先の列車事故で、マスコミは鉄道会社の批判しかしないので、敢えて従業員の批判をする。
最初に断っておくが、従業員の問題は(少なくとも対外的には)経営者の責任である。
仮に従業員に問題が認められても、それは最終的には全て経営者の責任だ。
そのため、これは経営者を擁護するものではない。
まず「『最新の』列車制御装置を導入していれば事故は防げた」というのは、事実だろう。
しかしながら『最新の』装置を導入しなかった事は、直に経営者の責任なのだろうか。
私は車を持っている。私の車は古いので『最新の』制動装置も、
『最新の』操舵装置も『最新の』障害物発見装置も搭載されていない。
もし仮に私が事故を起こし、これらの装置を装備していれは事故が防げたとしたら、
事故の原因はこれらの装置のせいであろうか?
もしそうであるのなら、『最新の』装備をしていない車を運転している私は既に犯罪者だ。
これは違う。事故を起こしたのであれば、それは私が安全運転をしなかったせいだ。
しかし、個人と法人は異なるので、電車も安全運転すれば良いと主張するつもりはない。
飛行機事故であれば、当然の様に『フェールセーフ』や『フォルトトレラント』と言う事が
言われたばずなのだが、列車事故の報道でこの言葉を耳にしない。これらは簡単に言えば
「多少の失敗や故障があっても大きな問題にさせない『しくみ』」の事である。
法人であれば当然、安全を担保する『しくみ』を持たなければならないのだ。
この『しくみ』を体系化して実施させるのが経営者の責任だ。
事故は様々な要因によって引き起こわれたのだろうが、
少なくともスピードが超過さえしなければ、事故は起こらなかったと考えられる。
『最新の』制御装置を問題にするのもこの点を主な原因としているからだろう。
では、スピード超過を防止する『しくみ』は存在したのだろうか?
私は存在したと考える。
この車両には、運転士の他に列車の速度を知る事が出来、ブレーキをかけられる立場の
人間が存在していた。
現時点で車両の故障は認められない。制限速度以内の速度において事故が起こらないと
仮定するなら、この人がブレーキをかけていれば事故は防げただろう。
もし『最新の』制御装置が存在していれば、二人のエラーに対しても対処出来た事は事実だ。
装置の有無を問題にする場合、運転士だけでなく、二人の人間が共にエラーを起こす可能性も
経営者として担保すべきかどうかの判断をする必要がある。
一方、仮に『最新の』制御装置があったとしても、二人がエラーを起こし当該装置が故障して
いたのなら、事故は起こっただろう。マスコミの言う「100%の安全」など絵空事なのだ。
また事故の直前に正しく停止出来なかった事を『正直に』報告しなかった点も重視すべきだ。
エラーを起こした本人が報告するなら自己保身の為に不正な報告をする事が当然予想されるが
今回は別の人間が報告している。現場の人間が相談して故意に不正な報告をしたのだ。
この件に関して経営者に問題があったとするなら、エラーを起こした本人より、
不正な報告をした人間を厳罰に処す事をして来なかった事であろう。
そして報告する義務を負うのは、エラーを起こした当人であってはならない。
事故の起こった場所は、日常的に速度超過があったようだ。
マスコミはその原因を過密な運行計画とするが現場の人間は正直に報告していたのだろうか。
問題が報告されない以上、経営者がそれに対処出来ないのはやむを得ない。
勿論、正しく報告させる事が出来ない点も最終的には経営者の責任ではある。
もし、企業風土がそれらの報告妨げているとしても、それは自分や乗客の安全に係わる事だ。
報告しない事の言い訳にはならない。
この様な言い訳が出来るのは、『サラリーマン根性』が染み付いてしまったせいだろう。
安全(自分の命)より会社での自分の立場を優先させたと言われても仕方がない。
ただこれを全て『サラリーマン』個人に求めるのは酷である。
個人で言えない以上『労働組合』が仲介して「速度超過しないと定時運行は不可能である」
と経営者側に申し入れるべきであった。
事故が起こってから喜々として経営者を非難する労働組合も、目先の利益ばかりで
安全に対して無頓着だったのではないだろうか。労働組合も自分達の活動を反省すべきだ。
その企業活動についての責任は、最終的に経営者にある。
これは、経営者を擁護するものでも個人を非難するものでもないことを理解されたい。
マスコミや労働組合が『弱いもの(サラリーマン)の味方』を気取るのは勿論結構だが、
それは弱いものの責任を別のものに擦り付ける事ではない。
例え『サラリーマン』であっても、自分の責任は(その範囲内で)取らなければならない。
最初に断っておくが、従業員の問題は(少なくとも対外的には)経営者の責任である。
仮に従業員に問題が認められても、それは最終的には全て経営者の責任だ。
そのため、これは経営者を擁護するものではない。
まず「『最新の』列車制御装置を導入していれば事故は防げた」というのは、事実だろう。
しかしながら『最新の』装置を導入しなかった事は、直に経営者の責任なのだろうか。
私は車を持っている。私の車は古いので『最新の』制動装置も、
『最新の』操舵装置も『最新の』障害物発見装置も搭載されていない。
もし仮に私が事故を起こし、これらの装置を装備していれは事故が防げたとしたら、
事故の原因はこれらの装置のせいであろうか?
もしそうであるのなら、『最新の』装備をしていない車を運転している私は既に犯罪者だ。
これは違う。事故を起こしたのであれば、それは私が安全運転をしなかったせいだ。
しかし、個人と法人は異なるので、電車も安全運転すれば良いと主張するつもりはない。
飛行機事故であれば、当然の様に『フェールセーフ』や『フォルトトレラント』と言う事が
言われたばずなのだが、列車事故の報道でこの言葉を耳にしない。これらは簡単に言えば
「多少の失敗や故障があっても大きな問題にさせない『しくみ』」の事である。
法人であれば当然、安全を担保する『しくみ』を持たなければならないのだ。
この『しくみ』を体系化して実施させるのが経営者の責任だ。
事故は様々な要因によって引き起こわれたのだろうが、
少なくともスピードが超過さえしなければ、事故は起こらなかったと考えられる。
『最新の』制御装置を問題にするのもこの点を主な原因としているからだろう。
では、スピード超過を防止する『しくみ』は存在したのだろうか?
私は存在したと考える。
この車両には、運転士の他に列車の速度を知る事が出来、ブレーキをかけられる立場の
人間が存在していた。
現時点で車両の故障は認められない。制限速度以内の速度において事故が起こらないと
仮定するなら、この人がブレーキをかけていれば事故は防げただろう。
もし『最新の』制御装置が存在していれば、二人のエラーに対しても対処出来た事は事実だ。
装置の有無を問題にする場合、運転士だけでなく、二人の人間が共にエラーを起こす可能性も
経営者として担保すべきかどうかの判断をする必要がある。
一方、仮に『最新の』制御装置があったとしても、二人がエラーを起こし当該装置が故障して
いたのなら、事故は起こっただろう。マスコミの言う「100%の安全」など絵空事なのだ。
また事故の直前に正しく停止出来なかった事を『正直に』報告しなかった点も重視すべきだ。
エラーを起こした本人が報告するなら自己保身の為に不正な報告をする事が当然予想されるが
今回は別の人間が報告している。現場の人間が相談して故意に不正な報告をしたのだ。
この件に関して経営者に問題があったとするなら、エラーを起こした本人より、
不正な報告をした人間を厳罰に処す事をして来なかった事であろう。
そして報告する義務を負うのは、エラーを起こした当人であってはならない。
事故の起こった場所は、日常的に速度超過があったようだ。
マスコミはその原因を過密な運行計画とするが現場の人間は正直に報告していたのだろうか。
問題が報告されない以上、経営者がそれに対処出来ないのはやむを得ない。
勿論、正しく報告させる事が出来ない点も最終的には経営者の責任ではある。
もし、企業風土がそれらの報告妨げているとしても、それは自分や乗客の安全に係わる事だ。
報告しない事の言い訳にはならない。
この様な言い訳が出来るのは、『サラリーマン根性』が染み付いてしまったせいだろう。
安全(自分の命)より会社での自分の立場を優先させたと言われても仕方がない。
ただこれを全て『サラリーマン』個人に求めるのは酷である。
個人で言えない以上『労働組合』が仲介して「速度超過しないと定時運行は不可能である」
と経営者側に申し入れるべきであった。
事故が起こってから喜々として経営者を非難する労働組合も、目先の利益ばかりで
安全に対して無頓着だったのではないだろうか。労働組合も自分達の活動を反省すべきだ。
その企業活動についての責任は、最終的に経営者にある。
これは、経営者を擁護するものでも個人を非難するものでもないことを理解されたい。
マスコミや労働組合が『弱いもの(サラリーマン)の味方』を気取るのは勿論結構だが、
それは弱いものの責任を別のものに擦り付ける事ではない。
例え『サラリーマン』であっても、自分の責任は(その範囲内で)取らなければならない。