おそらく原告団のひとりなのだろう。テレビで以下の様な事を言っていた。
「君が代を歌ってしまった事で『罪悪感』を感じている生徒もいる」
本来「国歌を歌う」という事は『罪悪感』を伴うものではないはずだ。
果たしてこの『罪悪感』とはどの様なものだろうか。
以下に考えられる要因を挙げる。
#(a)君が代自体の問題:
# (a-1)『罪悪感』を感じる様な歌詞もしくは旋律である。
# (a-2)軍国主義を肯定する事になる(との思い込み?)
#
#(b)国歌を歌うという行為に対する『罪悪感』:
# (b-1)大好きな先生は処分されてもなお歌わなかったのに、自分は歌ってしまったという『罪悪感』
#
#(c)国歌を歌う事が意味するものに対する『罪悪感』:
# (c-1)日本国に敬意を示す事に対する罪悪感
もし(a-1)なら、君が代の歌詞を変えるか、国歌を別の歌にする事を検討すべきだ。
そうすれば、少なくともこの生徒は歌えるようになるだろう。
(a-2)なら、君が代が「軍国主義を肯定する」のかどうかきちんと議論すべきだろう。
もしそうなら国歌を変えるべきだ。日本は軍国主義を目指している訳ではないのだから。
そうではないなら「軍国主義を肯定するものと解釈すべきではない」とこの生徒に納得させるべきだろう。
これこそ教師の仕事だと思う。『罪悪感』により自国の国歌が歌えないというのは不幸な事なのだから。
(b-1)なら、これは思想信条の問題などではなく、国歌不唱は仲間同志が結束を固めるための儀式に過ぎない。
国歌を歌わないと言う事で結束するような結社はあまり生産的であるとは言えないため、
少なくとも教師が生徒を煽動するのは不適切だ。
(c-1)なら、この生徒は日本国の存在自体を否定しているのである。
教師なら、例え嫌いな人であっても無視したり苛めたりしてはならないのと同様に、
極悪非道な国家であっても最低限の敬意を示すべきだと教えなければならない。
これは思想信条や良心の問題ではなく、あくまで形式的なものであるから『罪悪感』を持つ必要はないのだと。
「国歌を歌わない」と言う権利はあってもいいが、それは「罪悪感で歌えない」と言う事であってはならない。
私は指導の名の基に、教師が生徒に『罪悪感』を植え付ける事を恐れる。
少なくとも「国家を歌わない教師」に(a-2),(b-1),(c-1)の指導は出来ないと思う。
--
もしかするとこの生徒の感じた『罪悪感』は、例えばキリスト教で言う原罪の様なものであるかもしれない。
これは例え国歌を歌わなかったとしてもこの生徒が背負わなければならない『罪』である。
(以下『原罪』をキリスト教とは多少違った意味で用いる)
人は、自分が『罪人』であると認めたくはないものである。
しかし、人が生きていく以上、『原罪』に相当する『罪』の存在を認めなければならない。
少なくともこの生徒も『原罪』を負っている。
もしかするとこの生徒は、君が代を歌ったことにより、それを自覚したのかもしれない。
もしそうだとしたら、国歌を強制的に歌わせる事は、少なくともこの生徒にとって意義があったと言える。
--
以下『原罪』について説明する。
日本国は昭和の時期に酷い事をした。
これに対して「自分は当時生まれていなかった」「私の祖父母は出征していない」
「自分にはどうすることも出来なかった」との抗弁も出来るだろう。
過去の出来事は、良いことであっても悪いことであっても人類が本来持ち合わせている資質の結果なのだ。
ごく稀に「自分は悪いことを一切していない」と主張する人がいる。事実そうなのかもしれないが、
人間である以上、昔の人の犯した同じ過ちを自分が犯す可能性を持っている事を知るべきだ。
ここで言う『原罪』とは「人類全体に備わっている悪いことをする可能性」とでも言うものだ。
過去の人達が特別馬鹿であったり、自分が格段に利口であると考えるべきではない。
この事を踏まえて日本国の構成員である私たちは国家を運営していかなければならないのである。
ただこれは日本人固有の問題なのではなく、人間と言う不完全な存在に付いて回るものだ。
別の見方をすれば、先の戦争を『一部指導者の責任』と規定すれば、大勢の日本国民は免責されるし、
『日本の責任』とすれば日本国民全体の責任となる。同様に
『人類の責任』との見方をすれば、それは必ずしも日本人だけの物では無くなるのである。
歴史認識をどう捉えるかと言う点で言えば『一部指導者の責任』(日本国民は責任が無いとの主張)
と言うのが一番無責任だと言える。自分は関係ないのだと。これでは過去から学ぶ事など出来ない。
「馬鹿な悪人が悪いことをした」という歴史を認識した所で、何を学べというのだろう。
私は『靖国問題』で首相の参拝のみを特別視する主張の背景には、
「
先の戦争は『一部指導者』の責任なのだから、日本の長である『総理大臣達さえ』きちんとしていればいい。
」
と、当時者意識の欠如を感じるのだ。
これはおそらく中国政府が言い出した事なのではないだろうか。
きっと中国政府が考える『きちんとして』は、「靖國神社に参拝しないこと」なのだ。
こう考えると中国政府の主張は、彼らなりに譲歩したものなのかもしれない。
中国政府は当事者ではないからこれで構わないが、
当事者たる日本人がこれと同じ主張をする事は無責任の誹りを免れない。
私たちが一国民として歴史から学ぶべきは
「指導者は誤る事もあるから国民もしっかりしなければならない。」
との『覚悟』ではないだろうか。
こう考えると、もし靖国神社に参拝する事が悪いのであれば、
当然の事ながら日本国民も参拝してはならないはずなのである。
このように私は首相の行為『だけ』を問題にする議論には賛成出来ない。
彼らは中国の主張に乗っているだけではないのか。
歴史から学ぶと言う事は『原罪』を自覚すると言う作業に他ならないのだから。。。
「君が代を歌ってしまった事で『罪悪感』を感じている生徒もいる」
本来「国歌を歌う」という事は『罪悪感』を伴うものではないはずだ。
果たしてこの『罪悪感』とはどの様なものだろうか。
以下に考えられる要因を挙げる。
#(a)君が代自体の問題:
# (a-1)『罪悪感』を感じる様な歌詞もしくは旋律である。
# (a-2)軍国主義を肯定する事になる(との思い込み?)
#
#(b)国歌を歌うという行為に対する『罪悪感』:
# (b-1)大好きな先生は処分されてもなお歌わなかったのに、自分は歌ってしまったという『罪悪感』
#
#(c)国歌を歌う事が意味するものに対する『罪悪感』:
# (c-1)日本国に敬意を示す事に対する罪悪感
もし(a-1)なら、君が代の歌詞を変えるか、国歌を別の歌にする事を検討すべきだ。
そうすれば、少なくともこの生徒は歌えるようになるだろう。
(a-2)なら、君が代が「軍国主義を肯定する」のかどうかきちんと議論すべきだろう。
もしそうなら国歌を変えるべきだ。日本は軍国主義を目指している訳ではないのだから。
そうではないなら「軍国主義を肯定するものと解釈すべきではない」とこの生徒に納得させるべきだろう。
これこそ教師の仕事だと思う。『罪悪感』により自国の国歌が歌えないというのは不幸な事なのだから。
(b-1)なら、これは思想信条の問題などではなく、国歌不唱は仲間同志が結束を固めるための儀式に過ぎない。
国歌を歌わないと言う事で結束するような結社はあまり生産的であるとは言えないため、
少なくとも教師が生徒を煽動するのは不適切だ。
(c-1)なら、この生徒は日本国の存在自体を否定しているのである。
教師なら、例え嫌いな人であっても無視したり苛めたりしてはならないのと同様に、
極悪非道な国家であっても最低限の敬意を示すべきだと教えなければならない。
これは思想信条や良心の問題ではなく、あくまで形式的なものであるから『罪悪感』を持つ必要はないのだと。
「国歌を歌わない」と言う権利はあってもいいが、それは「罪悪感で歌えない」と言う事であってはならない。
私は指導の名の基に、教師が生徒に『罪悪感』を植え付ける事を恐れる。
少なくとも「国家を歌わない教師」に(a-2),(b-1),(c-1)の指導は出来ないと思う。
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もしかするとこの生徒の感じた『罪悪感』は、例えばキリスト教で言う原罪の様なものであるかもしれない。
これは例え国歌を歌わなかったとしてもこの生徒が背負わなければならない『罪』である。
(以下『原罪』をキリスト教とは多少違った意味で用いる)
人は、自分が『罪人』であると認めたくはないものである。
しかし、人が生きていく以上、『原罪』に相当する『罪』の存在を認めなければならない。
少なくともこの生徒も『原罪』を負っている。
もしかするとこの生徒は、君が代を歌ったことにより、それを自覚したのかもしれない。
もしそうだとしたら、国歌を強制的に歌わせる事は、少なくともこの生徒にとって意義があったと言える。
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以下『原罪』について説明する。
日本国は昭和の時期に酷い事をした。
これに対して「自分は当時生まれていなかった」「私の祖父母は出征していない」
「自分にはどうすることも出来なかった」との抗弁も出来るだろう。
過去の出来事は、良いことであっても悪いことであっても人類が本来持ち合わせている資質の結果なのだ。
ごく稀に「自分は悪いことを一切していない」と主張する人がいる。事実そうなのかもしれないが、
人間である以上、昔の人の犯した同じ過ちを自分が犯す可能性を持っている事を知るべきだ。
ここで言う『原罪』とは「人類全体に備わっている悪いことをする可能性」とでも言うものだ。
過去の人達が特別馬鹿であったり、自分が格段に利口であると考えるべきではない。
この事を踏まえて日本国の構成員である私たちは国家を運営していかなければならないのである。
ただこれは日本人固有の問題なのではなく、人間と言う不完全な存在に付いて回るものだ。
別の見方をすれば、先の戦争を『一部指導者の責任』と規定すれば、大勢の日本国民は免責されるし、
『日本の責任』とすれば日本国民全体の責任となる。同様に
『人類の責任』との見方をすれば、それは必ずしも日本人だけの物では無くなるのである。
歴史認識をどう捉えるかと言う点で言えば『一部指導者の責任』(日本国民は責任が無いとの主張)
と言うのが一番無責任だと言える。自分は関係ないのだと。これでは過去から学ぶ事など出来ない。
「馬鹿な悪人が悪いことをした」という歴史を認識した所で、何を学べというのだろう。
私は『靖国問題』で首相の参拝のみを特別視する主張の背景には、
「
先の戦争は『一部指導者』の責任なのだから、日本の長である『総理大臣達さえ』きちんとしていればいい。
」
と、当時者意識の欠如を感じるのだ。
これはおそらく中国政府が言い出した事なのではないだろうか。
きっと中国政府が考える『きちんとして』は、「靖國神社に参拝しないこと」なのだ。
こう考えると中国政府の主張は、彼らなりに譲歩したものなのかもしれない。
中国政府は当事者ではないからこれで構わないが、
当事者たる日本人がこれと同じ主張をする事は無責任の誹りを免れない。
私たちが一国民として歴史から学ぶべきは
「指導者は誤る事もあるから国民もしっかりしなければならない。」
との『覚悟』ではないだろうか。
こう考えると、もし靖国神社に参拝する事が悪いのであれば、
当然の事ながら日本国民も参拝してはならないはずなのである。
このように私は首相の行為『だけ』を問題にする議論には賛成出来ない。
彼らは中国の主張に乗っているだけではないのか。
歴史から学ぶと言う事は『原罪』を自覚すると言う作業に他ならないのだから。。。