コジタン-故事譚-

役に立つ故事や春秋戦国、三国志アーンド日常生活についてあつーく語るブログ

意外な人気者 周倉

2005年01月18日 | 三国志
正史には記述のない周倉。
演義では黄巾族の将で、
黄巾の乱の鎮圧後、
山賊をしていたが、
以前から尊敬していた関羽が通りかかり、
仕官を申し出る。

仕官後は、関羽の片腕として活躍した。

有名な単刀赴会の場面では、
暗殺を狙われている関羽を守り、
上手く逃げ出している。

関羽の死を聞くと、
自ら首をはね、関羽の死に殉じた。

中国での人気は非常に高く、
劉備、孔明、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、姜維に
次ぐ人気がある。

武侯詞では、劉備の東偏殿に並ぶという
破格の待遇を得ている。

饅頭を作ったのは諸葛亮!?

2005年01月17日 | 三国志
諸葛亮は南蛮遠征のあと、
南蛮の生活を指導していきました。

南蛮では昔から戦勝祈願のために
人の首を祀る習慣がありました。

そこで諸葛亮は、
羊や豚の肉を粉で包み、
頭の形ににしたものを祀らせます。

そのときは蛮頭と言われていましたが、
しだいに饅頭となり、
今の饅頭の原点となったのです。
どっちかっていうと肉まんでしょうか。

肉まんとか食べる時はこういう
ウンチクを語るのはいかがでしょうか?

なぜ演義は劉備を正統として書いているのか?

2005年01月17日 | 三国志
演義を読んだことがある人は、わかると思うが、
演義は劉備を善玉として書いて、
蜀を正義として、
魏を悪として物語を展開している。

これは演義の源となった歴史書が書かれた
時代背景に原因がある。
そのころは、伝統的な政治の中心であった
中原が異民族に占領され、
漢民族の治める土地は
三国志の蜀と呉の部分のみであった。

だから、魏を異民族に見立て、
蜀を正統にして、
劉備=善玉にすることによって、
異民族の圧迫うけている精神的屈辱に対する
民衆の鬱憤を晴らすために書かれたのだ。

また中原を領有としていることが、
正統王朝の条件ではないことを唱えることは
中原を領していない為政者にとっても有利なものだった。

こういう背景が、
蜀漢を正統とする「三国志演義」を育んでいったのだ。

何故魏延は裏切ったのか?

2005年01月16日 | 三国志
裏切り者というイメージがすっかり仮定着してしまった魏延。
某ゲームではわけのわからないキャラにされる始末。
魏延をそうしてしまった所以を見ていきたいと思います。

確かに諸葛亮の死後魏延は裏切ります。
諸葛亮と魏延が仲が悪かったことは良く知られています。
魏延が劉備に降伏したとき、
「叛骨の相があるから殺せ」と進言したのは有名な話です。
このときから魏延と諸葛亮の対立は始まっていたのです。
北伐の際も、魏延は「長安を奇襲してはどうか」と進言しますが、
諸葛亮に退けられます。
魏延は自分の才能が用いられないのを嘆きます。

このとき、演義では魏延は不思議な夢を見ます。
自分の頭の上に角が生えているのです。
この夢は「角」という字が「刀」と「用」に別けられることから、
頭の上に刀が用いられるという不吉な夢だったのです。

魏延は諸葛亮との相克ばかり取り上げられますが、
実際は楊儀という人物との相克が激しかったようです。
諸葛亮の死後、北伐の指揮権が自分に来るものだと思っていたのに、
楊儀に渡ったことから、魏延は反乱をおこします。
このあと、魏延は馬岱に殺されてしまいます。

魏延は、劉備の死後、自分を認めてくれる人物がいなくなったが悔しくてならず、
孔明の死後はますます希望が持てず、
楊儀と張り合い、追い詰められ、反乱をおこすしかなかったのです。

諸葛亮にとって魏延は扱いにくい将だったのだと思います。
プライドは高く、実力もある。
まるでもう一人の関羽のような存在だったの思います。

僕は魏延を裏切り者だとは思いません。
魏延が本当にそういう人物だったのであれば、
さっさと魏に投降して蜀を滅ぼそうとしたでしょう。

プロジェクトX-姜維の挑戦-

2005年01月16日 | 三国志
蜀の丞相諸葛亮が死んだあと、
積極的に魏への北伐を行ったのが、
もと魏の降将であった姜維であった。
三国志演義の中では、諸葛亮の後継者として書かれている姜維だが、
正史を見ると諸葛亮が彼を後継者や弟子として扱った事実は無い。
姜維が蜀の実権を握ったのは、諸葛亮の遺言により指名された、
蒋エンと費イが亡くなってからである。
費イの時代になると姜維は録尚書事として、
費イと互角の権力をもっていた姜維は、たびたび大軍を動かそうとしたが、
常に牽制され少数の兵しか与えられなかった。
しかし、費イはほかならぬ姜維が招降した魏の降人郭脩によって
殺されてしまう。
この事件により姜維は事実上蜀の最高権力者になるのである。
大規模な北伐を繰り広げるようになるのだが、
その間内政は停滞し、
ついに政権内部から姜維の追い落としの動きが起こったのである。

有力な背景を持たず、なおかつ魏の出身である姜維は、
政権を構成する益州組、荊州組のどちらにも確固たる人脈を持っていなかった。
当時蜀の重鎮であった廖化、張翼、董厥らはいずれも姜維の北伐には批判的であり、
さらに董厥、諸葛センは、
姜維の兵権を奪い荊州出身のエン宇と交代させるように
上奏したと言われる。
かくして、姜維はたいした戦果を上げられず、成都に帰還できぬまま、
劉禅の降伏を聞かされることになるのである。

その後、姜維に鍾会に投降し、
艾を退け、蜀で自立するように唆すが、
事前に情報が漏れ失敗。暴動の中三者は悲惨な共倒れをとげるのである。

司馬氏の策士 賈充

2005年01月15日 | 三国志
字 公閭

出身 河東郡

生没年 217~282

概略
司馬昭が魏の実権を握ると、東方の諸国の動静を探るため、
賈充を派遣した。賈充は諸葛誕と会見し、
彼に謀反の心ありと報告した。
かくて司馬昭は諸葛誕を討伐した。
また魏帝曹髦が司馬昭の専権に憤り、
司馬昭を誅殺しようとしたとき、
賈充は兵を率いて竜門に阻止に出た。曹髦が
「朕は天子であるぞ。天子を弑殺しよういうのか」というと、
兵が躊躇すると、賈充は、
「司馬公がおまえを養っているのは今日の日の為なのだぞ」
と叱咤し曹髦を殺害させた。
賈充はこのように司馬氏の腹心として司馬昭、
司馬炎に仕えたが、
司馬炎の呉討伐には終始反対の態度を取った。

エピソード
呉を平定後、洛陽に護送されてきた呉主孫晧に、
「人の目をくり抜いたり、頭の皮を剥いだりしたのは何の刑か」と
問うたところ、孫晧は
「臣下でありながら、その君を弑するような人間にそうしたまでだ」
と切り返された。
魏主曹髦を弑したことがある賈充は言葉を失ったのである。

実は四国志だった?!三国志

2005年01月15日 | 三国志
三国志は、諸葛亮の北伐など
中国の南のほうがメインになっていますが、
北のほうには、
公孫家があったのです。
彼らは中原など大陸には目をつけず、
朝鮮半島攻略に力を注ぎ、
独自の支配権を確立していました。

魏や呉はこの勢力に積極的にアプローチを仕掛けてきました。
魏にとって背後を脅かす存在であり、攻略に回す兵力も無い。
呉にとって魏を背後から攻撃させれば、有利に動く。
公孫家は魏と呉のキャスティングボードを握っていたといえます。

呉は呉側につけるためは公孫家に燕王の位を与えます。
ここに
魏 呉 蜀 燕 の四国鼎立の時代が起きたのです。


魏と呉のキャスティングボードを握って、
勢力を伸ばした公孫家ですが、
諸葛亮の死により、脅威の無くなった魏によって派遣された
司馬懿によって滅ぼされてしまいます。

ただこの公孫家がなければ、朝鮮半島に大陸の文化は入ってこず、
日本の発展も何年か遅れていたでしょう。

五行説と三国志

2005年01月14日 | 三国志
中国の古代思想の一つに、
「五行説」というものがあったが、それは

「万物は木、火、土、金、水という五つの要素から構成されていること
および全ての事物にそれらの五要素のうちいずれかの本質的性質が
備わっていること」

などを説く思想であった。
漢代の後半になると、五行説は王朝交代を説明する有力な理論となり、
そこでは

「木徳の王朝(木の本質を備えた王朝)から、
火徳の王朝へ、さらには土徳の王朝へ、
というように循環的に行われる」

と説明された。
この理論に対応して、漢代の後半には「漢は火徳の王朝である」とする
「漢火徳説」が成立した。なお、その漢王朝を滅ぼして、
魏を建国した曹丕が、最初の元号を
「黄初(黄色は大地が黄土に覆われた中国においては土をあらわす色であった)」
とした理由も、「漢火徳説」を意識して
魏を土徳の王朝と考えたためであった。

また、黄巾の乱の黄色に意味もこれを意識したものであった。

呉のうるさ型?ご意見番? 張昭

2005年01月14日 | 三国志
・字 子布

・生没年 156~236 

・享年81歳

・出身 彭城

・概略
張紘と並んで「江東の二張」と呼ばれた策士。
周瑜の推薦で呉に招かれ、孫策に仕えて、
長史、撫軍中郎将となる。孫策が危篤になった時、」
「内政は張昭に、外交は周瑜に相談せよ」と孫権に遺言し、
以後、呉の参謀として活躍した。
張紘と同様に戦争による解決を好まず、
徹底した非戦論で孫権にアドバイスしたが、
機に応じて積極策をとり、劉備との戦いでは、全面を上げて、
正面から戦うことを進言する。
魏が蜀の攻撃におされ気味なのを見て、孫権に皇帝即位を薦め、
蜀との同盟を献策した。あくまで文徳による治世にこだわった官僚であった。



・エピソード1
赤壁前夜
曹操が荊州を攻め、続いて呉に降伏を迫った。
所謂赤壁の戦いである。
その戦いを前にして、張昭は呉の宮廷で降伏論を唱えた。
なぜなら、彼らの戦力を比べれば、殆ど勝算はなかったからである。
また、例え呉が降伏しても、孫氏一族を除いて、
地位はあまり変わらないと踏んだからである。
だが、周瑜、魯粛が抗戦論を唱えて、赤壁の戦いで勝利を収めてため、
以後孫権からあまり重んじられなくなり、
ついに宰相になれなかった。

袁紹論

2005年01月14日 | 三国志
皆さんは袁紹と聞くとどのように思うでしょうか。
優柔不断、名門かぶれ・・・
まぁいいことを思う人は少ないでしょう。
袁紹で思い出す出来事言ったら、
官渡の戦いでしょう。
これが彼の評価を全て決めてしまったのです。
官渡の戦いは言うまでもなく、
曹操の奇跡的な大勝利という形で幕を閉じました。
歴史は勝者が作る。
まさにこのことで、
袁紹は悪い部分しか見られなくなりました。

しかし、僕は袁紹は優秀な人物だったと思うのです。
名門出といだけで、
あの戦乱の中
あそこまで大勢力を築くのは無理です。
巨大な領土を維持するのにもかなりの能力は必要です。
類まれな統率力、政治力、を持っていなければ、
三国志最初の覇者にはなれなかったでしょう。

以上、袁紹の良い部分ばかりあげましたが、
彼には、晩年に欠点があったのは認めます。
しかし、そんなことを言えば、
劉備、孫権、曹操をはじめ、
晩年がダメだった人はたくさんいます。
袁紹だけがその欠点をあげつらわれる
訳には行かないでしょう。

最近はゲームから三国志を知る人も多いでしょう。
しかし、ゲームというものはその性質上、キャラを固定しなければならない為
、どうしても固定観念というものが存在してしまいます。
歴史は見方によって全く違います。
そう考えると、正しい歴史なんてないのです。
もう少し言えば、歴史なんてないんです。

僕の言っていることだって、一つの見方です。
ただ、袁紹をもう少しいろんなところから皆さんに見て欲しいのです。

皆さんも、悪いの固定観念に縛られず、
悪いといわれている人をもう一度見直してみてください。