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異論・反論・Obsoletion

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国歌を歌わない先生

2006-09-23 00:00:00 | 学校のせんせ
おそらく原告団のひとりなのだろう。テレビで以下の様な事を言っていた。


「君が代を歌ってしまった事で『罪悪感』を感じている生徒もいる」



本来「国歌を歌う」という事は『罪悪感』を伴うものではないはずだ。
果たしてこの『罪悪感』とはどの様なものだろうか。
以下に考えられる要因を挙げる。


#(a)君が代自体の問題: 
# (a-1)『罪悪感』を感じる様な歌詞もしくは旋律である。
# (a-2)軍国主義を肯定する事になる(との思い込み?)

#(b)国歌を歌うという行為に対する『罪悪感』: 
# (b-1)大好きな先生は処分されてもなお歌わなかったのに、自分は歌ってしまったという『罪悪感』

#(c)国歌を歌う事が意味するものに対する『罪悪感』: 
# (c-1)日本国に敬意を示す事に対する罪悪感


もし(a-1)なら、君が代の歌詞を変えるか、国歌を別の歌にする事を検討すべきだ。
そうすれば、少なくともこの生徒は歌えるようになるだろう。

(a-2)なら、君が代が「軍国主義を肯定する」のかどうかきちんと議論すべきだろう。
もしそうなら国歌を変えるべきだ。日本は軍国主義を目指している訳ではないのだから。
そうではないなら「軍国主義を肯定するものと解釈すべきではない」とこの生徒に納得させるべきだろう。
これこそ教師の仕事だと思う。『罪悪感』により自国の国歌が歌えないというのは不幸な事なのだから。

(b-1)なら、これは思想信条の問題などではなく、国歌不唱は仲間同志が結束を固めるための儀式に過ぎない。
国歌を歌わないと言う事で結束するような結社はあまり生産的であるとは言えないため、
少なくとも教師が生徒を煽動するのは不適切だ。

(c-1)なら、この生徒は日本国の存在自体を否定しているのである。
教師なら、例え嫌いな人であっても無視したり苛めたりしてはならないのと同様に、
極悪非道な国家であっても最低限の敬意を示すべきだと教えなければならない。
これは思想信条や良心の問題ではなく、あくまで形式的なものであるから『罪悪感』を持つ必要はないのだと。


「国歌を歌わない」と言う権利はあってもいいが、それは「罪悪感で歌えない」と言う事であってはならない。
私は指導の名の基に、教師が生徒に『罪悪感』を植え付ける事を恐れる。

少なくとも「国家を歌わない教師」に(a-2),(b-1),(c-1)の指導は出来ないと思う。




--
もしかするとこの生徒の感じた『罪悪感』は、例えばキリスト教で言う原罪の様なものであるかもしれない。
これは例え国歌を歌わなかったとしてもこの生徒が背負わなければならない『罪』である。
(以下『原罪』をキリスト教とは多少違った意味で用いる)

人は、自分が『罪人』であると認めたくはないものである。
しかし、人が生きていく以上、『原罪』に相当する『罪』の存在を認めなければならない。
少なくともこの生徒も『原罪』を負っている。

もしかするとこの生徒は、君が代を歌ったことにより、それを自覚したのかもしれない。
もしそうだとしたら、国歌を強制的に歌わせる事は、少なくともこの生徒にとって意義があったと言える。



--
以下『原罪』について説明する。



日本国は昭和の時期に酷い事をした。

これに対して「自分は当時生まれていなかった」「私の祖父母は出征していない」
「自分にはどうすることも出来なかった」との抗弁も出来るだろう。


過去の出来事は、良いことであっても悪いことであっても人類が本来持ち合わせている資質の結果なのだ。
ごく稀に「自分は悪いことを一切していない」と主張する人がいる。事実そうなのかもしれないが、
人間である以上、昔の人の犯した同じ過ちを自分が犯す可能性を持っている事を知るべきだ。

ここで言う『原罪』とは「人類全体に備わっている悪いことをする可能性」とでも言うものだ。
過去の人達が特別馬鹿であったり、自分が格段に利口であると考えるべきではない。

この事を踏まえて日本国の構成員である私たちは国家を運営していかなければならないのである。



ただこれは日本人固有の問題なのではなく、人間と言う不完全な存在に付いて回るものだ。

別の見方をすれば、先の戦争を『一部指導者の責任』と規定すれば、大勢の日本国民は免責されるし、
『日本の責任』とすれば日本国民全体の責任となる。同様に
『人類の責任』との見方をすれば、それは必ずしも日本人だけの物では無くなるのである。


歴史認識をどう捉えるかと言う点で言えば『一部指導者の責任』(日本国民は責任が無いとの主張)
と言うのが一番無責任だと言える。自分は関係ないのだと。これでは過去から学ぶ事など出来ない。
「馬鹿な悪人が悪いことをした」という歴史を認識した所で、何を学べというのだろう。



私は『靖国問題』で首相の参拝のみを特別視する主張の背景には、

先の戦争は『一部指導者』の責任なのだから、日本の長である『総理大臣達さえ』きちんとしていればいい。

と、当時者意識の欠如を感じるのだ。

これはおそらく中国政府が言い出した事なのではないだろうか。
きっと中国政府が考える『きちんとして』は、「靖國神社に参拝しないこと」なのだ。
こう考えると中国政府の主張は、彼らなりに譲歩したものなのかもしれない。

中国政府は当事者ではないからこれで構わないが、
当事者たる日本人がこれと同じ主張をする事は無責任の誹りを免れない。

私たちが一国民として歴史から学ぶべきは
「指導者は誤る事もあるから国民もしっかりしなければならない。」
との『覚悟』ではないだろうか。

こう考えると、もし靖国神社に参拝する事が悪いのであれば、
当然の事ながら日本国民も参拝してはならないはずなのである。

このように私は首相の行為『だけ』を問題にする議論には賛成出来ない。
彼らは中国の主張に乗っているだけではないのか。


歴史から学ぶと言う事は『原罪』を自覚すると言う作業に他ならないのだから。。。


「自分嫌い」な子供達

2005-07-18 00:00:00 | 学校のせんせ
「麻布台学校教育研究所」と言うところが「今子供たちの心の中では」と題した小中学生の意識調査をしたらしい。


ただ、これを実施したのが教員のOBによる組織である点を注意すべきだ。
この様な人達は、「教育」の効能について過大評価する傾向にある。
言い替えれば、何でも「教育」すれば解決するはずだと考えるのだ。
(この組織に関して言えば「学校教育をめぐり提言をしている」
らしいので、しょうがないのかも知れないが。。。)


以下「「自分嫌い」な子供たち 中学生の半数以上 心の意識調査」
(http://www.sankei.co.jp/news/morning/18iti001.htm)より抜粋。

#  調査結果について同研究所は、「(中略)
# 自分が好きだと素直に思える気持ちを養う教育者や親の心がけは、
# 大変重要ではないか」と話しており、

「教育者や親の心がけ」や「自分が好きだと素直に思える気持ち」等と
頓珍漢な事を言っているが、問題は「心がけ」や「気持ち」ではない。


#  また、自己肯定感とその他の回答との関係では、小中学生共通して、
# 自分を肯定的にとらえている子供ほど、そうでない子供に比べ、
# 「目標を持っている」「自分には良いところがある」
# 「自分はクラスの中で役に立っている」「家庭内で助け合っている」
# などの質問への回答が高い傾向がうかがえた。

「役に立つ」や「良いところ」と言う言葉は「誰にとって」との『対象』が必要だ。
「自分にとって自分が役に立つ」や「自分にとって自分に良いところがある」は、
「自己肯定感」ではなく、誤った自己愛でしかない。

「自己肯定感」との関連においては『対象』は少なくとも
(自分以外の)「他者」であるはずで、一般的には『社会』を指すと考えて良いだろう。
(『社会』を限定して、学校や家庭や二者関係としても構わない)

「自己肯定感」とは、自分の『行為』が社会の役に立つとの「自信」に基づいて
自分の存在が社会にとって良い(ところがある)との「自信(自負)」を持つことだ。
「自信」の伴わない「自己肯定感」と言う物がもし存在するならば、
不安定であると言う点で何等意味を為さないだろう。

教師は、「自信」と言うものの本質を理解していないのではないだろうか?
「自信」は、「教育」や「心がけ」等では生じない。
これらから生まれるのは誤った自己愛だけである。
「自信」は実際の行動(行為)を積み重ねて生まれるものだからだ。

何もする事無しに「目標を持っている」事などあり得ないし、
(何もしていなければ、それは単なる「願望」である)
「自分には良いところがある」とも思えない。
(単なる「可能性」と言う意味での「良いところ」では「自信」には繋がらない)

また「自分はクラスの中で役に立っている」「家庭内で助け合っている」
というのは、自分自身が既に何かしているからこそ言えると言って良いだろう。
私はこれらの行為は「自己肯定感」と単なる相関ではなく、因果関係を持つと考えるのだ。


人は誰でも他の人の役に立ちたいと思っている。
それは大人だけではなく小さな子供であっても同様だ。
幼い子が嬉々として『お手伝い』する所を見る事は少なくないし、
彼らに「ありがとう!」と声を掛けると、きっと素晴しい笑顔を返す事だろう。


我々大人は、学校でも家庭でも社会においても、
子供達から彼らの『役割』(居場所)を奪ってはいないだろうか?
私達は子供の為と言って、勉強以外の『雑事』を取り上げる事が
子供達への『心がけ』であると思い込んでいる。

その結果、子供達を『勉強』という画一的な価値観に追い込んでしまったのだ。
もっと子供達に良い意味での『逃げ場』、言い替えれば『勉強以外の役割』を
持たせる必要があるのではないだろうか。

例え子供であっても社会と繋がっている。ところが大人は、
子供を社会から隔離し、学校という閉鎖的な場に追い込んでしまったのだ。
このため、子供達は登校拒否や学校での苛めを必要以上に苦む事になってしまった。

『教師』は、彼らの仕事の(子供に『勉強』させる)事しか考えていない。
これは単なる手抜きと言う事ではないと思われる。
実のところ、教師となる人達の多くは社会経験に乏しく、
学校と言う限られた場での経験しかないので、教師の多くは
勉強の成績という単一の価値観しか持っていないのではないだろうか。

子供達も大人になったら、学校ではなく社会の中で暮らさなければならないのだ。
学校という場から離れると、勉強の成績など大して意味が無い事を実感する。
社会で暮らして行くには勉強などより、自分が社会の役に立つと実感出来、
社会に対する肯定感(「自己肯定感」)を持たせる事の方が、
遥かに本人(や社会)の為になるはずだ。


私達は、子供達にもっと役割を任せるべきだ。
例えそれが、大人からすると『歯がゆい』ものであったとしても。。。

国旗・国歌 卒業式を生徒に返そう

2005-04-03 00:00:00 | 学校のせんせ
# 東京都教育委員会は、
# 今年もまた、都立学校の教職員52人を懲戒処分にした。
# 卒業式で国歌を斉唱するとき起立しなかったというだけで、
# 校長からの職務命令違反に問われたのだ。
(asahi.com 「2005年04月01日(金曜日)付社説」より抜粋)


卒業式で国歌を斉唱するとき起立しなかったという *だけ* で、
「先生」が校長に怒られるのは間違えているという事らしい。
起立を「強制」すべきではないと。



それならば、、、

生徒が運動会で行進などしなくとも、
走るのが面倒であれば走らなくても、
「先生」の授業がつまらなければ居眠りしても、
気が乗らなければ授業中に隣の人と話しても、
宿題をやってこなくとも、
「先生」の言う事に従わなくても、
「先生」に怒られたり、評価を下げられたりする事があってはならない。

生徒に対して「強制」しておいて
自分に強制されると反発する。
「先生」たるもの、そんな事はしないだろう。

現在の教員で、「強制」せずに授業を成立出来る人が
存在するのだろうか。。。


私が生徒であった頃は、授業の開始時と終了時には
「先生」に向かって最敬礼を強制された。
敬礼とは自発的にすべきもので強制されるものではない。

先生という言葉も、本来は教えを乞う者が自発的に呼ぶものだ。
それを自ら生徒に「先生」と呼ばせ、最敬礼まで要求する。


学校の「先生」は、狂っている。

---
中学生の頃は、不良が「格好いい」と思いがちだ。
学校の「先生」はその頃から成長していないのではないだろうか。
大多数の教員は学校と言う閉じた世界しか知らず、
社会経験は学生と同レベルでしかない。

卒業式というのは儀式である。
社会人であれば、儀式に参加する以上、自分の考えよりも
儀式の執行者に敬意を払わなければならない事を知っているはずだ。
儀式の一つ一つのイベントに特別な意味は無い。
単なる形式美の世界だからだ。
葬式で、自分の宗派の流儀と違うと抗議したりはしないだろう。

これらの「先生」は、不良を気取って成人式で暴れる少年と
何等変わらないのではないだろうか。



朝日新聞も、おかしい。

少なくとも校長は、式の最中に処分などしていないだろう。
卒業式を台無しにしているのは、起立しなかった「先生」の方だ。


個人的には国旗や国歌ではなく、市立の学校なら市旗や市歌、
県立校なら県旗や県歌でも(共同体への帰属意識などの)
目的は達せられるのではないかと考える。
こうすれば、不良に憧れる「先生」が起立しないという現象を
無くせるのではないか。
国立の学校で国歌を拒否する職員を処分しても異論はないだろう。



卒業式は、「先生」の自己顕示の場ではない。
生徒のものであることを、忘れてはならない。


(注:括弧付きの「先生」は教員一般を指すものではありません)