コジタン-故事譚-

役に立つ故事や春秋戦国、三国志アーンド日常生活についてあつーく語るブログ

諸葛亮は何故不毛の地を狙ったのか?

2005年01月23日 | 三国志
諸葛亮は三回目の北伐で
武都、陰平などを支配下治めました。
魏もそんなこの土地に
固執していたわけでもなく、
難なく攻略できました。

この土地は魏の最先端の辺地で
住んでいる住民のほとんどは
チベット系少数民族で、
これといった産業もなく、
魏に領土としての魅力は無かったのです。

蜀にしても戦略価値はそんなありませんでした。

なぜそんな土地を攻略したのかと言うと、
諸葛亮は今までの二回の北伐では
これといった戦果が挙げられず、
蜀では厭戦ムードが漂っていました。

諸葛亮は士気を挙げるために
この土地を攻略したのです。

諸葛亮の狙いどおり、
蜀は戦勝ムードで浮かれていました・・・

暴君董卓の経済

2005年01月22日 | 三国志
三国志では悪の権化のような扱いを受けている董卓。
虐殺などそういうとこに目が向けられますが、
董卓の政治の面はあまり語られるところがありません。

漢王朝では昔から紙幣が作られており、
経済というものが出来ていました。
しかし、黄巾の乱以降戦費がかさみ、その他色々な要因が
重なり、経済は破綻寸前。
董卓はこの状況を打破するため、
お金を乱造してしまいます。
小学生なみの考えです。
小さいころボクもそんな不景気なら、
お金たくさん印刷すればいいじゃんみたいなことを考えていました。
しかし、今考えればどうなるかはわかります。
そう、
お金の価値はどんどん下がって、
価値がなくなります。
よってどんどん物価が上がります。(いわゆるインフレ)
結局信用が無くなり、使う人がいなくなるわけです。
この政策によって、この経済は崩壊しました。

董卓は根っからの武人であり、
政治的なもの求めるのは無理があったように思えます。

この後始末は魏、呉、蜀の三国に、
担われることになるのです。

人を見る目は無かった諸葛亮

2005年01月22日 | 三国志
殆どもう神格化され、
非の打ち所のない軍師として
描かれている諸葛亮。

彼は人を見る目はなかったようだ。
諸葛亮の好きなタイプの人間と言うのは、
趙雲、馬謖、馬岱、姜維などの
自分の言うことだけを素直に実行してくれる人間なのだ。

反対に嫌いなタイプというのが、
魏延、関羽などの
プライドが高く、自分の言うことを聞いてくれない人間だ。

基本的に彼は、自分の言うことを聞いてくれる
人間を周りにはべらせていたのだ。

馬謖を用いたおかげで、街亭の戦いで見事に負けたのは
周知の事実だろう。

死の間際、劉備は諸葛亮に
「馬謖は実力が伴わないから重用するな」と言っている。
だが、さすが劉備というべきか。
人を見る能力はあったようだ。

今、彼には軍事的な能力は余り無かった
というのが通説になっている。
彼はどちらかというと内政官、
政治家的な人間だったと思われる

蜀の都「芙蓉」とは?

2005年01月21日 | 三国志
蜀の別名として「芙蓉」ということがある。
あるいは成都のことさして、芙蓉城といったりしている。
だが、芙蓉と呼ばれるのは三国志の後の時代からである。

その時代は、晋が二分され、さらに五胡国が興った。
劉備らぼ蜀と区別する為に、後蜀と呼ばれた国があり、
その皇帝に孟昶という人物がいた。
彼は文学を愛し、芸術を好んだ。
その延長で、張り巡らされた城壁に満遍なく、
好きな芙蓉を植えたという。

成都の外観をすべてこの花で覆ってしまったわけだ。
さぞかし壮観だったにちがいない。

しかし、文化誇り高い後蜀は、
強大な兵力を持つ宗によって、
あえなく滅ぼされてしまう。

その芙蓉で覆われた成都の様子から、
蜀のことを芙蓉と呼ぶようになったのだ。

余談だが、
成都には現在もの陰口として、
「あの人はまるで芙蓉のようだね」
というのがあるらしい。
意味は「遠くからみるほど、
美しくはない」ということらしい。
蜀という国は外見とは裏腹に
中身は汚かったのかも知れない。

諸葛亮の発明品

2005年01月21日 | 三国志
諸葛亮は様々な発明をしてきました。
彼は宰相でもあり、軍事科学者でもあったのです。

有名なもので木牛流馬というのをご存知でしょう。
これは、北伐の物資輸送のために開発されたものでした。
そのためには蜀の桟道という非常に
険阻な道を通らなければならなかったのです。

木牛は手押し式の一輪車で、
転倒防止用の足がつけられたものです。

流馬は木牛の改良品で、
四輪車となったもので、より安定性が増したものです。

他にも諸葛亮は
銅弩機というものを開発しました。
これは十本の矢を連射するという
非常に強力な兵器でした。

蜀は三国のなかで一番弱い国でした。
しかし蜀は弱いから、
このような発明品が開発されたのだと思います。
ハングリー精神というのは凄いものです。

諸葛亮のファッション

2005年01月20日 | 三国志
諸葛亮の格好に関して、
三国志演義では
「羽扇綸巾」と表しています。
諸葛亮は戦の時も軍服を着用していませんでした。
士大夫が被るような冠ではなく、
頭巾を被っていました。
昔、頭巾は階級の低い人が被るものでしたが、
だんだん名士の間で被る風潮が出てきました。

あと諸葛亮といったら羽扇ですよね。
これは当時文人たちの間で流行していたものです。
笑う時に口元を覆うときに
使用していたようです。
持つ柄などいろいろ
凝ったものもあったようです。

また諸葛亮は「鶴ショウ」
という鳥羽でできた道服のようなものを着ていました。
今で言うダウンウェアみたいなものですね。
鶴に似ているから鶴ショウというそうです。

諸葛亮は当時のカジュアルの
流行の最先端いっていたわけです。
天才軍師はファッションにも
気を使っていたんですね。

何故魏はすぐに滅亡してしまったのか?

2005年01月20日 | 三国志
後漢に禅譲させてから、魏王朝は45年で
晋に禅譲させられます。
ほとんど魏は無抵抗のまま晋に乗っ取られました。
何故打曹一族の打倒司馬一族の反乱は
起きなかったのでしょうか?
これは曹丕の行った魏の安定化の
政策に問題があったのです。
曹丕は皇位継承権を持つ皇族に力を蓄えさせると、
自分の皇位が危うくなるので、
頻繁に国替えを行わさせ、
皇族間の交際も厳禁とされました。
曹植がいい例です。

しかし、これは諸刃の剣です。
これにより、皇帝を守るべき皇族には力が無く
みすみすは乗っ取られてしまうのです。

孫権の人狩り!?

2005年01月19日 | 三国志
呉は三国のなかでは魏に匹敵する
領土を持っていましたが、
人口は魏の半分にもありませんでした。

孫権は
魏と蜀が争っている間に、
国力増加の政策を急ぎました。

そこで孫権は人口増加のために、
人狩りを行ったのです。

行った地は、台湾、琉球または日本と言う説もあります。
しかし、
風土病により、
人狩り隊員の十人中九人は死んでしまいました。
数千人連れてくるのに、
9千人死んでいては割が合いません。

孫権の政治能力の低下はここらへんから、
始まっていったのでしょうか?

何故関羽は負けてしまったのか?

2005年01月19日 | 三国志
劉備が漢中王となり、蜀の全盛期。
関羽は荊州の守備を任されていた。
そして関羽は、魏の曹仁の守る樊城に侵攻。
関羽は戦を有利に進めていた。
しかし、裏では関羽の勢力拡大をよしと思わない
同盟を結んでいた呉が魏と密かに同盟を結んだ。
そして関羽を二方から挟撃しようとしたのだ。

しかし、関羽はこの動きを察知できなかった。
後方では呂蒙隊が奇襲。
留守将の麋芳と傅士仁を関羽は非を咎め、
「あとで始末してやる」とまで言った。

それを恐れた麋芳と傅士仁は呉軍に投降。
江陵と公安は呉の手に落ちる。

関羽は麦城に撤退。
しかし麦城は呉軍に包囲されてしまう。
投降勧告をするが、プライドが人一倍高い関羽が承諾するはずも無い。
一兵の援軍も期待できず、場内は厭戦ムード。

進退窮まった関羽は逃亡を開始。
しかし、途中罠に掛かり、捕らえられてしまう。
関羽は最後まで投降せず、斬首されてしまうのだ。

関羽は今は神格化されているが、
非常に自信家、悪く言えば傲慢不遜だったようだ。
だから将から裏切られたりするのだ。

重要拠点である荊州を、一介の武人にすぎない関羽に
任せざるを負えないと言う蜀の人材不足を感じる。

陸遜の死と呉の内紛

2005年01月18日 | 三国志
事の発端は、孫権の後継ぎ、つまり皇太子の孫登の死だった。
もともと豪族の連合政権のようなもので、まとまりがかけていた呉の内部。
赤壁の戦いの前は、降伏論が大多数を占めていたことを思いだしてもらえればわかる思う。
このできごとから、有力者の派閥ができ、後宮の女たちの争いも加わって、
呉の内部はますます混迷を深めていった。

呉内部はかろうじて、孫登がいたから収まっていたと言ってもいい。
孫登の死により、呉は崩れ始めた。
孫登の代わりの皇太子には、孫和がなったが、
それに反対する勢力が、弟孫覇をかついだ。
孫権の愛情は孫覇に注がれており、
孫覇が魯王になったのからも、それをうかがえる。

そして、呉は皇太子派と魯王派に分裂し、抗争が激化した。

それをなんとか抑えていたのが、丞相の顧雍だった。
しかし、その顧雍も死んでしまう。
このとき、完璧にタガが外れてしまった。

顧雍の後継の丞相には、陸遜がなったが、
荊州の牧と大将軍を兼務していた陸遜は、
最前線にいなければならず、国にもどれなかった。
北伐時の諸葛亮の境遇と似ている。

そして、例に漏れず、
陸遜の不在をいいことに、孫権に吹き込む輩がでてきた。

ある日、孫権を病になり、祭祀に出席できなかった。
その代わりに、皇太子の孫和が行った。
しかし、そこで、孫和は実は行っていなかったと嘘を
孫権に吹き込んだものがいた。
孫権は激怒した。孫和を廃嫡し、孫覇にすると言い出した。
陸遜は任地から書状を送り、孫権を諌めた。

これが邪魔だった魯王派は陸遜の追い落としを画策し、
陸遜の罪状20ヶ条をでっちあげた。
70を過ぎた孫権にそれを見抜く力はなかった。
孫権は陸遜を流罪にし、陸遜は流刑地で死亡した。

結局、この争いは、孫和を廃し、孫覇に自殺を命じ、
喧嘩両成敗の形をとった。
しかし、皮肉にもこの処置が呉を滅ぼすことになるのである。