蜀の丞相諸葛亮が死んだあと、
積極的に魏への北伐を行ったのが、
もと魏の降将であった姜維であった。
三国志演義の中では、諸葛亮の後継者として書かれている姜維だが、
正史を見ると諸葛亮が彼を後継者や弟子として扱った事実は無い。
姜維が蜀の実権を握ったのは、諸葛亮の遺言により指名された、
蒋エンと費イが亡くなってからである。
費イの時代になると姜維は録尚書事として、
費イと互角の権力をもっていた姜維は、たびたび大軍を動かそうとしたが、
常に牽制され少数の兵しか与えられなかった。
しかし、費イはほかならぬ姜維が招降した魏の降人郭脩によって
殺されてしまう。
この事件により姜維は事実上蜀の最高権力者になるのである。
大規模な北伐を繰り広げるようになるのだが、
その間内政は停滞し、
ついに政権内部から姜維の追い落としの動きが起こったのである。
有力な背景を持たず、なおかつ魏の出身である姜維は、
政権を構成する益州組、荊州組のどちらにも確固たる人脈を持っていなかった。
当時蜀の重鎮であった廖化、張翼、董厥らはいずれも姜維の北伐には批判的であり、
さらに董厥、諸葛センは、
姜維の兵権を奪い荊州出身のエン宇と交代させるように
上奏したと言われる。
かくして、姜維はたいした戦果を上げられず、成都に帰還できぬまま、
劉禅の降伏を聞かされることになるのである。
その後、姜維に鍾会に投降し、
艾を退け、蜀で自立するように唆すが、
事前に情報が漏れ失敗。暴動の中三者は悲惨な共倒れをとげるのである。
積極的に魏への北伐を行ったのが、
もと魏の降将であった姜維であった。
三国志演義の中では、諸葛亮の後継者として書かれている姜維だが、
正史を見ると諸葛亮が彼を後継者や弟子として扱った事実は無い。
姜維が蜀の実権を握ったのは、諸葛亮の遺言により指名された、
蒋エンと費イが亡くなってからである。
費イの時代になると姜維は録尚書事として、
費イと互角の権力をもっていた姜維は、たびたび大軍を動かそうとしたが、
常に牽制され少数の兵しか与えられなかった。
しかし、費イはほかならぬ姜維が招降した魏の降人郭脩によって
殺されてしまう。
この事件により姜維は事実上蜀の最高権力者になるのである。
大規模な北伐を繰り広げるようになるのだが、
その間内政は停滞し、
ついに政権内部から姜維の追い落としの動きが起こったのである。
有力な背景を持たず、なおかつ魏の出身である姜維は、
政権を構成する益州組、荊州組のどちらにも確固たる人脈を持っていなかった。
当時蜀の重鎮であった廖化、張翼、董厥らはいずれも姜維の北伐には批判的であり、
さらに董厥、諸葛センは、
姜維の兵権を奪い荊州出身のエン宇と交代させるように
上奏したと言われる。
かくして、姜維はたいした戦果を上げられず、成都に帰還できぬまま、
劉禅の降伏を聞かされることになるのである。
その後、姜維に鍾会に投降し、
艾を退け、蜀で自立するように唆すが、
事前に情報が漏れ失敗。暴動の中三者は悲惨な共倒れをとげるのである。