コジタン-故事譚-

役に立つ故事や春秋戦国、三国志アーンド日常生活についてあつーく語るブログ

梁上の君子

2005年01月24日 | 故事
梁上の君子 (りょじょうのくんし)

意味・泥棒、ねずみ
由来・
後漢末の陳寔が太丘の長官として赴任していた時、泥棒が陳寔の家に忍び込み、梁の上に身を潜めていた。
それに気がついた陳寔は、子や孫を部屋に呼び、話し始めた。「世の中にもともとの悪人はいない。
習慣が身に付いて本性になって悪事を働くのだ。今、梁の上にいる君子だってそうなのだ」と。
泥棒が非を詫びると絹を持たせて帰らせた。

九仞の功を一簣にかく

2005年01月24日 | 故事
九仞の功を一簣にかく (きゅうじんのこうをいっきにかく)

意味・仕上げを怠ったために全部だめにすること
由来・
殷を滅ぼした武王は他国から贈られた人の心がわかるという犬に夢中になり、政治を顧みなくなり、
そんな王を臣の召公が「九仞の高さの山を作り上げるのに最後の一カゴの土を盛り上げないで駄目にする」ようなものだと諌めたことから。

鼎の軽重を問う

2005年01月23日 | 故事
鼎の軽重を問う (かなえのけいちょうをとう)

意味・価値や権威、責任者の能力などを疑うこと
由来・
春秋戦国時代、楚の荘王が洛陽付近の異民族を討伐したときに洛陽で閲兵式を行った。
閲兵式は本来周王のみしかできなく、
周の定王は使者に伝国の宝である鼎(円形で三本足の器)を持たせて閲兵式を行っている楚の荘王の元に遣わした。。
定王の使者は荘王に対し「鼎を持たぬ者がなぜ閲兵式を行うのだ?今すぐに中止せよ」と詰問した。
これに荘王は「鼎など楚の鉄屑を集めてもできる。。鼎の軽重はそれを持つ王の徳によって決まるもの。周の鼎の軽重はどうなのだ?」と問いた。
この故事から権威を軽んじたり、貶めたりする意味になったのである。

羊斟の恨み

2005年01月08日 | 故事
春秋時代のはなし。
あるとき鄭国は、隣国の宋国に戦争を仕掛けました。
宋の元帥は華元という人物でした。

戦争の前に、兵の士気を高めるために、羊の肉のスープを作らせ、兵士たちににふるまいました。
大将からご馳走を受けた兵たちの士気はまたたくまに高まりました。

しかし、戦争開始直前に華元の馭者(戦車を動かす者)が言いました。
「みなは羊のスープを食べていたのに、どうしてわたしだけ頂けないのでしょうか。」

華元はうっかりして自分の馭者に食べさせるのを忘れてしまったのです。
しかし、もうスープはまったく残っていません。
それでも馭者はあーだこーだ文句をいっています。
華元はとうとう頭にきて
「うだうだいうんじゃない、戦争が終わったらいくらでも食わせてやる!」
と怒鳴りました。

そして戦いが始まりました。
すると、華元の戦車は先陣を追い越し、ただ一車敵陣に突っ込んでいってしまったのです。
味方も敵もあっけにとられてしまいました。
華元はあっさり捕えられてしまい、将を失った宋軍はあっとうまに壊滅してしまいました
結局、馭者は羊スープを与えなかった華元を最後まで許さなかったのです。

後にこの馭者は「羊斟(ようしん)」と名づられ、
「羊斟の恨み」という言葉を作りました。
この話により「羊斟の恨み」は食べ物の怨みはおそろしいという意味になりました。

食べ物の恨みは怖いですね~。
部下におごるときはひとりもれないように気をつけましょうね。
中国人は食べ物に貪欲なんでしょうか。
まぁ、だから料理が発達したのかも知れませんが・・。

食指が動く -本当に指が動く!?-

2005年01月05日 | 故事
春秋時代のはなし。
鄭の国の子宋には変わった特技がありました。
それは、指がピクっとしたときは、
かならず美味や珍味にありつけたのです。

あるとき、子宋と子家は鄭霊公から宴に呼ばれ、
そのときに彼の指がピクッとした。
美味しいものが食べれると思い、
喜んで宴にいくと、
思ったとおりにスッポンが料理されていました。
しかし、その子宋のはなしを聞いた霊公は、
意地悪から、子宋にすっぽんを食べさせませんでした。
子宋は怒って、出て行ってしまいました。

これに怒った霊公は、子宋を殺そうとしましたが、
逆に子宋に殺されてしまったのです。

この故事から、「食指が動く」は、食欲がさそわれること、欲望をさそわれること
の意味になりました。

いつの時代も食べ物の恨みは恐ろしいものです。
殺しちゃうの行き過ぎですけどね。
次回も、「食べ物」シリーズでいきます。

杜撰-杜黙は冤罪!?-

2005年01月04日 | 故事
杜撰の意味は、皆さんも知ってのとおり「手抜かり いい加減」です。
ニュースとかでもよく聞きますね。
知っている人も多いかも知れませんが
「杜」とは宋の杜黙(ともく)のことで、
「撰」とは、詩文を作ることです。 
杜黙の詩は、その多くが自由律で造られ、詩の規則に合っていなかったとそうです。
そのことからこの意味になったといわれています。

しかし、ほかの辞典を見ると、
多くの書物を著したがたらめが多かった杜光庭、
師匠の学問を継承できなかった杜田生といった人物ももとになった人物としてあげられています。
ちなみに「杜」を「ず」と読むのはは、呉音の読み方からきているそうです。

まぁ、僕は杜黙であってほしくないですね。
新しい作風というのは、なかなか理解されにくいものですし、
彼の詩はもしかしたらとても素晴らしいものだったのかも知れません。
まぁ、こんな形でも名前が残って、
良かったかは微妙なところですね。

折檻

2005年01月03日 | 故事
前漢の成帝のときのはなし。
あるとき、外戚の専横に憤りを感じた朱雲というものが、
成帝に謁見し、こう奏上しました。
「今の朝臣は、帝を諌めることができず、民になにもしておりません。
私に剣をお与え下さい。そのようなものを斬り、見せしめにしたいと存じます」
成帝が、
「それは誰か?」
と聞くと、
「張禹殿です」と朱雲は言いました。
しかし、張禹は成帝の師であり、丞相でもあります。
そのため成帝は怒り、
「よくも私の師を侮辱したな、その罪は万死に値する」
と言いました。
そして、御史が朱雲を殿上から引きずりおろそうとしましたが、
朱雲は手すり(檻)につかまり、離そうとしなかったので、
手すりが折れてしまいました(このことを折檻という)

朱雲は投獄されましたが、辛慶忌が成帝をとりなして、
朱雲の罪は責められませんでした。

のちに、この手すりを直すことになりましたが、
成帝はこの臣の忠心の記念にと直させませんでした。

この故事のより、「折檻」は強く諌めることを表すようになりました。

まぁ、今、「折檻」と聞くとどうも暴力や虐待のイメージがありますが、
この故事からはそんなことはないですね。
あくまでも、強く諌めることですから。
親御さん方、力で折檻しないで、口で折檻しましょう。

水清ければ大魚なし

2005年01月02日 | 故事
後漢の明帝の時代のはなし。
匈奴の討伐のために、派遣され約30年になるベテランの西域都護・班超は、
匈奴をことごとく打ち破り、服属させました。
その班超も70歳を過ぎ、帰国したいと思い、なんと許され帰国しました。

班超の次に西域都護に任じられた任尚は、西域を統治する方法を班超に尋ねました。
「あなたの性格は、全てにおいて厳格で、せっかちだと聞いている。
水があまりに澄んで汚れのないところには、大魚は隠れるところがなくて住まないものだ。
西域の統治も、大まかで焦らず、簡易を心がけなさい。」

これを聞いた班超は、彼のいうことを信用せず、
結局、彼は西域をうまくおさめることができなかったのです。

この話から、「水清ければ大魚なし」は清廉潔白が過ぎると、
かえって人が親しまないという意味になりました。

ちなみに日本でも似たような話があります。
寛政の改革で有名な松平定信を皮肉った狂歌の、
「白河の清き流れにすみかねてもとの濁りの田沼恋しき」です。

まぁ、やはりある程度人間は汚れは必要なのでしょうかね。
そのほうが人間として深みがでるのでしょう。
僕も、今まででかなり汚れちまいました。
そしてこれかれも、汚れていくのです。




狡兎死して走狗烹らる

2005年01月01日 | 故事
春秋時代、呉と越は互いに争い、結局越が勝利を収めました。
越の重臣・范蠡は、越が勝利してからほどなく、越を去り、斉へ行きました。
彼はその地で商売で成功し、大富豪として名を高めます。

彼は同じ越の重臣である大夫種にこのような手紙を送りました。
「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹(に)らる。(鳥がいなくなり良い弓は蔵に納められ、ウサギがいなくなれば猟犬は煮られてしまう)越王は苦難はともにできたとしても、安楽は享受できない。あなたもはやく越を去るべきです。」

これを読み種は病気と偽り、出仕しませんでしたが、讒言を受け、死を命じられました。

これにより、「狡兎死して走狗烹らる」は、利用価値のある間はこき使われるが、無用となると捨てられてしまうことを意味するようになりました。

これは現代を表している言葉のひとつではないでしょうかね。
結局は、役に立たなくなったらポイなんですね(悲)
みなさんも、これからの人生、こんな場面に出会うかもしれません。
そんなときは、一人でこの言葉を呟いてみてください。
悲しくなるだけでしょうが、多少ナルチズムに浸れるかも知れません(笑)

宋襄の仁

2004年12月30日 | 故事
春秋時代のおはなし。

第一の覇者といわれる斉の桓公が死ぬと、
宋の襄公は、桓公に代わって覇者になろうとしました。
襄公は宋国内で、仁政をおこなって、自分の仁道主義に絶対的な自信をもっていました。

あるとき、宋は鄭の国を討とうとしました。
しかし、楚は宋と同盟を結んでいたのに、この鄭を楚が救援したのです。
これに襄公は激怒して、楚と戦おうとしました。

そして、楚と川のほとりで対峙しました。
先に楚軍が河を渡って、攻撃を仕掛けてきました。
参謀は襄公に、
「敵が渡河中に攻撃しましょう」と進言しました。
しかし、襄公は、
「君子は、他人の弱みに付け込んだりしないものだ」
と、まったく取り合いませんでした。
そして、楚が河を渡り陣形が整ってから、宋軍は攻撃しました。
しかし、大軍の楚に正面からぶつかっても勝てるはずがなく、
宋は惨敗。襄公もこの戦いで傷を負い、
それがもとでこの世を去りました。

このことから、宋襄の仁は、無益な情け、的外れのあわれみ、。
また、情けをかけるときは時と場合を
考えなければならないという意味になったのです。

しかし、これを見る限りでは襄公は愚かな君主ですが、
儒家から見れば、仁を貫いた君主として評価されていますし、
評価がわかれている人物です。

まぁ、今の世の中には少しは「宋襄の仁」が必要なのでないでしょうか。