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異論・反論・Obsoletion

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[読売新聞]「報道の意義を否定する社説だ」

2006-03-16 00:00:00 | マスコミ
読売新聞は「知る権利」や「報道の自由」の意味を誤解していないか。


3月15日付・読売社説(1) [取材源秘匿]「報道の意義を否定する決定だ」
(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060314ig90.htm)より


 新聞記者が国家公務員から「情報の漏洩(ろうえい)が刑罰法規に触れる」情報を
聞き出し、国家機密を公表する事は報道の自由だ---。読売新聞は、そう言うのである。

以前朝日新聞も、国家機密である「防衛警備計画」の内容を得意げに『報道』していた。
「防衛警備計画」を暴露する事は、国民の安全を脅かす行為であり、
少なくとも自国民の利益には繋がらない。この行為は敵対国のスパイと同じだ。

マスコミの人間は、自分達のすることはすべて報道だと主張する。しかし、
報道であるかどうかは国民の利益に資するかどうかで判断すべきだ。


そして読売新聞は、こうも主張する。

> 戦前・戦中の国の言論統制を思い起こさせる。
> 大本営発表を真実として伝えてしまった反省に立ち、
> 戦後、報道機関が苦しみながら築いてきた「報道の自由」を踏みにじる内容だ。

本当に報道機関は『反省』したことがあるのか。
報道機関は、現在でも大本営発表をし続けているではないか。


法律では、その人が有罪になるまでは、『罪人』としては扱わない事になっている。

国家でさえ『罪人』としていない人をマスコミは「警察が逮捕した」と同時に、
センセーショナルな見出しを付け、いかにもというBGMと共にその人の半生を断じ、
したり顔のコメンテイターやら精神科医がその人の異常性を分析して見せるのである。

その人が『罪人』であるかどうかマスコミは本当に自分達で判断したのだろうか。
報道機関は国家権力の発表を盲信しているだけではないのか。


そしてその『罪人』が寃罪と判ると鬼の首でも取ったように騒ぎ立て、
今度は「可哀想な寃罪者」を報じるのだ。

寃罪になった人が一番苦しむのがマスコミが無責任に『報じた』事による
社会的制裁や偏見であるにもかかわらずである。



>  「正確な情報は、記者が取材源を絶対に公表しないという信頼関係があって
> 初めて取材源から提供される」

これは正しい。このため「取材源の秘匿」は報道機関の責務である。
しかしこれは報道機関の権利ではない。読売新聞はこのことを判っていない。

読売新聞の社説では、取材源の秘匿が司法に認めてもらえないのなら、
読売新聞の記者はぺらぺらしゃべってしまうとでも言いたげだ。

「報道の自由を踏みにじる行為」とは、まさに今回の読売新聞の社説の事を言う。
国家が「報道の自由を踏みにじる」事など決して出来ない。
国家に出来るのはせいぜいのところ「自由を制限する」事だけだ。
「踏みにじる」事が出来るのは当人だけなのである。
記者なら、投獄されようが死刑になろうが「職業の秘密」を守らなければならない。

「報道の自由」は、報道機関が自ら死守すべきものだ。
平時の「報道の自由」など意味が無い。
問題なのは有事に「報道の自由」が守られるかどうかなのである。
それはひとえに報道機関の責任だ。
読売新聞は平和惚けしているとしか思えない。


仮に今現在「報道の自由」が存在しているとしても
それは報道機関が自ら築いてきたものではない。
このため、そんなものが有事にも存在すると期待しない方が良い。


--
同日の産経新聞は「新聞の特殊指定や再販制度を堅持しろ!」と主張している。
「特殊指定」や「再販制度」も、国家権力の基に成立する制度である。

マスコミの仕事は、権力の監視であったはずだ。
国家権力に守ってもらっていて、監視など出来るのか?

勇ましい風を装ってはいるが、結局の所産経新聞も権力に頼っているのである。





日本のマスコミ、何とかならないのか。。。


(「知る権利」が一行目にしか出て来ないのは、読売新聞の社説と同じです。あしからず)


「ジャーナリスト宣言。」

2006-02-05 00:00:00 | マスコミ
とは言っても私が宣言する訳ではない。朝日新聞が勝手に行なっている『宣言』だ。

この『宣言』とは、以下の様なものである。

言葉は
感情的で
残酷で
ときに無力だ。

それでも
私たちは信じている。
言葉のチカラを。



私が見た広告には火災現場(911?)や水害現場の写真を背景にこう書かれていた。
朝日新聞がどの様な「言葉のチカラ」を信じているのかは不明だが、
きっと『良い』意味なのだろう。朝日新聞もこう解説している。

>  こんなコピーにメッセージを託しました。ペンを握り、言葉を組み合わせ、
> 文をつむぎ出し、真実を伝え続ける。きっと何かが変えられる。
> そんな思いを込めています。


ただ、言葉に対する朝日新聞の考えには疑問を抱かざるを得ない。
朝日新聞は、なぜ言葉の否定的な面に焦点をあてたのだろう。

この広告を見る限り、私は朝日新聞は人々を幸せにはしていないと思う。
なぜなら朝日新聞の使う『言葉』は、「感情的で」「残酷で」「無力」だからだ。

この様な『言葉』をいくら弄しても、
人々は幸せになれない。


どうして朝日新聞は、復興に向けて人々が助け合っている写真をバックに
こうは言えなかったのだろう。

人々は
優しく
慈愛に満ちて
ときに力強い。

だから
私たちは信じている。
言葉の力を。



私はジャーナリストも含め、全ての仕事は、
人々の役に立ち、他人を幸せにする事によって報酬を得ているのだと思う。

このためジャーナリストの仕事とは、人々の目を『影』に向かわせるのではなく、
『光』を見せ、それに導く事なのではないだろうか。
人は見ている方向に向かうものである。

悲惨な現場を見せ、「可哀想な人の為」と脅して募金を募るより、
困っている人々を微笑みながら助けている人達の姿を見せて、
「あなたも、あなたに出来る事をしてみませんか?」と
呼びかけて見ても良いのではないか。
朝日新聞は根源的に、人間(やそれが発する言葉)を信じていない様に思う。


真実を伝えると称し「不正を暴き、事件や事故現場をスクープする」
『ジャーナリスト』なる人達は、これを追求しているだけなのか。




ジャーナリストの人達は、是非とも考えて欲しい。

不正を暴いただけでは人々は幸せにはなれないし、
スクープ自体も人々を幸せにはしない。



あなたたちは何のために『報じる』のか。


朝日新聞問題: 私も理解できない

2006-01-05 00:00:00 | マスコミ
朝日新聞は首相の靖国参拝を反対している。
(『首相年頭会見 私たちこそ理解できぬ 』朝日新聞01月05日(木曜日)付【社説】より)


私は様々な意見があって良いと思っている。私の主張が絶対正しいとは限らないし、
例え見解が違おうとも『意見』であるからには何か学ぶべき点があるからだ。
しかし私には朝日新聞が何を言っているのか分からない。


朝日新聞はこの社説で、
# 「言論人や知識人の多くが首相の参拝に反対するのは、こうした理由からだ。」
と書いている以上、この社説には「反対する『理由』」が含まれているはずである。
私には、その『理由』がどこに書かれているのか見付けられない。

強いて言えば、直前に書かれている以下のパラグラフがそれに当たるのだろうか。
#  一方で、戦争の指導者であるA級戦犯をまつる靖国神社に首相が参ることに対しては、
# 国民にも違和感を抱く人は少なくない。まして
# 侵略を受けた中国や、植民地だった韓国に快く思わない人が多いのは当然だとも考える。

「(違和感を抱く人は)少なくない」し「(快く思わない人が)多い」から
「多くが(首相の参拝に)反対する」というのは、論理矛盾だ。

「少なくない人」や「多い人」は確かに「多く」の人なのだろう。
しかしこれは因果関係ではない。
これは言葉の定義の問題であり、単なる「言葉遊び」だ。

結局これは「みんなが言っているから、やめるべき」と主張しているに過ぎない。
こんな主張なら幼稚園児でも出来る。朝日新聞はこれで「言論人」と言い張るのか。
「言論人」なら例え誰も言っていなくとも
自ら『正しい』と考える主張をしなければならない。
そうする事によって、皆に『正しい』事を理解してもらうのである。
既に皆がそう思っているなら、わざわざ自説を主張する必要などない。


確かに民主主義国家である日本に於いては、国民の意志は政治に反映されなければならない。
しかし神社の参拝は、オペラ鑑賞と同様に法律で規定されたものではなく
首相が自発的に行っている行為だ。(ここでは公式か非公式かは問題にしない)

朝日新聞は「多くの人が反対」すれば、首相はオペラにも行けなくなり、
「一国の首相がトイレなどという不浄な場所に行くべきではないし、
そもそも排泄物など出してはならない。」
と多くの人が主張すれば、トイレに行くのも禁止出来ると言うのか。

違うだろう。


少なくとも朝日新聞の引用の範囲内において首相は「(言論人や知識人の)多く」などと
人数を問題にはしていない。言い出したのは朝日新聞ではないのか。
またこれを数の問題ではなく「違和感を抱く」「快く思わない」事とするなら、
首相は誰も「違和感を抱かず」「快く思わなくない」事しかしてはならない事になる。
これでは何も出来なくなるだろう。


私達は日常生活でも他人の行為に「違和感を抱」いたり「快く思わない」事がままある。
でもそれはお互い様だ。感情の問題はどうしようもない。
私達は感情の問題を理性で克服する必要があるのだ。
そのため「違和感」や「快く思わない事」自体を問題にすべきではない。
そうでないと「俺様が嫌だと言っているから止めろ!」との主張にしかならない。

朝日新聞のような自称『言論人』や『知識人』の主張の多くは
「違和感」や「快く思わない」理由を挙げているに過ぎない。
「参拝してはならない理由」への言及は「嫌だと言っているから止めろ!」
以上の物は皆無と言って良い。(私には思い当たらないので反論が書けない)

この社説には言及されていないが、他に「憲法違反」と主張する人もいるが、
根拠に乏しいように感じる。「言論人」ならもう少し丁寧に説明すべきだろう。
反対する以上、説明責任がある。それに憲法違反なら法的な手続きをすべきだ。



おそらく私と朝日新聞の根本的な違いは、
#  首相は、日本を代表する立場にある。一政治家でも一国民でもない。
# 私的な心情や感懐より公的な配慮が優先することは言うまでもない。
これを「言うまでもない」事とするかどうかだろう。

私は一国の首相であろうが、一国の天皇だろうが
首相や天皇である前に 一人の人間であるべきだと考える。
私は首相が靖国神社に参拝しようが、天皇が毎週教会に礼拝に行こうが
『仕事』をきちんとしていれば構わないと思う。

朝日新聞は確かに「首相は靖国神社に参拝すべきではない」とは主張しているが、
「首相が教会に礼拝に行く」事や「寺に修行に行く」事などはどう考えるのか。
世論調査でもして「多くの人が反対」するかどうかで朝日新聞の主張を決めるのだろうか。
「言論人」と自認するなら、個々の行為の是非を一々指図するのではなく、
もっと一般化した『指針』の様なものを示すべきだ。
そうしないと、我儘を言っているようにしか見えない。

自由の国であるはずの日本の『代表』であるからこそ、自由を認めるべきだ。
『代表』に自由を認めずに、誰に自由があると言うのか。
朝日新聞の理想とする世界は『誰か』の犠牲の上に成立するのである。


この朝日新聞の社説は「言論機関」のものではない。
「言論人」なり「言論機関」がすべきは、議論を深めて物事の本質を見極める事にある。
自分の意見を通すためだけの主張は「言論人」として間違っている。
単に「止めろ!」「続けろ!」と主張していいのは「政治団体」だけだ。
(次期首相の)具体的な人事にまで口出しするのは「言論機関」の主張を越えている。
論じるなら政策の内容に留めるべきだ。



朝日新聞は「言論機関」ではなく「政治団体」であるように思う。




P.S. 私は初めて「ゲンロンジン」なる言葉を知った。
使い方は間違っていないと思うのだが。。。

『駄々っ子』外交

2006-01-03 00:00:00 | 中□、南北△鮮
# 即座に着手すべき難問は小泉首相の靖国神社参拝で暗礁に乗り上げている近隣外交だ。
(1月3日付の毎日新聞社説より抜粋)


この文章は、暗に「近隣外交が暗礁に乗り上げ」たのは「小泉首相の靖国参拝」が
原因であるとしている。毎日新聞は中国や韓国の主張に同調しているようだ。

私はこれは誤りだと思う。
中国と韓国は首相の靖国神社参拝を理由に首相のみならず政府要人との会談をも避けている。
近隣諸国は靖国参拝を気に入らないのだろう。しかし外交を損なわせたのは近隣国の方だ。
なぜなら「気に入らないから会わない」というのは道理に合わないのだ。
これは成熟した国家のすることではない。

気に入らないならそれを相手に『言葉で』伝える事こそが、まともな国家のする事だ。
近隣諸国の対応は、子供が駄々を捏ねているのと同じなのである。


あなたの子供が玩具を買って欲しいと泣き叫んでいる。あなたならどうするだろうか。
いつまでも泣き叫んでいられるのは困るし、周囲の人の迷惑にもなる。
あなたは、玩具を買い与えるだろうか?

玩具を買い与えれば間違いなく泣き止む。しかしそうすると
自分の主張を通すために駄々を捏ねる事が有効であると子供に『学習』させてしまい、
きっとまた欲しいものがあれば駄々を捏ねる事になる。
道理の分からない子供を甘やかす事には慎重でなければならない。

子供の為には、駄々を捏ねるのではなくきちんと主張する事を教えるべきだ。
少なくとも駄々を捏ねる事が問題の解決に繋がらない事を理解させなければならない。



「外交が損なわれるから参拝を中止すべき」との主張は、
体面ばかりを気にして子供の事を考えない身勝手な親の行為と同じだ。

口先だけは「子供の為」等といっていても何も子供(近隣国)の事など考えていないのだ。
私達は隣国が成熟した国家となるように手助けすべきだし、
少なくとも間違った『学習』をさせてはならない。

近隣諸国がこの様な態度を取っている限り「参拝中止」をするにしても
誤ったメッセージとして受け取られない様な慎重さが必要だ。
参拝の中止に慎重なのは『過剰なナショナリズム』のせいなどではなく、
むしろ近隣諸国への配慮と言っていい。

毎日新聞は、近隣外交の何が問題だとしているのか。
外交の問題において、非があるのはむしろ近隣国の方だ。
日本側に問題があるとすれば近隣国の『気に入らない事』をした点であろう。
しかし、近隣国は『気に入らない事』を正規の方法で解決しなければならない。
問題の解決は、外交によって図られるべきだ。

そもそも「靖国参拝」は外交問題と成り得るのだろうか。
玩具を要求する事を含め、駄々を捏ねるのはその要求に正当性が無いからかもしれない。
近隣諸国は筋違いな要求をしている可能性もある。


二国間において、対立が起こる事は当然の事だ。
近隣諸国との対立は外交において解決出来る様にしなければならない。
しかしその責任は日本にだけあるのではない。


是非とも「気に入らないから会わない」というのだけは、止めてもらいたい。


『予言者』のすべき事

2006-01-01 00:00:00 | マスコミ
もしあなたが未来を知る事が出来るとしたら、何をすべきだろうか。

あなたの『超』能力で知った事をそのままに、
「あなたは、明日死にます!」だとか「xx年に人類が滅亡します!」と
得意気に言いふらすだろうか。

そうしたらきっと人々は未来を嘆き、知る前以上に不幸になるだろう。
未来を知った所で、(人助けとしては)何の意味もないのである。


(超)能力はそれだけでは何の意味も為さない。大切なのはそれをどう使うかである。
明日死ぬ人に対してはそれをそのまま伝えるのではなく、
「家族とゆっくり過ごしなさい」だとか
「今しなければならない事があるはずです」と言うべきだし、

人類が滅亡する事が分かったのなら、
人類が滅亡しない様に「二酸化炭素の排出量をへらすべき」だとか
「核兵器を半減させなければなりません」等を主張すべきだ。

不幸にして人類の滅亡が不可避であった場合は、せめてそれまでの間、
皆が幸せに暮らせる様な「お言葉」を述べなければならない。


一流の超能力者や霊能力者や占い師の言う事には、全て上の様な配慮が為されているし、
超能力など無いただの人である私でさえ常に考慮しているつもりだ。

翻って、現在のマスコミはと言えば「貴方は明日死にます!」「地球は滅亡します!」と
得意気に吹聴してまわっているだけの様に思える。


これでは社会が混乱するだけだ。


--
今日(元旦)の毎日新聞の社説「ポストXの06年 壮大な破壊後の展望が大事」は、
「ポストX(何かの後)の事は分からない」と書いているだけである。
毎日新聞は何も「分からない」まま社説を書き、新聞を作っているのだろうか。

新聞社であるなら、現在何をしているかは取材できるだろうから、
している事の結果がどうなるかの予測は出来るはずだ。
少なくとも毎日新聞独自の『解釈』位はあってしかるべきだろう。
毎日新聞は正月早々、読者を不安に陥れようと企んだのか。

先の事など誰にも分からないのである。毎日新聞は自分が分からないのを
現政権の責任にすり替えて『非難』しているようにしか見えない。


社説なら、「日本はこうなるべきだ」と『主張』し、
そうなるための方法を『提案』し、そうしない現政権を『批判』すべきだ。
これらのステップを踏んでこそ『批判』足り得る。そうでないものは全て『非難』だ。

「将来の日本の姿」を示す責任は首相と同様、言論機関である新聞社にもある。
少なくとも『提案』が為されれば、人々は『希望』を持つ事が出来るのだ。


年末にも、テレビでは『自称』知識人が我先にと
政府や首相の悪口を沢山言った人が偉いかの様に競って罵っていた。

子供に対する影響も考えなければならない。悪口を言う事は良い事なのだろうか。
非難だけでは物事は何も良くは成らない。非難というのは無責任な行為なのである。
非難した相手に『工夫』して『対処』する事を要求しているに過ぎないのだから。
褒められるべきは物事を良くした人であるべきだ。

それに他人への非難は、その人の程度が透けて見えるのである。
例えばその非難の多くは、発言者当人にも当てはまるはずだ。
自分の価値を落さないためにも他人を非難する事は止めた方が良い。
一流の人間は常に「『自分は』どうすべきか」と考えているので、
決して非難などしないものだ。


知識人や言論機関なら、『提案』しろ!




===
前述の毎日新聞の社説で
「今、小泉改革が進めるあらゆる既成秩序の破壊は、目的が何なのか、手段が目的になっていないか」
と問うているが、私なりの解釈を述べる。


「既成秩序」とは、『既得権』の上に存在している。
『既得権』を言い替えれば、『規制』であり『不平等』なのだ。

そして国民は『弱者』と主張している人の多くは『既得権』に胡座をかいていた人達
であるように感じている。(勿論本当の弱者も存在するが)

『弱者』や『負け組』は守らなければならない。
しかし、例えば地方の人達は本当に『弱者』なのだろうか。

彼らは都市の人達に比べれば一票の価値が遥かに大きい。
彼らは少なくとも民主主義においての国民の最大の権利である選挙に対しては、
『強者』であった。そして今までその力を利用して彼らは
公共事業により都市の人達からの税金を搾取して来たのである。

彼らは自ら努力する事をせず公共事業という『既得権』に依存して来たため、
結果として公共事業無しでは経済的な『弱者』になってしまったに過ぎない。

これはこれで確かに『秩序』であったろう。でも、
都市の人達がこれに耐えられなくなった。こんな不平等は許せないと。
これの本質は、経済的な『弱者』である地方の問題ではなく、
政治的『強者』であった地方の問題だ。



障害者に金銭的負担を求める事にも理由がある。
障害者は様々な意味で『弱者』である事に間違いはない。
しかし、無料でサービスを受けられるという点に問題がある。

サービスには当然ながらお金(税金)が掛かる。
障害者であっても必要な分のサービス『だけ』を受けてもらう必要がある。

ところが必要であるかどうかを他人が決める事には無理がある。
そのため本人に決めてもらうしくみが「金銭的負担」である。
必要なサービスを優先順位を付けて限度を決めてもらう仕組みが
「金銭的負担」だ。実の所お金をもらう事自体がこの制度の本質ではない。


障害者は、今まで社会主義や共産主義『的』なサービスを受けていたが、
資本主義のルールに変えたのである。

確かにサービスは低下するだろう。ただ「障害」自体は特権ではない。
財政が破綻してしまった以上、みんなが少しずつ我慢しなければならないのだ。
しかしながら、この制度で「障害者」が生活できなくなってしまってはならない。
負担率を見直す必要はあるだろうが「金銭的負担」は絶対に必要だ。


もし障害者が共産主義を望むのなら、障害者に対しては強制的に労働させ、
その人の都合によらず国が一方的なサービスを提供する事も考えられる。

例えば、指一本でも動かせるなら一日中ボタンを押すという『労働』をさせ、
国が決めたサービス『だけ』を与えるのである。
これなら、金銭的負担は必要ない。


最終的には障害者が決める事だろうが、前者の方が『マシ』ではないだろうか。
私は『弱者』である障害者にも『既得権』があったと思う。

他にも当人達は自覚していないだろうが、サラリーマンにも『既得権』がある。
(この事については、以前に書いたので省略する。)


自覚の有無に係わらず『既得権』を持っていた人には
一連の改革は改悪以外の何者にも思えないだろうが、
『既得権』を持たない人からすれば、当然の状態に戻しているに過ぎない。


人は皆、平等だ。既成秩序は不平等な制度の基に成立している。
そのため私には既成秩序を守る事が「人に優しい」事だとは思えないのである。
皆が個々人の能力を発揮するためには既成秩序を保っておく事など出来ない。
秩序を破壊することは目的でも手段でもない。


一部の人ではなく国民全体を幸せにするには、既得権を無くさなければならない。