」で戦った民衆の姿が見えてきますよ。




13−5)13日の泊まりは、ステーションホテル桑名。

13−6)夜に、桑名の駅前飲食街を散策。
 8月13日は、お盆休みのため、飲食店のお休みが多く、営業を
 している店で、中からの楽しそうでニギヤカな声が表まで聞こえていた
 居酒屋「千代」に入りました。
 店の中は、カウンター席で、20人ほどが入れる、地元の人の
 お気に入りのお店という、気さくな雰囲気が溢れていました。
 はじめての私にも、飲食をされていたお客さんから気さくに
 話しかけてもらえ、気軽に、生ビールを飲み重ねられました。
 それでつい気楽に、最も知りたかった質問を、隣に居られた
 四 五十代の男女5人連れの客人に聞いてみました。
 「私は、歴史好きで、今回は壬申の乱の事を調べたくて、この桑名市に
  来たのですが、壬申の乱で、のちの持統天皇達が逗留した、桑名郡家は
  何処かご存知でしょうか?」

「えっ、何のお話? 「壬申の乱」て何でしたっけ??」
「大化の改新の後の、「壬申の乱」ですよね。
 学校で習った記憶がありますね。
 でも、この桑名がなにか関係がありましたでしょうか?」

「日本書紀の中でも、「壬申の乱」の中で、大事な場所として書かれていますね。
 それに最近の、少女漫画(天上の虹)などに描かれており、
 いわゆる歴女の興味の的のようですね。」

「そう言えば、むかし先生から、「壬申の乱」の時、懸神社に女性陣だけ、
 3ヶ月ほど留まっていたと、聞いた気がするなあ。」
「でもあそこ小さいから、何人ぐらいだったんでしょうね?」

「恐らく五十人ぐらいから、防御の侍の数を足して、
 百人ぐらいと、想像するのですが。」

「懸神社に百人も留まれないよ!」
「もしかしたら、????じゃーないかな?」

 残念! ????の場所が、居酒屋の喧騒でよく聞こえませんでした。



 「壬申の乱」の私の妄想概略を製作中です。
 是非一読ください。



14−1)桑名の探索目的は、鵜野のさらら姫が大津皇子、草壁皇子らと
    6月26日から戦いが終わる9月まで3ヶ月過ごした、場所はどこか?

 無念! 台風10号の接近で、桑名市の探索は困難。
雨の合間を縫って、縣神社だけは散策しました。





 地域によくある、こじんまりとしたお宮さんでした。
此処に留まるのは少し無理がありそうとか思ってしまいました。



 縣神社の直ぐ側で、かなり大きな民家が改装中でした。
此処だったら逗留できたかもしれないと、勝手に想像してしまいました。

 桑名の散策は、早い時期に再挑戦したいと思っています。



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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



 

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